2019年3月14日木曜日

奇跡の果実▷ウラ話⦅15⦆魂からの司令







[写真説明]
1枚目:3/14の朝、布団の中から撮影した空

2枚目:Sさんが香港に行った時に私のブログを読んでくれた、その証拠写真(この後の内容の一部に関係してくる)

3枚目〜5枚目:ある秋の日に、魂の賭け事をした川のあるスポット。4枚目の右側にピンクの線が入っている!(←私の中では「ラッキー」なものとして捉えている)



【はじめに】
今日のウラ話は本当に単なる私の超個人的備忘録で、メッセージもLessonも皆無です。

題名の『魂からの司令』は文中で使った言葉をそっくりそのまま持ってきただけで、教え的な深遠な意味はありません( ̄∀ ̄)。

最後に、作家の田口ランディさんの文章を引用したところだけが唯一素敵なお話の部分で、他は武士俣史子記録オンリーです。

Lesson(メッセージ)と本編残り1つは書き上がり次第アップの予定です(←どちらもまだ何も書いてない)。



>>>2019/03/05

ウラ話なんかしてる暇があれば、早く本編書けよ!という話なんだけど、3週間も前の記憶が曖昧で書けない。

Sさんとのやりとりだから、Sさんに5分で終わるから電話くださいとお願いして、今待機中( ̄∀ ̄)。

(注釈:この時は、『奇跡の果実(20)天からの贈り物を預かったお母さん』を書いている時だった。)

私、ある意味天才かと思ったけれども、自分が意識的に動いたものはしっかり記憶にあるけれども、そうではないものは忘れてる。

今回ももれなくそうで…と書いてたら思い出してきた。

チェックしたけれども、やっぱり情報がない。

電話を待つことにしよう。

ところで、一応これ以上何もなければ、今のところ予定としては

・ギフテッドのAくんのお母さん側のストーリー
・ギフテッド親子とやりとりして見えたストーリー
・『⑧覚醒』の解説
・色々やってきたメッセージたち
(多分最低でも3つぐらいの記事に分けると思う)
・カルマの解消
・自分の才能や資質について思うこと
・『覚醒』の文章によってもたらされたたくさんの人生のストーリー

を書いたら終わる予定。

ざっと数えてあと10記事もあることに絶句。

しかも1つ1つ情報が満載過ぎて、書くのも1日かかっても終わらないものが多い。

本当にかなり書いてる。

1日8時間とかそれ以上の時間ひたすら書いてる。

最後の『覚醒』からもたらされた人生のストーリーなんて、何人の人たちの話があの中に出てくるのか、怖くて数えられない。

しかも、1人1人の内容がボリューミー過ぎて、1つの記事にすべて収まるのか?という疑問まである。



それはそうと、こちらはサクッと。

実は今日初めてカードを使って「マンスリーリーディング」的なものをした。

いくつか他の人たちの3月のメッセージをすでに見てはいたけれども、自分でもできないものかと思ってやってみた。

見様見真似でやったのに、いきなり超できてビックリした。

カードが得意なのはなんとなくわかる。

しかも、天体の動きもわかるから、それと連動させて考えることができる。

そこにもう1つ私には最強の強みがあって、そのメッセージに則したストーリーが書ける!

「天才・:*+.☆٩(( °ω° ))و .+.:*☆」とか思った。

しかもストーリーは、現実にあったことだから、それをひたすら書けばいいという。

構成は考えないといけないけれど、内容はあったことを書けばいいだけ。

だから考える必要もない。

しかも(o´艸`)。

ストーリーは、スピリチュアルだの心理だの自己啓発だのそんなの知らない人でも読めるような、誰の日常にも起こりうる内容だから、そこからヒントを得やすいことだと思う。

『3月のメッセージ』は概論だとするなら、ストーリー側はメッセージの具体例になる。

この組み合わせ最高!と思った←自画自賛。

本当は、他のプロの方たちのメッセージも一緒に組み合わせようかと思ったけれども、自分のカードとかの読み解きだけで十分だった。

自分の読み解きからいくらでもヒントを引っ張ってこれるとわかった。

(注釈:『3月のメッセージ』は、3/6アップの『奇跡の果実(19)傷を癒す』にあります)



【2019/03/05分に関して追記…3/14】
ギフテッドのAくんSさん親子の話は完了!

Lessonは少しずつアップ中。

だから、あといくつ書くかは知らないけれど、『奇跡の果実』シリーズに関しては残り10記事以下なはず。(←切望W( ̄^ ̄)W)

あと、「カルマの解消」なんて言葉をしれっと書いたけれども、これも私流の解釈だから、超現実的な話や自分なりに「これがカルマの解消なのかな!?」と思うことを書く予定。



>>>2019/03/14

カーテンを開けた上には青空が広がっている。

昨日の朝すごく晴れたかと思えば、午後からすごい突風で、そして夜には雪に変わった。

一夜明けたら、路面や屋根に少し雪は積もっているものの、空は青空が広がっていて、風もなく、なんとなく穏やかな感じがする。

今日はLessonを書く予定でいるけれど、少しだけ別の話をここに残そうと思う。

はっきり言って、『奇跡の果実』とは直接関係ないけれど、大切な話。

「大切」というのは、私個人にとってとても大切だということ。



0.01%もない可能性に賭ける時というのは、叶ったらそれは「奇跡」としか呼べないぐらいに叶うわけない、と最初からあきらめているところがある。

もちろん、叶って欲しいけれども、叶うと信じて叶わなかった時の失望感や絶望感を味わいたくなくて、それで最初から自分が傷つかなくて済むようにあきらめている。

1年半前の私もそんな風だった。

私はこのブログに関して、特別意味を込めて書くということがほとんどなかった。

最初こそ、誰でも見れるインターネット上に書くというのは勇気が必要だったけれども、慣れてくると何ともなくなって、基本的に気にならなくなった。

名古屋を後にする時にネットの解約をして、「ネット接続がない」という理由でそこから私はずっとこのブログを休止させた。

最初は気になったけれども、そのうち書いてないことさえ意識に上らなくなり、ついに私はもう自分は書くこと全般を止めたのかと思ったぐらいにブログに触らなくなった。

書くことは何もブログだけじゃなく、日々の手書きの記録なんかもすべてストップした。

今考えたら少し不思議だけど、ストップしていても何も気にならなかった。

日常に忙殺されれば、書かないことが支障になることはなかった。

むしろ、他のことたちに時間を向けられたから、それで私は良かった。

そんな私がブログを再開したのは、「書きたい」とか「発信したい」とかそんな普通のブログを書くような理由ではなかった。

99.999999999999…………%は起こりそうにもない、起こる気は一切しない、だけどその可能性に私は賭けた。

たった1人に届くことを、伝わることを私は本気で願った。

私は「書く」という手段を選んだけれど、他に選択肢があれば書くことはしなかったと思う。

とにかく、何でもいいから伝える手段、届ける手段が欲しかった。

そして、どんな風でもいいから繋がっていたい、その一心だった。

その気持ちだけで再開したブログだった。

最初は家でパソコンで打ち込んで、それをネットカフェに持ち込んでアップする方法を採っていた。

ただ行って帰ってくるだけでも車で往復50分、それにプラスネットカフェでの時間、時間もお金もかかる上、いつもまとめて何記事も一気にアップする、色んな方法がよろしくなかった。

もっとその時その時ですぐに書いてアップできる手軽さが欲しかった。

そこで、iPhoneのメモに直接打ち込む方法でいけないかと、得意ではなかったiPhoneでの書く操作に慣れることにした。

私はこんなに長い文章でも、今は基本的にすべてiPhone1台で操作している。

慣れとはすごいなぁと感じる。

そんな風にして再開したブログだった。

ミクロの世界の確率に私は賭けた。

勝算なんか全くなかったし、私は伝わるとも正直なところ思わなかった。

ただ、書かなければゼロだから、可能性を引き出すためにも書いた。

ただそれだけだった。

何とかして色んな想いや気持ちも含めて実際にあったことを伝えたい、その手段として私はブログを選んだ。

ここ数日思った。

望んだ形とは違うけれども、繋がるには繋がった、それは言い方を変えると、1年半前に絶望的な数の確率に賭けた私の願いが叶ったことだということ。

これまでは怖くてそんな風に思うことをとことん避けていたけれども、ここ何日かその避けていたことに目を向けてみた。

その人もその人で、私のことや自分のことに向き合いたい何かがあるんじゃないかなと。

その人が私のブログを読むのは、その人にしかわからない理由があるにしても、その何かしらの理由で読むには読んでる。

でなければ、こんなにダラダラと長いブログを読むなんて、普通はしない。

特に『奇跡の果実』シリーズは、容量として1つ1つが長い。

時間がかかるし、これは本人の意思がないと絶対に読まない長さになっている。

というシリーズものを発動させて、まぁ相手はそれ以外の方を実にピンポイントで読んでる風ではあるけれど(←エスパー史子ではなく、現代のテクノロジーはどの記事が読まれたかをいちいち算出する機能が最初からブログの中に付いている!)、そうやって私は知ることになった。

冒頭の写真は、現代のテクノロジーの力を表すもの。

写真は読者の方の国別の場所の詳細になっているけれども、それとは別にどの記事が読まれたかバージョンもある。

それによって、読んでくれてることを知れるようになった。

もしこれが最近の記事だけならそんな風には思わなかった。

だけど、その相手が読むものは、『奇跡の果実』も読んでるかもしれないけれど(さすがにそれぞれの記事が誰に読まれてるかはそんな機能がないから知らない)、それ以外の記事、その人以外誰も読まんでしょ?みたいなのを読んでいるのがわかって、それで私の方にも思考の変化が生まれた。

その人が過去に書かれたものをわざわざピンポイントで読む理由。

それは、その人も何か伝えたい言葉があるんじゃないか…ということ。

「好き」とか「愛してる」だのそういうことを言っているのではなく、その人も本当は口にしたい言葉があったんじゃないか…、そんな風に感じる。

『奇跡の果実』は一応私なりにキャッチしたメッセージを盛り込むように気をつけて書いてはいるけれども、それ以外の私のブログははっきり言って生産性がない。

読んだから得するような内容ではないし、ブツブツと独り言みたいなことばかり書いているしで、読者の方たちからすると意図して「読もう!」としないと読めないものだと思う。

しかも宣伝もしていないから、読む人は相当限られている。

そういうものを読む理由、しかも昨日今日の話じゃない、多分ずっとコンスタントに読んでくれてる理由、それを想像するとただ読みたくて読んでるのとは違うと思う。

私のことを知りたいから読んでる…ともしするなら、それもあるのかもだけど(そうであって欲しいけれど)、それが全ての理由というのとは違うと思う。

そういう理由もあるかもしれないけれど、それ以外の理由があるんじゃないかなと思っている。

私は過去に色んな人たちのブログを読み漁りまくったからわかるけれど、基本的に同じ記事を2回ないし3回も読むことはごく稀にあるけれど(←そんなのよほどでない限り私はない)、基本的に二度も三度もは読まない。

それもたとえ読んでも、せいぜい2つないし3つぐらい。

私が二度三度読むものは、レシピか心理系の話かルノルマンカードの読み解き方ぐらいなもので、すべて実用性のあるものに限られる。

読み方は人それぞれだけど、この私の書いたものたちは、2回3回と読む実用的な意味など皆無に等しい。

『奇跡の果実』シリーズはまだメッセージ性の高いものもあるからわかるけれど、そうではない記事たちは本当に実用性ゼロにしか私には見えない。

そう思うと、その人が読む理由は私を知りたい云々よりも、もっと別のところにある気がする。

で、私なりに考えたことは、「その人も言いたいことがある」んじゃないかということ。

その人は表現することや伝えることを、私の前で徹底的に避けた。

私は当初嫌われてるから避けられたと思っていた。

私のこと本当に嫌なんだろうなぁ、そう思った。

でも本当に嫌ならブログなんか読まないだろうし、怖いもの見たさで読むにしても、この長くて起承転結のない話を読むのは、人によっては苦痛の他ならない。

ましてやその人はバリバリの理系の人だから、普段は白黒はっきりとした世界にいる。

私が書く、曖昧でオカルト的な見えない世界や心という掴み所のない話は、その人からしたら遠い外国よりも遠い世界なんじゃないかと思う。

それでも読んでくれてる理由は、多分その人が自分のために読んでるんじゃないかな…と想像している。

自分の中の何かを満たしたり何かを感じたりするために。

1年前、オルゴナイト(=各個人専用のお守りみたいなもの)がもう手に入らなくなると知って、私はその人用に買いに行ったことがある。

基本的にそういうことはしないけれども、その時は色んな事情を加味して、それが一番良いと考えたからそうした。

普通に考えて、アラフォーの独女が自分の気に入った男性、しかも食事に行こうと誘って断られ、個人の連絡先も知らない、転勤に伴いもう会うことも叶わない、その人に向けてひっそりとお守りを買うなんて、おかしいを通り過ぎて、恐怖さえ感じる変質者並みの異常な行動だと思う。

自分でも今言葉にしてゾッとしたΣ(゚д゚lll)!

その世間一般の価値観からしたらおかしいのは重々承知で、だけどそんなおかしなことをした私側の言い分もある!

私は自分が出逢ったオルゴナイトだけは、本当にパワーをきちんと持っているものだと確信している。

枯れかかっていた花が、たまたま一晩オルゴナイトをその近くに置いたら、なんと花が復活!とか!\(◎_◎)/!

本当に120度〜150度ほど垂れ下がった花が、たった一晩でピンと起き上がったわけだから、私は最初見た時度胆を抜かれた。

他にもわかりやすい変化として、手元にあるパワーストーンやパワーストーンのアクセサリーは全て色が濃くなったり透明度が増した。

パワーストーンの色が変わるなんて聞いたことなかったから、私は最初気付いた時、とうとう自分の頭がいかれたのかと思った。

超現実主義派の妹さえも、「どうしたのこれ?(´⊙ω⊙`)何したの?」と言ったぐらいに、本当に色が変わった。

3センチほどの小さなものなのに、異常なパワーを発揮するから、それで私はいつかその人に再会できるなら、プレゼントしたいとは思っていた。

「再会できるなら」と考えることもものすごくツッコミどころ満載な発想だけど、それもそれで私なりにそう思った理由があるけれど、それは長くなるから割愛。

だけどそんなのいつになるかどころか実現するレベルにさえなかったから、頭の片隅にあるぐらいで、普段は意識にも上らなかった。

ところが、オルゴナイトの製作者の方がもう作らない=あるのは売られている分だけと知って、それで慌てて買いに行った。

万が一再会できても今度はオルゴナイトがないと思ったから。

世の中に無数のオルゴナイト作家さんがいるけれど、その方が作るものみたいに本当に力のあるオルゴナイトは多分とても数少ないと思う。

ネットで見る限り、そんなに高いクオリティーのものは見当たらない。(他の人たちが作ったものは、その作り手の念とか変なこだわりを感じて、オルゴナイト本来の力が掻き消されている感じがする)

だから、他の人たちが作ったものでは意味がない。

「もう今しか手に入らない!、生涯を通じて今だけ!」そう思ったから、私は居ても立っても居られずすぐに買いに行った。

私は40個近いオルゴナイトの代行購入や買物の同行をした。

ところが、自分の分とその人に選んだ分以外で、見た瞬間に「これだ!」となったものはなかった。

私は妹の分さえ、なぜそれが妹のものなのか見ていても何1つ感じるものはなかった。

私はこれだけは自分に何かその時だけ霊能力でも授けられたんじゃないかと思うけれども( ̄∀ ̄)、本当にその時は瞬時にわかって、そしてなんとその瞬時にわかったものはその人にこれ以上ないぐらいピッタリの意味合いのものが選ばれていた。

店やネットで調べたそのオルゴナイトに使われている天然石の意味を読んでも、「何でこれ?」とずっと思っていた。

いまいちピンとこなくて、まぁ本人はわかるだろうと思った。
(他の代行購入した分については全員効能を手書きで書いて送って、それぞれの人たちがピッタリの自分のテーマに合うものがいったことを後から教えてもらった)

それがその数ヶ月後、たまたま手にしたパワーストーンの本で、その石の別の意味を知った。

本当にまさしくだけど、「コミュニケーション」「自己表現」「自分の言いたいこと思っていることを表現する」みたいな意味のもので、あまりにもピッタリなテーマでビックリした。

こんなこと言われたくないとは思うけれども、私は気にならなくても、本人は自分の外に出す言葉数の少なさや社交的かそうでないかとなればそうではない方だということを気にしているような気がする。

そういう意味で、本当に私はその時だけ霊視でもできたのかと言わんばかりに、本人のテーマにピッタリのオルゴナイトを選んでいた。

ちなみに、言葉数の多い少ないは、私はそれは「外に向けて出す」言葉数だと思って見ている。

外に向けて出す言葉が多いからと言って本音を語っているとも限らないし、外に向けて出す言葉が少ないからと言って何も感じないとか思わないのとも違う。

私なんかは本音の部分になればなるほど無口になる傾向が強いし、話すなら話すで人も選ぶ。

その人は私以上にその傾向が強いだけの人だと思う。

私は人生の中で本当に喋らない人には1人しか会ったことがない。

全く喋らないわけではなく、3年ほど日常的にやりとりした中で全部の時間を足しても1時間未満しか言葉を交わさなかった。

しかも喋らないわけではなく、非常に特殊なコミュニケーションを取る子で、その特殊なコミュニケーション(代表例・相づち)で3年ほどはやりとりしたし、その後町でバッタリ出くわした時も私が一方的に質問して向こうは相づちで返すというやり方での一方的な会話は持った。

話が逸れた。

その子以外は、どんなに言葉数が少ない人でも、話してみると実は色んなことを思っていたり感じていたりするのがわかるし、むしろ外に出さない人の方が敏感に色んなものを真っ直ぐに感じていたりする。

感性に優劣はないけれども、言葉で多くを語らない人たちは、往々にして素敵な感性や深い洞察力を持っている。

その人も、言葉数が少ない=何も考えたり思ったり感じたりしてない、ではなくて、言葉を多く発さない裏側で実はとてもたくさん色んなことを感じているんだろうなぁというのは想像がつく。

そしてその人がまとっている空気感を思うと、その人が裏側で感じているもの、深い意識の部分で感じているものは、ものすごく真っ直ぐで混じり気のない透き通ったものなんだろうなぁと思っている。

オルゴナイトというのは、持ち主の潜在的な力を引き出すことも手助けするとされている。

もし本人がその本人の持っている感性をもっと上手く外に向かって出せるようになりたいと考えているなら、これまたピッタリなものだと感じる。

どういう繋がりかはわからなくても、本人が苦手とする部分と私のブログとがリンクしているのかな…と勝手に想像している。

だから私のブログを読む、のかな…?

本当の理由は知らないけれども、とにかく書いて書いて書きまくって本当に良かった。

もし私があの時書かなければ、今はなかった。

自分でも何を書いてるんだろう…?と否定的に思ったことも何百回とあったけれども、それでも書いて良かった。

今こんなに大量に書けと言われても無理だから、書ける時にコツコツと書き続けてアップして良かった。

私が今思うのは、このブログを再開したのは、「魂からの司令」だったのかなと感じる。

おかしなことてんこ盛りだったからその時は「こういうシンクロがいくつも重なることってあるんだ」と思って終わりにしたけれども、今考えたらそんなにもたかが数分で私をブログ再開に至らせるパワーを持ったシンクロが重なること自体異常だったとわかる。

でもそこまでのものを見せないと私みたいな人は動かないから、だから見せられたんだと思う。

「書きなさい」って。

「その人に向けて書きなさい」って。

多分そうだ。

あれは魂側から伝えられたことだったと思う。

今でも覚えている。

突然、「ブログ」、って出てきた。

私は最初、「えっ∑(゚Д゚)?」ってなった。

「ブログ書くの?えっ∑(゚Д゚)?何言ってるの?」と頭の中で1人自問自答していた。

そうしたらその後にいくつもその人にまつわるものを道中立て続けに見て、それでようやく書く決心がついた。

で、これも私のまたすごいぶっ飛んだ考え方だけど、その人からしても何か自分の人生のテーマでやらないといけないことがあるんだと思う。

その1つのヒントなのかきっかけなのか何なのかが私のブログにあるのかな…と勝手に思っている。

ちなみにここ数日、多分春分の日前後まで「魂の叫び」はテーマらしく、全然関係のないブログたちを読んでいるのに、やたらとみんな「魂側からのメッセージ」だの「魂の叫び」だの「魂が本当に望んでいること」だのと言葉が並ぶ。

「魂祭ですか?」みたいな( ̄∀ ̄;)?
(「魂祭」命名は私だから、特に意味はない)

今具合悪くなってる人たち、特に心の方、自分のドロドロした見たくないようなものが噴出されてる方、それがどうも正しい流れの模様。(←私もドロドロ祭の真っ只中( ̄ཀ ̄;;))

ドロドロを吐き出して、純粋なものだけが残るようになってるらしい。

少しだけお役立ち知識を!v( ̄∀ ̄)v←得意げ

何年か前から私は春分の日近くになると、毎年体調崩して、すごいメンタルも下がったり、心も体も低空飛行するパターンが続いていた。

で、やっとその意味がこの1年、占星術を学んだことでわかった!

春分の日というのは、天体の運行の上では「元旦」に相当する。

(スピリチュアル的な何かを発信している人たちの中には「宇宙元旦」と言う人たちも多数いるけれど、そんなスピリチュアル的な表現要らないから、はっきり言ってあげたらいいのにと私なんかは思っている。)

昼と夜の長さがピッタリ同じになる春分の日、しかも長い冬が終わって春がくる、単純に考えて冬ごもりしていたところから花が咲き乱れるようにエネルギーが動き出す流れに入るわけだから、天体上のエネルギーが大きく切り替わる。

秋分の日と違うのは、秋分は「動→静」に対して、春分は「静→動」になる点。

そして、春分は12星座がぐるっと1周してまた牡羊座に太陽が戻ってくる日。

暦で言うなら、大晦日を過ぎて元旦を迎える、まさに1年の始まりに該当するのが、春分の日。

そして、占星術では春分の日の天体の運行状況を見て、そこからその後の1年の政治や経済、国際社会の動き、国交なんかを見るぐらいに超重要視されている。

だから、表には出てこないけれども、どの国のトップも、天体から読み解ける時代の流れを超機密情報として使っていると思う。

日本は怪しいけれども(←時代[=天体]の流れに逆らおうとしているから、色々問題が勃発しているように見える)、諸外国では普通に天体情報を政治や経済に絡めて予測することは往々にしてあるとのこと。

だからと言ってはなんだけど、魂のテーマは今後ますます出てきやすいと思うし、それに向き合わざるを得ない流れにも入ってくると思う。

だからこのブログの話は、私にとってもその人にとっても何かしら個々のテーマと向き合う1つの道具、きっかけみたいなものなのかもしれないなぁと思っている。



時間置いたらいくつか出てきたメッセージ。


*「可能性に賭けた」というのは「可能性を信じた」ということ。


*自分のためにリスクを取る。
普通に考えて、アラフォーの独女が自分の気に入った男性、しかも食事に行こうと誘って断られ、個人の連絡先も知らない、転勤に伴いもう会うことも叶わない、その人に向けてひっそりとお守りを買うなんて、おかしいを通り過ぎて、恐怖さえ感じる変質者並みの異常な行動だと思う。

色々おかしいとわかっていても、あの時に私がそのおかしいことに対してのリスクを取らなければ、今は絶対になかった。

自分だけの価値観で自分のために何かを選ぶことは、本当に大事なことだなと最近は特に思う。

反対に、自分の価値観を信じて「選ばない」ことも今後ますます大事になってくると思う。

要は、社会的に「良い」とされるものでも、自分が納得していなければその良いものをあえて選ばないことが今後ものすごく大切になる。


*自分の感覚を信じる。

オルゴナイトを迎えに行かず「あの時行っておけば…」と1年も悶々としなくて良かった!

自分の中で、とにかく「今しかない」と思って、それで行っといて良かった。



これどうやって終わらせようか…と答えもなく、ウラ話にしていいのかさえわからない。

ただ、私のこの話に最後までお付き合いいただいた方たちにせめて1つは良いものを渡したい!という私のわがままで、最後に田口ランディさんの文章を紹介して終わりにしたい。


(以下、引用)
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みんな一人では生きていけないから、誰かといっしょにいたい。好きな人といっしょにいたい。そして心を通わせたい。それなのに、やっぱり一人。必ず一人ひとり。
大好きな人の苦しみを代わってはあげられない、痛みを分けてはもらえない。
できるのはただ、相手の力を信じること。
そばにいますと呟(つぶや)くこと。
そして、微笑むこと、辛い言葉に耳を傾け黙って聞くこと。
許すこと、放すこと。
おせっかいをやくことは、あんがいと簡単。
難しいのはなにもしないこと。なにもしないで、ただそばにいること。
そばにすらいられないときは、祈ること。


長く生きていると、別れは必ず来ることに気がつく。いやおうもなく気がつく。人はそれぞれ風のように生きている。思うがままに。だから、つなぎ止めることはむずかしい。いまもし、好きな人といっしょにいられるなら、それはこの世の奇跡です。思いは永遠ではないし、世界は常に変化し続けている。人もまた変わっていくしかない。それが形をもったものたちの定め。


でも、救いはある、そう思う。
形あるものの背後には、形なきものがある。そうでなければ形は在りえない。この世に物質が存在するのは、物質でないものがあるから。コインの裏と表のように。
たとえばそれを仮に、魂と呼んでみようか。
魂は、今日出会い別れても、何度でもまた出会うことができる。
魂には記憶がないから。魂はいつもまっさらだから。
変わることに身を委ねれば、無限の出会いの扉が開く。


『ソウルズ(魂たち)』田口ランディ

〜あとがき『明日あなたと、出会いたい』より〜

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