2016年2月14日日曜日

弱った時に食べたいもの

昨日の土曜日は、ほぼ1日中布団の中で過ごした。

寝る、食べる、携帯を触る、その3つを延々と繰り返していた。

最初に食べたのは、いつか手作りした冷凍餃子を焼いたもの。

12個程食べたけど満腹感は得られず、布団の中で何だったら面倒がなくすぐに食べられるかを

思案した。

次に登場したのは、実家の名産の大きな油揚げ。

大きさで言えば、B5サイズの紙を縦半分ぐらいにしたもので、厚さは3cm程ある。

ボリュームたっぷりのもの。

それも冷凍庫から1枚出し、レンジで軽くチンをしてからフライパンで焼いた。

ネギと生姜を刻み、かつおぶしもかけて醤油をたらした。

またしばらくするとおなかが空きだしていることに気付いた。

そうだ、柿の種があったはずと思い、菓子袋をのぞくと柿の種が6パックの1袋だけ残っていた。

そのまま布団の近くにまで持ってきて、ぼりぼりとむさぼった。

またしばらくするとおなかが空いて、頭の中で冷蔵庫冷凍庫乾物たちを思い描いた。

次に思い付いたのは、トースト。

山型の食パンに、今はまっているイオンで半額で出ていたフランス産の発酵バター、そして義理の

弟が手作りしたりんごジャムがある。

ちなみに弟手作りのりんごジャムは、わたしは自分が今まで食べたジャムの中で1番おいしい

ジャムだと思っている。

パンを2つに手で割って、バターと最後のりんごジャムを楽しんだ。

またしばらくするとおなかが空き、また冷蔵庫冷凍庫乾物を頭の中で想像する。

こうも寝てばかりだというのに、何がどうしておなかが空きまくるのだろう。

もうストレス最高潮としか言いようがなかった。

すぐにできるものということで、干し芋が冷蔵庫にあるのを思い出した。

これは義理の弟の茨城の実家より我が家へ毎年贈られてくるもので、父と母は好んで食べず、

わたしは毎年ありがたくいただいて帰ってくる。

そして最近のブームは、干し芋にチーズをのせてレンジで温める食べ方だ。

そうやって干し芋をおなかに収めた。

それでもまた少し経つとおなかが空くのだった。

次はいい加減何かしら買いに外に出るか、もしくは家にあるものでちょっと手を加えて食べるもの

ということになった。

しばし一人でああでもないこうでもないと考えた。

1日食べ物以外のことで生産的な考え事は1つもなかったことに気付いた。

それでもおなかが空くのは変わらない。

ふとそこで、「白米が食べたい。炊きたてのご飯に梅干し、味噌汁がいい」と思った。

そこでよいこらしょと起き上がり、ごはんの準備をした。

簡単に米を研いで、あとはスイッチを入れるだけ。

梅干しは、今回は料理上手な友達からもらった紀州のはちみつ漬けの梅干し。

味噌汁も1から作るのは面倒で、お湯だけ沸かし、お椀に顆粒だしと小さな泡立て器に味噌を

からめたものを入れておいて、お湯を注いで味噌を溶かし、そこに先ほどの友達が一緒にくれた

伊勢湾産の乾燥のあおさのりを浮かべることにした。

食べすぎな感は否めなかったけれど、一口ごはんを食べて味噌汁を啜っただけで感動した。

体に熱と力が行き渡るような感覚で、これを体は求めていたんだなと思った。

食べている途中、先月母が米と一緒に送ってくれた母手作りのたくわんも切った。

しばらく食べずにいた間に、良い漬かり加減になっていた。

本物のご馳走たちが木のテーブルの上にようやく並んだ。

餃子も油揚げもトーストもどれもご馳走だけれど、体と心が弱っている時はもっと根本的な何かを

体は求めている。

基本的にわたしはおなかを悪くしない限り、そして精神的ダメージ100%位のことが起きない限り

普通に食欲がある。

熱が出ても平気でごはんを食べる。

わたしにとって食欲がなくなったら、大真面目に体は赤信号を出している。

だけど昨日のような黄信号の時はわからないことが多い。

食欲はある。なんだったら、昨日のように食べても食べてもおなかが満たされないことだってある。

自分でもストレスの方が自分の抵抗力を上回っていることは重々承知していた。

だけどそういう時は、思考力も体感覚も低下していて、本当に食べたいものが何かすぐには

わからないようになっている。

昨日も延々と回り道した結果、白いご飯と味噌汁が一番体が欲していたことがわかった。

こういうものって特別じゃなくていいんだと思う。

子どもの頃から繰り返し繰り返し食べ慣れたもので、そして一番大事なのは、食べた瞬間、

「ほっとする」

そのことだった。

ごはんを味噌汁を口に入れた瞬間の「ほっとする」感覚は、体と心が弱っている時こそてきめんに

表れる。

普段の味覚とは全く別次元で、心が本当に生き返る感じだった。

ふと振り返れば、正月明けから昨日に至るまで、白いごはんをまともに食べていなかった。

まともに食べていなかったというのは、物理的に食べなかったのとは違う。

基本的に毎日弁当を持参しているから、1日2回、週10食近くは白米を食べている。

だけど、全然食べていなかったのも同然な毎日だった。

朝はあわただしく5分ほどでかきこむ。

昼は昼で、喧噪の集団から身をはがし、食べることよりもとにかく色んなことから離れることに

神経を集中させていた。

だから昼間は食べているのにも関わらず、食べている感覚がない。

夜は飲むことが多く、白米を食べない日の方が圧倒的に多い。

昨日1日布団の中で過ごしてわかったのは、もうそこまでしないと自分の体力も精神力も回復

できないところまでになっていることだった。

色々状況は改善の方向にある。

12月に比べたら1月2月は随分と仕事もペースダウンした。

それでも色んなことを敏感に感じ取っているのだろう、どっと疲れが出る。

なんとなく誤魔化していても誤魔化しきれなくなり、そしてとうとう昨日は寝込んだ。

1日経った今日は、すっごく元気とはいかなくても、年末からため込んだ書類の整理やお金の計算

その他家のことで気になったことを諸々片付けた。

たった1杯の白米と味噌汁がここまでのエネルギーチャージに変わる。

今日の1食目も、昨日多めに炊いた白米にネギと母のたくわんを刻んだものと納豆を混ぜたもの

を乗せて食べた。

あおさの味噌汁も昨日と同じ要領で作った。

1日の始まりに対して、とても良いスタートを切れた。

良いスタートにぴったりなごはんだった。

「食(べる)」という字は、「人を良くする」と書く。

それを教えてくれたのは、社会人最初の職場のパートのおばさんだった。

パートなんてもったいない位の機転が利きとても聡明で誠実な方だった。

その方が何度となくそれをわたしに教えてくれた。

その時はそこまでぴんと来ていなかったけれど、昨日の食事で一気に納得した。

たった1つのごはんが人を良くする。

そして「ほっとする」作用までもたらしてくれる。

一気に良くしなくても、少しずつでいいから良い方向に自分の状態を持っていきたいと思う。

その中で一番手っ取り早いのは、白米と味噌汁のような気がしてならない。

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