2015年7月5日日曜日

名刺についての雑感

名刺をひんぱんにもらうようになったのは30代に入ってからだ。

20代の頃は名刺を交換するような場に行くこともなかったし、自分が持つこともなかった。

30代に入って一度自分の名刺を作ったけど、それもまたいつだったか処分した。

持っていて害もないだろうけど、持っている意味が自分でもわからなくなりそれで手放した。

申し訳ないが、100枚近くはゆうに超えていた他人様の名刺もごく一部を除いて処分した。

人と人とが2回目3回目と会うのに、名刺ははっきり言って何の役目も持たない。

結局名刺を通して今もお付き合いのある人というのは、本当に一握りだ。

そして記憶も曖昧だけど、そういう人たちから名刺をもらったのは実は初対面ではない時だった

ような気がしている。

ある程度お互い気心も知れた頃に、「今さらだけど・・・」と言ってもらったような流れだったと思う。

今もNO名刺を通しているのだけれど、今回NO名刺の方が面白い行動を自分が取っていることに

気付いた。

ここ最近名刺をもらうことが続いた。

相手には「今名刺を持っていないんです」と伝えて、もらったのは私だけだ。

この後が、名刺を持っていた時とは全く違う行動を取っている。

相手の方に自分から連絡を取ったこと。

名刺があった時は、いつでも連絡が取れる=一生取らない、という流れだった。

でも今は名刺がないから、また何かの機会に会えたらなぁと思う方であれば自分から連絡を

入れている。

これには驚いた。

その場限りのやり取りになる可能性も高いけれど、ただ0回だったものと1回だったものとでは

全く違ってくる。

しばらくNO名刺を続けてもいいなぁと思っているぐらいだ。

余談だけど、過去から現在にかけて付き合いのある人たちとは、誰一人名刺交換をしていない。

名刺を交換するような場所ではないところで出逢っているというのが一番の理由だけど、

本当に縁のある人たちというのはそういう流れの方が自然な気がする。

さらなる余談だけど。

わたしが人生の中で一番かっこいいと思った名刺は、実は父の名刺だ。

30代に入ってから父にお願いして父の名刺を1枚もらったことがある。

父の名刺がかっこいいのは、会社名と会社の連絡先以外は、父の名前だけだからだ。

「ぶしまた」とふりがなは振ってあるけれど、それ以上は何も書かれていない。

肩書はあえて入れない、というのが父の主張だ。

肩書を入れてしまうと、相手は「○○」という役職の父と付き合おうとする。

父は営業の仕事をしているけれど、仕事の場でも「人間対人間」の付き合いが大事だと考える

から、そこに余計な肩書を入れるのは父のポリシーに反する。

もし肩書で仕事をすると、そういう仕事しかできなくなる、と言っていた。

そしてそういう仕事の仕方には限界があるとも。

名前一本、自分の体一本で勝負しようとしているその姿勢は本当にかっこいいと思う。

色んな人の名刺を見て、さらにそういうシンプルな名刺がとても少数派だということに気付いた。

自分の未来の名刺もそうでありたいと思っている。

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