2019年1月4日金曜日

辿り着いた場所

「去年のセンター試験の時に大寒波が来て大雪で大変だったんですよね」

年賀状のバイトで一緒になった子と休憩時間に話をしていたら、そんな話になった。

その子の若さよりも、あぁあの子が今この目の前の女の子と同い年なんだと感慨にふけった。

私が子どもの施設で働いていたほぼすべての時間、5年半見た男の子がいた。

施設に来た時は3歳になる直前で、喋れる言葉は「あい(はい)」と「やーだ」だけだった。

言葉は遅めだったものの、天性の運動神経は抜群過ぎて、窓を開けて1メートル下の地面にジャンプするとかはお手のものだった。
(ほんの数秒目を離したらそれで、トイレに行く時さえ連れて行った子だった)。

12月に3歳になった姪っ子メイが今来ている。

今のメイくらいの時から小学校1年生の終わりまで見た子だった。

その子と去年センター試験を受けたと言った女の子が同い年で、あんなに小さかった子が今このぐらいになったんだと気付いて、その目の前の大学生の女の子を見ていたらうっかり涙まで出てきそうなほどに感動した。

今、メイの中には気に入っている人順位がある。

1位は真ん中の妹(おばナンバー2)
2位は師匠(祖母)
3位は私(おばナンバー1)

そして、私は不名誉なことに、メイからやたらと仲間はずれや意地悪をされるという役回りが回ってくる。

今日は新潟限定のポテトチップスを開けてみんなで食べた時のこと。

他の人たちには普通に配って、私が3枚目のポテトチップスをちょうだいと言うと、「ダメー!」とまた得意の意地悪をして、その理由が「ふみこたべすぎだからダメ!」という超わけのわからないへ理屈を言い出してみんなで吹き出した。

反対に妹にはベッタリとくっついている。

メイの様子を見ていて、施設で働いていた時のことを思い出した。

子どもに限らず、私は大人でも(特に男性には…(  ̄Д ̄;;))初対面で気に入ってもらうなんてことはほぼほぼない。

子どもが、特に小さな子どもが本能で相手を選ぶ時に、まず私は選ばれない。

それも何人か選択肢があれば、私は毎回のごとく最後に選ばれるというか、最後まで選ばれない人。

最初こそ地味に傷ついてはいたけれども、その辺りも慣れとはすごいものでどんどん平気になる。

成人男性に関して言えば、最初から私を断トツで良いと思う人は、本気で趣味がものすごく変わっているか、頭のネジが100本ぐらい抜け落ちているんだと思う。

ところが、私は嫌われようが何だろうが、唯一の持ち味として、基本的に変わらずに相手と関わり続ける。

色々すったもんだがあってもずっとずっと関わるし、ガチンコでぶつかってもその後またケロリと普通に戻れる。

頑固だし融通も利かないし子ども相手でも本気で我を出すしで、あまり良いお手本の大人ではないけれど、代わりにそのままだからなのか、しつこいからなのか、時間が経つと同時に子どももなついてくる。

その男の子もそうで、最初こそ私は最後の1人で、私の日はあからさまに嫌そうな顔をされていたけれども、最後にその子が一番気に入って一番安心できる人は私だった。

それは他の職員の人たちからも言われた。

スルメじゃないけれど、噛めば噛むほど味わい深くなるじゃないけれど、基本的にどの子とも何回も何回もぶつかりまくったりお互いに嫌な姿を見せ合ったりして、仲良くなっていくのが私のパターンだった。

そうやって子どもたちからも色んな自信と経験をもらい受けていたんだなぁなんて思った。

年賀状の作業をしながら、当時仕事を辞めてから今いる自分の場所を頭の中で確認した。

やっとやっとここまで来れたんだなと思った。

ちなみに最初に言うと、家族や長い付き合いの友達から見ての私は

・高校卒業後、アメリカの大学へ留学
・アメリカの大学卒業後、子どもの施設で福祉の仕事
・その後、青年海外協力隊
・帰国後、名古屋で正社員(塾講師)の仕事
・辞めて個人事業を始めてすぐやめる
(↑多分失敗したと思われている)
・派遣をいくつも行って不安定な職になる
・お金が底ついて両親を頼って新潟に戻る
・新潟戻ってからも定職に就かず、不安定なまま
・結婚もしていない
・ニート
・今、年賀状のアルバイト

そんな風だから、家族からは恥ずかしいと思われているし、周りの人たちにあまり言いたくないと思われている。

私の細かな事情を知らない人たちからは、ぶっしーは何をしたいのか、何をしているのかわからないと思われている。

そう思われても仕方のない生き方だったし、もちろん私側に言いたい事情や実際にあったことは1日かけたって語り尽くせないほどの色んなことがあったわけだけど、そんなのを知らなければ当然それぞれの個人が評価するように思われても仕方ないと思っている。

でも、私からして「ようやくここまで辿り着けたんだ」と心から思えた。

話は戻って、多分2005年頃。

子どもの施設4年目に入った頃、なんと私は現場スタッフの中で一番長い人になってしまった。

まだまだひよっこ状態の私が一番長くて、そして施設は全くの新人状態の大御所の人が上司になった。

私は当時の職業名を明かすのに本当に抵抗があってこれまでもブログの中では明言を避けていたけれども、私が施設の中で入っていた職種は「保育士」だった。

厳密には、私は資格がなかったから、保育士枠のところに雇ってもらったという異例の採用だった。

私が保育士枠に入っていたと言いたくない1番の理由は、世間の「保育士」という職業に対する評価があまりにも私そのものとかけ離れていたから。

20代の頃に学んだことの1つに「保育士」という職業は非常に男性ウケがいい。

良妻賢母のイメージなのか、家庭的と思われるのか、何なのか知らないけれど、とにかくすこぶる評判が良い。

でも私がしている日常は、子どもを怒鳴りつけ、抑圧し、私の機嫌によって子どもを黙らせる…という恐ろしいほどの有り様で、家庭的とか良妻賢母とか世の男性が勘違いしている姿とは程遠い。

もちろんそういう保育士の人たちもたくさんいたけれど、私はそこと同じ土俵には全く上がれない。

しかも仕事をしてから保育士の勉強を始めたから、基本的に保育の知識もないまま、単に福祉の勉強を大学でしていたというだけで採用された。

当時のエピソードを1つ紹介。

月に1回ないし2回は、調理の夜勤が回ってきた。

朝ごはん40人分ほどの量のごはんを作る。

いつだったか雑炊を作って焦がしてしまった時があった。

でも作り直す時間も材料もないから、それをそのまま出したら、子どもたち数人から「今日の雑炊、やけに茶色いね」と指摘を受けた。

私は「大丈夫!きちんと食べれるから大丈夫!」と言って一蹴すると、「それおかしくない?だっていつもはもっと黄色くて、ぶっちゃんの言い方だと、今日の茶色い方がまともでいつもの黄色い方がおかしいって話になるじゃん!」と返された。

私はへこたれず、「そんなことは言ってない。とにかく大丈夫だから食べて!」と押し付けた。

子どもたちは笑ってくれてたけれど、そして本当に優しくてその焦げた雑炊をおかわりしてくれた子たちまでいたけれど、一事が万事そんな風で、とにかく押し付けや決めつけもすごければ、どっちが子どもかわからないぐらいにキレてよく子どもと一緒になって怒っていた。

ただ代わりに裏表もある意味なかったわけで(自分を使い分ける余裕すらなかった)、多分その部分で子どもたちと関係が作れたんだと思う。

話は戻って当時のこと。

私の最初の3年は、保育園で言うところの園長・副園長級の大御所の先生たちが勢揃いしていて、その方たちから私は育ててもらった。

来客へのお茶の淹れ方さえ知らなかった私は、なんとなく今日は「番茶」の気分!と思って番茶を普通に客人に出したら、あとから大御所の先生が私のところに駆けつけてきて、「武士俣さん、お客さんには必ず煎茶を出さなきゃダメよ!番茶はお客さんに出すお茶ではないからね」とそっと教えてくれたことがあった。

社会人としての常識も著しく欠けていた私を本当に親身になってサポートしてくれる先生たちに囲まれての仕事だった。

だから私もなんとかやれていたし、他にも現場対応でのことを色々相談にのってもらっていた。

例えば私が当たった実際のことは、

・万引きを子どもがしました。どう対応しますか?
・学校から、子どもがよその家の子どもに手を出したと連絡がありました。どう対応しますか?
・子どもが不登校になりました。どうしますか?
・年頃の男の子が女の子の下着を盗もうとしていました。どうしますか?
・目の前で幼児2人がセックスの真似事をしました。どうしますか?

これ冗談ではなく本当にあったことばかりで、当然正解はない。

だけど、まさか放置するわけにもいかない。

こうした正解のないことたちと日々向き合うのが仕事だったし、当然私は経験値が圧倒的に足りないから、事あるごとに大御所の先生たちに相談していた。

なのに4年目、大御所の先生たちはみんな退職か保育園に栄転になって(←施設は園長副園長に昇進する前の登竜門とされていた)、気付けば現場の保育士の中で私が一番の長老という間違った事態になった。

別の職種の男性上司だけが唯一の相談相手にはなったけれども、いかんせん保育士の先生の中で相談相手がいない。

私は限界を感じた。

もちろん、現場で研鑽を積むことも可能は可能だった。

だけど、私が持っている小さな世界観で物事を常に判断しなきゃいけないことがとても怖かったし、施設の常識は世の中の非常識という認識が私にはあって、その中でキャリアを積み重ねるというのは自分が成長できないと思った。
(注:20代の私は「キャリアを積む」ことに並々ならぬ関心と意欲があった)

もしまた将来施設で働くにしても、もっと広い世界観や色んな価値観を持って働きたいと思った。

それで、元々いつかは経験してみたかった発展途上国での生活をするために協力隊を再受験して、それで受かった翌年に退職して、そしてそこからまた別の人生が展開していった。

目の前の大学生の女の子が今の姪っ子メイぐらいだった時に私は施設での仕事を始めて、そしてその子が1年生になる頃には、もっと自分の見聞を広げたくて外に出た。

当時はまさか自分がスピリチュアルな世界に入っていくなんて自分の計画の中に一切なかったし、そうした見えない世界の中のちょっと変わったことができるようになるなんて思ってもいなかった。

そして、その後も色んなことがありながらも、やっと今、過去の色んな体験と経験と専門知識と技術とをすべて掛け合わせて、自分にやれることはやろうかという気持ちになれた。

たしかにアメリカの大学だの協力隊だのに行ったような人が、中年になって年賀状のバイトではどうしたのか?という話になる。

でも、私にとってはすべての経験が必要で、それがたとえ世間的にはものすごくマイナスに思われるようなことでも、それでも必要だったと感じる。

年賀状のバイトは、私に嬉しいプレゼントを用意してくれてた。

その大学生の女の子が一言言ってくれた。

「グループ分けの時に武士俣さんと一緒って分かると『よしっ!』って心の中でガッツポーズしてました!」

毎回スタッフの人がバイトの人たちを数人のグループに分ける。

これが非常に当たりハズレが激しくて、組むとわかって嬉しい人と、反対に残念過ぎる人とがいる。

私と一緒に組めるとわかると、その子の中では嬉しい人に入れるとわかって、とっても嬉しかった。

バイトの中では年齢高いし、世間ではいわゆるおばちゃん域の人だし、まじめに取り組みはするけれど決して優秀な人材とは違う。

それでもそうやって言ってもらえることが本当に嬉しかった。

自分の人生の歴史を振り返る。

私はオール1で小学校をスタートしたぐらいに、本当にギリギリのラインの子どもだった。

その私が人並みにある程度のことができるようになって、そして今回みたいに特に「普通」であることが求められるようなところでそこそこ適応し、さらには一緒に組めて嬉しいと私の半分も生きていない子から言われる。

御の字なんてものじゃなかった。

そして、これから先はますますどこに向かうのかよくわからない世界の中に入って行くし、正直それでやっていく自信もない。

だけど、目の前の大学生の女の子が私が社会人1年目から5年半見た小さな男の子と同い年だと気付いて、当時から今に至るまで色んな経験を積んだ自分にも気付いた。

広い世界を見たかった私は、十分すぎるほど見れたと思う。

そして、色々専門的にも知識や技術を重ねて最後に私が出した答えはこうだった。

人と関わる時に大切なのは、「気持ち」だということ。

愛のある対応を心掛けたら、たとえ結果が思わしくなくても悪くはないと思う。

こういう人間同士のやりとりは見えない世界のものだから、その時にできる最大のことは「愛を持って、気持ちを持って、目一杯自分のできることをする」に限るんじゃないかと思う。

これは社会人1年目から今に至るまでの17年ほどで自分の中でストンと落ちたことだった。

数々の失敗と経験とから学んだ。

昨日、メイからいつも1位指名される妹が、友達と視える人のところに行って、占いのようなものを受けてきた。

話を聞いている限りだと、色んなものと交信してその人が知り得ることは全部聞いたら基本的には教えてくれるとのことだった。

私は最初その話を聞いて、自分の劣等感がものすごく刺激された。

私は本当にこれから看板を掲げて、そうした見えない世界の話も含めて個人個人と対応していいんだろうか?そんなことができるんだろうか?と思った。

妹は私に言ったつもりは全くなく、その人がそういうことを仕事にする人は、入ってくる情報をコントロールできなきゃ仕事としてはやっていけない、コントロールできない人は仕事にできないと言っていた、と私に教えてくれた。

それ私じゃん、と思った。

今のところ、相手側からくる情報に関してはコントロール不能。

ただし、私は1つだけ確信していることがある。

年内最後にした、相手の魂からもらったとされる情報伝達をしたことで、相手から教えてもらって初めて気付いたことだった。

私がする情報伝達は、相手に可能性や希望を見せることだということ。

それがたとえとてもキツくて耳や目にするにしてもすごく勇気のいる言葉だとしても、最終的にはそれによって相手が自分の可能性や先の未来に対して希望を持てることがわかった。

これはとても大切なことで、今後誰に伝えるにしても、その希望や可能性について伝えた上で実際にやってきたメッセージを伝えることができる。

それがわかったことで、私はたとえ自分が情報に対しコントロール不能でも、そこは上手に付き合いながら、自分のやれることをやったらいいと思えた。

そして、私のすることは、相手に答えを教えることじゃないということもわかった。

あくまで私がするのは、ヒントの部分だけ。

そのヒントを持って相手がどう生きるかはその人次第。

答えは言えないし持ってないけれども、代わりにその人が自分の人生をデザインするための1ピースを渡すことはできるかもしれない。

そして、それは答えを渡すよりもうんと相手のためになると私は信じている。

なぜなら、誰しもが誰かの代わりはできない。

自分の人生は、自分しか生きられない。

そういう時に、人から答えをもらっても、その通りに生きるとは限らない。

あくまでも生きるのは自分自身だから、自分で決めていく力、自分で感じていく力、自分で動いていく力が絶対的に必要になる。

私がするのは、そうした自分の力の可能性をもっと開くようなことだと思う。

そして、おこがましさが半端ないけれども、多分、私を通じて何か自分に関する情報を得る人は、私だったら正しく情報を伝達してくれるだろう、ということを無意識や魂の部分で感じて、それで私に自分の現状や悩みなんかを伝えることで私がそこから情報をキャッチしてベラベラと喋っているんじゃないかと思っている。

自分の思考を織り交ぜないこと、自分の価値観を極力排除することは、数々の訓練によって相当鍛えられた。

だから来てしまう情報についてはコントロールできないけれども、来たものに関しては自分の私情を交えずに伝えることはコントロールできている(と自分では思っている)。

私情を交えちゃうと、言いたくないことはたくさんある。

だけど、言いたくないから言わない、と片付けられることじゃない。

自分が嫌われ役になるのも、最初は信用してもらえないのも、色々体験してきたから、だから今があって、今それらを覚悟してメッセージをそのまま伝えられる自分になったと思っている。

今後の自分を想像する。

自分のこの体質的なものと関わる時、私が最後信じられるのは自分自身なんだとわかる。

すべては自分の感覚で、それが本当に合っているのかどうかはわからない。

だけど、それを使って何かをするとするなら、それをする中に「愛」の感覚は必要だし、相手の可能性を信じることも大切になってくる。

そうしたものを私がどこで学んできたかと言えば、過去に関わった子どもたちや色んな人たちから。

妹が、ある精神病を患った人の話をした。

その人は幼少時大病を患い、その時に医師か看護師から検査のために全身を抑えられ、それがトラウマになり、成人前に精神病を発症。

精神科にかかった時に、ドクターとのカウンセリングか何かの療法で、その抑えられた経験が後の病気の根本原因になっていることがわかった、そう説明されたらしい。

そのせいで精神安定剤の服用はもちろん、生活する上でも相当な制限があるらしく、その一例として、他人が操作するものには一切乗れないから、移動手段は自分が運転する車、徒歩、自転車に限られるらしい。

田舎なら普通だけど、都心の真ん中で生活している人の話。

だから、姪っ子にも何か無理やりさせるのは精神衛生上良くないという話に発展していった。
(姪っ子が夜中に夜泣きすることがたまにある、という話からその話が出てきた)

私は当初から違和感を覚えた。

例えば、本当にその病気の時の体験がトラウマや精神病になる原因だとする。

だけど、ここで大きな視点が1つ欠けている。

大人側のやり方が適切だったのかどうかはわからない。

だけど、大人側がした本当のことは、そうまでしてでもその子どもの命を助けることだった。

生死に関わる病気だったゆえ、子どもが暴れて検査できませんでは済まされなかったと思われる。

そんな馬乗りになってまでしたのであれば、絶対に他の理由も裏側にはある。

そうしたら、おかしな話になる。

たしかに怖い思いはしたかもしれないし、それに対しての対処は必要だとは思う。

けれども、その行為の本当の意味が、その子の命を助けることなら、それをトラウマにするなんてもったいなさ過ぎる。

そうまでして救われた命なら、トラウマではない別の意味がある。

ちなみに私も子どもに馬乗りになったことがあるからわかる。

さすがに全体重は載せなかったけれども、それでも子どもを押さえつけて子どもに馬乗りになった。

当時小学校の1年生か2年生だった。

当たり前だけど、好きで馬乗りになったわけじゃない。

そうでもしなければ、他の子が怪我するか、本人が怪我するかというぐらいに椅子を持って大暴れしていたから。

どうやって馬乗りにするところまで持っていったのか忘れたけれど、とにかく怪我人を出さないためにはもうとっさに思いついたのが馬乗りしかなかった。

子どもには落ち着いてから謝ったし説明もした。

もしそれがその子のトラウマになったらすみませんってなるけれど、代わりにじゃあ誰か怪我すれば良かったのか?というとそういうことじゃない。

話が飛んだけれども、物事には必ずプラスとマイナスの面が両方同時に存在している。

これはコーチングやNLP(神経言語プログラミング)でさんざん習って、その見方も相当訓練した。

だから、一見マイナスに見えることでも必ず反対のプラスの側面も同時に存在している。

さっきの精神病の人の話ではないけれど、私がするのはそのマイナスの中のプラスを見せることじゃないかと思う。

そして私の山ほどのマイナスな経験も、そうやってプラスに転じたものもかなりある。

それがわかってくると、心の傷が癒えてくる。

そして新たな可能性にも気付けるようになるし、それを乗り越えた時に自分の自信にも繋がる。

私がするのは、そういうことなんじゃないかと思っている。

だから、答えは言わないし出せないけれども、自分力みたいなのはつく。

私の目の前に現れた大学生の女の子のおかげで、過去の自分にタイムトリップできた。

狭い施設の中だけで物事を判断することが怖かった自分。

もっと外の世界を知らなきゃいずれ限界がくると予想して、それで外に出た自分。

外に出てからやたらと負の体験が重なりまくって、それがコーチングに繋がって精神世界の扉を開くことになった。

たしかに見た目には私の人生は崩れたように見えるけれども、私の中では代わりに徐々に自分を生きるしかないことと自分を信じることを覚えていった。

その中には、自分が相手の意識体と繋がってそこからヒントや情報を得るような体質も含まれているし、石(ペンジュラム)を使っての情報キャッチも含まれている。

色々大きな声では言えないようなことばかりが満載だけれど、それでもそうした体質と付き合うことやそれらを使うことも徐々に覚えていってる。

そして何をするにしても、最後の最後は気持ちひとつだし、そうした体質を今後人との間に使っていく時に大切なのはいかに愛を持ってやれるかだと思う。

日本で福祉の通信制の大学に通った時、やたらと「愛」を福祉の現場の技術や理論を説明する時に連発する先生がいた。

そしてスピリチュアルな精神世界ではやたらと「愛」という言葉が連発される。

ちなみに「愛」と簡単に唱えてばかりのスピリチュアリスト的な人たちのことを私は心底軽蔑していて、だから自分もそう唱えるのは好きではないけれど、でも私ができる最大のことは愛を持ってある瞬間に立ち会えるかどうかだと思っている。

子どもが万引きしたり、よその子に手を出したり、下着を盗もうとしたり、セックスの真似事をしたりする。

私の目の前に現れた人たちが、人生悲喜こもごもの悲しみの部分や苦しみの部分を告白する。

それを言ったら人生が終わるんじゃないかというぐらいのヘビーな話だったりする。

誰かや何かに対しての懺悔的な告白をする人もいる。

そうした事態や状況になった時に、それでもその人たちには生きている意味があるし、生きている価値がある。

本人が自分を全否定したくなっても、そんなの嘘だと思われても、私にできることはただただそこに一緒にいることだけだと感じる。

どんなに小さくても愛のかけらがあることをあるよと言葉で態度で伝えることだと思う。

もちろん専門的な技術や知識は臨機応変に必要だし、役立つこともたくさんある。

でもそれ以上に、というか本当に究極の境地で最も大切なのは、気持ちを、何かしらの気持ちを示すことだと思う。

怒って欲しい人もいる。

それでも大丈夫だよと言って欲しい人もいる。

全力で向かってきて欲しい人もいる。

ただただ近くにいて欲しい人もいる。

その色んなことをその時その時にすることが私には愛に見えるし、本人はどう思うかは別にしてもそれを私ができる表現方法で伝えていく、それが最大にできることだとこれは本気で思っている。

日常にあるものたちはカオス過ぎて訳の分からないこともたくさんあるけれど、そしてそういう時に専門的なものに頼りたくもなるけれど、最後は私は気持ちひとつだと思っている。

そしてその気持ちの源は「愛」なのかなと色んな体験や経験を通じて感じた。

正しくは、私が色んな人たちから教えてもらった。

長い旅路を経て今私がたどり着いた1つの答えはそこになっている。

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