2020年2月3日月曜日

『覚醒』書いた時から1年

『覚醒』から1年


2020/02/03の朝焼け



『覚醒』を書いてからちょうど1年が過ぎた。

おかげさまで『覚醒』は1000以上ある全ての記事の中で一番読まれていて、この間通算500回以上読まれたことがわかった。


【あ! そうそう!  ちょうど1年前の昨日が、ぶっしーが覚醒のメッセージを送ってくれた日じゃない? その日にああした記事を書くって、すっごいなあ、と、思ったよ(一年前の自分の状態を知ろうと自分のBlogを振り返ったところ、覚醒の日のことがわかった。】


ノムが今日の昼過ぎにこんな風にLINEに書いてくれた。

そう、ノムと私とは『覚醒』の文章をキッカケに仲良くなって、それがちょうど1年前の今だった。

ノムにとっても大きな出来事があった日で、そうとは知らずに私がノム含めた占星術講座のクラスメイトたちに『覚醒』のブログを送って、そうしたらノム1人だけが短いんだけれどやたらと意味深な返信をしていたから、気になって個人的に連絡を取ったのが最初だった。

今思うと、ノムと私とを繋げてくれたのは、ノムの亡くなったおばさんなのかもしれない。

もしノムにとってその日が365日あるうちの8割は占めるような普段と特段変わらない日であったなら、ノムと私とはこんな風に繋がることはなかったと思う。

その日のノムは一生に一度しか体験しないようなことを体験していて、その先に何も知らない私がポンと『覚醒』の文章を送ったというあんばいだった。

まさかノム側にそんな色んなことが一気に起こっていたなんて、その時まで知らなかった。

その日をこんな風に憶えていて、ちょうど1年だねなどと言ってもらえることの稀少さと喜びは半端なく大きい。

あの文章は、こんな風にしあわせをたくさん運んで来てくれる、魔法のような文章だったんだなと今になってさらに一層思う。





ここからは毒吐きとこの1年を越えての今と、そして今自分が気持ち1本で立てていることの奇跡とを書きたい。

仕事は相変わらず毎日事件簿があって、今日も今日で本当はそれだけで超ロング記事が書けそうなくらいのことがあった。

他の人たちはどんな風に今現在の強烈な星の配置とされる、山羊座の冥王星(破壊と再生担当)と土星(忍耐と努力と試練LOVE)の影響が表れているのかわからないけれども、私の場合、とにかく毎日毎日恐ろしいぐらいに仕事ですったもんだしている。

正しくは、私がすったもんだしている(けれども、それは私の管轄内では最終的にきっちりと仕上げている)のではなく、会社がこれまでなぁなぁにしてきたこと(闇とも言う)がどういうわけかやってくる英訳英訳がそれを暴き出す起爆剤のようになっていて、これ真面目にいつか本気の信用問題に発展しないのかと懸念している。

今日も技術的な英訳かと思えば、よくよく見たら機械の故障に対する緊急の技術的なヒントの英訳で(というのは最後に気付いた)、そうと知ったらますます腹が立って仕方ないことが出てきたけれども、もうそこは割り切れるようになりたいと思っている。

腹が立った理由は、依頼者が超適当な対応をしたからだった。

百歩譲って、他の人たちの前と私の前とで態度が随分と急変するのは、猛烈に嫌だけれども、まぁ人間的に何かしら足らない人ということで、ちょっと上から目線で耐え忍ぶ技を身につけつつある(苦笑)。

ちなみにこれはそういう手の男の人たちみんなに言いたい。

それ、超かっこ悪いよ!!!!!って。

自分の人間の器の小ささが露呈するだけだから、嘘でもいいから人を人として扱いなさいと言いたい。

なんなら扱う真似でもいい。

それがどういうわけかその方はできないようで、今度からそちらの席じゃなく私側の席に呼び立てようかと思うくらい。

私側は近くにお偉いさん数名在籍なところだから、変な対応をうっかり見られたらとてつもなくヤバい。

そういうところだけは無駄に頭の回りそうな人だから(なぜなら今日別件で私の隣りの女上司のところに来た時は普通にしていて、なんなら私にだって友好的だったけれども、その後本当に質問ぶら下げて私が行った時には「これ同一人物ですか?」並みに人間が違う人みたくなっていて、半分呆気に取られた)、今度から本当に私側の方にお呼びできないものかと思う(ΦдΦ)!

今日私に言い放った数々の仕事上の暴言を、大御所たちの近くのところでも吐けるなら吐いてみろ!、と言いたいくらいに酷かった。

私が一番腹を立てたのはそこじゃなく、その問題となっていることに対しての技術的な回答にも関わらず、それの回答を超適当にやり過ごそうとしたことだった。

「日本語の意味がわからない」とサジを投げられてしまった箇所があった(←多分超重要ポイント)。

私にはそこより先に聞ける人が今回はいなくて、もうこの聞いた内容で何とか英訳するしかないんだなと思った。

それだけじゃなく英訳全般に関して困ったことがあって、それが私の英訳の先生トムさんの部署だったから、トムさんに1つ英語のことを質問していいか確認した。

それは二つ返事で了解してもらえて(←ここは超ありがたかったし感謝している)、それでトムさんのところに行って困った英訳の質問をした。

それがその後大きく事を変えることとなった。

トムさんには2つ確認して、その中の1つが「確認」という言葉だった。

とにかく「確認」が、機械あるあるでたくさん出てくる。

1つ何かの機能やステップがあれば、その次には必ず「確認」とくる。

ただ「確認」と言われても、私には機械用語たちがちんぷんかんぷんだから、どの程度の確認を指すのかがわからない。

車で言うなら、鍵がきちんと締まったかの確認から異常ランプが点灯してそれの詳細確認、はたまた修理することになってそれが異常が解除されて正常に戻ったと確認するまで多岐に渡る。

で、英語の場合、同じ「確認」でも、状況いかんによって言葉の使い方が変わる。

言うなれば単なる「手順としての確認」から「命令形の確認」、そしてさらなる上の「絶対的な確認」とかなり差がある。

そうした差がわからなくて、それをトムさんにおおよその目安でいいから教えて欲しいとお願いした。

例えばの文章…、と思って、手元の今さっき質問した英訳の原稿の元となる日本語の資料を見せた。

この時も神降臨!と思ったけれども、5分ほど前、「日本語の意味がわからない」とサジを投げられてしまった箇所にトムさんがさっと目を通して、「これどんな意味ですか?」って私に聞いてきた。

私はさっき説明を受けた内容を、自分のメモを見ながらそっくりそのまま読み上げた。

「主語なくないですか!?この主語何ですか?あれ?これ主語ないから、英訳できないと思います」と言って、その紙を持って先ほどの上席のところへトムさんが確認に行った。

それは写真も付いていたけれども、さっぱりわからない説明で、何がどうなっているのか日本語を読むだけじゃ全く理解できなかった。

それが私の知識のなさで読めないのではなく、技術者たちが読んでも誰も読解できない代物だった。

( ̄∀ ̄;)( ̄∀ ̄;)( ̄∀ ̄;)……

トムさんが気付いてくれなければ、超トンチンカンな英訳が渡って終わったことだと思う。

そして、間違いなくそれが大クレームに発展したかと思う( ̄ཀ ̄;;)。

トムさんは担当者が誰なのかを教えてもらって、その担当者の内線番号を調べて、その文章の内容に関して何が主語なのかを確認してくれた。

主語は、文章にもない、写真見たってわからない、トムさんが聞いてくれなければ絶対にわからない言葉がやってきた。

っていうか、何でそのことを例の上席担当者は「意味が通じない」とだけ言って終わりにしたんだろう…。

その時はまだ内容が掴めていなくて、まぁそういうこともあると思ってそこまで腹は立たなかった。

本当にこれがヤバい内容だと知ったのは、最後に仕上げてそれを送る段になってとりあえずもう一度メールを読もうと思って読んだら、そこで初めて機械の故障に対する回答だと知った。

っていうか、それ、「わからない」とか言ってる場合じゃなくて、真面目に内容をきちんと確認して、正しい且つ適切で必要な情報を確実に渡さなきゃいけないやつじゃん!ということがわかった。

絶句だった。

もし私が「確認」の言い方をトムさんに確認しよう!って考えなければ、絶対にスルーするところだった。

もらった資料の内容で、文章自体は作れないわけではなかった。

変な文章だとは思ったけれども、何せ知識がないからそんなヘンテコな現象もあるんだな…ぐらいにしか思っていなかった。

ところがそれは、そもそもがやっぱりおかしくて、肝心要の主語が欠落していたから、だから誰が読んでも通じない内容になっていた。

そんなすごいものを、しかもそれ故障から正常に直ったとわかる超重要ポイントなのに、私は当初「わからない」とサジを投げられてしまった。

そのことに私は腹が立った。

何でそんな無責任なことをするのか、いくらでも私の英訳が悪いと言ってもらっていいし、英訳が新人になって言葉足りないと言い訳に使われたって全然構わない。

そういうことじゃなくて、これ少なくとも実際に使っているお客さんが困っていて、それで対応策くれ!ってなっていて、そのことに対する回答なのに、何で適当にやろうとするの!?と思った。

とにかくそういうことが日々起こりまくっている( ̄ཀ ̄;;)( ̄ཀ ̄;;)( ̄ཀ ̄;;)。

だから、当たる英訳英訳そんなのばかりが続いているから(しかも私になってからそれが突如始まったΣ(꒪◊꒪; )))) ←何で!?)、そりゃ毎日ネタはあるし尽きない。

そんなこんなの中、1年前の『覚醒』を書いた時と今とを比べてもう少しだけ書き足したい。

私が今変な圧力に屈せず、とにかく「本来やるべきこと」を真面目にやろうと取り組めるのは、周りの人たちからたくさん力をもらっているから。

私は今回のことを少なくとも3人の友達には具体的に相談しているし、そして社内関係者でも2人に相談、1人には愚痴をこぼした先に大切なことを教えてもらって、さらにはトムさんはじめ数名の技術者たちから実戦面で本気で色々助けてもらっている。

私のやり方は時間もかかっているし、色々回り道みたいに見えなくもない。

だけど、私でさえスルーしそうなところを例えばトムさんが今日はしっかりと拾ってくれたり、外部の友達は皆口を揃えて応援してくれてるし、なんなら本質を見てそこは手抜きしちゃダメだと伝えてくれる。

そして会社的にスピードが落ちても、最終的にお客さんには一番良いものがいくように最善は尽くしている。

たとえ私の自己満足だろうと、しょうもない英訳ではなく少なくとも周りから協力をもらって今できる最大限のことはやりきる。

それで不足しているものは、もうダメな時にまた策を立てて対応してもらう他ない。

もしこれが自分1人だったら、とっくに心が折れていたと思う。

だけど、色んな人たちから心ある言葉や声をもらって、色んな人たちから助けてもらって、それで何とか今がある。

周りの人たちが協力してくれるのは、少なくとも私のやっていることが間違いではないからだと思う。

私が今信じているのは、自分の感覚と、そしてもう1つは周りの反応。

もし私が間違えていたのなら、誰かしら「それ違うと思うよ」的な言葉や態度を示してくると思う。

私は自分のこれまでの経験で「外してはいけない」と感じるその感覚は、おそらく相当鍛え上げられたから、自分の中で違和感があるものはそれは違いますよのサインだと思うし、違和感ない時はそれは大丈夫だろうと思っている。

だから、自分の信じているものをとことん信じてみたらいい気がしている。

そして、これは何となくだけど、本当に外しちゃまずいものは、今日のトムさんの緊急ヘルプのように神降臨的な介入がおそらく入る、と思っている。

そこはもう神々の審議会的な領域だろうから、私にはどうすることもできない。

だけど、その手前、私が何とかできる範疇のものはやりきろうと思う。

そしてその「やろう」の原動力は、誰かの価値基準ではなく、自分の価値基準で選べるようになってきたなぁ…、と今日感慨深く感じた。

1年前は死者の霊魂がご登場とか、なかなかそんなこと起こらないようなことを体験していたけれども、今はもっと現実の社会の中で自分の価値観の確認作業みたいなことをしている。

色んな意味でものすごく勉強になっている。

で、自分でも色んな人たちと英訳の仕事を通じて関わってみて、相手の人が一生懸命だと私もできる限りのことはがんばろう!とか私にできることはやってあげたい!(あげたいって…(笑))って思うのと一緒で、私もとにかく「がんばってます」アピールしながらやろうと思うv( ̄∀ ̄)v←本末転倒。

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