2020年6月2日火曜日

⒅【おいせさん手帳】心を開く




おいせさん手帳第18回目
担当:ノム

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‪6月2日‬
‪心の扉をいつもよりもオープンにしてみましょう。‬
‪横浜港・長崎港 開港記念日‬
‪ ‬
‪1859年の今日、横浜港と長崎港が開港。以後の貿易の要となりました。‬
‪そのような日に乗じて、今日は自分を開く日にしてみませんか?‬
‪普段よりも、少しだけ大きな声で挨拶をしてみる。‬
‪いつもは飲み込む自分の意見を、一言だけでも伝えてみる。‬
‪心の扉を開く鍵をもっているのは、誰あろう自分自身なのです。‬
‪ ‬
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これを書く少し前に英和辞典をパラパラとめくっていた。

どういうわけか「breakfast」が目に留まった。

そして次の瞬間、人生で初めて「ブランチ」なる言葉を知った時のことを思い出した。

私がブランチを知ったのは、17歳の終わりか18歳になってすぐの頃だった。

なんだかこのテーマに関係ないことを考えてる風だけど、よくよく読むとするりするりと繋がって、なんだかいい具合に書けそうな気がした。

だからこのまま書き続けてみようと思う。

私にブランチを教えてくれたのは、1つ年上ののんちゃんだった。

高校に行かなくて良くなった2月くらいから、私は3ヶ月間横浜に住んで、横浜から東京の阿佐ヶ谷まで通った。

阿佐ヶ谷で英語の語学研修を受けていた。

そこの代表の方の持ち物のマンションを借りて、のんちゃんと私ともう1人の女の子とで3人共同生活を送った。

のんちゃんはニュージーランドに1年間高校留学をして、それで卒業が1年遅れたと本人が言っていた。

年上とは思えない気楽な関係を最初から築けた。

当時の年齢の1歳2歳の差はとてつもなく大きかったけれども、のんちゃんはそんなことを微塵も感じさせない自然体の人だった。

出身も大阪とあって、生の関西弁に初めて触れた私は大興奮していた。

ハーフみたいなお人形さん風な顔立ちで本当に可愛い容姿なのに、「違うねん。うちはかあさんが鹿児島で、その血が濃いから顔が濃いねん。ハーフでもなんでもない、純日本人やねんて」と教えてくれた。

しょっちゅうその質問を受けるようで、本当に答え慣れていた。

そしてある時、のんちゃんが「ブランチ」という言葉を何かの折に教えてくれた。

家の中だった気がする。

「朝と昼兼用のごはん、breakfastとlunchを足してbranchになんねん」

ブランチなる響きに私は酔いしれた。

なんて素敵な響きでなんて素敵なスタイルなんだろう…と思った。

その時以降、私は何回も何回も人生の中で「ブランチ」をした。

もっぱら一人暮らしの時に、午前の遅い時間に食べる時は「ブランチだなぁ」と何の意味もなくそう思って食べていた。




「心を開く」

ブランチのことを思い出した時、「心を開く」にぴったりだと思った。

コテコテの和風の田舎暮らしな我が家では、「ブランチ」なんて文化はなかったし、今現在両親と共にいて「ブランチ」はない。

たとえそれがブランチ的なものになっても「遅い朝ごはん」か「早い昼ごはん」になる。

ブランチというスタイルを自分の人生に取り込む行為は、「未知のものに心を開く」ことに繋がるように感じる。

コロナウイルスでstay homeが謳われ、その後は「新しい生活様式」という言葉を皮切りに、ありとあらゆる分野に新しいスタイルが持ち込まれている。

どちらかと言えば、窮屈で不自由なものが多かったりするけれども、そこに心を開く開かないは個人の自由なんだなと思う。

心を開いたら開いた未知の世界に、反対に心を開かなければ開かない未知の世界に、今は否が応でも対峙することになる。

どちらが正解ということもないし、人によって正解は十人十色で無限大にある。

そんな中で、少しでも面白い方に心を開けたらいいなぁと思う。

同じ未知なら、少しでも体験できて良かった!とか、知れて良かった!とか、そういうのがいい。

ブランチに胸を馳せたような、そういう心の開きはいくつになっても体験し続けたい。





この話の最初に出てくるのんちゃんとの共同生活は「横浜」だった。

今日のノムの言葉の中に「‪横浜港」が出てくる。‬

‪偶然な重なりだったにしても、どうしてブランチを思い出して、それと同時にのんちゃんを思い出して、そしてその人生で初めてブランチを耳にしたのが横浜で…、なんという繋がりだろう。‬

‪長崎港とは違うけれども、私やのんちゃんに宿を提供してくれた当時の代表の方は「小倉」さんと言った。‬

‪これもまた九州の地名だなぁって今いま思い出した。‬

‪当時の小倉さんは今の私か私より少し上くらいだったと思う。‬

‪小倉さんは、親の家業を引き継ぐことになって、鉄工所だったかの製造関係の会社の社長がいわゆる本業だった。‬

‪なんだけど、本人にとってアメリカ留学は大きな転機であり、人生の中でかけがえのない時間だという自負があった。‬

‪だから、そちらの道を拓く仕事を開拓した。‬

‪本当に熱意と気持ちがなければやれないことだと、本人の口からもそれとなく聞いたし、営業マンのうちの父からもそんなことを聞いた記憶がある。‬

‪あの人は、本当に気持ちだけであの仕事をやっていると。‬

‪小倉さんも、未知の世界に自分の心を開いた人だった。‬

‪それも本業があるにも関わらず、自分の夢をどうしてもあきらめられなくて、すべてに全力で向かった人だった。‬

‪私が大学に行っていた間に、小倉さんは事業を畳んだ。‬

‪私やのんちゃんをはじめ、各地に旅立ち大学生活を始めた各々は、もうサポートは不要だった。‬

‪それぞれがそれぞれの道で自力で立てばいいだけだから、アメリカに行くまでのようなサポートは要らなかった。‬

‪だけど、日本にいる親たちはそうじゃない。‬

‪うちの父の話だと、小倉さんは事業を畳んだ後も、親たちへの情報提供や相談なんかのサポートは続けたようだった。‬

‪今書いてて思い出したけれども、大学を卒業して社会人になった1年目とか2年目、もしくは3年目くらいだったかもしれない、父と私と2人で東京に出向いたことがあった。‬

‪小倉さんが有志を募って、自分が世話した学生たちとその親を集めて会を開いた。‬

‪もうその時が最後だからということで、小倉さんが開いた会だったように思う。‬

‪うちの父は、曲がってることは本当に嫌いなタイプで、当時の事務局の逃げた別の人のことはとても嫌っていたけれども、小倉さんのことは信頼を置いていて、その会には最後だから出ようと私に言って、それで2人で東京に行って、どこかの会場でちょっとしたパーティーみたいな感じの会に出た。‬

‪父と私と小倉さんの3人で話した時間があった。‬

‪記憶もかなり曖昧だけど、1つだけ憶えている。‬

‪小倉さんは私が子どものいる施設に勤めたことを大層喜んでくれた。‬

‪小倉さんが私のことをフミコと呼んだかフミコさんと呼んだかは記憶にないけれども、少なくとも2回ないし3回くらいしかゆっくりと話す機会なんてなかったと思うけれども、その時に私が子ども相手の仕事をしたいと、スクールカウンセラー的なことをしたいと言った話をきちんと覚えていて、それで私の当時の仕事に就いたことを心から喜んでくれてた。‬

‪父があの時言った言葉が今書いたことで思い返された。‬

‪本当に小倉さんという人は、気持ち1つで仕事をしていた人だった。‬

‪重責な本業の経営もありながら、留学の道を拓く事業を本気で全身全霊でやっていたことがわかる。‬

‪すごい大人に会わせてもらえていたんだな…と40も過ぎた今初めて気付いた。‬

‪何の話なのかよくわからなくなってきたけれども、心を開いた先にはいつも素敵な何かが待っている。‬

‪そんなことをこれを書きながら思い出した。‬

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