2018年4月30日月曜日

命を響かせよう

今月はすっかり忘れてた、Xデー。

毎月月末のある日は、私がその1ヶ月又は9月から数えての何ヶ月目かを振り返る日になってる。

毎回色んな思いが交錯するけれど、自分自身がここまで来れたんだなとどこか感慨深いものがある。

ホロスコープ調べマニアは「半年前に望んだこと」が今現実に現れてるという記事を読んで、さっそく日記帳を開いた。

何があったかは何となく覚えているけれど、それじゃなくてもっと具体的なものが知りたくなった。

当時は相当たくさん書いていたから、多分何かしらのヒントがあるだろうと思って。

一番大きな望みはさておいて、そうではない自分についての望みや願いみたいなのがどんなものだったのかを探した。

↑本来の目的は上に書いた通りだったけれど、探したら別の情報に目を奪われて、結局これを書いてた私↓。


〜日記帳を見た後の回想〜

人生のご褒美はあまりにも早く私の前から取り去られた。

その頃から色んな理由で日記を書くようになった。

1つはもう自分でもどうにもできなかった気持ちをひたすら吐き出す場所として。

1つは自分が見たものをできる限り記録したくて。

忘れたくなかったから。

自分がどんなに年を取ってもその時のことをリアルにいつでも思い出したかったから。

もう二度とは足を踏み入れることはないのに、私はその風景も自分のその時の気持ちもリアルに覚えてる。

今ホロスコープの勉強をして新しいことをどんどん脳の中に詰め込んでいるのに、その当時のご褒美たちのことは今でもよく覚えている。

大切だと思うものは、時を経て新しいものがどんどん積み重なっても、変わらないのかもしれない。

時が止まるのとはまた違っている。

過去は過去で変わらない。

そういう意味では止まっている。

だけど、そこに注ぎ足された気持ちや想いなんかがあるから、ちょっとずつ見せてくれる景色みたいなのが変わってる。

日記帳を開いてみて驚いた。

ゾーンに入る?

用語を忘れたけれど、要は夢中になって通常の時よりもすごく集中力が高まって、意識も一段深く入り込んだ感じになってひらめきやらをキャッチしやすくなる状態みたいなもの。

日記帳の中ではとにかくひたすら書いてたから、それに近いものがあったと思う。


2017年11月1日(水)
【今朝車を運転して出てきた言葉。

“自分の信じたいものを信じる”

私は再会を信じていて、そして魂の繋がりを信じている。というか、ずっといるから、感じてるfeelに近い。】


仕事の昼休みにささっと書いた割には、いきなりすごいこと書いてる。

何でそんなことまた突然のように思いついて言ったんだろう…と思って、前日に書いたページを読んだ(ハロウィンの日、木枯らしの冷たい雨が降っていた模様)。

その前日の記述を読んで思い出した。

私はその前の日、仕事の帰り道の車の中で、すごいことを1つ思い出した。

自分がどの道を運転してたかまで覚えてるぐらいに、強烈な記憶のフラッシュバックだった。

元々は夏に友達と神楽坂でオシャレ女子会を開催してた時の会話を回想してた。

大笑いした話を思い出した時に、私はいきなり思い出した。

私が迷子になって、当時の職場の目の前にたどり着いたことを。

まさかその場所に自分がその数ヶ月後勤めることになるとも知らず、普通にその前に到着していた。

そんなことずっと忘れていたけれど、その時突然記憶の回路が繋がって思い出した。

そして他にもそれ含めて6個の地点に、私はその人に出逢う前の数ヶ月の間に行っていた(ひとつは行こうと思いつつ最後まで行かなかった)。

その6地点は、その魂の繋がりと私が思ったその人の生活圏にもろかぶっていた。

当然だけど、そんなの当時の私が知る由もなく、本当に色んな形でそれらのスポットに運ばれていた。

ひとつの場所を除いては、全て私以外の人・タウン誌・ペンジュラムからもたらされた情報ばかりだった。

だから、私が自分で自ら行こうと思ってゲットした情報は6個中1つしかない(←この場所が最後まで行かなかった場所)。

なのに数ヶ月に渡って、私はそれぞれ表面上は色んな用事でそれらのスポットに出向いていた。

そんなところに関連性があるなんて全く思いもよらなかったから、そのハロウィンの夜まで全く気付かずにいた。

そこでも「おかしい」と私は思った。

おかしいというのは、6個のスポットは全て私の普段の生活圏内からは外れてる。

人から情報をもらう度に「またその町?」とは多少思った。

それは単に、他の用事を足すにはあまりにも不便というか都合が悪いから、本当にピンポイントでその地に出向かないといけなかったから。

出かけるならついでに他の用事も足したい私としては、そのピンポイントで行くことに対してあまり気が進まなかった。

そのおかしなぐらいにピンポイントで訪ねていた場所の中心軸にその人がいたとわかって、私は度肝を抜かれた。

と同時にそんなことをとても自然に演出されていた自分の人生にも驚いた。

その奇妙な共通点を見出した時に私は「魂の繋がり」を感じた。

私は9月の終わり辺りから、専ら魂の繋がりがあるとどんなことが起こるのかについてひたすら調べてた。

来る日も来る日も調べていた(今はもう調べていない)。

あまりにも色んなことが奇妙でおかしくて偶然にしては出来過ぎで、そして感情の揺さぶりは半端なかった。

色々とあまりにも凄すぎたから、それで私は色々調べるうちにあるキーワードに行き着いて、そこからは徹底して魂の繋がりを調べ始めた。

最初から魂の繋がりを調べたんじゃなくて、これも何だか流れに乗っていたらそんな風になったという感じだった。

その中で、出逢う前にお互いの生活圏内に足を踏み入れることもある、みたいなことが書いてあった。

だから私はそれで「あ!」となった、そのハロウィンの日。

そして翌日に「魂の繋がり」と普通に書いてる。

でもそんなのはまたすぐに自分の中から打ち消されて、「気のせい」となったりする。

そんなことの繰り返しだった。

ちなみにこんなこと言うのもおかしな話だけど。

相手の異動先を私は人づてに後から聞くことになったけれど、それも驚いた。

妹夫婦は結婚してから数年間、東京のある町に住んでいた。

妹たちはまさにその異動先の最寄駅と思われる沿線上に住んでいて、妹たちのところに行く時はいつもその駅を通過していた。

私の中で数少ない都内の知ってる駅だったりする。

偶然と言えば偶然。

だけど偶然にしては出来過ぎというか行き過ぎな感じ。

調べてる時に出てきた表現で
「『そうであるかもしれない』ではなく、『そうであるとしか思えない』現実(の中にいる)」
というのがあった。

言うなれば、全てが本当にそんな風だった。

場所の偶然とかだけじゃなく、起こったこと全てがあまりにも普段なら起こらないことばかりで、その中で毎回不思議な小さな関わり合いを持っていた。


2018年4月30日現在、そのことについてどう思っているかと言うと。

魂的な繋がりが本当にあったとするならそれはとても喜ばしいと思う。

だけど、実は魂的な繋がりなんてなかった相手だったとしても、私はこの数ヶ月自分の全身全霊で感じてたことに嘘偽りはないから、今は魂的な繋がりの有る無しはどちらでもいいと思ってる。

多分そんなのがあってもなくても私はその人を特別に感じたんだろうなぁと思うから。

それがあったから特別に感じたのではなく、その人がその人だったから私には全てが特別だった。

だから、今はもう魂的な繋がり云々はどちらでもいい。

そして、再会がこの生きてる余生の中で果たされずに死んだとしても、それはとても悔しいことではあるけれど、仕方ないと思う。

そんなの本気の「神のみぞ知る」みたいな域の話で、そんなのは私の小さな力で何とかできることじゃない。

そして今私が決めたこと。

それは、再会があろうとなかろうと、自分の命を響かせよう、ということ。

相手と再会できたら自分の命が響くんじゃなくて、そんなあるかどうかもわからない今、私はどちらであっても、残りの人生の時間で自分の命を響かせよう、それだけは決めた。

自分のことだから、また迷いまくってフラフラして失敗もしてよくわからないループに入ることもあると思う。

それは往々にしてあり得る。

ちなみにここ数日は、1日置きにやってくる体調不良で本当に嫌になってる。

でもそれでもいいから、もっともっと真剣に「生きる」ことを自分に問い質して、そして「今日溶けそうなアイスをスーパーの駐車場に止めた車の中で食べてたら、おぼろ月ではあるけれど満月見れて良かったー‼︎」みたいな小さな感動を自分の人生に入れていきたい、そう思った。

アイスが食べたくて、他の食料の買い物のついでに買った。

アイスだからすぐに食べないとで、それで車の中で食べてたら目の前に赤く染まったおぼろ月の満月が出ていた。

本当に一瞬だった。

小さな選択たちの積み重ねでその満月とのご対面があった。

そういう小さな選択たちをこれからも続けるだろう。

その時に時々でいいから、「命を響かせる」ことを自分の頭のけっこうすぐに思い出せる位置に置いておいて、そのことを思い出したい。

そして「命を響かせてる?」って自分にきつくではなく優しく問いたい。

天と地がひっくり返ったかと思うほど色んなことが起こりまくった数ヶ月だったけれど、その全ての瞬間瞬間にその人は常に私の中にいたし、それについてはもうどうにもできないからその状態でいいかと半ばあきらめてる(笑)。

そもそもそういう人に出逢えたってことがすごい。

再会できてもできなくても私はその人の無事を普通に毎日日課として祈ってるし、たとえそれが届かなくてもそんなのは届けと言う方が無理だからそれでいいかと自己満足な感じでやってる。

相変わらず自分が不器用だなと思うけれど、まぁもうそれが私だから仕方ないかとも思ってる。

こうして届きそうにもないことを表現し続けるのも「命を響かせる」ことに繋がる。

いつかは私も死ぬわけだから、誰に迷惑かけるわけでもない、ささやかな自己満足の祈りの1つや2つ捧げてもバチは当たらないと思う。

それよりも死ぬ間際になって、「変な常識に囚われて、何も伝えようと努力しなかったな」と思うことの方がどう考えても後悔する。

やらない後悔よりやって後悔の方が納得できる。

ということで、当初のヒント探しなどしてる暇もなく、今日が終わりそう。

まぁでも「命を響かせる」って素敵な言葉がふわりと出てきたから、今日は今日で大満足。

多分この問いが、これから先の何十年の私を支えてくれると思うから。

迷ったらその問いをしたらいい。

くじけそうな時もそれを聞いたらいい。

心折れそうになったら、小さな命の鼓動を感じられるように今日の満月みたいな瞬間を自分にプレゼントしたらいい。

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