2019年3月2日土曜日

奇跡の果実* Lesson4『自分を大切にする』

【自分を大切にする】をテーマに、いくつかやってきたメッセージがあるから、今日はそれを紹介。



>>>2月4日 立春

【自分を大切にする=相手を大切にする】



当時(立春のあたり)を振り返って感じたこと。

当時、困った人間関係の1つに、私の顔色を伺って相手の人が私と付き合おうとしていたことがあった。

付き合うというのは、男女関係とかではなく、人間関係全般においての付き合うという意味。

ところがここでおかしなことが山ほど起こる。

相手の人は私の顔色を伺っているようで、実際のところは自分の利益になることにだけ固執していた。

だから、自分の利益になりそうな部分には、過剰なまでに私に気を使うけれども、そうではない、相手にとっては取るに足らない部分には全くもって無頓着だった。

その無頓着さというのがその人の個性と言ってしまえばそれまでだけど、その無頓着さから出てくる言葉の数々が私にとって言葉の凶器になっていた。

私はものすごく思い悩んだし、相手が悪い人なら良かったけれども、とてもお世話になった人だったから、私の思い違いかと最初は思っていた。

だけど、手を替え品を替えじゃないけれど、言葉の凶器は想像もしていない会話からどんどんやってきてとどまるところを知らなかった。

私も私で、怒るのもどうかと思っていたのと、適当にやり過ごせば何とかなるのかな…と安易に捉えていたこともあって、しばらく放置していた。

放置というか、適当に流してるつもりでいた。

ところがもう我慢できないようなことが実際にあって、それを皮切りにどんどん不平不満が私の中で止まらなくなり、最終的に私は相手のお願いを全て断った。

今までしてもらったことを考えたら、恩を仇で返すみたいですごく嫌だった。

だけど、私がお願いを引き受けると、当然また会話が発生するわけで、その会話の流れですごい確率で相手が無意識にすごい言葉を私に言ってくる。

相手は自分のその発言を悪いとさえ思っていない。

しかも、発言の内容に一貫性がないから、もし相手がどこをどう気をつければいいのか?と私に聞いてきても私は答えられない。

唯一言えることは、私が大事にしている部分を相手は一切大事にしていないから、そういう悪循環が生まれていた。

色々分析してわかったことは、相手の人は自分のことを大切にできていない。

だから、相手の顔色を伺う行為は、相手のために見せかけておいて、本当は相手ではなく自分しか大事にしていない。

もっと言うと、「頭で考える自分の利益」の部分だけ大事にしている。

でもそんなことで人間関係が成り立つわけもなく、私は自分の地雷がどこにあるかもわからなくてだんだん会話そのものが苦痛になってきた。

自分の地雷もわからないのは困ったけれども、本当に最後の方は会話の度に何かしら相手が私の地雷を踏むという、これまでの人間関係であまり体験したことのない確率で不快になってしまうことが重なり続けた。

もはや私側ではなく、相手側に何か問題がある…、という風に視点が切り替わった。

それを機に、自分はどういう価値基準で人と付き合っているのかを見てみた。

私の場合、相手の顔色を伺うことはしない。

そんなの疲れるだけだから、そうしないといけない状況下の相手の時にはするけれど、普段はしない。(例・職場とか)

そうではない個人的な関係の時は、基本相手の顔色を伺うようなことはしない。

代わりに、相手を失うことが私は何よりも怖いから、相手が大切にしているものを自分も大切にするようには心掛けている。

相手が大切にしているものを大切にしないどころか、笑ったりふざけたりケチをつけたりなんてすると、相手を絶対に怒らせる。
(↑私は時々こういうことをされて腹が立った経験があるから、気をつけている。ちなみにそんな人たちとは人間関係が作れないから、深く付き合うこともない。)

だから、話を聞きながら「これこの人大切にしてるんだろうなぁ」というのは、何となく自分の中にインプットしておく。

私が同じものを好きだったり、興味を持っていたりする必要はない。

でも少なくとも、相手が大切にしているものに対して敬意を表すると言えばいいんだろうか、それはする。

反対に、内容がデリケートなものほど、まずは触れない。

個人の価値観によって答えが千差万別のものがある。

そういうものは、ものすごい確率で地雷がある。

自分の話はしても、相手のことは聞かない。

そして、自分の話をする時も絶対に相手と比較して自分の方がどうだということも言わない。

相手が気にしていることの場合、上げても下げてもどちらに転んでも危ないから。

例えば、「ぶっしーはポジティブだから」なんてことを普通に言ってくる人たちに私は聞いてみたい。

私は人といる時は楽しくしたいから楽しむことを優先しているだけであって、それイコールネガティブにならないのじゃない。

誰かと比較されても嬉しくないし、私が物事を「なんとかなる」と捉えるのは、そうでも思わなきゃやってられないことがたくさんあったからで、決してポジティブを目指したのじゃない。

人生で自分ととことん向き合わなきゃいけない時間を過ごした人たちは大抵明るい。

でもその裏側での壮絶な体験もあるから、そこを乗り越えての今だとわかる。

上手く言えないけれども、そういう人たちからもし私が「ぶっしーポジティブだね」と言われたら私は喜ぶ。←ザ・面倒くさい人( ̄∀ ̄;)。

話してるとわかる。

物事きれいごとだけじゃやっていけない!と知ってる人たちは、どこか言葉にやさしさが含まれている。

表面だけの私を見ていない。

表には出てきていない私のことを何となく予想している。

だけど、私を額面通りに受け取ってそれだけで判断されると、とんでもない他者からの評価を私は受けることになる。

そして、その評価が行き過ぎたもので、私なら何を言っても大丈夫なんていうすごい突拍子もない視点になって、そしていよいよ相手からの発言が容赦ないものに変わっていく。

私が言葉の凶器だと感じたものたちは、まさにそういうことたちだった。

相手はすごく軽くとって、私が必死で自分の思いを伝えてもそこはスルーされて、持論を展開されていた。

持論を言われれば言われるほど、私はとことん傷付いた。

私の心の深いところをグサグサとやってくる。

そこまでの状態になって、私は初めて目が覚めた。

その人と話すと毎回どっと疲れて、そしてすごい防衛心を働かせて、とにかくあらゆる攻撃から自分の身を守るみたいなことをしていた。

私は自分の身が持たないことに気付いて、言う必要のあることだけを伝えて、そして相手のお願いを断ってとにかく関係に線引きをした。

もうそうするしかなかった。

でもそこまでして初めて気付いた。

相手は自分を大事にしてないから、だから自分と付き合いのある人たちへの配慮がおそろしく欠けている。

例えば今回私から色々言われていてもまだ気付かないところが何回か見られた。

私が逆の立場なら、そんなこと言えない、思っていたって言えない、そういうことを平気で口にしていた。

指摘されていても尚のこと気付かなくて、私はよほど自分の言い方がやんわりし過ぎなのかと思った。

だから数回に渡って、私は自分が感じていたことを相手にそのまま伝えた。

もう関係性がどうだとか、お世話になったとか、そんなことたちよりも、私は私を守らないといけなかった。

相手との関係を切ることになっても、私は自分を大切にすることを選んだ。

私にとって、【自分を大切にする】ことの1つは、【自分にとって失いたくない人が大切にしているものを大切にする】ことが挙げられる。

もちろん人間だから互いにやらかす。

だけど、そこを見極める目を持つことが大事だし、私なんか特に色々変わっていて普通じゃないこともたくさんあるから、そんな私でもいいよ!そんな私がいいよ!なんて言ってくれる奇特な人たちのことは全身全霊で大切にする。

失いたくないから。

私の大切な人たちとヒビが入って終わってしまうのは嫌だから。

上手く言えないけれど、自分を大切にできると相手のことも大切にできる、そんな風に今の私は思っている。

そして、自分を大切にするために、どうしても切らなきゃいけない人間関係がある時は、もう勇気を持って切ることの大切さも今回学んだ。



>>>2月7日

【自分の中のすべてを認めること】


少しずつ、目をつむりながらでもいいから、
自分の弱いところ、
かっこわるいところ、
ダメなところ、
価値がないと思っているところ、
そうしたものをすべて自分の中に受け入れる



>>>2月18日

【ダメな自分を直すんじゃなくてダメな自分を受け入れていく】


ダメな自分を受け入れていくと、2つ大きな特典がもれなくついてくる。

1つは、どんな自分の時にも、自分は常に自分の味方になれること。

もう1つは、ダメな自分を受け入れられるようになると、自分の良いところや強み、長所、才能も受け取れるようになること。

ちなみに時間はかかる。

私は31歳からダメな自分を受け入れることをスタートしたとするなら、やおら9年近い時間がかかって今の状況。

私は不器用極まりないからそのぐらいかかっているけれども、今私の周りでその域に達した人たちもみんな10年15年やってまだまだと言っている。

だけど、それだけ時間をかけてもいい価値がある。

残りの人生、嫌だと思う自分から逃げまくる人生を思えば、向き合った方が早い。

そして、その方が突破口が見えてくる。

しかも感覚が麻痺するのか慣れなのか、嫌な自分をたくさん見れば見るほど、基本慣れてくる。

だから、最初の頃に比べたら、嫌な自分を見るのはそこまで苦痛ではなくなった。

しかも、慣れると同時に、「まぁ仕方ないか、この自分で生きていくしかないか」という悟りのようなあきらめのような気持ちも湧いてくる。

自分にダメ出しをし続けるよりも、よほど精神衛生上よろしいと私は思っている。

「ダメな自分を直す」というやり方は、私が子どもの頃から大人になって多分30代半ばまでやり続けていた。

何せ様々な不適応やら不出来なもの盛りだくさんだったおかげで、ダメな自分を直すことに関しては、相当な体験数を誇っている。

当然、それに伴い「ダメ出し」も「自己否定」もめちゃくちゃ得意( ̄∀ ̄;)!

そちらの方が得意だから、またいつでもそちらの自分に戻れる。

だけど、これは全く自分を楽にしてくれない。

常に葛藤と恐怖と不安と対峙してないとダメだし、自分がいつなんどきサボるかもしれないから自分を見張るみたいな、非常に骨が折れることも日常的にたくさんありまくる。

30代の半ばで、こんなことを続けていると私は一生自分が楽になれないし、心で感じるしあわせからも何だか常に遠いことに気付いた。

だから、直すのではなく、嫌だけどその嫌な自分を受け入れることを始めた。

やってみての感想。

受け入れる方が楽!!!(((o(*゚▽゚*)o)))

まず、自分自身と戦わなくていいから楽。

「直す」という行為は、細かく見ていくと、まずは何してるって【自分を否定している】。

【この自分ではダメ】だから【〇〇の部分を直そう】というのが心の深いところで起こっている。

これは自分を超消耗する。

もういくらエネルギーがあっても足りない。

でも【もうこの自分でいいか】となると、自分にダメ出ししなくなるから、エネルギーが真っ直ぐになってくる。

そして不思議とダメな自分が以前に比べて気にならなくなる。

しかも不思議なことに、ダメな自分を受け入れるようになると、周りからそのダメだと思っている部分を褒められるという謎のミラクルも起こる。

とにかくダメ出しするぐらいなら、その自分と仲良くしたり受け入れたりする方法を模索する方が何百倍も良い!



>>>3月1日

【自分を変えるんじゃなくて自分を知っていくこと】


『奇跡の果実⑧覚醒』より
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

自分に気付くこと
自分がどうしたいのか
自分にとって何が大切なのか
何が快で不快なのか
どんなことが喜びでどんなことが悲しみなのか
どんなことが怖いのか
何に対して怒るのか
何に涙するのか
そうした全てで形作られている自分というものに気付いていくこと

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



自分を変えることがやたらと推奨されまくりな世の中。

日本は特にその傾向が強い。

もちろん、周りに迷惑となるような自分をそのまま野放しにしておけという話じゃない。

何かしてもらってもお礼の1つも言えないのは困る。

誰彼構わずに当たり散らすとかいうのも困る。

そういうことではなくて、「自分を変えることで自分を良くしよう!」みたいな発想なら、それは違うと思う。

自分にダメ出ししまくりだった時の自分がまさにそれだった。

自分を変えることが自分を良くすることだと思っていた。

超もがきながらそれをした。

基本努力を要する場面が子どもの頃から多かった私は、努力することに関してはわりかし素直に取り組める。

「努力する才能がある」と子どもの頃の私を知っている大人たちが私に言うぐらいに、私にはそれが普通にできる。

でもある時気付いた。

良くすることは終わりがないし、そして年齢が上がれば上がるほど、虚しくなってきた。

黒い心を1つ例に出すと、私は何で誠実に生きている自分が結婚できなくて、何でいい加減な人とか性格めちゃくちゃ悪い人が普通に結婚できるのか、不思議でならなかった。

真面目に一生懸命に生きることが馬鹿らしいと思ったこともものすごい回数である。

自分を良くするとか自分を変えるとかって何?何のためにする?と思ってた。

でも、色んなことをやっていく中で気付いた。

「自分を知ること」の方が生きやすくなるのと、自分でも自分がスッキリした気持ちで生きていられる時間が増えることを。

私は自分の頑固さも知っているから、自分を変えようと思うととんでもなく大変だということがわかる。

そうではなく、「頑固な自分もいる」と知ることが、その自分と戦わずに済むし、そしてもっと素敵なのは「頑固な自分の活かし方」を自分のために見つけていくプロセスが楽しいということ。

頑固な自分が役立つ場面もある。

仕事なんかは頑固なところがけっこう良い風に活かされることが多いと思う。

上の『⑧覚醒』の文章の引用にあるように、自分が何が好きで何が嫌いとか、何が平気で何がダメとか、そういうのを知れば知るほど、自分のために色んなことができるようになってくる。

例えば、「死ね!」という言葉はダメで「ありがとう」という言葉が良いと一般的には言われる。

だけど、それはあくまで一般論で例外もある。

私は「死ね!」と言われながら相手が私を本当に好きでいてくれてるんだと感じたこともあれば、「ありがとう」と口では言われながらも相手は一ミリも私に感謝なんてしてない、むしろ目の前から一刻も早く消えてくれと思われてるだろう空気感を感じたこともある。

前者の「死ね!」に愛を感じて、後者の「ありがとう」に地獄を見た。

そういう微細な感覚は、自分にしかわからない。

私はそう感じても、例えば同じ場面でも人が違えばまたその人が感じることは私と違う可能性もある。

どれが正しくてどれが間違っているなんていうのはない。

私は世のスタンダードに合わせて、自分の感覚を否定する生き方よりも、多少?だいぶ?ズレていても自分の感覚を受け入れる生き方の方が自分が楽になれると知った。

しかも長い年月で培われた八方美人力を活かして、その場その場で相手に適当に合わせる術も持ち合わせているから、表面はいさかいがない方がいい時はそのように振る舞うこともできる。

そんな場面で我を出しても自分が針のむしろみたくなったり、余計な攻撃を受けるだけで百難あって一利なしになってしまう。

そんな風にはなりたくないから適当に合わせる。

だけど、本当に譲れないことは、自分を通すこと、そのやり方でいいんだとようやくわかってきた。

臨機応変に、適当に周りに合わせたり、反対に譲れない時は自分の気持ちを通したり。

まだまだその辺りは試行錯誤を繰り返している修行中の身だけど、前よりも自分の中の譲れないものが何かわかってきたからやりやすくなった。

そのためには、自分を何か別のものに変えるんじゃなくて、自分のことをどんどん知っていく方が手っ取り早い。

何が譲れないのか、何は絶対的に守りたいことなのか。

ちなみにそれらを知る1番のわかりやすい入り口となる感情は、私の場合「怒り」と「モヤモヤ感」と「違和感」。

このどれかが来た時は、これからは注意して見ようと思っている。←まだここ2〜3日で気付いたばかりだから、実践編に移れていない。

とにかく、私の中では絶賛自分を知ることフェアになっているv( ̄∀ ̄)v!!

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