2020年6月20日土曜日

2020夏至の前







色んなみどりたち



久しぶりに3年前に必死で探し求めた情報のネットサーフィンをした。

当時は毎日暇さえあれば検索していて、全身全霊をかけて情報を探し求めていたと言っても過言じゃない。

とにかく何でもいいからヒントが欲しかった。

ヒントや情報を手にしたからと言って、現実世界が変わるわけでも私の望みが叶うわけでもなかったけれど、それでも私は情報を求めた。

当時の自分を思い出しながら今の自分との差に気付いた。

当時はものすごく知りたがっていた。

相手が何を思って何を感じていたのかを知りたかった。

どんな些細な情報でもいい、どんな風に感じてどんな風に見えていたのか、本当の本当に全部が嫌だったのか、そういう色んなことを知りたかった。

3年くらい経つ中で私の中が変化した。

相手がどうかというのは、あんまり気にならなくなった。

気にしてもしょうがないというのも勿論あるけれど、相手がどうであろうと私は何も変わらないってわかったら、それはどちらでもいい…、そんな風になってきた。

相手にとって私が何でもなくても、はたまた嫌われていても、たとえ無関心であっても、私の中の気持ちが動いたことには変わりなくて、あんなにも日々忙しく心が動いたり感動したりした時は後にも先にもない。

そして、あんなにも全力で自分が生きていること、そして相手も同じ時代の同じ空間に生きていることに感動しまくりな日々もなかったから、それは今でもとっても特別なことだったと思っている。

そういう私側のものは、外のことがどうであろうと何も変わらないってわかったから、だから同じような情報を画面越しに見ていても自分の感覚がまるで違うことに気付いた。

私は私なりに自分の扱い方と自分の気持ちとの接し方と色んなことに対する距離感みたいなのを会得した3年だったと思う。




2、3日前の仕事中のこと。

部長の逆鱗に触れたのか、私は怒りを引き出したみたいだった。

ちなみに言うと、百歩譲って、正社員の人ではなく派遣の私が質問・お願いをしたからスーパー不機嫌を引き出したかもしれないけれど、私は何一つ間違ったことを尋ねたわけでもお願いしたわけでもない。

現実に不可能なスタイルの資料作成が今後出てくると知ったから、それに対しての作り方の指針を出して欲しいというのをお願いした。

それも、人によって指示がまちまちなのは本当に困るから、関係者各位できちんと共通の指針を出して欲しいと。

こんなのは私が本来言う立場にないのも百も承知で、でも肝心の正社員の人は傍観と陰で愚痴愚痴言うだけだから、そして今回はその作成が私に降ってきそうだからこそ、私は言いに行った。

冗談抜きで丸2日その作成につい最近かかって、なんならこれまでの総時間数は軽く1週間以上はかかっていて、そんなのをまた指針変更しまくりで上の意見に毎回振り回されるのは真っ平ごめんで、そしてその手の資料が今後も半永久的に不定期に作られるから、それでお願いに行った。

上の意見は部門によって全然違うから、しかも今回話を出した上の人以外は特段そのことに配慮して言ってるのとは全く違うから、それでその配慮して言ってる人に沿うのは私は全くいとわないけれども、それならそうとその基本線をその他の人たちにもきちんと共有して欲しくて、それでお願いしたものだった。
(ちなみに、後からわかったけれども、多分嵌められたと思う、今回だけは。私が必要があれば確認もお願いも普通にやっちゃう人と知って、だけど自分はそれができないから私1人を動かして、最終的に武士俣意見のようになって話が動いていて、ものすごく気分が悪かった。もちろん私個人の意見じゃなくて、関係者共通の意見・お願いだったけれども…)

そんなやりとりの最中、とにかく何か部長の怒りを引き出す結果になって(ちなみに部長も上から相当つつかれてる案件だから、余計虫の居所が悪すぎたと思う)、その後私はしばらくガクブルと本当に体が震えて止まらなかった。

あまりにも受けた怒りの感触が強すぎて、席に戻ってから30分くらい冗談抜きで何もできなくて、仕事してるフリして、ひたすら深呼吸と自分に大丈夫と言い続けた。

その後他の人に質問に行かないといけなくて、その人は温和な人だしいつも通りだったけれども、それでも私はずっと足がガクガクと震えていて、久しぶりに本当にモロに体が反応するくらい、怖くて恐ろしくて、体の中から怖かったり1人で向かうことの心細さだったり、そういうのが噴出しまくりだった。

関係ないけれど、男の人たちってこういう感覚をどう処理しているんだろう?と思った。

部長は時々それをするから、他の人たちも当然その圧力的な空気を受ける。

みんなどうやってこの本気のガクブル感に対応して落ち着かせているんだろう…とまだまだ震えが止まらない私はそんなことも思った。




前置きがうんと長すぎたけれど、しばらくしてから私は気付いた。

3年前のある時、私はその人に仕事の伝言に行った。

ごはんを誘った後で何の返事もなくとても気まずかったけれども、仕事の伝言ゆえにやらないわけにもいかず、それでその人に言いに行った。

その時の自分の感覚を思い出した。

部長の圧力的な空気とは違ったけれど、その人もその人で怒りなのか不快感なのか、無視を決め込んでいて、とにかく私がそこにいて話しているのに、まるで私は存在もしていなくて独り言を喋っている人みたいになっていた。

心は一瞬でボキボキと折れまくった。

その時のことを思い出してわかった。

今回の部長とのやりとりは、恐怖なのか心細さなのか、とにかく体にモロに来たけれども、その人の時は体ではなく完全に心が傷みまくっていた。

心が本当に泣いていた、そういう反応だった。

部長の件は嫌だったけれども、心は大丈夫というかダメージはないと言っても良かった。

その人の時は、体もすごく反応して一瞬でズドンと重しが載せられて身体中が悲しみに包まれる感覚はあったけれども、それ以上に心がズタズタだった。

今書いてて思い出したけれど、今の仕事で用事があって席まで行って話しかけているのに、私の方を見なかったり、一瞥だけして耳だけ聞いてる風にする人たちに時々当たる。

毎回失礼だなという感覚よりも、それをされるとショックな気持ちが最初に湧く。

用事があるから席まで行って話しかけてるのにな…と思う。

私はショックな気持ちにそんなには興味を持ってなかったけれども、今書いてて気付いたのは、そのショックな反応はその人とのやりとりが発端なんだということ。

毎回チクリと胸が痛む感覚は、その時の感覚の名残りだと思う。

これまで無意識のうちにその感覚を思い出していたんだろうなぁと思う。

でも今書いてて同時に思った。

もし今度誰かにそれをされた時は、その人のことを思い出そうって。

それをする人たちに1ミリもテンションは上がらないけれども、そこにその人の姿を重ねたらまた何か違う発見がありそうだし、こうやって書いてて楽しみにさえなってきた。

そんなことされても嬉しくはないことには変わりないけれども、その人をそうやって思い出すのはありだなと思う。

そして、それを思い出す時は心の中でそっとタイムトリップをしようと思う。

あの風景も今となっては幻でも、もう一度過去に戻ってまたは未来に行って手にすることは二度とできないから、もう一度あのシーンを愛でようと思う。

何度でも何度でも自分が飽きるその日まで愛でようと思う。





夢を見た。

変な夢だった。

妹がどこか遠くに旅立つ、それもあと数時間でそうなるという風だった。

その中にはまだ小さな姪っ子がいた。

抱っこするにもひょいと持ち上げられる体の大きさで、2歳前くらいかと思う。

色んなことが遠去かっていって、変化して当たり前なのにその当たり前について行けてない自分がいた。

そして、ポツンとなるみたいな、たくさん人は周りにいるのに、その中で私は心の中は寄りどころがないみたいになってポツンとしていた。

その辺りで目が覚めて、そのポツンとなっている感覚も夢から引き継いだままだった。

率直にさみしいと思った。

色んなものが目まぐるしく変わる中で、自分だけは変わらない。

変わらないのは別にどうということもなかったけれども、そうやって年をとる時に、その人がいてくれないことが本当の本当にさみしかった。

付き合ってるのでもなければ、メール1つさえできていないのに、なんならもう生涯会うことは不可能なのに、目覚めて寝ぼけている私、それは寝ぼけていても逆に深いところの意識が明確に意識に上っていた状態だと思うけれども、年をとる、時間が流れていく、色んなものが変わっていく、その中にその人の姿がどこをどう探してもなくて、そういう世界に自分はこれからもずっと生き続けるんだと知ったら、言いようのない激しいさみしさに襲われた。

1人も平気だし、そうやって今も日々生きているから大丈夫なはずなのに、そのさみしさと言ったら、普段感じるさみしさの比じゃなかった。

未来が無味で、どこまでも交わらない、いくら周りに人がいてくれても自分は1人でその人はいなくて、それが死ぬまでそうだとわかって、夢の私はそれを真摯に真っ正面から受け止めようとしながらも、どこまでも自分1人だけがポツンとしていて、生きる時間の残りの長さとそれの孤独とを見た時に、普段見ることのない猛烈な「無」になってしまって戸惑ったりさみしかったり、はたまた何もないところに生き続ける脆さ(もろさ)や不安定さなんかを感じた。

起きている時の私なら「会えないんだから当たり前じゃん」と一蹴して終わる。

だけど、寝ぼけた私は本気の未来を見て、その中で生きるって本当にさみし過ぎるとものすごく強く感じていた。

何が楽しくてこの先生きるんだろう?とさえ思っていた。

その人のいない世界を改めて痛感した。

3年かけて、その人がいない世界でも大丈夫な自分を作ることに精一杯だった。

自分でもがんばったと思うし、それなりに効果も出た。

大丈夫な自分とは裏腹に、本当はいつもいつもさみしいって感じてるんだろうなぁとも思った。

その人のいない風景も見慣れてきたし、その人のいない日常も淡々と過ぎて慣れてはいる。

それでも本当のところはいつもさみしくて心許なくて、仕事でも私生活でもなんでもがんばるから、残りの人生のどこかでその人にもう一度会わせてください、って本気で願っている。

夢の中で、人が周りにいても耐えられないくらいにさみしくなった時、その人が私の人生にいてくれたらいいのに…って思った。

もはや夢なのか現実なのかよくわからない感覚だったけれども、そのさみしいものを引きずりながら生き続けるのは本気でイヤ!と思いながら目が覚めた。

しばらくボーッとしていたけれども、さみしいからと言って他の誰かといることのイメージも願いも想像できなくて、また何をそんなにもわけのわからないことを思うのか、私のさみしいの答えの先にはその人しかいないことに気付いた。

現実的に起こりそうにもないくせして、私はその人以外の誰かを思い浮かべてさみしいのとも、はたまた1人がさみしいのとも違っていた。

その人がいないことが本当にさみしいんだな…、ってその感覚だけが起きてからもずっと残っていた。

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