2018年2月12日月曜日

魂の再会

【2017年○月△日に出会った男性】

運命的な出会いを意味する星の配置はありました。史子さんが感じている魂的なご縁で、史子さんのスピリチュアルな能力、過去世の能力を触発する感じの星の配置もあります。なんとなくですが、ペンジュラムの過去世のときの身内な感じがします。

 

20枚もあるホロスコープ鑑定書の中で、唯一最初から意味がわかってそれですぐにぴんときたものが上の文章だった。

鑑定書は抽象的な表現も多数含まれていて、何回読んでもぴんとこないものもあるし、言葉の意味がわかったところでそれが何を本当に意味しているのか自分の中でわからないものもある。

でも上に書かれた物だけはすぐにわかったのと、あぁそういうことだったんだとようやく自分の中でものすごく納得できた。

 

今ペンジュラム(石)が常に自分の近くにあって、ペンジュラムと話すこと。

看板・かばんについてるタグ・数字・新幹線・雲・テレビの中のセリフなどなど、日常にありふれたものからメッセージを読み取ること。

文章に乗っているエネルギーを感じること。

誰かにとっての大切なものに触れる時おなかが温かくなること。

ペンジュラムで私以外の人の大切な情報に触れると体に緊張が走ること。

 

上に書いたことは一部だけど、多分他の人にはない私だけの感覚だと思う。

けっこうマニアックな感覚だと思うけれど、私はそれらの感覚を「異常」だとは思ったことがない。

私の場合、ペンジュラム以外は徐々に出てきた感覚だったから、そうした感覚が特殊だという認識は全くなくて、ある時周りの人たちに指摘されてそれでようやく気付くという具合だった。

ペンジュラムに至っては、使い出してから1年半以上経過した後、初めて何で私はこれを使いこなしているんだろう?と思うぐらい自然と私と一体化していたから、異常も何もそういうものだという認識でしかなかった。

 

そういうのを異常と全く感じないくせして、その冒頭に出てくる男性に出逢った時、日常的に顔を合わせている時、そしてもう近くにはいなくて全く会えなくなった今、そのいずれもとにかくずっとずっと異常事態が続いていた。

自分のこれまでの人生経験のありとあらゆることを並べても、これと全く同じ感覚はひとつとしてなくて、私は大真面目に自分の頭がいかれたか自分自身が狂っているのかと思っていた。

だからホロスコープ鑑定でヒントを得たことで、それを異常だともう思わなくてもよくなったのは本当に良かった。

感覚そのものは鑑定を知る前も知った後の今現在も変わっていない。

ただ意味合いが変化した、というのは私にとって大きな喜ばしい転機となった。

 

鑑定を終えてから私は色んな場面を回想した。

その人に宛てた手紙もまた読んだ。

やっとすべてに意味が通じた。

 

鑑定からの帰り道の車中、私はその人に宛てた手紙を思い起こしていた。

全部が全部一気に繋がった。

その手紙を書いた直後でさえ自分でもあまり覚えていない感覚だったけれど、私がその人に宛てて手紙を書こうと思った時、もう考えたりするより先に体の方が動いていた。

それも猛烈な衝動に駆られるみたいにして、私は手紙を書いた。

時々冷静になると、自分が何をしているんだろうと思った。

相手は私とは時間を作ることができないとはっきりと言い切ったし、これ以上相手の負担になるようなことをしてどうするつもりだろう…という気持ちがないわけでもなかった。

だけど、そんな俗世的な価値観よりも、もう何が何だかわからない体の奥の方から出てくるものの力が強すぎて、それで私は訳も分からず手紙を書いていた。

実際に書いている時も、次から次へと言葉が出てきて、こんなこと伝えてどうする気なんだろう?と思う反面、何だか知らないけれど伝えなきゃいけない、人生を懸けて伝えなきゃいけない、そんな気持ちの方が強かった。

「一生懸命」という言葉があるけれど、本当にその言葉のごとくのような状態になっていた。

一生分の命を懸けてそこに徹する、そんな有り様の手紙だった。

つっこみどころももちろん満載だった。

おかしいとも思った。

だけど、今を逃したらもうこれを伝えることはできない、永遠に失われてしまう、そういう思いの方が強かった。

手紙の中で私は不思議なことをたくさん書いていた。

・生きているうちに出逢えるってすごいということ

・基本的に人の初対面の時の印象は忘れるけれど、その人に初めて会った時というのはよく覚えていて、そもそも不安でいっぱいだった気持ちでそこにいたのに、その人を見てとても安心できたこと。

・同じ時代の同じ空間で隣り合わせになるって、自分の家のトイレに隕石が落ちてくるぐらいの確率で起こること。それぐらいの確率で出逢えた人だということ。

・お互いに過去にたどったすべての道が1ミリもずれることなく起こってくれたから、今こうして出逢えたこと

・日々お互いが元気で同じ空間にいられるというだけで私は毎日それだけで嬉しくなっていたこと(しかもお互い至って健康で死期が近いわけでも寿命が残り少ないわけでもないのに、とにかく元気で同じ空間にいられる奇跡が毎日毎日うれしかった)

手紙には書かなかったけれど、後から自分で振り返った時に思ったことも思い出した。

・その人と出逢えたことは人生のごほうびだと思ったこと

・私の人生に現れてくれてありがとうと思ったこと

・毎日のように会えていた時は、「今日もあなたの命に出逢えてうれしいです」と感じていたこと

・たとえ人生何十年の中のたかが3ヶ月半くらいの短い時間でも、その時間を私は一生忘れないこと

・その人が何がどう特別かは言葉にできないけれど、とにかくものすごく特別な存在であることには変わりないこと

 

鑑定の時にミエコさんは、ペンジュラムを大切にしている体の弱い小さな男の子として生きていた過去の私と、その男の子の近くにいたもう1人の男の子=今世ではイケメンとして私の前に現れた男性の話をしてくれた。

そして、私は今世でその小さな男の子の意志を強く引き継いで生まれてきていることも教えてもらった。

 

こんなのどこにも証明できるものがないし、そんなの私の妄想だろうと言われたらそうですと答える。

でも、私にはその男の子の気持ちがものすごく強く伝わってきた。

 

その男の子の気持ちになって手紙のことやその今世ではイケメンとして現れた相手の人を見ると、すべての辻褄が合う。

あの手紙はたしかに私が書いたし、私の意志の元で綴られたものではあるけれど、あの時の意味不明な強烈な衝動や、今伝えなきゃいけないと思ったこと、そして実際に書いた内容も、その男の子の気持ちもあって書かれたものだとしたら、本当にその通りの内容になっている。

その手紙は若干風変わりでもあった。

ラブレターではなかった。

じゃあ何なのかと言われると答えられないけれど、愛を伝えるという感じとはだいぶ違っていた。

それは愛の告白というよりも、魂の告白という感じだった。

本当に自分の奥底から言葉は出てきていたし、何をいちいち大袈裟に書いているのかと思う自分もいないわけではなかったけれど、でもそれは大袈裟でも何でもなく本当の本当にそう思っていることを私は書いていた。

そして再会できて良かったねなんてことは書かなかったけれど、感覚としては「再会できてとても嬉しい」というのが根底にあったのではないかと、鑑定の時の話を聞いて思った。

ミエコさんいわく、その男の子の時は10歳前後までしか生きられなかったとのこと。

もっともっと長く生きたかっただろうことも想像できるし、もっともっと自分の好きな人たちと一緒にいたかっただろうことも想像できる。

私はそのイケメンに対して、本当に妙なことを思っていた。

その人が年を取っていく様を隣りで見ていたいと思った。

一緒に年を重ねたいとか、一緒にいたいとか言うのであればまだわかる。

そうじゃなくて、私はその人が年を重ねていくところを隣りでずっとずっと見ていたい、そういう何とも変わった不思議なことを願いとして持っていた。

最初私はそれは自分が38歳になったからそう思うようになったのかと思っていた。

でもそうじゃない。

それは過去の人生でどんなに一緒にいたくても一緒にいられなかった命の事情があって、だから今世で一緒になれるならずっとずっとそれを隣りで見ていたい、そんな思いあっての願いだと思う方がしっくりとくる。

また会おうねとお互いに約束したのか、そうではなく私の方だけが一方的にその男の子に再会したいと思ったのかはわからない。

私がその体の弱い男の子の時の記憶として今世に持ってきているのは、ペンジュラムだけだから、だからその子がどんなことを最後に思ったり感じたりしながら死んだのかなんて知る由もない。

だけど得意の想像力を駆使して思いを馳せると、多分もっともっと一緒にいたかったんだろうなぁというのは想像できるし、本当にまた再会できてものすごく喜んでいることは今の自分を見ていたらわかる。

日々顔を合わせていた頃。

実は私はその人の周りだけキラキラ輝いていたことを知っていた。

私はオーラが見えるようなそんな能力は一切ないし、これまでどんなに素敵な人たちでもオーラが見えたことは一度たりともない。

だけどその人の周りだけは、何だか知らないけれどいつもキラキラしていた。

キラキラというか、その人の周りの半径50cmほどのところだけは、いつも空気が澄んでいた。

明らかに他の場所の空気とは雰囲気が違っていた。

私はそれをずっと「イケメンだからあれはイケメンが発するオーラ・雰囲気なんだ」ということで片付けていた。

でもミエコさんから鑑定書をもらって振り返った時、もしかしたらあれは私にしか見えないサイン的なものだったんじゃないかと思うようになった。

他の人たちとは違いますよ、ということを色んな意味で鈍い私が気付けるように見えていたものじゃないのかなと。

鈍いし勘違いもすごいから、「イケメンオーラ」で片付けていた当時の私を思えば、サインさえも見逃される始末だった。

ある時は、そのイケメンの目が見たことないぐらいに澄みきっていて、私は度肝を抜かれたことを覚えている。

普通に他の人と打ち合わせをしている様子を私は盗み見したに過ぎなかったけれど、何がどうしたらいい年の大人の男性があんなに目が澄むものなのか、不思議でたまらなかった。

あんな目、これまで一度も見たことがなかった。

その人よりもうんとうんと心が澄んでいるだろう人たちにも人生で会ってるけれど、ああいう目ではなかった(言い方が失礼だけれど、他の人と比べる他の言い方が思い付かない。ちなみにその人もとても心の澄んでいる人だと思う)。

なんだあれ?と不思議な気持ちで眺めていたことと、その時の風景を私はまるっと記憶している。

だから最後の挨拶を交わした時、ものすごく冷たい目で私には一切の感情をシャットダウンするかのような目を向けられて、私は本当にへこんだ。

はっきり言って、最後だから悲しいと言うよりもそんな目を向けられたことが悲しくてたまらなかった。

息が詰まりそうだった。

そして本当の最後の最後は、私はものすごく背中を向けられた。

私のことが絶対に目に入らないように、とことん無視されたみたいな感じで背中を向けられていた。

私の声も聞こえないわけない距離にいたけれど、それも周りの音にかき消されるようにして何事もなかったかのような感じで終わりを迎えた。

その後ろ姿だけを見て、あぁ完全に嫌がられたんだなとずっとずっと思っていた。

だいぶ冷静になってこの2~3週間ほどで気付いたことが1つあった。

実はあの最後の時、私は小さな違和感を覚えていた。

それはあまりにも小さかったし、それよりもあのショックな感情の方があまりにもでかすぎて、その違和感自体ずっと忘れていた。

その違和感が突然また出てきて、その場面を何回か反芻した。

何かがおかしい。

何がおかしかったんだろう…って記憶を手繰り寄せた。

本人がどこまで意識的にそうしたのかはわからない。

嫌われてるとか気持ち悪がられてると思う方がある意味自然なのもわかる。

だけど、あの時最後に向けられた背中は実はとても不自然だった。

その時というのは、その人は他の人と打ち合わせなのか何なのか何かしら話をしていた。

それはまぁいつもと変わらないことだから、というよりそんな最後の最後で詰めて話さなきゃいけないようなことがあるんだろうか?ということは思ったけれど、そんな細かな事情私が知るわけもなく、まぁ何かあるんだろうぐらいで流してた。

そこではなく、私が覚えた違和感は、その人の立ち位置だった。

私は日常的に観察する癖がついていたから、だからその立ち方に違和感を覚えていた。

その人は打ち合わせの時、必ず相手と横並びになって話をする。

しかも一言二言で終わるような話じゃなくて、数分に渡って話すような内容の時は必ず相手の横に座って話をする。

それがその人の癖なんだと思う。

だけどあの時は、どういうわけか立っていて、さらには話し相手と向かい合うようにして話していた。

私の記憶にある限り、あんな風にして向かい合って立って打ち合わせ的なことをすることはなかった。

だから不自然さを私は覚えて、小さな違和感があの時にたしかにあったんだと思う。

当時はそれどころじゃなかったからその小さな違和感をスルーしていたけれど、今思い起こせば普段とは違っていたことがわかる。

これをものすごく私のいいように解釈したとするなら…。

過去に私が先に死んでいく姿を見たとして、まぁ今回は私は死ぬわけでもないしむしろいなくなるのは相手の方だったけれど、そういう最後の瞬間を見たくないと魂の部分で感じたとするなら、あの背中はもしかしたらそういう意味だったのかもしれない。

だって立っている位置自体も変だった。

普通に立つなら、むしろ背中を向けるんじゃなくて私から見ると私の方を向いて立つ方が自然だった。

なのにわざわざ背中を向ける場所にあの時は立っていた。

そう、わざわざその位置に行かないとそういう立ち方にはならないでしょ!?という感じの場所に立っていた。

事の真相は知らないけれど、魂の再会という視点で物事を見ると、ちょっとこれまでとは違った風景や情景がそこには見える。

 

実際のところ、ペンジュラムを大切にしていた体の弱い小さな男の子も、そこに一緒に暮らしていただろう男の子も、それらは何一つ証明できるものがない。

普通に考えたらおかしなことを言っているのもわかる。

だけど、魂から魂へと自分が生まれ変わっていて、そこでまた自分のとても会いたかった人と再会できたとするなら、私が変だ変だと日々思っていた感情や気持ちや感覚にすべての説明がつく。

私は相手がどんな人かも知らないのに惹かれていた。

そして色々心にぐさりと刺さるようなやりとりをしても、それでも私はその人を嫌いになることは一度もなかった。

嫌いになれるものなら嫌いになりたかったぐらい。

忘れられるなら忘れたかったぐらい。

だけどそういうことはもうできないと自分でわかってからは、もう自然の流れに任せようと思った。

最後の瞬間からそろそろ5ヶ月になる。

私はそのうち忘れるのかなと思っていた。

普通に考えたら忘れることの方が自然だから。

だけどそうではなかった。

何だか知らないけれど、近くにいた頃と変わらずに私の中にずっと24時間体制で存在している人のままで、何だこれ!?とずっと思っていた。

1日の中で何をしていてもその人が自分の中から消え去ることがない。

何なら仕事中はもっと集中しなきゃいけないことがあるはずなのに、気付くとその人のことが脳裏から離れない。

普通に考えたらもう会えなくて、そのうち私もその出逢った場所から立ち去る日も近くて、完全に全てがリセットされる。

何事もなかったかのように日常は流れて、あとは記憶の中だけで生き続ける人みたいになる可能性が99.9%だと思う。

むしろ記憶からもいなくなって、その人のことを忘れている日常を送る方が普通だとさえ思う。

でも私はどこかで、本当の本当に縁のある人なら再会するんじゃないかと思っている。

それは鑑定を機に思ったのではなく、もうその最後の瞬間よりもずっと前からそう思っていた。

根拠はない。

それさえも私は自分が狂っていると思っていたほどだった。

その人と共にいた時間、その人と共にいられた空間、その人の存在そのもの、それらすべてが愛おしいという感じだった。

それが魂の再会ゆえのことなら、ものすごくしっくりとくる。

今世ではあの短い時間だけを共有するのが2人で決めたことなのかもしれない。

もしそうなら、私はそれを自分の一生の宝物として自分の中に残そうと決めている。

人生のごほうびのように私の人生に現れてくれたその人には、本当に感謝しかない。

出逢ってくれてありがとう。

それがすべて。

 

ミエコさんから最後もらったメールに面白いことが書かれていた。

「ちなみに、イケメンは過去世でも無口だった感じがします(笑)もしかして声が出ない子だったか、預けられていた、自分よりも年下の史子さんが長く生きられないことを知っていて、どう接したらいいのかわからなかったゆえの無口なのか。…という感じがします。」

相変わらずミエコさんは何を見ているのか私にはさっぱりわからないけれど、ものすごく面白い情報を伝えてくれる。

私はそれを読んで、今もまんまじゃん!と思った。

「どう接したらいいのかわからなかったゆえの無口」というのは、その人の普段そのままな感じがする。

私から見て、その人は実はたくさん言葉を持ってる人だと思ってる。

自分の内側で色んな思いや考えを持っているけれど、それを外に出すことをとても怖がっているのか、それともそういう余計なことを言うのはナンセンスだと思うのか、それとも伝える人を選んでいるのか、その辺りは全くわからない。

わからないけれど、何か持ってる人だろうなぁというのはいつも見ていて感じた。

だからその人の場合、行動を見ていると何を大切にしているのかが垣間見えるようだった。

そしてその人が大切にしている考え方や価値観は、私から見てとても魅力的に映った。

本当に小さなことをとても大切にしているのは見ていて伝わってきた。

誰もが見過ごすようなところもその人は大切にしていた。

本人は無意識かもしれないけれど、そういうのが色んなところに表れていた。

だから「どう接したらいいのかわからなかったゆえの無口」という部分も、気持ちは色々あってもどうしていいのかわからなかったんだろうなというのが伝わってくる。

そしてそれは私が見ていた姿とも重なる部分がある。

これはついでだけど、私がその言葉をすっと信じられたのは、この後に続くミエコさんの情報があったから。

「もう1人、別の過去世で、もの書きをしている女性もいるみたいです。40代程ですが。物静かで穏やかな感じがします(←ここは今の私とはずいぶん違っている)。生活感も穏やかな感じで、もくもくと部屋の中で書きものをしていたようです。仕事として書いていたようですね。派手に大勢にウケるという感じではないですが、ファンはいたようです。

過去世でやってきたことって、今世のスキルになるので、史子さんは活かしてますね」

とあった。

特に「部屋の中でもくもくと書きものをしていた」というのは、今の私のまんまだったりする。

昨日から今日のこの午前にかけて私は合計でこの一気にアップするブログの8個のうち6個をまるっと1から、残りの2個を途中まで書いていたものに加筆訂正していた。

家の雪かきと家事以外の時間はすべて書きものに当てていた。

物書きだった女性の過去世は今の私と姿が重なる。

だから、そのペンジュラムとお友達だった小さな男の子の人生も信じられるし、そしてその近くにいた年の近い男の子の存在もそうだったんだろうと信じられる。

 

魂と魂が再会する。

それは多分本当に現実に起こることなんだと思う。

今の時代では到底おかしな感覚だけれど、でもとても純粋に望んだ再会とするなら私が感じた色んなことはとても自然でとても素直だと感じる。

そしてそういうものに引き合わせてもらえたこと、その人にもう一度出逢えたこと、それはとても特別でとても大切な瞬間だった。

時空を超えて再会すること。

それはとても大切な人ともう一度お互いに命を宿して今この時代この瞬間に存在する。

ただただもう一度会いたくて、そして色んな偶然のような必然を織りなして再会する。

私はその人の命が今この世のどこかに存在していること、そしてその命に出逢うために今自分が生きていること、その奇跡を思うだけで本当に涙が出る。








0 件のコメント:

コメントを投稿