2020年10月14日水曜日

特殊 vs 特別

秋の朝の雨



 「特殊」


この言葉が思い浮かんだ時、ものすごく納得した。


「特別」じゃなくて「特殊」。


「特別」と言うと、本当に別格で大切な感じがするけれど、「特殊」と言うと大切とかどうかはあまり関係なくて特異なものという感じがする。


どんな風なのか実際のところは知らないけれど、私というのは特別ではなく特殊な存在なんじゃないかと思った。


特段異なっている風の人、みたいな。


もし私が特別であれるなら、今ごろもう少し違う展開になっていたんじゃないかと予想する。


もし私が特別であるなら、もっと普通に親密になれただろうし、それこそごはんやら飲みやらお誘いの1つも受けて距離が縮まるような時間を持てていたと思う。


そういう感じではなくて、なんだか知らないけれど異常としか呼べないような感覚があって気になって、とりあえず可も不可もないブログだけ見るなら、それはわからなくもない。


私が特別だなんて一度も思ったことはないけれど、「特殊」と言うならそれはある意味そうなのかもしれないなぁと思った。


特殊さはいつか特別さに変わるなんてことは無さそうで、1年後も3年後も5年後も10年後も私が薄れていく想像はいとも簡単に思い浮かぶけれども、この関係とも呼べない関係が発展するとはとても思えない。


過去に戻りたいとかあの頃をもう一度体験したいとかは思わないけれど、当時の空気に触れることは二度とないんだと思うとそれはとっても寂しい感覚が広がる。


この先、あの感覚や空気に自分が包まれることや、この世のものとは思えない激烈なでも命がエネルギー満タンで溢れんばかりみたいなことはないんだろうなぁと思うと、言葉にならない感覚がやってくる。


生きていることへの「無」、永遠に埋まることのないものを抱える、そうしたことから生まれる喪失感みたいなのが半端ない。


そんなのに向き合おうとすると本気で具合悪くなるから、だから何でもいいから少しでも楽になれるあり方や方法を模索している。


「特殊」と自分を位置付けることもそれに含まれる。


あと3年くらいして今より楽になれるのであれば、私はそのための努力は惜しまない。


常にいる・常に在る感覚はおそらくどうにもできないだろうから、そこはもうあきらめて心地よい感じをなんとか模索する他ない。


相手の存在を消そうとすることほど無駄な労力はないから、それは目指そうと思わない。


代わりに、そうなってしまっている自分と上手く付き合うあり方を模索したい。


魂の関係だろうがブログ要員だろうが特殊であろうが何でもいい。


普通に生きていてバッタリと出くわすなんてことはないわけで、ということはもうどうやったって生きている間に会えるなんてことはないわけで、だけどこうした感覚はずっとあるわけで、そういう自分の内側と外側の矛盾はどうにもならないから、だからせめてそういう気持ちや自分と上手く付き合えたのならいいなぁと思っている。


何ひとつ後悔はしていないけれども、後悔さえしていなければこの自分のやるせなさが解消されるわけじゃないってよくわかった。


静かに再会できなものかと願っても願いが叶うわけじゃないことも、自分とどんなに向き合い続けてもこの3年ほど抱えてきたものが無くなることはないことも、よくわかった。


今振り返っても、本気で縁のある人だったとは思う。


それも人生を変えるくらい、自分の中の細胞という細胞が生まれ変わるくらいのすごいものをもたらす人だったことも変わらない。


だけれど、縁の種類にも色々あって、お互いに関係を深めることに重きの置かれている縁もあれば、実質の関係は何ひとつ深まらないけれど人生の一時期交わると大きく変容するために必要な縁もあるんだと思う。


私のことは連絡を取り合ってまで何か関わっていたい相手とは違うことはさすがに3年もしたら私もわかったから、そしてこのオカルト体質ゆえにあれこれ深く洞察したり自分と向き合うことを言葉にすることでそれが何かの意味があるのかもしれないなら、もうそういう立ち位置の人なんだと思っている。


だから特別なんてことはなくて、特殊なんだろうと言葉を当てこむと自分でも「なんだかそんな気がする」と思う。





雨降りの朝、仕事に行くために運転をしながら3年前に何百回と再生しただろう音楽を車の中でずっとかけた。


3年前と同じような風景を再現してみても、もう今は全然違う世界に生きているんだと実感する。


仕事はいつクビになるかもわからないけれど、とりあえずは今いるところに行っている。


ふと、その人の中にも当時を彷彿させる音楽ってあるのかな?、と気になった。


気になっても知ることもないし、なんとも自由すぎる発想だけど、そういうのがあるとするならと想像するのは少し面白かった。


想像するのはいつの時も自由だから、相手に迷惑にならないのがいい。


戻らない時間、交わらない未来、どこにも行かない自分の中の色んなもの


本当にただただ普通にやりとりできる関係が欲しい。


こんなに重たいというか反応に困ることばかりを言われて、それで普通にやりとりしたいなんて虫が良すぎるかもだけど、本当に欲しいのは特殊な立ち位置じゃなくて、一般的なやりとりなんだけどなぁと思う。


同性同士なら普通に仲良くなれたのかもだし、異性でも同じ趣味仲間とかなら趣味を通じて仲良くなれたのかもだし。


実際に、趣味仲間の人は女の人でも仲良くできてる。


共通の趣味を持っていなかったことが悔やまれる。


今寒い日は、冬用の制服の代わりに、夏のシャツにアームカバーをしている。


日焼け防止のアームカバーがとても重宝している。


アームカバーをしながら3年前の夏の日を思い出す。


異性の枠にかろうじて入れていたんだなぁなんて、アームカバーを見て思った。


同性だったのなら、多分何にもしてもらえなかったと思う。


しかもそれは、ザ・男の職場にいたからで、それが男女半々とか女性率高めとかなら、まずそんなことにはならなかったんじゃないかと思う。


数の問題で、単に女の人が少なかったからおいしい思いをした気がしてならない。


そして相手は特段何も思ってなくても、私の方は魂のスイッチオンみたくなった、というのがことの顛末じゃないかと思う。


そろそろ寝よう。


また今日も同じアームカバーをして思い出に浸りながら仕事中にこっそり休憩しよう、そうしよう。

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