2018年7月15日日曜日

過去への時間旅行

時々、自分の今いる場所がわからなくなる。

なんなら年齢がわからなくなる。

1歳程度前後して間違うのではなく、本当に自分の年齢が今何歳なのか実感を伴わず、39歳だよね?合ってるよね?、ここは新潟だよね?合ってるよね?と自問自答することがちょいちょい続いてる。

今の生活を始めてから、私は視覚的に自分の居場所を感じていない気がする。

建て直された家はきれいだし便利なんだけど、毎日ここで寝起きしても、まるで知らない場所にいるような、そういう感じが実は引っ越してからずっと抜けない。

そのうち見慣れるのかと思ったけれど、それが全くで、何なら今使わせてもらってる部屋も自分のもので溢れてはいるけれど、木のテーブル以外は何も家具もなく、そしてテーブルも使う時以外は部屋の隅に立てて置くから、いまいち自分の部屋という感じがしない。

だからなのか、とにかく「居る」という感覚がとてつもなく薄い。

この間家の裏側に行った時なんか、本当に「ここどこ?」と思ったぐらいに景色が違っていて、すごく変な感じがした。

私が今自分を確認できるものは、家や空間ではなく、自分の持ち物だったりする。

自分のノートを見て、今を確認する。

ノートには過去があって、その過去を見て、そこを通り抜けた自分を確認して、自分がいるとわかる、そんなおかしなことになってる。

私が記録にこだわるのは、そうでもしないと自分がいる毎日がぼやけてわけがわからなくなるからじゃないかと思ってる。

その記録も途絶えがちだけれど、思いついた時だけでもいいから書くようにしている。

ちなみに、この枠のない感じは、現実的に心もとないけれど、過去の振り返りや自分の感情に飛び込む分にはすごく状態的には良い。

時間の概念が若干飛んでるから、過去のある地点を思い出す時にはそこにポンと飛んでいきやすい。

癒す必要のあるものも見つけやすい。

「カルマ的な膿出し」だとか「過去世から来ている膿出し」だとか、実は未だに意味がよくわかっていないけれど、今この時期に色んなものの輪郭がぼやけるのはそれとも関係している気がする。

年齢も場所もぼやけることで、言うならば夢の中のおかしな組み合わせに身を置いてるみたいな感じに近くなる。

例えば、昨日おとといなんかは悲しみの記憶に飛んでみた。

私はその入り口が好きだった。

この手の個人ワーク的なことをする時は、概ね「好き」という感覚は持てないものばかりに囲まれる。

だから、「好き」と感じる入り口を持てたのは、私にしたら超奇跡だった。

ギフトと呼んでもいい。

マニアックな話だけれど、入り口の場所は入り口でしかなくて、奥に深く入れば入るほど、「悲しみ」という感情にまつわる過去の他の記憶や体験も浮上する。

大体が忘れられている。

普段生きてる中で出てこない記憶たち。

だけど、一度でもいいからその記憶に戻って寄り添うことをすると、記憶はある程度癒される。

そういう中に入るには、どうしても入り口となる体験が必要になる。

これまでの私の入り口の体験は、はっきり言ってどれもこれも痛みを伴うものばかりで、思い出すのも嫌なものばかりだった。

もちろん無理にする必要はないんだけれど、そんなのは放置しても勝手に治癒されることはまずないから、どこかで手当てしてあげる方が絶対にいい。

そんな中、今回新たに手にした入り口は、過去最高に良いもので、思い出す度に気持ちもそれだけでほぐされるものでもあるから、私は一発で好きになった。

だからこれからは過去の扉を開く時には、そのことを使わせてもらおうと思った。

悲しいだけではないものだから、その他の部分も一緒にセットで思い出せる。

気が良い意味で緩んだところで、もっと奥に入っていく。

ちなみに思い出したら何するかと言えば、何もしない。

ただ思い出して、上手くいけばその時のリアルな感情がやってきてくれるからそれを感じて終わり。

感じることは大切で、感じないと手を替え品を替えそれを感じさせるための強烈な出来事が起こりやすくなる。

だから無視しないで自分の気持ちに寄り添って帰ってくる。

1人でやる時の注意点は、それはすでに終わっていて、今の現実でまたは今目の前で起こって自分を苦しめてるわけではない、ということをきちんと知っておくこと。

もう全ては終わっていて、だからその過去の癒されない場所に戻っても、今の自分は絶対に安全だという感覚だけは持ち続けること。

そこがあれば、1人で過去に飛んでも大丈夫。

怖くはない。

とまぁ、そんな風にして、過去への回帰を今している。

0 件のコメント:

コメントを投稿