2019年6月24日月曜日

絶望の向こう側

eat LOVE
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私はeat LOVEを初めて読んだ時、その中に登場するNさんとパートナーのミッチーの関係がものすごく羨ましくて仕方なかった。

そして、その関係を手にできないだろう自分と自分の人生にどこまでも絶望した。

それから数日が経って、その間に色んなことを記事にしてアップした。

書いていくうちに色んな気持ちが出てきて、そして私は「私が伝えたいのは、“絶望”の部分じゃなくて、その裏側の“希望”の部分」だと気付いた。

どういう文章に仕上がるのか自分でもわからないけれど、心に浮かんだままの言葉をなるべく忠実にまっすぐに出していこうと思う。




一番直近で出たことから。

「絶望って何だろう?」って考えた。

絶望する時って、望みがないとか先がないとか、とにかく「ない」ことに焦点が当たっている。

じゃあ何に対して「ない」のか。

それは何かと比べて「ない」わけで、初めからなければあるもないも考えない。

例えば私はスーパー運動音痴なわけで、私が100mを10秒切れなくても「絶望」は絶対にしないことがわかる。

宝くじで1億円当たったらいいなぁなんて思うことはあっても、当たらなくてもこれもまた「絶望」しない。

だけど、eat LOVEを読んだ時、私は激しく絶望した。

それは、私には絶望するのと同じくらい、望んでいること、切望していることがあるということ。

絶望する時というのは、その裏側にそれと同じくらい何かを強く望んでいる、自分の中の強烈な望みがある。

それが叶わないとか叶いそうにもないとなるから、絶望する。

私はこの数日でちょっと考え方が変わった。

捉え方と言ってもいい。

基本「絶望」は、別に今日でも明日でも明後日でもそれはとても上手く絶望できる。

ものすごく上手い。

練習も特に要らない、すぐにできちゃうから。

だけど、自分の本気で望んでいることに真摯に向き合う、叶う叶わないを考えるんじゃなくてその望みに対して「これが私の望み」だと自分に対して宣言する、これは超勇気が要る。

頭の中のおしゃべりは止まらない。

「だってそんなこと望んだって叶わないじゃん」とか。

「そんな無茶な望み、望むだけ無駄だし、自分が傷付くじゃん」とか。

そういうおしゃべりたちのせわしなさと否定力の強さと言ったらない。

絶えず否定し続けて、自分が何を望んでいるのかさえ、もはやわからなくする。

だけど、今回はなるべく忠実に、自分の中で超望んでいることを素直に書けたらいいなぁと思う。

絶望ではなく、切望しているものを、ストレートに綴りたい。




これは、目にしたのが多分この1ヶ月とか2ヶ月くらい。

何回か目にして(発信者は毎回違う)、これもしかしてその人もそうなのかな…と気になった内容だった。

書いてあった言葉だから、とりあえずそのまま書く。

「愛されるのが怖い」

こんな自分の何が良くて相手は自分のところに来るのか。

自分のダメなところを見たら相手は幻滅して自分の前からいなくなるんじゃないか。

今は自分のところに来ていても、いつか嫌になってその人も自分の前から去るんじゃないか。

そういうのが「愛されるのが怖い」のもっと翻訳したバージョンらしい。

ちなみに怖いとどうするかと言うと、無視したり避けたり怒ったりして、自分と相手に距離を置いて自分をなんとか守ろうとするらしい。

誘いは断っても長くて何が言いたいのかよくわからないブログは読む、という行動は何なのかとずっと思っている。

本気で嫌な人の誘いなら断って終わりで、さらにそんな人の書いた文章を読むなんて苦行以外の何ものでもない。

繋げて考えるのは難しいから、とりあえず別々に見てみると、読むことは何かその人にしかわからない理由があるんだと思っている。

その部分と「愛されるのが怖い」症候群みたいなのが、なぜか重なる。

私は過去に一度、ものすごく愛された体験がある。

その時の自分を重ねると、「愛されるのが怖い」というのはよくわかる。

大真面目にいつも、相手の人は頭のネジが100本ぐらい外れてるのかと思っていた。

私の何がいいのかもわからなかったし、私が色々やらかしていてもその私ごとOKにしてくれる、菩薩みたいな人だった。

その時のことを思い出すと、「何でこんな私なのに大切にされるのか」の意味がわからなかったし、正直怖かった。

自分の自信のなさはそういう不安とよく結びついていた。

もしかしたら、その人から見て私がのこのこと近付いてきたのも、それに近い怖さが裏側にはあったのかもしれない。

その人ばかりじゃないけれど、その人も例外ではなく自分の良さがよくわかってない風だった。

すごく良いところをたくさん持っているのに、その人は多分その良さを自分でわかっていない感じがする。

そして反対に「この部分が俺ってダメなんだよ」と思っていることにたくさんエネルギーを使ってしまっている気配さえ感じる。←完全に私の主観。

私は嘘は書いてないけれど、もしかしたらその人は自分に向けられている好意を信じられないのかもしれないなぁ…なんて思った。←これも完全に私の主観。




この1ヶ月くらいで何度か頭をよぎったことを書く。

いつかのブログに書いたこと。
↓↓↓

ツイッターを見ていて見つけた言葉。
(「ヒャダインこと前山田健一」さんのツイッター)
山ちゃんと蒼井優が結婚発表した後にたまたま見つけたツイッター。

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このツイート(↓)の「友人」は蒼井優でした。いい話だなー。

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「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」
と友達が教えてくれて、その通りだなあと思ったので書いておきます。

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このツイッターを読んだ後にふと出てきた。

ペンジュラム絡みの過去世で関係があったと思しき私の毎日の生活で近くにいた少年は、今世ではイケメン上司として私の前に現れた。

イケメン上司は、私からすると色んな良いものを持ちすぎていて、「高嶺の花」と私が言ったのは本当に冗談抜きで高嶺の花で、自分が本気で「不足している自分」や「色んなものが欠けまくりな自分」を否が応でも感じずにはいられない状態だった。

言うなれば、私がコンプレックスを感じやすいいくつかの部分において、彼は見事にそれを全て持っている人で、私からすると「不釣り合い」以外の何ものでもなかった。

もちろん私だけが持っているものもあるとは思うけれども、私の持ち物は人によって評価が変わるものだから、決して「良い」とは限らない。

下手したら、人によっては「それだから嫌なんだよ」となる可能性だってあるもので、だからどこをどう切り取っても、自分の中で「こんな自分は人に見せたくないな」の部分が刺激されまくっていて、それを思えば思うほど相手と釣り合わない自分がより鮮明に浮き彫りになって、それですごく嫌な気持ちになるものだった。(←この辺りは被害妄想激しめなのも手伝ってより一層タチが悪かった。)

なんだけど。

私は1つだけすごいできることがあることに気付いた!、あの蒼井優が言っていたというツイッターを読んで。

私はその人のことを自分が幸せにできるなんて全く思わないし、むしろ迷惑かけまくりなんじゃないかと思ったり、もし一緒にいられてもその人は果たして幸せなんだろうか…みたいなことはものすごくたくさん考えた。

どれも無理に思えて、だからごはん誘うのだって、初めから色々無理すぎるお願いをして、仮にOKもらってもさらにそれで相手が「いやー(汗)、いいよなんて言わなきゃ良かった(激しく後悔)」みたいな感じに感じたらどうしようかと思った。

その手の心配だけは山ほどしていた。

そういう意味では、相手が断ってくれたのはある意味良かったというか、私が心配していたことは何1つとしてやらかさずに済んだから良かったとは思った。

なんだけど、そのツイッター見た時に確信した。

相手に何か良いものを渡せる自分なのかどうかはわからない。

だけど、相手といられるだけでしあわせを感じられる自分のことはものすごく容易に想像できた。

その人といられるだけで私は間違いなくしあわせを感じてるだろうなぁって、それだけは真っ直ぐに信じられた。

相手に私のために何かして欲しいとか、私を幸せにして欲しいとか、そういうのは多分ほとんどない。

強いて言うなら、一緒にいてくれることを選んでもらえたなら、それだけで私は一生分のしあわせをもらったも同然だと思っている。

その人といられたら、自分がしあわせでいられることの自信だけはなぜかたっぷりとある。

そんなの素性をよく知らないから言えるのかもしれない。

でも多分大丈夫って思ったのは、自分の中にある感覚が自分にとって大丈夫だから。

その辺りの感覚がダメな人は、どうやってもダメなのがわかる。

生理反応みたいなもので、例えば苦手な音はどうやっても苦手なのと一緒で、それは克服できない。

私は人に対しての好き嫌いが実はかなり激しいと思う。

表には出さないだけで、けっこう苦手な人というのが多い。

その苦手な感じは言葉で説明できない。

その人にもたしかに苦手意識はあった。

でもそれは、自分のコンプレックスが刺激されまくりだったり、男の人全般に対して過剰に防御する部分だったり、要は私側の反応の問題だった。

それを取り除いて、純粋にその人だけを見た時に、私の中には良い感触だけが残る。

その良さだって言葉では説明できない、無意識の領域で良いって思ってる。

で、その良さを味わっている時の自分は、私にとってすごくしあわせな自分でそして一緒にいて居心地の良い自分だったりする。

だから、基本的な部分が確実に満たされると体感しているから、だから私は迷いなく「しあわせでいられる自信」がある。

その人といる時の自分は、確実にしあわせだととても簡単に想像できた。




これをどうしても今日中(6/24)にアップしたいから、eat LOVEを読んだ時に私が絶望した話をしたい。

そして、絶望から希望に気付いたその話を最後にしてしめたい。

書き足りないことがあれば、また東京から戻ってきてから後日書けばいいかと思っている。←ガッツリ書くには間に合わないとあきらめた。

eat LOVEに出てくるNさんとNさんのパートナー「ミッチー」とが織り成す日常に私は超超超憧れた。

Nさんたちは、かれこれ10年以上一緒にいる。

そして、初めて話を聞いた時から、Nさんがパートナーのことをものすごく大切に想っていることは感じていた。

長い付き合いと聞いたのに、長く共にした夫婦みたいな感じがなくて、どうしてだろう…とは思っていた。

そうしたらその答えがあのeat LOVEに含まれていた。

Nさんからして、ミッチーはとても言葉数が少ない。

日常の中でその言葉数の少なさにヤキモキしているNさんがところどころ出てくる。

その時に毎回素敵なのが、言葉数の少ないミッチーを否定せず、そういうミッチーもミッチーだからみたいに丸ごとOKにしている。

そのままを受け止めて、ミッチーを否定もしなければ変えようともしていない。

自然体のミッチーをどこまでも受け入れよう、理解しようとしている。

反対に、NさんはNさんで、ミッチーから言葉が欲しい自分の気持ちも知っている。

自分がして欲しいこととそれが手に入らない葛藤もそのまま描かれていて、でもその欲しいものを欲しいって望むのは自由だよね〜、みたいなことも書いている。

2人で作る日常をNさんは溺愛している。

ミッチーも言葉は少なそうだしなかなか言葉にしてもらえないもどかしさもあるみたいだけど、ミッチーもその日常を愛してるんだろうと感じる。

ミッチーが作ってくれたものと言って、Nさんが2つほどミッチー作の普段使いするものを見せてくれた。

私はその時はどの程度ミッチーが言葉数の少ない人だとは知らなくて仲良しだなぁぐらいにしか思わなかったけれど、今なら超わかる。

ミッチーもNさんのことめちゃくちゃ大好きなことを。

Nさんの日常を見てなければ作れないものをミッチーはNさんにピッタリ合うように作っていた。

ミッチーはミッチーのやり方でNさんに飽くなき興味を持っていて、同じくミッチーのやり方でNさんを大切にしたいんだとわかった。

本気で愛がなかったらできないことだとわかる。

ヤバイ、涙腺崩壊する。

2人の日常は、小さなこと1つも逃さずに大切に育んでいる。

それも、相手も自分もハッピーでいられるあり方を模索しながら、一瞬一瞬を大切に2人で育てている。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

eat LOVEより


DAY 5:
・なんでもない日常、ゆるい格好ゆるいおしゃべりふつうのご飯。
それは、ぼくのもっとも愛しているもの。
eat LOVE するたびにそれをかみしめる。


DAY 6:
・ぼくは彼のことが好きなのか、愛しているのかよくわからない。
この感情をそんな風に言葉にしてよいのかよくわからない。
ただ、彼との暮らし、ぼくたちの生活をぼくは絶対に愛していると思う。


DAY 10:
・それから12年。ぼくは今も彼といる。
毎日おはようってぼくは彼に言っている。
彼はおはようっていったり、ちょこっと会釈するみたいにしたり、
目だけで返事してきたりまちまち。
その態度に、なにそれ、と不満がわいたり、
挨拶を交わせることに幸せをおぼえたりぼくの感情は一定ではない。
その不安定さは、彼を今日も好きという証なのかも。

・彼との関係に特別な目的も目標もない。
ただ、ただ、大切なものを恥ずかしげもなく大切にしていくこと。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




こうしたNさんとミッチーの日常をカメラの向こう側と文章とで知った時、私は羨ましいのと同時に絶望した。

私が望んでいる日常やしあわせってそういうものだった。

すごい特別な何かを日常に求めているわけじゃない。

もしかしたらすごく難しいことを求めているのかもしれないけれど、Nさんの日常を垣間見て、それが実現できている人がいるということに希望を持った。

希望もありながらも、それが叶いそうにもない自分の日常に涙が出た。

ふと、夏の終わりと秋の始まりが入り混じった時にタイムスリップした。

ごはんさえ行けないと言われた私には、その日常を紡ぐというのがとんでもなくハードルの高い、一生叶わないものなんだと実感した。

ごはんを誘った人は、Nさんかミッチーかと問われたら、ミッチーにすごく近い感じがした。

なんだけど、ミッチーとNさんは相思相愛で2人で2人の作品=日常を日々繋ぎ合わせて何かを紡いでいる。

色んな感情がそこに織り交ぜられて、2人だけの世界がそこにあると思う。

言葉の少ないところは多分似ていても、ミッチーとNさんのように私はその人と何かを生み出すとか、生み出さなくても交わすとか、ただおいしいものを一緒に食べるとか、そういうことがないんだと思ったら、私には絶望以外何も湧かなかった。

ミッチーが自分の人生の中でNさんといるという決断をしたようには、私はその人から選んでもらえないんだと明らかになった。

そこにさらに追い討ちが来た。

Nさんが「うちに泊まりに来ない?」と誘ってくれた。

これは超絶嬉しいお誘いで、私はもはや何の目的で東京に行くのかわからないぐらいだけど、二つ返事で行きたいと返信した。

これは棚ぼた的な超ラッキーなことで、元々講座のある日に講座終了後にまたどこかでおしゃべりをしようと計画した。

ところがその日にNさんはどうしても外せない用事が入ってしまって、でもぶっしーともゆっくり話したいしと言って、それで私に前日から東京に入って泊まりに来ないかと誘ってくれた。

だから、私はeat LOVE邸へお泊りできるというスーパーゴージャスな計画にのれることになった。

あの写真や文章の中だけに存在している世界を私は目の前で見れるだけじゃなく、あの2人と一緒に、さらに2人が大好きな大家さんとも一緒にごはんを食べながら語り合うみたいな、もう超超超楽しみな時間への切符を手にした。

Nさんの誘いが追い討ちなんじゃない。

追い討ちなのは、私の心の中だった。

eat LOVE邸の所在地は、私がその人と訪れたいと密かに願っていた町で、まさか今回こんな風に行くことになるとは思ってもいなくて、だからすごく楽しみなのと同時にすごく寂しい気持ちも隠しながら行くみたいな、なんとも不思議な感覚の中で向かう。

行くなら行くで、その町に初めて訪れるならその人と行きたかった、という単なる私個人の野望が叶わなかったというだけのこと。

「だけのこと」では私の中では済まなくなっているけれども、でもどうしたってひっくり返らない現実と、どうしたって叶わない自分の願いと、それとは別にまさかの展開で叶えられることになったeat LOVE邸への切符と、複雑な気持ちは今もまだある。

さっきNさんと明日のちょっとした打ち合わせをした。

電車に乗るならどの車両が良いか、着いたら地上に出るのに便利なのはそれだからと教えられた。

駅まで車で迎えに来てもらうことになっている。

超嬉しい気持ちと、まさかのその町への初訪問がそんな形で実現するとは思ってもいなくて自分の気持ちの折り合いの付け方と…、まだどこかでどこにしまい込んだらいいのかわからない気持ちがある。

それはNさんたちとの楽しいだろう集いとは全く別の場所で主張していて、私も無視して目の前の楽しみだけに集中したらいいのに、その静かな主張にまだ心が向いてしまう。

自分でもどうしようもないくらい向いてしまう。




追い討ちとセットの超楽しみなお誘いを受けてから数日。

もうあと10時間もすれば家を出て出発する。

今は楽しみにその時を待っている。
(ホロスコープの宿題も待っている( ̄∀ ̄;))

このこともだし、先週Sさんと会って私には永遠にやってこないお誘い話にもだけど、私はどちらにも「絶望」を覚えた。

本当にしばらく悶々としていた。

なんだけど、時間の経過と共に、そして色々書いているうちに、はっきりとわかった。

私は本気で会いたいというのと、それが30分だけのお茶1杯で終わりだろうと駆け付けるのに!!!というぐらい、ただただ会いたいんだなと思った。

いきなりNさんとミッチーみたいな超上級編の日常を共にするとかを狙ってなんかいなくて、ましてやSさんとその人が楽しく集うなんていうレベルも高すぎて狙ってなくて、少しでいいからその人の人生の時間を分けて欲しいんだなと思った。

ガヤガヤしているコーヒーショップや、立飲みみたいなところで全然落ち着かないみたいなのでもいいから、ただ顔見て元気だなと知ってじゃあねでもいいのに…と。

せめてNさんと私とか、Sさんとその人みたいに、友達的な関係を持てたら良かったなぁとそれは今でも思っている。

私の野望はどこまでも果てしないものがあるけれど、私はその全部を揃えたいけれど揃わなくてもそれは仕方ないとも思っている。

でも、そのうちの1つ、本当に小さな希望の1つぐらい叶えてもらえないものかと思う。

↑こんなことを言ったら、余計と重たい人になって会う気がますます失せるかもしれないけれど、本心だから仕方ない。

本気でしばらく東京に行かないこともわかっているから、私は往生際悪くまだ帰りのチケットを買っていない。

予約だけもできないチケットだから、その場でパッと購入するしかない。

チケットはどうとでもなるからいいにしても、このずっとずっといつまでも願い続けたこと、叶って欲しいと祈ったこと、それが何かの形として目の前に現れてくれないかと思う。




eat LOVE邸に持っていく土産を買いに外に出た。

出てすぐに、その人の誕生日の数字を見た。

それを見ただけで、これから向かう東京行きが大丈夫なんだと思えた。

何かを知るというのは、こうしてしあわせやラッキーアイテムも1つ増えるんだと知る。

何てことない数字が、きちんと意味ある数字に変わる。

そういうのってしあわせなことだと私は思う。

底なし沼みたいな絶望もあるけれど、それと同じくらいの強さで小さなことに喜べる自分になれる。

少しだけ時間を分けてもらえないかな…と思いながら東京に行く。

あれこれ重たいことばかりをわたしが言い過ぎたせいで軽い気持ちで会うなんて難しいのかもしれないけれど、本気で会えたらいいのにな…と思っている。

Nさんたちとの楽しい会合の最中でも、自分の何兆とかある細胞のどこかで必ず「会いたい」って私は思っているんだろうなぁと思う。

電車に乗ってeat LOVE邸の町へと繰り出す時も、複雑怪奇な気持ちと共に向かうんだろうことも想像している。

あのよくわからないオカルト的な引き寄せ力を、その人に会うための時間を引き寄せる力にならないかな…と私は本気の本気で思っている。

(一応気になると悪いから言うと、本当に会えたら絶対にブログには書かないから!)

タイトルは『絶望の向こう側』にする予定でいるけれど。

絶望の向こう側にいつもあるのは「希望」だと私は思っている。

希望がでかければでかいほどそれが叶わない時の絶望も大きいけれど、だけど、絶望と常にセットであるのは希望だと思う。

何にお願いしていいのかさえわからないけれど、本気でその人と引き合わせてくださいと願う。

そうだ。

これから得意の墓参り(願かけ)に行こう。

雨も上がったから、希望を伝えに墓参りに行こう。

もう一度会いたいです。

そうお願いしてこよう。

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