2018年4月15日日曜日

自分を知る〜ナビが教えてくれたこと〜

39歳の私は今もまだオール1だった頃の感覚がしっかりとある。

そしてその感覚が時折顔を出すから、いつまで経っても私の中の「できない自分」の感覚が消えなかった。

それはもうずっと適当に付き合えばいいと思って、もう今さらどうこうするつもりはなかった。

とりあえず今の私は生きていくのには十分な学力と知的な理解力は併せ持ってるから、まぁそれで基本的なところでは事足りてるからいいかと思ってた。

まさか今日その感覚のルーツと解決法を一気に知ることになるとは思わなかった。


すごい楽しみにしてたオルゴナイト作家さんとの集いを終えて、私は帰りにいくつか寄りたいところに寄ることにした。

その中の1つにお気に入りの雑貨屋さんがあって、ペンジュラムに指示されるまま右折左折を数回繰り返し、何回目かの左折でその建物の目の前に行き着いた。

相変わらずペンジュラムのカーナビセンスは素晴らしく、何で鉱物である石がきちんと地図も見ずに目的地を案内できて、人間の私+機械のiPhoneのマップの組み合わせになると途端に迷子になるのか毎回不思議で仕方ない。

建物の中に入ってすぐにその雑貨屋はある。

と思って行ったら、なんと店舗を移転してた。

新店舗の地図もあったけれど、さっぱりどこかわからず、そこは文明の機器、iPhoneのマップを出して住所で検索した。

道は単純そうな上、到着まで7分とあった。

私が勝手にマップのナビを起動させたらしく(この操作さえも、毎回したい時は作動できず、反対に要らない時は勝手に作動して困ってる←使い方覚える気なし)、たまにはナビを使うのもいいかもと思って、それでナビに従って運転した。

音楽も消してナビの音声に集中した。

ちなみに立体駐車場の中でいきなりナビの案内がわからなくて焦った。

何とかに沿って運転してくださいと何回も言われたけれど、その「何とか」の言葉の意味がわからなくて、何をしていいのかわからなかった。

最後までその指示はわからないままだった。

立体駐車場の中でくるくる回りながら1階へ着き、さぁ一般道へというところでナビはシーンとしている。

以下『』は私の心の中。
「」はiPhoneのナビの音声。

「……」
『えっ⁉︎まず、目の前の一般道は右なの?左なの?』
「……」
『あのぉー、私今すぐ右か左か決めないとなんですけど!』
「……」

待てど暮らせどナビは何も言わないから、仕方なく画面を見るとどうやら右らしい。

慌てて右折のウインカーを出して一般道に出た。

後ろに誰もいなかったことが幸いだった。

走ってすぐにナビは喋り出した。
「さんびゃくメートルさき、ひがしほんちょうでうせつ」

ひらがなでわざと書いてるのは、私には音を聞いて言葉を数字や漢字に置き換える余裕がないから。

まず「300メートル」という距離の長さがわからなかった。

商店街の中で、やたらと交差点だらけで、距離感は全く掴めなかった。

そうこうしてるうちに信号が出てきて【東本町(二)】と地名の白看板が信号脇に出てきた。

とりあえず右折レーンに入った。

で、『(ニ)って何だ?』と思った。

そもそもここは「東本町」なる交差点なのかどうかも、それが300メートル先なのかも、皆目検討がつかなかった。

(ニ)が引っかかるから、またもやiPhoneの画面を見た。

するとその交差点は【東本町2丁目】で、【東本町】は次の信号だとわかった。

今書くと当たり前みたいなことだけれど、何せもう全く理解できないナビで頭の中はパニックに陥ってるから、通常落ち着いて判断できるあの判断力さえ持ち合わせていなかった。

車が来てないのを確認して直進レーンに戻って次の信号に向かった。

東本町の信号で右折するとすぐにナビは喋り出した。

「つづいて県道ごひゃくにじゅうにごうを左折」
『待った!県道何とかはどこにあるの?』
「……」
(県道の数字はこれを書くにあたりさっき調べた)

何も言わないからそのまままっすぐに行こうとすると、わりかし大きな交差点に出た。

もしやこれが県道何とかじゃないの?と思ったけど、ナビは何も言わない。

怪しんだ私はまたもや画面を見た。

なんとこの交差点を左折で、なのにナビは何も言ってくれない。

うっかりまっすぐ行こうとして、慌てて左折のウインカーを出して曲がった。

何だろう、このナビのずれ方は。

左折するとまたすぐにナビは喋り出す。

「つづいてななひゃくメートルさき、◯◯でうせつ」

『うーん、700メートルの距離感がわからない。どのくらいだろう?』

そんなの案内されるわけもないから、しばらく走って大丈夫なのかと思って走り続けた。

しかも地名の◯◯の部分も聞き取れなかった。

ナビは私が聞き漏らしたことを知らないから、2回リピートするなんてことはもちろんない。

色々わからないことだらけだったけれど、車をいきなり止めるわけにもいかないから運転を続ける他なかった。

1つ目のでかい交差点に着いて、正直そこが曲がる箇所なのかどうか定かではなかった。

ナビも何も言わない。

でもさっきのことがあるから、ナビは信用できない。

しかも700メートルも走ったからわからないけれど、そこそこの距離は走った。

ここで右折だと困るからまた画面を見た。

今度は違ってて、次の信号らしい。

それを知って次の信号で右折レーンが登場すると私はすぐにそのレーンに入った。

ナビは黙ってる。

そして直前になって「右折」と案内をした。

という感じで残りの数回の道も案内されて、当然毎回音声案内が理解できず、たかが数分の運転なのにグッタリと疲れた。

目的地へ無事着いてから気付いた。

私は昔からこの手の言葉による動作の指示が理解できない。

例えば証明写真を撮る時に、「あごをひいて」とか「もう少し右側に全体を倒して」とか言われてもいまいちどの動きが正解かわからず、大体毎回指示した人の指示とは違うらしく、2回3回と色々言われる。

あまりにひどい時は指示してる人がわざわざ私のところにきて、私の体を触って正しくなるように向きや傾き加減を変えてくれる。

これは髪切る時の美容院や、レントゲン撮影の時の姿勢なんかにも通じていて、直されずに一発でできたことはほぼほぼない。

なんならレントゲン撮影の時の「吸って吐いて息を止めて」なんて毎回「あ、今間違えて吸った(吐いた)」と思う。

マッサージとかで「腕は体の脇にして力を全体的に抜いて、足だけ向こう側に伸ばして下さい」なんて言われると大体どこか間違える。

要は言葉で指示されたことと具体的な行動が脳内で結びつかないから、毎回混乱して終わる。

だから相当あべこべな動きをしてると思う(自分は必死だから、それが合ってるとか間違ってるの判断さえする余裕がない)。

ナビもそうで、数字で示された長さの感覚も掴めなければ、音だけで地名や県道の番号を言われたところでそれをすぐに漢字や数字に変換できない。

頭の中はハテナだらけで、運転しながら次の動きに入らないとなのに、それさえも思い浮かばない。

だから混乱したまま運転して、結局音声案内では理解できないから画面を見ないと次の曲がり箇所や全体の位置感覚がわからない。

そう、この感覚こそが私がオール1の頃からずっと変わらずに今も持ち続けてることが初めてわかった。

読み書きはできるし、計算もできる。

道路の標識の漢字もきちんと読めるし、とっさの判断もできる。

対人なら、私は相当臨機応変に対応できる。

なんならクレーム対応なんてすごい褒められるぐらいに上手いらしい。

だけど、音声で指示されてその通りに動くことはほぼほぼできない。

思い返せば3月までしてた仕事の時も、パソコン操作が苦手な私に教育係の人は時々操作方法を口頭で教えてくれてたけど、まぁ大体1回目は失敗するかおかしな操作をしてエラーになってた。

「武士俣さん、急がなくて大丈夫だから!」と毎回言ってもらえたのはものすごくありがたかった。

しかも細かなやり方については「武士俣さんがやりやすい方法でやってもらえればいいので」と毎度快くそう言ってもらえてたから、本当に助かってた。

自分で今書いてて思ったけれど、私のこの音声案内や口頭での説明が理解できないのは、本気の何とか障害に分類されるレベルだと思う。

だってわからないから。

そしてそれを今まで何とかしようと試みてた。

しかも他の力に関してはそこそこ伸びたから、その力も同じように年齢と共に伸びるのかと思ってた。

でもいつまで経ってもそこは伸びてないし、39歳の今も6歳の私も大差ない。

あの「わからない」感覚は、そうオール1だった頃の感覚は、今回のような音声や口頭での理解ができない度にぶり返されてた。

だから、いつまで経っても私の中の「できない自分」の感覚が毎回やたらと鮮明で、そんなにも私は感覚の記憶力がいいのかと勘違いしてた。

感覚の記憶力がいいんじゃなくて、毎回あの頃と変わらないぐらいの脳内パニックを起こしてたから、だから「できない自分」は現在進行形でずっと健在だった。

そしてもう1つ。

母親によく「どうして史子は言われた通りにできないの?」とか「お母さんの話聞いてた?」と言われてた。

何なら大人になってからも言われてる。

大人になってからの私は実はもっともっと困っていて、周りは私の他の能力の部分を見てそれを「できる人」とか「賢い人」と思ってくれるのはありがたいけれど、それに合わせてそれこそ口頭で指示なんか出された日には私は全く理解できていない。

だけど相手は私がわかってると思い込んで話してくるからタチが悪い。

私が聞き返すと、場合や人によっては相手を怒らす。

もちろんこちらは怒らせる気など毛頭なく、本気でわからないから確認してるだけなのに、毎回そういうことが起こる度に私も混乱しまくってた。

私も今日の今日までそうだったけど、周りの人たちからしても私のそんなオール1時代をそのまま引きずったような感覚を今も持ち越してるなんてわからないから、賢い私に合わせて指示を出す。

だからいつまでも私の世界は混沌としてたのかと今日初めてわかった。

ずっとずっと変だと感じてたことに対して、糸がスルスルっとほどけた。

何障害かはわからないけれど、間違いなく一種の学習障害に入る。

そこに初めて気付けて、わたし的にはものすごく楽になった。

もう1つ気付いたことがある。

私はそこをもうこれから先、直さなくてもいいこと。

例えばこれからどんなに訓練してもカーナビの音声案内を理解できるようにはならないと思う。

自分でもわかるけど、本当に壊滅的な理解度だから、これをある程度一般的なレベルに引き上げるには相当な訓練がいる。

しかも専門家による特別な訓練を受けないと治らないレベルだと思う。

でも今の私は、道案内に関して言えば、ペンジュラムがきっちりとやってくれるし、ペンジュラムの動きに関しては運転しながらでもキャッチできるからそれをそのまま取り入れたらいい。

しかもペンジュラムの方が地図やナビよりも正確だから、私も安心して身を任せられる。

仮に間違えても、というよりもペンジュラムが道を間違える時は、その先に別の目的があってわざと間違えてるのが最近わかったから、間違いさえも気にならない。

何年か前に軽度の知的障害の息子を持つお母さんが書いてた言葉が思い起こされた。

その息子さんは何度トレーニングしても時計が読めなかった。

そりゃもう親子で必死の猛特訓をしたらしい。

確かに時計を読めないのは、今の日本で致命傷に近いところがある。

そこでその親子は全く別の方法でその時計問題を解決する。

そのお母さんは息子が時計を読めるようになるための特訓はやめて、「周りの人たちに『今何時ですか?』って聞けるように、それだったら息子も確実にできるから、それを私たち親子はすることにしました!」とあった。

息子もそれで変に悩んだり自暴自棄にならずに済んで良かったとのこと。

私はこのエピソードがとても好きで、ずっとずっと長いこといいなぁと思ってた。

それは今の私にも言える。

もう私は今から何かを改善するためにがんばるのではなく、他の方法で簡単に解決できるならそれを採用して自分のストレスを減らす、そちらの方がうんといいとはっきりと自覚した。

そんなこと思い出して、私は1つとても大切な結論に至った。

「私がやりやすい方法を採用したらいい」ということ。

それは石(ペンジュラム)に道を聞くなんていう他のその他大勢の人が絶対にやらない方法でも、私からしたらその方が確実で間違えない。

さらには間違えないから、あの毎回パニックになるぐらいの混乱も防げる。

そして、例えば仕事含めた日常生活で口頭や音声で指示されたら、機械は無理だけど人相手なら「すみません、理解できなかったのでもう一度説明して下さい」とこれまで以上に丁寧にお願いしたらいい。

もし相手を怒らせたら、やっと自分のできないことがわかったから、その通りに説明して理解を求めてみよう。

今振り返ると、私はけっこう綱渡りみたいなギリギリの感じで仕事をしてたことがわかる。

タチが悪いことに、私は特定の分野になると一般的なレベルとは比べものにならないぐらいにできたりするから、それで周りも勘違いして、そのできない私が置いてけぼりを食らってた。

もうその私の正体がわかったから、これからは無視しなくて済むし、そちらに合わせて自分なりに工夫したらいい。

自分自身を知るたびに私は感動を覚えるけれど、今回のこれはその中でも1番の感動だった。

しかも無理も背伸びもしなくて良くて、自分がやりやすい方法で良いんだというのは、とてつもなく心強いし楽チンだ。

iPhoneのカーナビさん、ありがとう!と言いたい。

おかげで私は気付けました、と。

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