2020年5月20日水曜日

呼ばれること

先日のこと。

イケメンエンジニアの硬派さんが私の席にやってきて、「武士俣さん、システムのパスワード知ってますか?」と聞いてきた。

私は知らなくてやりとりはすぐに終わったけれども、その後私の斜め向かいの人にも同じ質問を硬派さんがした時に「すみません、システムのパスワード知ってますか?」と聞いてるのをたまたま見て、ふと思った。

「武士俣さん」と呼ばれるのはいつも通りなんだけど、そして私の場合は呼ばないと私が気付きにくいかもしれないこともあったと思うけれども、それでもなんとなく親しみを持って呼んでもらえてるように感じた。

ただただ呼んでるだけじゃない空気を感じた。

仕事のために残業しているのに、頭の中は一気に過去へとタイムトリップを始めた。

一度だけ「武士俣さん」と呼ばれた。

たった一度きりだったけれども、その日色んな偶然が重なって、その人の要るファイルをしまうBOXがしまわれて、その人からしてみたら朝はあったのに返そうと思った時にはないわけだから、きつねにつままれた気分だっただろう。

で、それを管理するのは私だったから、それで「武士俣さん、◯◯◯の箱知りませんか?」と聞いてきた。

本当に変な話で、私が倉庫的な場所にしまうしまわないは当時決められなくて、その指示が出ればしまうけれどそうでなければ基本そのままで、しかもしまうのは当時その日が初めてかせいぜい2回目くらいで、さらにはそのファイルが当日稼働していたにも関わらず、私の教育係の事務さんはそんなこと忘れたのかたまたま見落としたのか、とにかくそういううっかりミスは基本ない人がそんな誤って違う指示を出すという、色々ありえないことが重なった。

そして重なった先に、そんなやりとりを知らないその人は私に箱のありかを聞いてきた。

人生でたった一度の「武士俣さん」呼びだった。

私は名前を呼ばれたことももちろん嬉しかったけれども、それよりもどこにも名前なんか書いてなければ社内メールもない、名札もない、仕事の絡みもない、何一つ私を示すものが置かれてない又は知る手段がない社内の中で私の名前を知ってもらえてることにものすごく驚いた。

私の苗字を知っているんだと驚いた。

下の名前は後日知ることにはなっただろうけれども、当時の私はおはようございますとお疲れ様でしたくらいしか言葉を発さない日々だったから、そして私の名前を呼ぶのは主に隣りの席の教育係の事務さんだけだったから、大きな声で呼ばれることもなく、とにかくその人が私の名を知ってることに心底驚いた。

親しみを込めて呼ぶとかいう感じではなかったし、苗字の1つを呼ぶくらい何てことないことだっただろうけれど、私にはそれが最初で最後になるなんて思ってもいなかったし、そしてそれが特別なこととしてずっと自分の中に残ることも想定外だった。

もう二度とその機会は訪れないし、硬派さんが呼んでくれたみたいに親しみを感じるなんてもっとありえない非現実的なもので未来永劫訪れないものだけれど、それでもたった一度私という人間を特定する名前の一部を呼ばれたことはとても大きかった。

今回このシーンを何回も思い出したけれども、多分間違えてはないとは思うけれども、どうやら記憶の一部が薄れている。

私の席にその人が来たのではなく、途中の通路と言っても数メートルくらいの事務所内の小さな小径(こみち)で呼び止められたと記憶しているけれども、本当にそうだったかな…?なんて記憶が曖昧になってることに気付いた。

それが私にはいつまでもショックみたいな感覚で自分の中にある。

いつかはこんな風にもっともっと忘れ去ってしまうものなんだろうと思ったらすごく寂しい感じが自分の中に広がった。

うかつだった。

他のシーンばかりを思い浮かべていたら、そのシーンをど忘れとは言わないけれども、そんな大切なシーンを記憶の薄いものにいつの間にかなっていた。

声もいつかもう思い出せなくなる日が来るんだろうと思う。

姿かたち、顔、表情も忘れてしまうだろう日が来ると思う。

深い記憶や魂は記憶しても、私のポンコツな頭だけでは記憶はいつか色んなものと塗り替えられたり上書きされたりして、そうした小さな、だけどめちゃくちゃ大事なエピソードがなくなっていくのかもしれない。

それはとてつもなく哀しいこととして私は感じている。

ある種の喪失感に近い。

会えないってそういうことなんだと改めて体感覚的に否が応でも理解する。

そんなこと物わかりよくなりたいのとは違うけれども、別々の人生にいるというのはそういうことなんだと改めて痛感する。

そもそもその人が私の人生に現れてくれたことの方が特異だったわけで、別々の人生こそが当たり前のことだというのは変えようのない事実で、それは頭ではよーくわかっているつもりではいる。

なんだけど、そんな風に自分は「はい、わかりました」とはなってくれなくて、いつになったらそんなことは1ミリも気にならず、なんならそんなことは忘れて生きていけるようになるのかと思う。

気にしなきゃいい。

そう思ってはみても、自分を構成している深い意識の方は鮮明にそして強力に違うことを覚えている。

もっともっと呼ばれたかったし、私の武士俣姓にはその人からするとツボのようなポイントがあったみたいでそれも何なのか聞きたかったし、どうやって私の名前を知ったのかも知りたかった。

「史子って知ってた?」なんて聞ける間柄も関係も全くなかったけれども、それだって聞いてみたかった。

自分の名前をあれこれ考えたり想いを巡らせたりはしないけれども、その人を中心に据えて捉えた時には、自分の名前や自分の命の時間がとてつもなく存在感を現してくる。

見せつけられる。

これから何千回、何万回と色んな人たちから「武士俣さん」と呼ばれると思うけれども、その人から武士俣さんと呼ばれることはどんなに長生きしてももう二度とない。

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