2019年8月18日日曜日

紙束の決意

2019/07/15

ずいぶんとボロボロになった下書きの紙を久しぶりに取り出した。

最初の一文、書き出しをどうするか迷ったけれど、出てきたものをそのまま書いた。

そこには自分の願望をそのまま書いた短い言葉が並んだ。

いきなり馴れ馴れしいんじゃないか、言葉の使い方が変じゃないか、色々思ったけれども、その一文が本心をそのまま書いている気がしたから、変えずにそれでいくことにした。




2019/08/17

上の話を書こうと思ったのに、出だしだけ書いてものすごく途中のまま今になった。

「時間をいっぱいください」と書いた1行目。

私も何を予想したのか、本当にたくさんの時間をかけてもらわないといけない長さの文を書いた。

その下書きの紙をその1ヶ月前のある日、突然思い付いて手に取った。

全部読むと膨大な時間がかかるから、要所要所だけ適当に選んで読んだ。

その当時でなければ書けなかったなぁと思った。




5月30日の真夜中の3時46分に

【魂に妥協はない】

と携帯メモに入れていた。

最初変な時間に目覚めて書いたのかと思ったら、日付をよくよく見たら、占星術講座の中級編の前編を受けに行った翌日、東京から新潟に帰った日だった。

時間的に、おそらく高速バスのバス停を降りてほとんど車が通らない真夜中に車を走らせて家に着いた頃の時間だと思う。

その数時間前、講座の後に講座のクラスメイトの1人、ノムこと野村さんと初めてお茶をした。

その後『令和初デート』と銘打ったブログを私は書いたけれど、「魂に妥協はない」はそのことを思って浮かんだ言葉じゃなかった。

いつかの下書きの紙とそこに宛てた相手とのことを思い浮かべて出てきた言葉だったと思う。

そのとてつもなく長い文章は、魂の衝動をそのまんま形にしたものだった。

当時は本当に意味がわからなかったし、自分でも自分が何をしているのかよくわからなかった。

していることは、ひたすら紙に向かってペンを走らせているだけだったけれど、それは常軌を逸していて、どこか冷静な自分は「何してるの?」と思っていた。

スーパー迷惑行為にしかならないようなことを突然始めて、内心「げっΣ∑(((゚Д゚;;;)))))」と思っていた。

だけど、手は止まらないし、なんだか知らないけれど、言葉もスルスルと出てきた。

よくそんなにも書けるね、と思ったくらい、私は何だか知らないけれど、たくさんのことを書き綴った。

すごく変な感覚だったことはその後もずっと覚えていたけれど、そんなこと他に体験したことがなくて、あれは何だったのかずっと答えを持っていなかった。

答えを知ったところで現実は何も変わらないから、知らなくても気にならなかった。

なんだったら、そんなことしなきゃ良かった、と私は後悔したこともたくさんあった。

その答えを知ったのは、それから半年ほど経ったある日のことだった。

あの意味不明な感覚こそが魂の衝動だと初めてわかった。

今の人生ではない、いつか過去に生きたとされる人生(過去世)で近くにいたとされる人と今世でも再会しただろうことを、突然第三者から知らされた。

それがどこまで正しいかなんて、伝えてくれた霊能力を持ち合わせた方も私もわからない。

証明のしようがない。

なんだけど、聞いてもいないことを突然知らされて、そして聞かされた内容は、今現在生きている武士俣史子としての人生にも引き継がれている。

相手のことはさておいても、少なくともペンジュラムを異常なほど使いこなす私は、過去世でもペンジュラムを自分の一部、自分の相棒として持っていたことをその時に知らされた。

そして、それとは別に、書くことも別の過去世のどこかでしていたことを知らされた。

伝えてくれた方が嘘を言っているとは全く思わなかった。

その方も伝えることを目的とは全くしていなくて、伝えるべきことがその人は視えてしまったから伝えたに過ぎなかった。

伝えてもらったことは、まさに私が今の人生でもしていることで、そこは疑いの余地もなかった。

今書いてて気付いた。

その「魂の衝動」を、私は「書く」という手段を使って表した。

他の手段を思い付けなかったからそうなったと思ったけれど、書くことが苦手な人たちからしたら絶対に選ばない手段でもあると思う。

本当に意味のわからない衝動は、書くという行動に移されて、さらには衝動を目に見える形にして伝えるところまで私は一気に動いた。

ごちゃごちゃ考えず、一心不乱に私はひたすら一点集中型で動いた。

そのすべては、一言で言うなら「変」としか言いようがなかった。

しかも、今時間が経ったから余計にわかるけれど、魂の衝動は相当な極限状況にならない限り表には普段出てこない。

その極限状況に当時はあったわけで、私はもうこれが最初で最後のチャンスだと思った。

自分が生きている間に紙に書いてまで伝えられるのは、それっきりだと肌で感じていた。

その後100歳まで仮に私が生きたとしても、もうその時が最初で最後の機会なんだと思った。

そんなことよく感知できたなぁと今になって思うけれど、当時の私はそう感じていた。

いや、正しくは、魂の衝動たるや強烈な感覚が内側から上がってくるから、無視したくても無視なんかできないぐらいの強さを伴って知らせてくる。

そして、考えたり計画する前に、体が勝手に動く。

衝動らしく、理由も根拠もわからないまま、衝動に基づいた突飛な行動をやりだすし、一度そうなったら体の方は止まらない。

何かに突き動かされるように体は動いていて、もはや自分のことなのに自分のことではないように感じる。

自分の中の深いところから何かが突然現れて、それにはもう理論や理屈は一切通用しない、ひたすら1つの目的に向かってしか動けない風になっていた。

私の中ではこんな順位が成り立っている。

第3位:頭で考えた望み(理性)
第2位:生理的欲求(本能)
第1位:魂の衝動(自分の生存理由)

「頭で考えた望み」というのは、例えば、結婚したいとか、社会的に信用のある仕事をしたいとか、どこそこへ旅したいとか、なにそれ(物)が欲しいとか、外見上きれいになりたいとか、痩せたいとか、まぁ世俗的な感覚のもの。

理性と言い換えてもいいと思う。

「生理的欲求」は、食欲・睡眠欲・性欲の三大本能に当たる。

例えば「痩せたい」と思っても食欲が勝れば食べてしまうし、痩せるために運動しないと!と思っても眠さが勝てば寝る方を優先させる。

そこは体というものを持ち合わせている以上、本能には勝てない。

ここまでは、どちらも普段からものすごく馴染みのある感覚や行動なわけで、特別さはない。

そして、ほぼ100%に近い90数%はそれで日々の生活が回っているから、魂の衝動なんて普段感じることはない。

だから、魂の衝動が表に出てくる時なんていうのは、もう何かとてつもなく身の危険とか心の危険とかを伴うある種の極限状態にならなければ発動しない、と私は分析している。

私の手元に残ったボロボロになった下書きの紙は、魂の衝動が物質化したものだと思っている。

当然、今なんか書けるわけないし、もう一度書こうとしても書けないことがわかる。

そして、そこまでの衝動に駆られるのは、私からすると自分の生存理由に直結している。

命に関わる、今生この体を持ってまで生きる理由に結びついているから、普段からは考えられない力が勝手に湧いてくるし、その力に沿って動くことは理性的な社会常識からは大きく逸脱している。

とっても変だけど、そうせずにはいられないみたいな、物凄い強制力を持っている。

魂の衝動は、それを結実させるためならどんな妥協もしない。

どんなにおかしくてどんなに社会規範からズレていても、そんなのおかまいなしに体は勝手に動く。

そんな風にして迎えたある時のことが、そのボロボロになった紙には表れていた。




この数日、私は自分の中で決めつつあることが有る。

自分の中で答えを出したい。

その衝動が生まれてきた。

結果が自分の望むようなものにはならないことは、これまでの経過を見ても予想は立つ。

なんだけど、私が欲しいのは、結果そのものじゃないんだとわかってきた。

結果はものすごく欲しい。

合格と不合格というようなわかりやすい結果を伴うもので、そんなのは合格こそ本気で欲しい結果なわけで、私もはなから不合格狙いなわけない。

なんだけど、合格不合格ではなくて、とりあえず合格不合格の結果を出すために1つ動きたい、そういう気持ちがムクムクと湧いてきた。

やるだけやってダメなら、今度こそ私も本当に納得して前に進める気がした。

2年ぐらいかけて、自分の人生の特徴が見えてきた。

私の人生は、自分側の都合はあまり関与しない。

魂的な計画にのみ忠実に色んなことが現実に起こる。

だから普通にありえもしないことでも、私の人生の計画に沿ったものならどんな形であれ現実に現れてくる。

反対に、心からものすごく望んだことでも、人生の計画から逸れてるなら、どんなに望んだかは関係なく叶わないようになっている。

そこまでわかった時、私は自分の望みに対して「もう自分にできることは何もない」というぐらいにやりきりたいんだとわかった。

やってダメなものは仕方ない。

ましてや自分だけのことじゃないなら、余計と私側だけの都合では物事は動かない。

もう本当にダメならダメで、全てやりきってダメが私はいいんだと思うようになった。

やってダメなものはもう仕方ない。

これまで、もしかして…の可能性を100%否定できなかった。

限りなくゼロでも完全なゼロではない、とどこかで私はいつもそう思っていた。

だけど、ゼロだということを私は自分が本気で納得したい。

そう思うようになった。

今は日々その自分の決断が本物かどうかを自分に問いてる。

本当にそこまでして納得したいのか、本当にやりきりたいのか、それを問いかけている。

自分なりに向き合って、それで出た結果なら仕方ない。

気持ちは固まりつつある。

もうやるだけやって、それでもダメならそのダメな現実を受け入れて生きていこうと。




一応、このブログのたまりにたまった下書きたちを確認した。

この魂関連の内容に関係する下書きは1つもなかった。

もう十分書いた。

色々書いてきて、その時その時の気持ちで書き続けて良かった。

これも書けば良かった、とならないぐらいに私は書いた。

大概のことはこのブログのどこかに書いた。

それは私からすると、伝言板みたいなものだった。

伝言板に伝言を貼り付けておけば、見るかどうかはわからなくても、見ることになれば最低限何かは伝わる。

それに私はひたすら賭けて綴っていたようなものだった。

そうしたことを繰り返して、私の中で“もうそろそろいいのかもしれない”、初めて本当にそういう気持ちが生まれた。

ダメならダメだということをとことん受け入れよう、そういう気持ちになってきた。

そういうものに対して、自分なりの答えを出せるところにまで今来たんだと思う。

いきなり今日動いて明日になったらきれいさっぱり忘れるというようなものじゃない。

葛藤や悔恨に似た気持ちは、その後だって付いて回ってくるかもしれない。

割り切れない気持ちややるせないとなるものも今以上に出てくるかもしれない。

そうした可能性も全部含めて、「やるだけやったけれど、ダメだった」というのが欲しいんだと思う。

この2年ぐらいかけて、私はおそらく人生の断捨離みたいなことをしていたと思う。

人が普通にできることができない自分や、望んだものが叶わない人生の傾向に、本当にたくさんうんざりした。

何かを望んでも叶わない自分の人生に、私は何かを望むことさえあきらめ始めた。

元々あれもこれも叶えたいなんて、たくさん欲があるわけじゃない私にとって、数少ない本気の望みが叶わないことは猛烈にストレスだった。

叶わないことと自分の気持ちに折り合いをつけることがこの上なく大変で、だから望むことをしなければいいんだと、私はかなり消極的な流れに自分を置くようになった。

そんな私が何かが欲しいと自然になったのは、ものすごく珍しいことだった。

人生の断捨離みたいなことをすると、最後の最後まで残るものは相当限られる。

自分に残された色んなものはさておき、心から欲しいとなったのは、私の場合、今ある1つのことだけと言っても過言じゃない。

そしてそれは全く叶わないまま今を迎えている。

そのことに対して、「いつかはもしかして…」みたいなことを思い続けるのではなく、ダメならダメともうはっきりと自分の中で認めようかという気持ちを持つようになった。

そして、そのためにやれることは全部やって、それでもダメなら、私はもう変な期待はゼロになってそれを心に留めて生きていける、そう考えた。

本当に1ミリの余地も残さないぐらいやり切ったら、私は今度こそ本当に納得して「仕方ない」となれる気がしている。




紙束となった下書きを書いた時、今のような未来は1ミリも想像していなかった。

そもそも紙束がこんなにも長く尾を引くことは想定外だった。

本番の紙束が今はどうなっているのか知らないし、もう私が生涯を通じて二度目まして的なご対面を果たすこともないと思う。

振り返ればこの2年、外側の出来事は色んなことが起こりまくりだったけれど、私の内側は何一つ変わることなく一定だった。

ずっと同じことを望み同じ想いを抱き続けた。

そこは1ミリもぶれることなく、確固たる地位を築いて、がんばらなくても信念めいたものは勝手に貫かれた。

紙束が魂の衝動を物体化させたものなら、その衝動となった想いの部分はその時一瞬だけのものではなく、長くずっと変わらずに在り続けるものだった。

魂がこの人生を選んでくる時に「叶えたい」と願ったことなんだろうと思う。

色々飽きっぽい私を見て、すぐに楽な道を追い求めようとする自分自身を見て、こんなにも一途に同じものを追い求めるなんて、しかもそれが全く楽ではないむしろ望みのカケラもないようなものを追い求めるなんて、普段の私なら絶対にしないことだった。

そうまでする魂の衝動や魂の想い的なものは、今回この人生を生きようと決めた大元の動機で生きる理由そのものなんだと感じる。

だから今計画していることは、とてつもなくはちゃめちゃなことで、40歳の社会経験を積んだ私としては積極的に選びたいことじゃない。

むしろそんなことは、余計な混乱や迷惑を引き起こす可能性が多大にあるから、普通のテンションの時なら絶対に選ばない。

だから、これからしようとしていることは、そういう視点で選んでいない。

私の今の視点はこうなってる。

人生全体から眺めて、もうやるだけやりきって後悔ない方法を採ること、それが社会的に非常識なことでも、私が自分の人生に納得して生きていくのにどうしてもやっておきたいこと、そんな風な理由で選んでいる。

全部の可能性を試してそれでもダメなら、本当に仕方のないことだと思ってる。

私の場合、外側で起こる出来事はあまり自分で選べないのはわかった。

だけど、自分が選べることで、そして何よりも自分が望んでいることは、やらずに後悔していつか死ぬぐらいなら、アホみたいなことでもやりきって残りの人生を生きていくことの方が私自身が救われるんだと思っている。

自爆行為みたいなことでそこまで捨て身になってどうするのかと思うけれども、もうそこまで来てしまった自分がいる。

紙束の未来は、今これまで想像もしてこなかった結論を出そうとしている。

それこそ第二の魂の衝動期みたいなものを迎えているのかもしれない。

それでも私はその意に沿いたいと思うし、もうそれしか自分が納得する方法がないと思っている。

どんな結果でも受け止めよう、その意志は固まっている。

かなり迷惑度合いが高いことのように思うけれども、一生に一度のことだから許してください、などと勝手なことも思っている。

そして、これはもっと勝手な考えだけど、この2年見続けてきたものをベースにして考えると、今回の迷惑度合い予想、かなり高めなものも、相手は許してくれるんじゃないかとほんの少しだけ思っている。

無視されて終わりだとしても、私の見えないところでひっそりとそれをOKにしてくれるかもしれない…、と小さく期待している。

相手も一生に一度しか体験しないようなことなら、最後は許すことをしてくれるんじゃないかとひっそりと思っている。

そんな風に少しは思えるぐらいのことを積み重ねてきた今だからこそ、もう機が熟したのかもしれない。

終わりを覚悟するだけの心持ちになってきたし、自分がそれだけのことと時間を積み重ねてきたと感じているんじゃないかと思う。

「紙束の決意」ー色々書きながら、これをアップする数時間前に出てきた言葉。

私の中で決意が固まりつつある。

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