2018年7月30日月曜日

ホロスコープ鑑定〜東京編〜③振り返り

先日のホロスコープ鑑定の音声を一通りメモすることを終えた。

実際に3回以上は聞いていて、ノートにももちろん書いたし、そしてこのブログの備忘録としても書いた。

ブログに書こうと思って、それで書いて良かったなと思った。

人の目に触れるのであれば、S先生の言葉通りに書こうと考えたし、そしてわかるように補足説明もした。

結果的に、客観的に自分のホロスコープを見ることになって良かった。

メモをしながら、何でホロスコープ鑑定を2回もそれぞれ別の人から受けたのかがわかった。

1回目は、私の性格や特徴を読み解く内容が主だった。

そこにも私という人物がありありと描かれ、とても感動した。

そしてそれを一生の自分の取扱説明書にしたらいいと思った。

変な言い方ではあるけれど、1回目のホロスコープで私は夢や希望のような明るい一面を自分のホロスコープの中で見出した。

良いことが書いてあったとかではないけれど、自分が薄ぼんやりと思っていたこととホロスコープ鑑定書に書かれていた自分が重なった。

その重なりはとても嬉しかった。

だから、そのホロスコープ鑑定は生涯の中で最初で最後だと思った。

じゃあ何で2回目の鑑定を申し込んだのかな?と振り返って、思い出した。

3月の終わりに占星術家でビジネスを展開している海部舞さんの文章に出逢って、そこで自分のホロスコープを読めるようになりたいと思った。

自分を生きると思ったら、自分自身をきちんと知ることが大事だと思ったから。

だから4月から自力で読み解き始めたんだった。

読めば読むほど自分ではわからないことがたくさん出てきて、そしてそれを読める人は相当探さないといないだろうことも気付いてた。

自分で読むようになって気付いたことは、自分にしかわからない意味合いのものや、自分だからこそ引っかかるポイントがあることだった。

1回目の鑑定にはもちろん大満足している。

だけど、私が知りたいと切望した部分はまだベールが被されたままで、そこは自分で読み解くしかなかった。

だから私のホロスコープの読み方は、自分の知りたいこと中心だったから、ピンポイントの部分はいくつもわかったけれど全体像は余計とボンヤリとした。

そして全体像を読むにしても、絶対に外せないようなポイントがとにかくわからない。

もちろん調べたけれど、特殊すぎるのかどこにも情報がない。

いいところで、概要の説明とか他の人の似たものの読み解きの例で、じゃあ私のはどうやって読むの?というのがてんでわからなかった。

ホロスコープ初心者にはあまりにも難しすぎる私のホロスコープは、お手上げ状態だった。

だから、その本筋をストレートに客観的に専門的に見れる人から見てもらって、そして私にその意味を伝えて欲しかった。

それが今回のS先生の鑑定に繋がった。

S先生の鑑定は、私の人生の特徴や流れ、生まれ持ったもの、そうしたものを統括的に伝えてくれるものだった。

私の予想を遥かに上回る知識を持っておられて、見たままのものをとても丁寧に説明してもらえた。

言うなれば、前回がパソコンでいうところのソフトウェアの細かな中身の部分で、今回がハードウェアの本体の部分をそれぞれ見てもらった感じになった。

だから2回とも必要で、2回受けてようやく私自身も自分のことに納得できた。

そして、1回目が陽の部分なら2回目は陰の部分という風だった。

S先生から柔らかい口調と選ばれた言葉で、時々笑いも起こりながら説明されたことは、はっきり言って、そんなに明るい内容ではない。

暗いと言うよりも、あまりにも絶対的すぎて、たとえそれが受け取りたくないものでももうそうなってるから受け入れる他ない、そういうタイプのものだった。

例えば私が感じている「自分でコントロールできない人生の流れ」なんてのは、他の人たちからしたら「何言ってんの?」という感じだし、実際に言われたこともある。

私はこれまでそのことを「自分の努力や計画が足りない」とか「上手くいかないことを言い訳みたいに言うのは自分の甘えかもしれない」とか、そんな風にマイナス方向に捉えてた。

恵まれてるとかこんなに力があるのに活かさなくてもったいないとかもかなり言われた。

私は理解して欲しいとは言わないし、そんなこと望めないとはなからあきらめてる。

だけど、せめて否定だけはされたくない、本当にただそれだけの願いにも関わらず、私のその願いはあまりにも大きすぎるのかとにかく叶わなくて、私も私で傷付きたくないから適当に相手に合わせる術を身に付けるようになった。

自分が望む望まないなんてのとは関係なく人生が展開していく。

しかも展開するものは、どちらかと言えば望まないものの方が圧倒的に多い。

じゃあ選ばなきゃいいじゃんという話だけれど、選ばなくても自動的にそちらに運ばれてしまう、そんな風だった。

その流れこそがそもそも人生の設定として持ってきてるものだと今回S先生から教えてもらって初めて知った。

だから1つ前のブログ(ホロスコープ鑑定②)で、「設定通りの人生という意味なら百点満点」と言ったのは、そこに繋がる。

当の本人からしてみても、よくわからない人生の流れがある。

自分自身もだけど、自分の人生も読めない。

これは計画しても多分その通りに運ばないことの方が多い。

でもそれが人生の設定にあって、私の場合は大元がそれだから、生涯を通じてそのコントロールの効かない人生の流れには逆らえない。
(だから、慣れてくしかない。)

大きかったことは、これまでは自分を責めたり自分の至らない点を探したりもしたけれど、もうそういう性質の人生なんだとわかって、ある程度開き直れたのと、まぁ周りが何を言っても仕方ないなと思えたこと。

言いたい人には言わせておけばいい、そんな感じの視点がさらに一層強くなった。

近い人間関係ほど理解が得られないことや、そこでの安心感を得るのが難しいこともホロスコープに出ていた。

これまでも、不都合なもしくは理不尽な人間同士のやり取りがあるととことん分析する癖があって、なるべくあったことをあったままに見つめてきた。

そして自分に何ができて何ができないかも見ていった。

私はそこで何とか理解してもらおうなんてのはあきらめた。

さらに理解しない人たちを変えるなんてのはできないから、もう平行線は平行線のままでいいというところにまで行っている。

近しい人間関係から理解が得難いことも、ある意味慣れていくしかない。

決してマイナスの意味で言っていない。

そういう人間関係のクセがあるにも関わらず、それを捻じ曲げてまで美徳な人間関係を無理矢理作らなくていいということ。

そういう意味で、私は私で人との付き合い方を自分なりに模索したらいいと思っている。

救いだったのは、趣味とか同じ志を持つ仲間とかには恵まれるということ。

これはわかる。

私は20代の後半から、自分を真っ向から受け止めてくれる人というのに3人出逢えた。

特にそのうちの1人は、私の完全なる救世主だった。

その人は、私の本質を一発で見抜いた。

人生で初めて強がることをしなくて良い相手だった。

だから、そうした人間関係には恵まれてるし、私自身もそうした人間関係を大切に作っていくことを人生の目的の1つにしているから、今後は人との繋がり方は自分がいかに心地よくいられるかで判断していって大丈夫と思った。

無理してまで誰かと関係を持つというのはしなくていいだろうし、変に理想を掲げなくてもいい。

特に家族に関しては、程良い距離感を保つ他ないと思った。

それは家族が好きとか嫌いとかではなく、私が自分の身を守るための一番最適な手段だと今は思っている。

パートナーシップや男性との付き合い方なんてのは、あまりにもその通り過ぎてビックリした。

ホロスコープの勉強を始めた当初、どの本を読んでも私の異性関係は私が性に対して自由奔放でだらしなく、平気で浮気も不倫もして、相手を大事にしなくて飽きるとすぐに相手を取っ替え引っ替えみたいな、とにかくハチャメチャな小悪魔みたいな感じの書かれ方しか見当たらなかった。

たしかにその配置もあるけれど、それにしてもこのかけ離れた現実と説明は何だろう?と思ってた。

ところが今回S先生は全く別のところに焦点を当ててくれていて、それこそが私の異性関係そのものだった。

恋愛に奥手で、それゆえに結婚も遅れ、子どもも遅れ、さらには悪く出ると男性のやる気を潰してしまう…。

まさに!という感じだった。

恋愛が奥手、何をもって奥手とするかはわからないけれど、私は気持ちの切り替えがそんなにうまくないから、すぐ次みたいな風には基本いけない。

さらに痛手から立ち直るのにすごい時間を要するから、自ら恋愛に対して積極的に行こう!なんてのもない。

さらに言うと、女としての自分に自信が全くないから、そこを変に男の人から刺激されるとさらに自分が弱るから、それもあって積極的に恋愛にGO!GO!とはならない。
(自分の女性性に対しての強いコンプレックスもホロスコープにしっかりと出ていてビックリした!)

だから恋愛に関しては、よほどの事情や気持ちがないとそこまで動かない。

男性のやる気を潰すというか、プライドを傷ませるというのは、鑑定の時にすぐにどのことか思い付いてしまった。

これはちなみにカラクリがあって、私が否定したり相手を踏み倒したりするのではない(と私は思ってる)。

男の人が私の得意分野で勝負しようとすると、おかしなことになる。

多分私の得意分野は、凡人以上の力を発揮するぐらいの、ものによっては天才的な力を出すから、そこに勝負を挑もうとする人がいると厄介になる。

言うならば、私が子どもの頃習っていたピアノを、結婚式やバーなんかでピアノを弾くプロと張り合うみたいな、もしくはピアニストと張り合うみたいなそういう無茶ぶりをしようとするからおかしくなる。

私ならそんなの面倒だし敵わないのわかってるから最初から挑まない。

英語がわかりやすいけれど、このことで私はものすごい嫌な思いをしたことがある。

私にしたら、私は私で何年も積み重ねてそれでようやく到達したレベルだった。

決して楽したわけでもない。

そこと張り合おうとした男性がいた。

私はその人のことを賢い人で頭の良い人だと本気で思ってた。

ただ英語だけに関しては私の方が積み重ねの結果で少し上にいるのは仕方のないことだった。

他の教科に関しては、私はとてもじゃないけれど足元にも及ばないぐらいに賢い人なのは間違いなかった。

でも相手はそうはとらない。

私と張り合ってそして敵わないとわかると拗ねたり私への批判めいたものが始まって、はっきり言って面倒くさかった。

反対に、私を良い風に使ってくれた人もいた。

仕事で英語が必要になったその人は、私に英語の文章をいくつか書いてきておかしかったら見て欲しいし、私ぐらいの力をつけたいと、良い風に私を活用して、結果的に私は私のままで相手のやる気を引き出した(笑)!

だから、私からすると私がどうこうと言うよりも、相手の性格や人間性によって吉と出るか凶と出るかという感じがする。

ちなみにもう1つ別の場面でもあって、その時も私はすごく嫌だった。

その人は付き合った人ではなかったけれども、典型的な「ザ・男」みたいな人で、こういうタイプの人ともし付き合うことになったら私が大変だな…と有りもしない想像をしたことがあった。

私は張り合う気もなければ、相手の人には私にないものを持っているから尊敬してても、相手はいくつもある選択肢の中でわざわざピンポイントで私の専門分野(人の超パーソナルな話を聞くこと)を選び、そして私の方が多分圧倒的に経験も知識も上回っているから、敵わないとわかったら怒りみたいなのをぶつけてきた。

それ以外のことなら、あなたの方が私よりも何十倍と能力もあってできる人ですから!と言いたかったぐらい。

だから、選べる立場ではないけれど、今後誰かと付き合うにしても、私は自分がすることとは全く異業種の人の方がいいなと思ってる。

お互いに絶対に同じ土俵に立たないというのは、とても健全な境界線を引けるし、変な張り合いをしなくていい。

だけどS先生は言ってた。
「趣味の仲間とか同士からパートナーが出てきたりするんじゃないですか」と。

これも私は嫌だなとかなり思ってる。

先月から始まったヒーラーの男性Oさんとのレッスンを思い浮かべるとわかる。

あとコーチングのスクールに通ってた時の男性陣とか。

あれはやっぱり趣味とか興味関心の話であって、あんなの家に持ち込みたくないと私は思ってる。

気が休まらないから。

家でもその延長なんて私ははっきり言って嫌だなと思う。

家では普通においしくごはん食べるとか、ダラダラするとか、くだらないおしゃべりで盛り上がるとか、時には真面目な話をするとか、そういうのに強く憧れて仕方ない。
(ちなみにバツイチの男友達に言わせると、私みたいな結婚に夢見てばかりいるタイプは、理想と現実がわかってなくて面倒くさいと言われた…。)

今後「プライベートがない」というのがどういう意味でやって来るのかはわからないけれど、たしかに家でも思い付いたら思い付いたことをしてしまう。

心理系のワークなんかその最たるもので、私の中ではもはや趣味とか、健康的な人がやる体のストレッチみたいな感覚でやる。

だけど、パートナーシップまでもがそのプライベートがない感覚のものにはなって欲しくない。

もう1つ引っ掛かりを覚えたのは「天王星みたいな人が結婚するパートナーになりやすい」というフレーズ。

解釈的にはオリジナルな生き方とかユニークな人なのはいいけれど、「天王星みたいな人」と言われた時に良いイメージが出てこなかったのは気のせいだろうか…。

この場合のユニークは、面白いというのではなく、オンリーワンという意味。

好き勝手書いたけれど、結婚に関しては私はもうごちゃごちゃ言わない。

間違いなく面倒くさいタイプの人間の部類に入る私と結婚してもいいなんて思ってくれる人は、相当人間性が高くて心の広い人だと思ってる。

だからそんな奇跡的な人物に出逢えて結婚までできたとするなら、私はもう相手に感謝しか湧かない。

あと、殻を壊してまた新しい枠組みを作ってそこに向かうこともわかる。

殻を壊す直前というのは、自分の中で限界を感じている。

そこに留まれないわけでもないけれど、先が見えている。

そしてそこに留まる方が後々に面倒なことになったり、さらに自分の首を締めることになるのが目に見えてる。

だから思い切ってそこを抜け出す。

もしくは留まってはいけない場合、そこにしがみつこうとしても外部から強制終了がかかる。

いずれの場合も、自由になるわけではないし、むしろまた1から立て直しになるから面倒この上なかったりする。

でもそれが自分の人生の特徴ならもう仕方ないなと思う。

私は自分の人生が人よりも大変だとは思っていない。

だけど、もっと悠々自適に生きている人たちを見ていると、私は何を間違えているんだろう?とは常々思っていた。

だけど設定の通りに歩んでるかどうかを見たら、もうその通り過ぎてビックリした。

そして最後にS先生に言われたように、自分の星を好きになって慣れていくことが大事なんだと思った。

S先生の話を聞いてて、星に表れている自分の人生で好きだなと思ったことが1つあった。

太陽と月のシンボルがどちらも「奇跡」とか「非日常」を大切にするというところ。

私は「奇跡」という言葉の響きも好きだし、奇跡を発見するのも居合わせるのも聞くのも、とにかく好きでたまらない。

それは一期一会とか、その時にしかない特別なこととか、唯一無二とか、そうしたものを連想させる。

だからその時その瞬間にだけ存在したものとかには、それが人でもおしゃべりでも風景でも料理でも物でも、とにかく心惹かれる。

私は自分の太陽も月もシンボルは知っていたけれど、S先生に指摘されるまでそれが奇跡と結びついてるとは思っていなかった。

言われて初めて気づいて、そしてそれが自分の好きなものと組み合わされてるところに超感動した。

ちなみに。

短期決戦はかなり厳しいからそんな目標は立てないけれど、自分が死ぬ時に「愛しきかな我が人生」なんて気持ちで最後死ねたらいいなと思ってる。

人生の設定自体、自分が設定してきたとするなら何を間違えてこんなメチャクチャなものを詰め込んだのかと思うけれど、それでも最後の最後に自分の人生が最高に愛おしいと思えたらいいなぁと思う。

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