2018年11月11日日曜日

777記事目の舞台裏

本気で狙ってないのに、毎回すごい。

1つ前の記事が、公開済みの記事として「777」記事目だった。

普段そんなところ目に付かないけれど(ブログをログインするとトップページの左側に記事数が出る)、ふとなんか数字並んでる?と思って拡大して見たら「777」。

そんな記念すべき777記事目が私的ハッピーセットの話で、ものすごく嬉しい偶然だった。

このブログは書きたい放題だから、毒吐きの時もあれば、ガッツリ落ち込んだ後の回復話の時もある。

スピ全開の話もあれば、真面目な話の時もある。

ロシアンルーレットじゃないけれど、何が来るのかはわからない。

そんな中、ハッピーセット話がゾロ目番を冠した。

車の77777㎞の時、88888㎞の時を彷彿させるシンクロ具合に心は躍った。

ふと冷静になって考察。

昨日の関係代名詞の話。

友達の娘の英語専属家庭教師を始めてそろそろ2年になる。

最初の数ヶ月は週1ぐらいで通っていたけれど、その後からは不定期になって、今年に入ってからは1ヶ月空くことも普通に出てきて、かなりゆるい感じでやっている。

本人の英語力がかなり伸びて、私なしでも授業と予習復習で何とかなるようになったのが大きい。

最近は行くたびに新しい文法が加わる感じで、今は関係代名詞。

受け身とか現在完了とか未来形とかto不定詞とかたくさんある中で関係代名詞。

そして、断トツで主語を連呼して説明しなきゃいけないのも関係代名詞。

その時に、まるで名前を呼ばれたいですと言わんばかりにご登場されたお名前(=その人の下の名前)。

去年は本気のレギュラーメンバーだったようで至る所に名前が出てきたけれど、今年は引退されたのかほとんど名前が出てこなかった。

そんなところに、関係代名詞という名前を連呼しないと説明できない分野にきたら突然姿を現すという…。

そして、子どもは子どもでしばらく私の説明なんてなくても学校の授業だけで理解できていたのに、関係代名詞になったら大混乱して全く歯が立たなくなった。

そうした色々が重なって、その名前を連呼しながら丁寧に説明・解説する機会に恵まれた。

昨日は3時間やって多分10問程度しか触らなかった。

通常ならテスト前は教科書やワークから抜き打ちチェックして、リスニングもするけれど、そんなどころではなかった。

その中にその名前は出てきて、何というタイミングだろうと思った。

おかげでその名前を何十回と呼ぶ機会にまんまと恵まれた。

そしてその話を書いた文章が777記事目となった。



私がこの1年以上疑問に思っていることにちょっと触れたい。

とにかくその人物を表すもの、名前をはじめ色んなものをものすごく目にするようになったのが去年の8月の終わりからだった。

最初が何だったのかは忘れたけれど、初期の頃のもので強烈に覚えているのは遠く離れた北九州に到着したその日に見たサインだった。

北九州でいきなりその地での有名人=その人と同じ名前の人が入院だか退院をしてニュースになったその瞬間の映像を私は見た。

私も移動中で、そのニュースの画面を見たのは一瞬で、度肝を抜かれた。

その後も、店員さんはやたらと〇〇さんに当たるし(ジャンル問わず至る店舗で当たる)、他にも色々と本人を連想させるものを見るようになった。

店員さんで思い出した。

去年の夏の店員さん第1号は、記憶違いでなければその北九州の結婚式用のご祝儀袋を買ったホームセンターでのことだった。

思い付きで行ったのかさえも忘れたけれど、私はその日うちから30㎞以上離れたその大きなホームセンターに行った。

名古屋にいた頃一番仲良くしていた友達だったから、一言メッセージを添えられるご祝儀袋を探していたことは覚えている。

それをようやく見つけて、それで買った時の店員さんだった。

今振り返ると、お祝い事と重なってその人と同じ名前の人を見るようになったのが初期の頃の話だった。

最初はたまたまだと思ったけれど、その人がいなくなることがわかったあたりから異常に増え出して、いなくなる直前直後はもう尋常じゃない感じでその名前を至る所で見るようになった。

一時期あまりに多いから、それらをメモしていたぐらいだった。
(ちなみに当時から名前だけじゃなく、色んなシンクロも同時に増えた)

メモがあったはず!と思ってメモを探したら出てきた。


・☆?!$店員○○さん
・福岡着いてすぐの携帯に出た福岡県のニュース ○○(地元有名人とわかる言葉が名前の後に続く)
・情熱大陸の中で紹介された、あるコピーライターの名前が○○さん ノートに書いてあった
(情熱大陸に取り上げられたのは別の苗字の人。しかも私はその回だけはどうしても見たくてわざわざ録画して見た中にあった。普段は見ない)
・たまたま目にした一瞬のCMが○○さんと同じ車のCMだった


途中は端折る(はしょる)けれど、とにかくそうしたサインが延々と1年以上常に周りに現れた。

現れたというか今も現れている。

仕事を辞めた4月以降はもうその人と繋がるものからは全て離れるから、それまで職場で見ることのできたものは見れない=サインの数も減るだろうと思ったらそんなこともなかった。

4月以降は、さらにバリエーションが増えた、それも想像もしていない形で。

先月2週間ぐらい(?)振り返りノートと称して延々と振り返りを書いた時、思った。

これでもう何もなければ何もないということだから、自分の中でもけりをつける方向にいこうと。

色々サインは来るけれど、とにかく「気のせい」ということにしようと。



ハロウィンの日にあったホロスコープ講座の朝を迎える数時間前のこと。

私は、5月から始まったホロスコープ講座の関係で東京に行くようになった当時の自分を振り返っていた。

私は開始当初から密かに東京行きを楽しみにしていた。

もしその人と会えることになったらいいなぁと私はひっそりと、でも本気で願っていた。

だけど多分最後になるだろうハロウィンの日の講座を前に、「何もない」ということを認めようと思った。

これが現実であり、今のすべてだと。

半年を経て、私なりに見つめた結果だった。

もう1年以上経ってそして何もない、それはいくらサインや他のことで感じるものはあっても現実はないと一緒だった。

もう何もないし何も起こらない。

繋がりたいけど繋がらない、それが現実なんだと、そういう気持ちで私は東京に向かった。

夜行バスに乗る直前、大雨の中、一瞬だけ雨が止んで月が見えた時、それは下弦の月で、調べた意味はこのブログに書いたけれど、実は月を見て私が最初に思ったことは別のことだった。

下弦の月は、満月から新月に移って行く時の半月。

満月から新月に向かう時というのは、何かを手放すのにいいとされている。

だから、私は自分の気持ちを手放しなさいということなのかな…と思った。

もう終わりだから、その人への執着を手放しなさい、そう言われてるのかもしれないと思った。

離れていく寂しさと現実に重なり合わない寂しさとを胸に、バスに乗り込んだ。

朝7時前、東京駅に着いてすぐぐらいのこと。

駅前の大きな道を歩いていたら、その人と同じ会社の制服を着た人たちを見かけた。

何でこんなところにいるの?しかもこんなに早く!と思うと同時に、世の中には数え切れないほどの制服が存在するだろうに何でその制服をこのタイミングで見るの?と思った。

私は制服にだけ驚いたわけじゃなかった。

その人のことから離れよう、もう何もないんだから、と思った矢先にそれだったから、本気で驚いた。

想いがもしかしたらそういう色んなことを引き起こしているのかもしれないけれど、私にはその人を彷彿させるそんなにも強力な磁場でも働いているんだろうかと思った。

そして同じ日の夕方近く、ホロスコープ講座の受講生のお1人から展示会の案内をもらった。

ペラっとめくった後ろ、そこにはその人の名前が2つも出ていた。

しかも人名じゃない。

別の情報部分にその名前が印字されていた。

何で?何で?と思った。

色んなことを思って「終わり」をものすごく強く意識したその日に限って、朝から制服を見て、多分昼間も別の人だけれど同じ制服の男性とすれ違って、そして最後は展示会の案内の中にその名前を見た。

嬉しい気持ちよりも驚きが勝っていた。

昨日は昨日で、英語の問題文だけではなく、他のところにも出てきた。

スーパーや大型店なんかによく置いてある無料の地域情報誌。

新しいものが出ていたから手に取った。

パラパラと眺めて、新郎新婦のコーナーがあった(多分結婚式場の広告)。

新郎の名前はその人と同じ漢字での同じ名前だった。

その名前はそこそこの人口数いるとは思うけれど、漢字はバリエーションが豊富だから、その漢字と全く同じ名前は意外に少ないんじゃないかと思っている。

だけど、全く同じ漢字の名前の新郎がニコニコして写っていた。

もちろん意味なんてない。

だけど、その人の名前や他の何かを見るのは止まらない。

そして、私にとって意味のあるゾロ目の数字ピッタリになる時、その人にまつわる何かが毎回登場する。

しかも今回のハッピーセット話だって、そのことが昨日のタイミングで起きなければ、私はあんな風に記事にすることもなかった。

どこかのタイミングでアップしようと書き途中とか書き終わった文章が実は20個近くある。

だから、本来ならそちらをアップする予定でいた。

なのにそういうことがタイミングよく起こるから、そちらを先に書いてアップしたら777記事目だったという。

ゾロ目なんか気にしなきゃいいことだし、制服も名前も意識しなきゃいいこと。

それでも私が意識できるように毎回思わぬ方向からやってくる。

とにかく四方八方から突如やってくる。

これは何だろう?といつも思う。

そして、「もう何もない=終わり」と受け止めよう!なんて決意しても、そういうサインたちは止まらないどころか活発になる(O_O)。

相手の名前を好きなだけ連呼するハッピーセットはいい。

だけど、時々空しさもある。

そういうのはいくらでもあるのに、欲しいものはいつまで経っても来ない(=だからあきらめようの心境)。

サインはいいから、本人からの連絡をくれ!と思ったことは数えきれない。

たしかに私はシンクロを研究するじゃないけれど振り返るのは好きだし、自分の過去や他の人たちとの間の点と点を結んで1つのストーリーを見出すのも好きだし、外に表れる色んなサインからメッセージを読み解くのも好きは好き。

だけど、その人にまつわるサインやシンクロめいたものは、はっきり言って神がかってる感じのレベルで起こってくる。

他の事象たちと比べても、かなり異様な感じは否めない。

そうしたサインたちに囲まれて1年以上経過した。

そしてもう何もないよ、と自分の中の終わりを意識してもサインは止まらない。

いくら私の意識がそちらに傾いているとは言え、そんなにもピンポイントで毎回何かその人と同じものを登場させるのには無理がある。

これが例えば私に他にいいなと思う人が現れたらそういうサインは止むんだろうか?とか、これから徐々に減っていく又は消滅するんだろうか?とか、未来を想像してみたりもする。

そんなこと想像してもしょうがないけれど、想像してしまう。

人生はこうやってすれ違って、今後も交わる予定は皆目ないけれど、何でサインだけずっと来るんだろう。

どんなにサインが来て、多分何かしらの縁があるという意味なんだとは思うけれど、もう私には何にもできない。

それともその人は関係なくて、「色々繋がっているよ」という単なるメッセージなのか。

結局、1年以上経ってもわからないままだった。

たった1つ2つなら偶然ということも有り得る。

だけど、それが日に何個も重なったり、ほぼ毎日何かしらの形で見たり、ということがかれこれ1年以上続いていて、それは偶然で片付けるにはちょっと難しいと思う。

そんなの気にしなきゃいいことなのかもしれない。

ちなみに、こんな話誰にもしないから、本当に私の中の独り言みたいな感じでここに書いている。

唯一こんな根も葉もない話に付き合ってくれる友達が1人いるけれど(日曜に会う)、なんなら例の展示会の案内のハガキを見せようかと思っているけれど(一緒に笑ってくれるから)、言えるのはその程度でこんなにもは言えない。

本当は当人に聞けるのであれば聞いてみたい。

あまりにも日常茶飯事になりすぎて珍しさがかなり減ったものの、珍しいことが人との間に起こる時、だいたい相手の人にも何かしら同時進行的に起こっていることが多い。

少なくとも友達なんかとそうなっている時は、あとから「えー!私もそうだった!」とかいうことがけっこうある。

それとか、私の方は特に何も感じてなくても実はピッタリのタイミングで色んなことが起こっていたとか。

何人かそういう人たちがいるから、この異常なサイン具合の相手の人には何もないのかを聞いてみたい。

今さらだしそんなこと無理だったのはわかっているけれど、普通に話ができるぐらいに仲良くできたら良かった。

挨拶もやっとだった人が何言ってるんだ!って感じだけど、本当にそう思う。

趣味も立場も色々違いすぎて接点は皆無だったけれど(それが職場というもの)、そしてそもそも相手の寄せ付けないオーラもあってどこまでも近付けない風だったけれど、本当に普通に話ができたら良かった。

その人の後輩くんが、最後の方に私に「今度一緒に飲みましょう!」と多分あれは社交辞令ではなく本当に少しはそういう気持ちで言ってくれたと思うけれど、これがその人の言葉ならどんなにいいかと思った。



すっかり忘れていたことが数時間前に発覚。

11月10日は、母方の祖母ばばちゃんの命日だった。

そして、何日か前、ばばちゃんの命日だときちんと頭の中にあった頃、本当は当日はばばちゃんの命日にちなんだことを書こうと思っていた。

もし私の記憶がしっかりあったのなら、777記事目はばばちゃんの話の予定だったんだと知った。

それを飛び越してさえもその人の話がそこに飛び込んだというのは、もう何者さえも敵わない感じになっている。

英語の時間さえも寸分の狂いがなかった。

なぜなら今年その子は受験生、テスト対策だけじゃなく受験対策も並行でしている中、今回は定期テスト直前だったから学校のワークを中心に見ていった。

もしテストが近くなかったら、アホみたいに長い長文読解対策の続きをしたし、そこには当然その名前は出てこない。

そしてまさかの関係代名詞で本人つまずくということもなかったなら、今回の展開がそもそも生まれないわけで、なんなら1つ前の記事さえも生まれる予定はなかった。

しかも珍しくすぐに私は書いた。

私は書こうと思ってもタイミング逃すと平気で1週間1ヶ月先に書いたりする。

なのに、なんかこれはすぐ書こう…なんて考える前に文を打ち始めた。

当然777記事目になるなんて知らずに書いた。

全部知らぬ間に色んなことが重なっての1つ前の記事だった。

その人が念でも飛ばしているんだろうか?←そんなわけない。

念の有無はおいても、このゾロ目を外さない当たりっぷりは凄すぎる。

まじめに宝くじにこの効用が表れないかと思うぐらいに、すごい的中率。

百発百中。

まさかその人もそんなことになってるなんて思ってもいないだろう。

こんなことシラフで言ったら気持ち悪がられるだろうだから、もし今近くに本人がいても言えそうにもないけれど(苦笑)。



最後に。

これだけ読むとすごく痛い人というか、頭の中お花畑みたいな幻聴幻覚系の精神疾患ですか?みたいな感じも否めないけれど。

1つだけずっと変わらずに感じていることがある。

その人は私の中で本当にとても特殊で、話もできなかったし気軽に連絡できるような感じにもならなかったけれど、唯一これまで出逢った全ての人と違うところがある。

「繋がっている」

はっ?という感じだけど、他に適当な言葉がなくてそう書いたけれど、「繋がっている」という感覚がなぜかある人。

平原綾香の『Jupiter』の中に「深い胸の奥で繋がってる」というのがあるけれど、本当にこういう感覚のことを言うんじゃないかと思っている。

他の人たちには感じないけれど、その人には何も知らないくせして感じる。

そんなこと言うとさらに痛い人だけど、感じるものは感じる。

だからって、関係がどうこうなるわけじゃないし、このまま一生会えなくても不思議じゃないし(できればもう一度会いたい)…。

そうなんだけど、そんな風に感じる人にはこれまで会ったことがなかったし、私からしたら「もう会えないのに何でいるの?」という感じ。

好きとかいうレベルではなく、未体験ゾーン過ぎて「特殊」としか言いようがない。

世間からしたらペンジュラム使ったりそれを使って物と対話する方がおかしく見えるだろうけれど、私からしたらそれらの方が普通でその人と繋がってると感じる感覚の方がおかしいというか不思議感満載すぎる。

言うなら、離れて暮らしてる友達や家族を思う時に、あぁその人私の胸の中にいるんだなぁなんて私は思ったりするけれど、その感覚が24時間ずっと普通に常にある感じ。

もはや私にはそれが好きとかそういう感情的なものなのか、もっと別の何かなのか、はたまた私のちょっと変わった体質的なものが関係しているのか、わからない。

わかっているのは「繋がっている」という何の根拠もない感覚だけ。

この話を始めるとまた長くなりそうだし、そして何より私今から支度して出ないといけないから、それについてはまた改めて検証したいなぁと思う。

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