2019年11月21日木曜日

米の仕事④お気楽な焼肉



呑兵衛と同じピッチで飲めた私…( ̄∀ ̄;)
8杯はグイグイ飲んだ気がする。




ヨシダさんと飲んできた(11/19)。

事の顛末はこうだった。

ヨシダさんに「それ私が代わりにパソコンで打つよ!」と申し出た、米でも野菜でも良く育つ方法の資料を、私は資料のままパソコンに打ちこんでそれを形にした。

形にしたものの第1稿が仕上がって、それをヨシダさんに届けた。

来月から年度末まで派遣の仕事に行きそうな流れになりつつある今、先々が読めないから、時間を確実に取れる時にヨシダさんに資料を渡してしまいたかった。

ヨシダさんはまだ枝豆の仕事をしていると言って、それが終わった後に会うことになった。

そうしたらヨシダさんから、夜は空いているのかと聞かれて空いてると答えたら「お前さんと飲みたい」と言われた。

代行代も全部出すから飲みたいと。

私は二つ返事で行く!!と答えて、それで前回と同じ待ち合わせの道の駅に行った。

その道の駅というのが使い勝手が良く、商談や打ち合わせに使えるタイプのテーブルと椅子のセットがある。

まずはそこで資料の確認をして、訂正部分や新たに追加で書くことをヨシダさんに聞いた。

1時間近くそれをした後、近くの焼肉屋に行った。

そこは約2年前の3月に、当時の派遣の仕事の県外への長期出張2人組の壮行会を兼ねた飲み会の時に行った場所だった。

タイトルを『お気楽な焼肉』にしたのは、その店の名前が『きらく』だから。

やっと念願のきらく飲みだった。

飲むことは大好きでも、車があるというだけで飲むのは新潟に帰ってきてから激減した。

今の身近な人間関係で飲むことはまずないから、そして友達の盆正月の帰省の時も最近はみんな子育てで忙しいからお昼食べるだけとかになっている。

そもそも私は地元の友達と呼べる人も極端に少なく、気付けば不定期に会う友達は2人のみで、その2人と飲むことは基本ないから、気付けばずっと飲んでない。

記憶を辿ると、多分最後に外で飲んだのは、その2年前の3月に一緒の職場だったSさんと会った時のような気がする。

Sさんとは今も不定期に年に1、2回は会うけれども、お互いに車で集合するからそれ以来飲んではいない。

それはそうと、前回の職場壮行会的な飲み会は、私はノンアル参戦だったから(周りは飲んでた)、いつかこの店にまた来ることがあればその時は飲みたいと思った。

そんなの叶うわけないと思ってはなから期待していなかったけれども、まさかこんな形で、そして思いもよらない人物と飲むことになるとは本当に驚いた。




〜2019/11/17に書こうとしていたブログより〜

今、苦手な図形やら線やらを挿入しながらWordと悪戦苦闘している。

特殊な図形をExcelで作ったのに、なんとWordにコピペできず(←30分近く格闘)、それだけでぐったりとした。

同じことがWordでできないかを試したらできて、最初からWordですれば良かった(涙)と後悔。

キレート?プレート?
プリオン?えっ?プリン?
アマイド?甘いぞー?

とか、最初のカタカナ専門用語(キレート、プリオンなど)はもはや私には宇宙語にしか見えず、どの世界も専門用語って知らない人からしたら単なる暗号だなと思った。




そもそもヨシダさんが何の資料を私に手渡してくるのかは全く想像もつかなかった。

ヨシダさんの説明では「米でも野菜でもよく育つ方法」で、それはヨシダさんが長年農業に従事したのと、早期退職後に養殖エビの機械修理で5ヶ国ほど回った時のその傍らでやっていた外国での農業と、そして当時はバクテリアの研究も兼ねていて、そうした全てを組み合わせての独自のやり方とのことだった。

ヨシダさんはその方法を農家の人たちみんなに紹介したいと言っていた。

ドキドキしながら資料を見せてもらうと、ヨシダさんは1枚は既に作られた商品の宣伝用紙と、他の3枚は本人手書きの紙を持って来ていた。

私は自分が1からまとめなきゃいけないのかと思っていたけれど(だからドキドキしていた)、ヨシダさんがまとめていて、それを基本的には打ち込んで資料にすれば良いだけだった。

ちなみに冒頭の悪戦苦闘っぷりは、手書きなら1秒ほどで終わるもの、例えば大事な用語を◯で囲むとかいう◯の部分をやっていた時の話。




ここからはこの話の続き(11/20)。

ヨシダさんが手渡してきたものというのは、有機JASの認定を取ったヨシダさんが知ってる農業の究極の方法だった。

それは農家にも消費者にも地球にもやさしい、本物の知識で本物のこれから先未来永劫使える実践法だった。

農業の知識が全くない私が聞いても話がわかる、それはすなわち本当に自然の摂理に沿ったこの上ないものだとわかった。

「有機JAS」はヨシダさんの開発部門では今は取れないだろうと話していたその有機JASが何なのか、前回ヨシダさんに会った後調べてみた。

農林水産省が出してる平成25年の資料をネットで見つけた。

それによると、有機JASの認定は本当に厳しくて、その厳しい審査を通過して認定されたとする農家が全国の全農家における0.5%、有機JAS認定を受けた作付面積は全国の作付面積の0.4%になっていた。

しかも有機JASは一度取ったら永久的に使える資格ではなく、毎年毎年細かな審査をサンプルの提出をして受けないといけない。

だから一度取れたからと言ってあぐらをかける資格ではなく、半永久的に毎年厳しい検査を受けて合格したら更新されるというものだった。

基準から外れたら資格停止になるし、資格停止後は3年間またやり直しとなるから、1からやり直してそしてそれで3年の実績を積まないといけない模様。

それでようやく次回の審査に申し込めるみたいだった、私の理解によると。

私の有機JASの認定プロセスの説明は怪しいけれど、とにかくとんでもなく大変な労力と知識とがないとやれないことだというのはわかった。

そんなすごいものなのに、ヨシダさんはそれらの知識をものすごくわかりやすく、私のようなど素人ですらわかるように話してくれた。

そして、ヨシダさんが資料として作ってきたものは、そうした知識を誰にでもわかるように、そして難しい技術や特別な材料がなくともすぐに実践できる形で紹介されていた。

私みたいなど素人でも、話を聞いてたらわかる、そういうレベルにまで話を凝縮して、言葉や説明も誰でもわかるレベルに落とし込んで、大事な部分だけわかるようにまとめて話してくれた。

本物というのは、誰が聞いてもわかる言葉でわかりやすく話す。

ヨシダさんは典型的なそういう人だった。




私の作った資料を見て、ヨシダさんはまず一言
「すごいな」
と感嘆の息をもらしながら言ってくれた。

実際はすごいことではなく、私はヨシダさんの資料とヨシダさんが追加で口にしていたことを形にしただけだった。

たしかに私は追加の話をヨシダさんから引き出してそれも別資料として新たにまとめたけれども、ヨシダさんはそれ以外の自分が渡した資料の完成品を見てまずは「すごいな」と言った。

Word自体はただ打ち込むだけだから大した技術ではない。

そして私が超悪戦苦闘していた専門用語を◯で囲むとかいうところ、所要時間1時間近くかかったものは全く注目されなかった(苦笑)。←私の中では作る前から一番手こずるのはわかっていたから、最大の難関なのは知っていた( ̄∀ ̄;)。

だけど、言われてみたら…と1つだけ誇れるものがある。

大学時代、私は話を聞きながら要点だけをひたすらノートにまとめるということを4年間ほぼ毎日やった。

授業のスタイルがそれだから当たり前なんだけれども、アメリカじゃみんなやっていたことで何も特別な技術ではないけれども、私はそこでとにかく徹底的にその技術を鍛え上げられた。

今回もそれが役立って、ヨシダさんの言葉は一切変えずに、順番を変えたり、変える際に一言副題を足したりして、見やすい形には変更した。

それは別に私でなくてもそういう資料作りに長けている人なら誰でもやれることだと思う。

ただそういうちょっとしたことにヨシダさんはものすごく感謝してくれて、そしてその功労を称えてもらえるというのは私にとって大きな癒しとなった。

忘れもしない某企業に派遣で行っていた時のこと。

トイレに行く時間もないくらいに本当に忙しい場所で、私の社会人履歴の中で最も色んなことが同時にたくさん求められた業務と言っても過言じゃないかと思う。

そこでも資料を作った。

今回のヨシダさんの資料の形とほぼ同じスタイルで、それのもっと簡易版だった。

私はその第1稿を見せに行った時、容赦なく注意を受けた。

少しでも見栄えが悪いとダメ出しされ、それは数ミリの右なり左なりに寄せるものだったり、文字の大きさだったり、はっきり言ってどうでもいいことだった。

私は未だに真相は知らないけれど、そこで私は視野が狭い人間だと言われ、うっかり者と呼ばれ、少しのミスは命取りと言わんばかりに叱責され(ちなみにそんなことはない)、そして色んな人たちのいい加減な仕事のツケが回ってきて武士俣さんがいい加減だからこんな結果だと言われ、そうした評価を上に上げられ、そして派遣会社からは「それの本当のところを教えて欲しい」とまで心配されて別途面談されていたくらいの、私からしたら仕打ちを受けていた。

派遣会社での実績があったから、派遣会社側の人たちはこれまでと180度違う私の評価を聞いても企業側の話を聞いたままにせずに、きちんと私に聞き取りをしてくれて対策まで立てて間に入ってもらって尽力してもらったくらいではあったけれども、とにかく企業の方からのいじめみたいなよくわからないことはいた間ずっと続いた。

最後の最後に、数部署が入っているフロア統括のトップの人が新しく着任して、その人だけは私のやってることをいつ見ていたのかは知らないけれども、見たままを正当に評価してくれて、私のできていることをものすごく良い風に評価してくれた。

それはそうと、そんな風なこともあったから、ヨシダさんがわたし作の資料を見て、細かいことは何も言わず、ひと目で気に入ってくれ、直しは内容的な部分数箇所だけだった。

そして、その私の労力を本当の本当にねぎらってくれたことはとっても嬉しかった。

さらにその資料はこれから先、誰かの役に大いに立つものだったり、100年先の人たちにだって引き継がれるような超本質のものだったりする。

そこに携わる機会を与えてもらえたこと、そしてそのために精を出した労力をありがたいと感謝されたことは、ものすごく嬉しいことだった。

お金には変えられない、素晴らしいものを私はヨシダさんと関わったことで得られた。

たしかにヨシダさんのための資料作りではあったけれども、それだけではなかった。

ものすごく私のためにもなった、なんなら何冥利かはわからないけれど、何とか冥利に尽きるとはまさにこのことを言うと思う。

本当の本当に、この資料作りを自ら申し出てやることになって良かった。




飲みながらヨシダさんは教えてくれた。

今回ヨシダさんが私に手渡した手書きの資料はかれこれ10年近くヨシダさんの手元にあったもの。

そしてその話を私だけではなく色んな人たちにこれまでもしてきたとのこと。

だけど、ただの1人もそれをきちんと資料にしようと声をかける者はいなかったそう。

ヨシダさんが誰かに頼めばいい話だけのようにも聞こえるかもしれないけれど、それだけではどうもないようだった。

ヨシダさんの提唱する内容は、ヨシダさんは実証済だし、なんなら農林水産省が定めるガイドラインに則った資格、有機JASまで取っている。

なんだけど、農業従事者の人たちは、ヨシダさんのその話を聞くとへ理屈を並べたり、半信半疑で聞いたりするのだそう。

私には並べるだけの理屈もなければ、半信半疑になれるほどの知識も全くない。

私のあまりの知らなさ加減に申し訳なさがあったけれども(なぜなら、漢字1つ、言葉1つ確認しなきゃいけないほどの手間暇がかかったから)、ヨシダさんはだからこそ良いと言った。

何の先入観もなく真っ直ぐに話が聞けて、聞いたままふんふんと自分の中に落とし込んでいくのが、私が無知であることが最大の強みのようだった。

無知という最大の武器を備える私に、ヨシダさんは教えてくれた。

この10年でヨシダさんに「じゃあそれを作ろう!」と本気で言って本気でやったのは私だけだったとのこと。

他の人たちでそう言ってきた人たちは誰一人いなかった、本当に私しかそれを言ってやってくれた人はいなかったと言った。

ヨシダさんはこれ以上ないくらい感謝してくれた。

私はヨシダさんに伝えた。

私は本当に知らない分野だけれども、ただ話を聞いてすぐにそれはやらなきゃいけないこと、形にして後世に伝え続けなければいけないことだと思ったこと、そしてヨシダさんの農家の人たちに伝えたいという意志もはっきりと知ったからこそ私にできることがあればやりたいと思ったこと、それを伝えた。

ヨシダさんは最初照れて、そんな大したもんじゃない、おまさん(お前さん)は上手に俺をのせすぎだとか言われたけれども、私はそれにさらに言い加えた。

私の場合、これまで何百人という人たちを見てきているから、その人が何を持っている人なのか、それはお金とか地位とかではなくその人にしかない強みを見ているから、ヨシダさんの持っているものは並外れてすごいことがわかること、そして1年くらい前に山で行方不明になった人を探して欲しいと頼まれた以降特に、本当の本当に「本物」と呼ばれる人たちの人生により一層関わるようになってきたこと、だから今回もヨシダさんのそれは本物だとわかることなんかを伝えた。

まがい物やいい加減なものは私のところには来ないから、来るのは本当の本物しか来ないような人生の仕組みだということも付け足して言った。

ヨシダさんも、それを冗談で私が言っているわけじゃないことはすぐにわかってくれた。

10年か…と思った。

10年駆け抜けた今の私でなければ、ヨシダさんにたどり着かなかったと思う。

そうした事の本質や人の人生を真摯に敬意を持って見るには、この超グチャグチャでツッコミどころ満載の色んな時を経ないと今の私にはならなかったから、だから満を持してようやく今なんだとわかる。

ヨシダさんからしてみても、私というのは人と随分と違うと言われた。

何がしたいのかと聞かれた時に、したいかどうかは定かではないけれども、私が残りの人生でやっていくことというのは、駆け込み寺的なものだと思う、それは何も誰かを家に泊めるとかいうことではなく、ある人の人生の窮地やどうにもならないような時、本当に大きな決断を前にした時、そういうような人生で誰しもが一度や二度迎えるような時に自分は居合わせる感じになると思うと言った。

ヨシダさんは黙って話を聞いていた後、
「俺はそれ需要あると思う」
と言った。

その前後で私はペンジュラムをヨシダさんの目の前で実演して見せたけれども、それを知っても尚ヨシダさんはそう言ってくれた。

なんなら具体的な物件まで知っているから、そこなんかすごく良い隠れ家的な場所だとさえ教えてくれた。




ヨシダさんと私とで、とにかく今の瞬間がとても不思議だと言い合った。

ヨシダさんは本当なら私が行った米の仕事の場所にいるような人ではなかったと思う。

事情さえ許せば、もっとスケールの大きな舞台で動く人かと思う。

ヨシダさんが今ここにいるのは、孫がいるからだった。

ヨシダさん夫婦が孫を生まれた時から育てることになったのは色んな事情があったからだというのは少しだけ聞いたからわかった。

ヨシダさんは、その時から海外に出ることも他のことも全部辞めた。

いつだったか「この子だけは俺が全力で守ってやらんきゃ(=やらなきゃ)」というようなことを言っていた。

それからヨシダさんは稲刈りの時期にだけ(あと大豆の時)、私が行った仕事の場所に期間雇用で行くらしかった。

もっとも見ていると、ヨシダさんはそこで全員の農家さんとやりとりするから、なくてはならない存在だと思う。

夏の暑い時、毎日日焼けの心配をしながら外に出ていた時のことを思い出す。

まさかそこでこんな風に誰かと一緒に飲むような仲に発展するとは思ってもみなかった。

ヨシダさんは言った。

「これまで色んな派遣の人たちや契約の人たちが来たけれども、こんな風に俺があの場所(私がいた受付係の待機場所)に行って話をするなんてのは初めてだった」

ヨシダさんは、手が空くとよく私のいた場所に来てくれて色んな話を聞かせてくれた。

日焼け防止のために、私は1人だけパイプ椅子を携えて日かげのところにいたこともあったけれども、そんな時もヨシダさんは来てくれたし、本当に色んな話をした。

「今年ほど俺は怒らなかった年はなかったし、今年はスムーズだったな、例年よりも」
とも教えてくれた。

自分で言うのもなんだけど、私が担当した受付係は本当に人に恵まれて、陽気な人や話し上手な人が集まって、さらには仕事をきっちりこなす人たちの集団だった。

状況を見て臨機応変に動ける人たちばかりで(1人だけ困ったちゃんがいたけれど、そこは適当にみんなスルーした)、だから受付がスムーズにいかないなんてまずなかった。

受付係に去年も来ていた人が1人だけいて、その人も去年とは比べものにならないくらい今年は仕事がしやすいと言っていた。

ヨシダさんもそう言っていた。

そんな風にして、よく見てもらえてた。

米の仕事に申込みに行った時のことを思い出す。

派遣会社が用意した職務経歴書に記入している途中だった。

米の仕事の営業担当が今近くにいてすぐこちらに来るので、武士俣さんは担当が来たらそちらで話をしてくださいと言われた。

程なくして担当者が到着して、担当者を私が用紙に書き終えるまで待たせて、書き終えると外のロビーの一角で面接のようなことをした。

書いている途中の段階で私の採用は決まってた。

そんなにも早く仕事が決まったのは、今回が初めてだった。

今思えば、ヨシダさんに出会うことも、ヨシダさんの資料作りを手伝うことも決まっていたと思う。

そして何が何でも行く必要があった。

今後どうなるかは知らないけれど、今回ヨシダさんとやりとりしたことで、ヨシダさんがすごい技術の持ち主だと知るエピソードがあった。

ある農業の手法で、その設計図とやらをヨシダさんは全部描けるらしい。

それは地球にやさしい循環型農業のとある特殊な方法らしく、その図面を描けるのはヨシダさんとそしてヨシダさんと一緒に組んでいたある大学教授だけらしい。

ところがその大学教授はすでに亡くなったから、どうやら今日本全国の中でその技術を持ってその図面を描けるのがヨシダさんただ1人だけのようだった。

発表できない理由として、学がないこともヨシダさんは挙げていたけれども、そこは何とかなる気がした。

どうしても学術的な権威が必要なら、私には2人ほど聞ける友達がいる。

今思い出したらもう1人当たれる友達がいる。

そしてこの話を占星術クラスメイトのノムにしたら、ノムからは想像を遥かに超えた提案をされて、それもヨシダさんに聞かなければどう言うかは知らないけれど、やり方としてはありだしむしろ面白い方法だから、それが実現したらどんなにか素敵かと思う。

ノムももしヨシダさんが興味を持てば、必要な人たちに繋げると言ってくれた。

図面を私が描くかどうかはさておいて(なぜなら、マニアックな図なら私がパソコンで作成するのは半永久的に完成しないから)、とりあえずできることならするし、できなければ次の手段を考えようと思う。

ちなみにヨシダさんが口にしていた単語をネットで調べたけれども出てこなかった。

私は専門的な知識がないけれども、勝手にノーベル賞やそれにノミネートされるぐらいのレベルのものをヨシダさんは持っているんじゃないかなと思う。

だって他にそのすごい設計図やそれにまつわる具体的手法は、この世でヨシダさんしか持っていないようだから、それはもうものすごい発見のものだと思う。

何でそこまで思うのかと言うと、ヨシダさんはその内容を自治体に掛け合ったらしい。

ところが自治体はヨシダさんのその内容を採用せずに、某企業にその内容を振ったらしい。

そしてその企業は今、そのヨシダさんの提唱したことを元に稼働している。

しかも今ささっと調べてわかった。

ヨシダさん、多分アイデアを盗られたかそれに近しいことをされたのではないかと思う。

ヨシダさんがそれを始めたのが10年ほど前からとなれば、その関連企業はほんの数年前に稼働で、さらに言うと資本にものを言わせてと言わんばかりに東京のよく知らない会社がその管轄をしているようだった。

実際の関連は詳しく知らないけれども、ヨシダさんはとてもじゃないけれども「信用ならない」と自治体については言ったし、そして稼働会社に関してもよくは言ってなかった。

自治体を巻き込めるだけのすごいものを提案したことは話からわかった。

どう凄いかはわからないけれども、ヨシダさんのそれは持続可能な循環型農業にまつわる何かで、それは地球がある限りその摂理に則っていれば無くなる事のない何かであるのは話の感じからわかった。

ヨシダさんにはとりあえず、そういう大事なものは次の世代に残さなきゃダメだと言った。

そんな大事なものは、ヨシダさんが亡くなったらもう誰も辿り着けないものになってしまうから、そうならないように形にして残すのが大事だし、それで私が何かできるのであれば、それについてもやれることはやると申し出た。

ヨシダさんとのあれこれはどうなるか知らないけれど、本当の本当に何かできることがあればできる限り手伝おうと思うし、それがどんな形であれ、本当に必要とする人たちに届いて欲しい、そう思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿