2017年12月25日月曜日

すべてが一期一会


昨日(12/22)の朝、久しぶりに朝太陽が顔を出した。

もしかしたらこれは行けるかも?と思い、朝墓参りをした。


5日前の自分にそれはそれは感謝した。


5日の間で降った雨のおかげで雪はだいぶ少なくなっていたけれど、それでもお墓に辿り着くまでには普通に30cm近くの雪は積もっていた。


5日前の自分が長靴でずぼずぼと足跡をつけたおかげで、そこだけが少し他よりも雪が少なくなっていて、そこにスニーカーをつっこみながらお墓の前まで行った。


スニーカーもズボンも濡れることなく無事お墓の前に辿り着いて、諸々色んなことを感謝しそして感謝以上のお願いをいつも通りしてその場を去った。


天気が良かろうと予想し、お昼休みはどこか近くに出かけようと決めた。


予想に反してお昼は曇り始めていた。


陽の当たらない車内は寒かった。


中にいた方が良かったかななどと思いながらも、車で15分ほどの農協の直売所まで行ってみた。


その帰り道、雲と雲の隙間から太陽が顔を出し、放射線状に光がもれていた。


空がとても神秘的な様相となり、そして走っていた国道は田んぼのど真ん中ということで視界が開けていたから、より一層空がよく見えた。


こういう時の私はいつも不思議な感覚になる。


農協の直売所は職場から遠いから普段なら絶対に昼休みの場所として選ばない。


仕事中に行ったのは、多分昨日が2回目ないし3回目だと思う。


だけど昨日はなぜかそこの気分で、もっと他に近くて静かなところがあるのにそこに行った。


わかったことは、そこに行かなければ太陽の光を真正面に見据えながら運転はできなかったということ。


他の場所たちでは、そちらの方を向いて運転することは絶対になかったから。


これを見るために今日は農協の気分だったんだなぁと自分の都合のいいように解釈した。


雨が激しく降ったかと思えば静かになったりとせわしない天気が午後も続いた。


16時半ごろ、物を取りに行ったついでに窓の外を見てみた。


それもタイミング良く、その時間にその窓の近くへ物を取りに行くことになった。


最初窓からは曇り空しか見えなかった。


その割にやたらと明るいからなんだろうと思って、窓のすぐ目の前に立ってみたら、なんと夕焼けで空が茜色に染まっていた。


それも全部じゃない。


本当に窓の前に立って見ないと見えないごく一部だけ。


今日はいいものを見させてもらえたなぁと感じつつ、師走+週末前で慌ただしい社内の空気とは一変してそこだけはものすごく穏やかな空気が流れていた。


外は暗くなり、会社をあとにした。


小雨もぱらついている。


いつもの会社を出てわりかしすぐの大きな橋の上で信号待ちをしていた。


突然気になったのか、何かあると感じたのかは忘れたけれど、私は自分の右斜め後ろを見た。


運転中、たとえそれが信号待ちの最中でも、自分の右斜め後ろを見ることなんかまずない。


だけど昨日はなぜかそちらの方を見た。


見たら、小さな小さな三日月が顔を出していた。


それも信号待ちの時間だけ、信号がそろそろ青になろうとした頃、三日月はまた雲に隠れて見えなくなってしまった。


今日は1日とても自然に縁のある日だなぁ、何か自然から呼ばれてる日だなぁと思いながら週末前のアフターファイブを楽しむべく次の目的地へと車を走らせた。


新刊の本の立ち読みのついでに、ノートを見てきた。


新しいB5サイズのノートが欲しかった。


使い道は決まっていないけれど、近いうちに新しいノートが必要になる気がしているから、それ用にとりあえず今のうちに買っておこうと思ってのことだった。


今月の頭の東京行きの時から気付いてはいたけれど、今B5のノートはそんなには売っていない。


ノートコーナーだけは足繁く通ってるだけあって、年々一見種類が増えていそうな感じなのに実際には種類が減っているのがわかる。


2~3年前までは選びたい放題というか、どれにしようか迷うほどに種類があった。


今は迷う前に種類がない。


Campusのような王道のノートではだめで、今しか売ってないようなノートを私は求めている。


要はそのノートが何の用途で使われたのか自分が見てすぐわかるように、あえてその時にしか売っていないようなデザインノートを選んでいる。


そう、いつからか時代の流れなのか、ノート業界も変わってきていた。


何年か前みたいに、B5のデザインノートを多数置いておくような時代ではいつの間にかなくなったらしい。


ふらふらする用事を足し終え、帰路に着いた。


家に着いて車の外に出たら、ものすごくきれいな星空が広がっていた。


これは流れ星見れるかも!と思う位のクリアさで、私はまたすぐに車に戻って流れ星スポットまで車を走らせた。


いつもの道で行こうとしたら、なんと途中からは除雪されておらず行き止まりになっていた。


なんとか車の進行方向を変えて元来た細い道を戻り、除雪されてるだろう大きめの道の方に向かった。


いつもの星空観察スポットに着き、車から降りた。


家を出てから10分15分ぐらいだったと思う。


そのたかが10分15分で空の様子はがらっと変わり、星の上を雲が覆い始めていた。


オリオン座もそれがオリオン座とわかる程度には見えたけれど、一部は雲に隠れていた。

流れ星はあきらめて家に戻った。


途中の道すがら、あるお宅の家の前にきれいなクリスマスイルミネーションが施されていた。


サンタもトナカイももみの木も色々あって、見てるだけでうきうきした。


私はすぐ近くの空いてるスペースに車を止めて写真を撮ろうとした。


なんと一度家に戻った時に荷物を下ろしたけれど、その時に携帯も一緒に下ろしてしまっていた。


これは写真に残したいと思い、携帯を取りにまた家に帰った。


往復で10分強だった。


そしてまたそのお宅の前と思しきところに着いたは着いたけれど、そのイルミネーションが見当たらなかった。


さっきとは逆方向なわけだから場所を誤っているかもと思い、もう100mぐらい先にまで行ってみた。


そうしたら目印の老人施設が終わってしまった。


あれ?と思いよく見渡してみると、暗闇にぼんやりと浮かんだサンタが見えて、そのお宅がイルミネーションを消したことを知った。

 


「今日という日は今日という瞬間にしか存在していない。

明日になったら今日は昨日のことになる。」

 

これは昨日イルミネーションのあたりでふと出てきた言葉を、車を止めてまで携帯のメモに入れたもの。


似たような日常が続くと、明日も今日と同じような日がやってくると勘違いする。


でも昨日1日、私は朝の太陽に始まり、昼間の空、夕焼けの茜色の空、一瞬だけ顔を出した三日月、種類が激減したB5のノート、星空、そしてクリスマスイルミネーションといくつものその瞬間瞬間にしか存在していないものたちばかりと巡り合っていた。


イルミネーションについて言えば、大学の頃友達と夜遅い時間にイルミネーション巡りをしたことと、10年以上前にまた別の友達と新宿の高島屋を反対側から眺めるようにして見たイルミネーションのことを思い出していた。


もうそのどちらも今この瞬間にはないこと、私の記憶の中にしか存在しない瞬間になってしまっていること、それを思い知った。


気付けば人生はすべてがそうやって成り立っている。


この間10年以上前につけていた3年日記の中の出来事も、30代の初めに参加していた社内の勉強会でのことも、もう今の私はそこにはいない。


そしてもう戻りたくてもその場所へは戻れない。


そこにいた人たちも風景も全部全部その時にしか存在していないものたち。


風景はもしかしたら変わらないかもしれない。


だけどその時に見たものと全く同じものを見るなんていうのは、実は人生でほとんどないんじゃないかと思った。


縁あって出逢えた人たちも、縁あってする仕事も、縁あって訪れる場所も、すべてが人生で一度きりのセッションで、もう二度とその瞬間は訪れない。


私は自分が長生きすると勝手に思い込んでいるけれど、仮にあと40年近く生きることになっても実はもうそんなに時間は残されていないんじゃないかと思った。


まだまだ見ていたいものも体験したいものもいっぱいいっぱいある。


それら全部をするとなると、人生で自分に残された時間はそんなにない。


生きているのが嫌になったり、朝を迎えると「また朝がきてしまった」と思ったり、そういう時間がものすごくたくさんあった30代だったからこそ、今やりたいことがあれこれあると自分の中で言えるのはすごく嬉しい。


私は当時の自分を見てもったいないとか、何やってんだか、とは思わない。


当時は当時で本当に必死だったから、そしてそこを抜けての今だからこそ、この色んな一期一会、人生の一期一会に気付けるようになった。


私にとっては必要な体験だったと思う。


そしてその時期をよくがんばってくれたなと思う。


あの時にじっとして動けなかった自分のためにも、今度は一期一会をもっともっとたくさん自分にプレゼントしたい、毎日の中の一期一会を大事にしたい、今はそんな風に思っている。

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