2019年4月3日水曜日

奇跡の果実* Lesson 11『直観が教えてくれるもの』

私の大切な相棒のペンジュラム
下のコースターは自分で作ったv( ̄∀ ̄)v
曲がってるのは使う分には気にならない( ̄∀ ̄)


4/2と4/3雪が降った新潟
冬と春のコラボレーション
寒っ(-_-)zzz



昨日、前回の記事『4月のメッセージ』を書いていた時に気付いたのが、やたらと「自分の感覚」だとか「自分の基準」だとか「直観」というところが目立っていたことだった。

主だったものを抜き出すと、


・自分の内側の価値観を自分の判断基準にしていく

・大切なのは、「自分がどう感じているか」「自分がどう思っているか」

・自分にとって心地良いバランスを見つける

・自分の直観、自分の心の中の小さな声を大切にする。

・自分の感覚で選んだことの成功体験を積む
それが自分の自信に繋がる。

・【自分基準】で自分にとって成功だったかを見ていく。


やたらと自分、自分と出てくる。

時代の流れは、ますます【自分の感覚を基準にする】ことが加速する。

いわゆる【自分の感覚】は直観とか内なる声とかに当たるけれども、正直なところ、最初はそうした自分の直観や内なる声と言われる部分をキャッチするのは難しい。

少なくとも私は難しかった。

この約10年ほど、自分の直観に該当しそうなものを観察し続けて、それで私なりにわかってきたことを今日は話したいと思う。

私のキャッチの仕方だし私視点になってしまうけれども、私はそういう形もあるんだって自分も知ってたらもう少し渦中気持ちが楽だったなぁと思うから、その自分が知り得たことをそのままここには書こうと思う。

直観の話をここに入れてるのは別の意図もあって、延び延びになっている【才能・強み・資質】の部分にも繋がることだから、というのもある。

才能や資質に気付くために必要な力の1つとして、私は直観力を挙げる。

わかりやすい才能や資質の人はいいとしても、大抵の人はわかりにくい形の才能や資質になってる、と私は自分もそうだし私が見た何百人の人たちもそうだと感じる。

自分で気付いていくプロセスの中で、直観は必要だし、その部分抜きで気付くのはキツイかなと思う。

「直観」なんて言うと、「そんなの俺には/私にはない!!!」と言い出す人が続出しそうだから、それはもったいなさすぎる。

使う程度や気付きの程度は別にしても、直観は誰にでもある。

「女の勘でね…」とか「なんとなく…」とか「虫の知らせかな…」とか、言葉じゃ説明できないけれど、何かしらを感じ取ってその部分を口にすることは、誰でも一度や二度はある。

そうした部分を「直観」と呼ぶと私は思っている。

そして、私が直観だの才能だのとごちゃごちゃここで言い出してるのは、別の理由がある。

これからは本当の本当に容赦ない「個の時代」がやってくる。

これまでは枠組みの中で生きることを普通とする傾向が、これからは個人が自分のあり方をしっかりさせていくことが普通になっていく。

そうした時代の流れも占星術を学んだことで見えてしまっているから、だから私は自分が知ってることは外に出そうと決めた。



私が思う【直観の特徴】

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

・まずは「変」であること

・変だから無視したくなるのに、やたらと自分の中に残る

・本当に必要なメッセージだと、無視してると3回は形を変えてくる

・一瞬のことでもすごく強く印象に残る

・受け取った瞬間は「これが直観だ!」なんて思わない

・(直観を)起こそうと思ってもしくは得ようと思って得られるものではなく、自然な流れで受け取るもの

・人によって直観の受け取り方は違うこと

・直観力はついでの産物

・強制終了、強制停止、体調不良、気がのらない、やりたくない、なども必要があって起こるサイン

・直観は最終的に何かしらの行動に繋がるヒントになる

・直観に従った場合、「それで合ってますよ」のサインが何かしら来る

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今回は、フリースタイルで感じたままに書こうと思う。



【まずは「変」であること】

【変だから無視したくなるのに、やたらと自分の中に残る】

【(直観を)起こそうと思ってもしくは得ようと思って得られるものではなく、自然な流れで受け取るもの】


この3つは、私の場合、ほぼすべての直観に該当する。

「変」っていうのは、「えっ((((;゚Д゚)))))))?それするの((((;゚Д゚)))))))?」っていう感じの場合が多い。

思いついて何かするなんていうのは、大体これまでの自分の体験や経験からは違っていたり、世の中で信じられてることとも違ってる。

世の中の基準(と自分が信じているもの)とは、おおよそ違う。

世の基準と違えば違うほど、「怖れ」や「不安」ももれなくセットでついてくる。

例えばこのブログの再開なんてのはその最たるものだった。

私は届くとは全く思えないメッセージを発信する手段として、このブログを再開させた。

その時は、一言「ブログ」と頭に浮かんだだけだった。

「はっ??Σ(゚д゚lll)」ってなった。

私の独り言ぐらいならまだしも、そんな個人的なことをここに書くのかと?

最初は気のせいかと思ったけれど、その後書け!と言わんばかりに、メッセージを届けたい人物を表すものと3つも立て続けに運転中遭遇して、その他にも雨なのにおぼろ月が出たことと夕方で暗いのにゾロ目のナンバープレートがすれ違いざまに見えたのと、それら5つをたかが10分程度の時間で体験して、もうこれは書く以外の選択肢がないとわかった。

まさかその時、未来の私が『奇跡の果実』を書くとか、「直観」についてこのブログで書くとは思ってもいなかった。

その時もだし、他の直観的な何かをキャッチした時もそうだけど、直観には自分の中で変だと感じても無視できない何かがある。

いつまでもボワーっと残っている。

上手く言えないけれど、感動的なものを見た時とかに余韻が残ったり、反対に嫌なことがあっていつまでも自分の中に残ったり、何かしら自分の中に留まるものが出てくるあの感じに似ている。

意味がわからない感じはあっても、嫌な感じは基本的にない。

反対にワクワクするとかいう高揚感もあまりない。

もう少し言うと、自分の生き方とか魂の領域に達しているものだと、時間がどんなに経ってもすごく残る。

いつまでもその言葉なり感覚なりが残って、それを自分の中でずっと大切にしたりする。

まさにこれは、
【一瞬のことでもすごく強く印象に残る】
に該当する。

普通レベルのことも魂レベルのことも、直観に関して言えば、
【(直観を)起こそうと思ってもしくは得ようと思って得られるものではなく、自然な流れで受け取るもの】
だと私は感じる。

直観は起こそうとして自分の中に湧き上がるでもなく、得たいと願ったら来るわけでもなく、必要なタイミングで必要なことがもたらされるという感じが一番近い気がする。



【本当に必要なメッセージだと、無視してると3回は形を変えてくる】

これは直観とは少し違う話かもしれないけれど、今回の『奇跡の果実』の話の発端となった、山で行方不明になったおじいちゃんを探す手伝いをペンジュラムでして欲しいと依頼されたのは、厳密にカウントすると3回来ている。

1回目は無視したわけではなくて、携帯を機種変したことでその依頼のメッセージに気付かなかった。

2回目は、1回目に連絡をくれた人と別件で連絡を取る必要がその1ヶ月後に出てきて、それで連絡を初めて取った。

そこで初めて私も知って、とりあえずその方から確認してまた連絡しますとなった。

そして3回目、ご家族から依頼したいという話だと返信をもらって、それでようやくご家族と私とが繋がっていった。

例えば2回目の用事というのはその方主催のイベントに関しての問い合わせだった。

そのイベントだって、年がら年中あるわけじゃなくて、年に1回ないし2回あるきりだった。

そうした諸々が重ならなければ、私がその間に入ってくれた方と連絡を取ることもなかったわけで、ご家族と私が繋がったのはもっと後だったと思う。

だから、本当に必要なことなら、何回でもどんな手段を使ってでもやってくる。

しかも人知を超えたレベルで、自分の知らない水面下で色んなことが整えられている場合が多い。



【受け取った瞬間は「これが直観だ!」なんて思わない】

私は基本的に直観的なインスピレーションでもヒントでもやってきた時は、「これが直観だ!」なんてただの一度も思ったことがない。

後々振り返った時に、「そういえばあの時のことは直観だったのかな…」と初めてわかる程度。

何でもかんでも直観で判断して決めるのはあまり良くないとある勉強会で教えてもらったことがある。

その方はバリバリの霊視力の持ち主で、自分の意識がどんな風にどこの誰と繋がっているか、そして体のどの部分で交信しているかをきちんと見極めてお仕事をされている。

その方いわく、「神」と名のつくものに三次元で生きる人間が繋がることは、まずは絶対にありえないと言われていた。

仮にトップに神がいるとするなら、その下の下の下の下の…信じられないぐらいたくさんの見えない世界の階層を経て、人間でも繋がることのできる層と繋がって、初めてそうした神的な存在の教えを受け取ることができると言われていた。

だから世の中に溢れ返っている似非の神の使いだのそうした神的存在と繋がるなんて言ってる人たちは、9割以上勘違いしてるかもしくは低級霊と繋がってそれを神と勘違いしているか、はたまた精神病かと言っていた。

そういうことをきちんと体系的に体感覚を伴って専門的に説明できる方が言われていた「直観」についての話。

その方が言われたことは、直観的にガイダンスやヒントを得るのはいいけれども、それによって自分が選択したこととその結果を必ず振り返る習慣をつけることの大切さだった。

直観だけではないけれども、基本的に振り返りをする中で自分なりに試行錯誤を繰り返して、その中で自分にとって合っている方法、合わない方法を見極める冷静さが必要だと言われていた。

そして、それはたしかに見えない領域のことではあるけれども、きちんと理性を持って判断することの聡明さを持ち合わせてください、それは誰でも努力次第で身に付けられます、と結ばれていた。



【人によって直観の受け取り方は違うこと】

外からやってくる自分にとって必要な情報はさておいて、今回は自分の内側から湧いてくるものに関して書きたいと思う。

例えば、ペンジュラムを迎えるまで私は4年ほどかかっている。

人生で初めてペンジュラムを見た瞬間のことは今でもものすごくよく覚えている。

「目が釘付け」ってそういう状態のことを言うんだと思うけど、とにかく「ペンジュラム」という物そのものに対して異常なほど私は惹きつけられていた。

名古屋のSさんが私にペンジュラムを紹介してくれた初めての人だったけれども、そして購入に至るまで見たのはその時1回、数分のことだけだったけれども、私の中で鮮明に記憶に残った。

ずっと片思いじゃないけれど、私の中でペンジュラムを自分がいつか持つイメージだけは薄っすらではあったものの長くずっとイメージにあった。

私は何か未来のことをイメージするのはすごく苦手だけど、ペンジュラムをいつか持つことだけはなぜか簡単にイメージできてた。

当時は物を減らすことにハマっていて、さらにスピリチュアルグッズ全般に対して懐疑的だったにも関わらず、ペンジュラムだけは人生のどこかのタイミングで迎えたいと思った。

物に関して言えば、そこまで執着するほどのことがなかったから、すごく変な感じだったなぁと今になって思う。

実際にお迎えした時はどうかと言えば、私はペンジュラムを探しに行ったのではなくて、名古屋でお世話になった人に名古屋を出る前に贈る本のしおりを探しに行って、その道中で見つけたものだった。

もし「しおりを探す」という目的がなければ、私はそのお店には絶対に入らなかったし(ちなみにアジア系の雑貨屋さん)、そして後にも先にも店頭でペンジュラムが売られているのを見たのはその時1回きりだった。
(1年ほど前、友達について行ったパワーストーン屋さんでは見たけれど、ショーケースに入っていた)

最初の目的(しおりを探す)とは別の形で本当の目的が果たされることも、「直観」という意味では往々にしてある。

贈る物は何でも良かったはずだけど、私は色んな理由からしおりにした。

そのプロセスだって直観と言えばそうなるのかもしれない。

そして、その時のペンジュラムが今現在にすべて繋がってくる。



あともう1つ、最初の方に書いた
《これからは本当の本当に容赦ない「個の時代」がやってくる》
の部分も、そのツール自体は直観からもたらされてたどり着いたものになっている。

それは「占星術(ホロスコープ)」になるわけだけど、あの出会い方も不思議な感じだった。

その時私は何か日用品の探し物をしていて、その探し先をクーポンが使えるドラッグストアにターゲットを絞った。

ペンジュラムが指した店舗に行くことになったけれども、行ってみたら探し物はなかった。

ちなみにその店舗は初めて行った。

わざわざ遠回りして行ったのに探し物がなかったから、行ったついでに同敷地内のスーパーに立ち寄ることにした。

そのスーパーに置いてあった地域の情報誌を自分の住んでいる地域の情報誌と勘違いして持ち帰ってきた。

その中に占星術のお茶会の案内が出ていた。

自分の地域の同系列の情報誌では、その情報には絶対に行き着けなかった。

さらにはお茶会も都合悪く行けず、最終的に占星術が何かも知らないのにいきなり個人鑑定を申し込むことに気持ちが向いて、そこからまた色んなことが展開した。

展開した先の1つが今日のこの内容にも繋がっている。

そんな風だから、当初の目的とどんどんズレていくことは私の場合日常茶飯事だし、ズレている時はそのままその流れに乗っていると何かしら大切なものに遭遇する。

少し話が違うけれども、2月の頭に友達と連絡を取った際、1冊の本を紹介された。

何軒か本屋を覗いたけれどなくて、先日また連絡を取った時に「まだ本が見つからない」と言ったら友達からこんな返信が来た。


[その本は、今は恐らく市販されてないかも。
Amazonや古本屋で、中古しかないかも。
でも、ぶっしーは、そうやって本屋に行ってるうちに、違う何か大事なものに出会うかもと思って、あえて言わんかった( ^ω^ )]


友達にやられたー(笑)!と思ったけれども、その友達の捉え方がすごく素敵なセンスだなぁと感じる。

書いてて思ったのは、「直観」って何も特別なものじゃなくて、私みたいに地域の情報誌に行き着くとか、何か探し物をしてその先で必要なものに出会うとか、そういうものなんじゃないかなと思う。



【『直観力』はついでの産物】

「直観力を磨く」とかそういう言葉がスピリチュアルな本や教えにはよく出てくる。

だけど、それは私はついでの産物だと思っている。

日々小さな選択の上で日常が成り立っている。

今日何着ようとか何食べようとか、休みの日なら出かけようとかゆっくりしようとか。

そうした日常の中でする選択と、引越しとか転職とか結婚とかいう大きな選択と、色々ある。

もちろん直観力が高まるのはいいことだと思うけれど、あくまでもそれは「直観力を高めよう!」として高めるものではなく、日常の色んな取捨選択の中でその人独自の感性によって磨き上げられるものだと感じる。

さっきも話した、自分で自分の選択やその結果について振り返ること、試行錯誤を繰り返す中で自分に合った方法を見つけること、が直観力を高めることに繋がると思う。



【直観は最終的に何かしらの行動に繋がるヒントになる】

【強制終了、強制停止、体調不良、気がのらない、やりたくない、なども必要があって起こるサイン】

直観は最終的に何かの行動に繋がる。

私は行動は2種類あると思っていて、「動的行動」と「静的行動」の2つに分けられると思っている。

「行動」って言うと、動くことばかりに目が向きがちだけど、「休息する」ことや「眠る」こと、「拒否する」ことや「関わらない」ことも立派な行動だと思う。

「静的行動」は、私は初め取り扱い方がすごく下手くそだった。

休むことやダラダラすることは怠け者みたいだし、避けることや無視することは卑怯な感じがして、とにかくそうした静的行動全般に対して負のイメージが強すぎた。

当然、自分の中で勝手に「負」とか「マイナス」の価値観がくっついているから、休めばもれなく罪悪感が、逃げれば自分のズルさが浮き彫りになって、それゆえに休めない人とか逃げれない人になってた。

その辺りの価値観を変えるには2つやり方があると思っていて、1つはそういう価値観を棚卸しして自分で気付くことで変わること。(←こっちのやり方は私は難しいと感じる)

もう1つは、単純にそういう体験を通して、自分が思っていたこととは真逆の「自分にとってプラスになったよ!」の経験値をひたすら積み重ねること。

1年前の4月。

そろそろ仕事をやらないとお金的にまずいな…と思ってた。

本当に今日は動くかなと思った日、体調がイマイチで起きてるのもしんどかった。

今日が明日になっても変わらないと思って、私は布団を敷いて寝た。

そうしたらその日、離職届が届いた。

そして、まさかの雇用保険が待機期間3ヶ月なしの即給付になることがわかった。

おかげで決めることをもう少し先に延ばせるようになった。

「休む」ことをあまり良しとできなかったけれども、こういう体験をすると変わってくる。

もしあの日休まずに動いていたら、私の流れは丸っと違ってた。

「体がイマイチ」なんてのも、私は直観の1つだと思っている。

そういう静的行動に繋がる体調不良や強制停止、強制終了、やる気のなさもとても大切な要素だと今は思えるようになってきた。

それらがもたらす恩恵やこの上ないタイミングを知るようになって、そうしたことも大切なサイン、大切な直観の一部と今は位置付けるようになった。



【直観に従った場合、「それで合ってますよ」のサインが何かしら来る】

これは、今回この内容を書こうと思ったきっかけでもあった。

時間はすごくかかったけれども、本当にそれで大丈夫だったんだよ、っていうかそれが正解だったんだよ、とわかる形でサインが来た。

直観に従った先には【安心感】、それも絶大な安心感が待っていた。

未知の世界に進む時、痛みや不安を伴う。

痛みや不安の方が大きくて足がすくみそうになることもあれば、進むことさえ躊躇したくなる時もたくさんある。

その何も見えない、何も保証もない中で、自分の中で湧いて出てきたものに従ってずっと時を過ごしたこの1年半。

実際はもうそろそろ2年になる。

その行く末に、まさかの安心感が待っていたなんて、想定外過ぎた。

最後の最後、私の中で選ぶ基準になったのは、
『こんなことして何になるんだろう?』
ではなくて
『これをしなくても私は後悔しないか?』
の方だった。

だから、自分が後悔しない方を選んだ。

直観に従うというよりも、後悔しない生き方やあり方を目指した。



コピー機の前を占領していた場面がここ数日何回か思い起こされた。

全体を一望できるぐらいの狭い事務所だったから、コピー機を誰かが占領していればすぐにわかる。

月末近くになると、請求書関係をまとめてPDFに取る仕事があった。

私1人で長い時間、15〜20分くらいだったのか、もっと短いかもっと長いかも忘れたけれど、とにかくずっとコピー機を占領することが2回3回と月末近くになるとあった。

私の記憶の残り方のせいかもしれないけれど、よくよく考えたらその人が最多で私がそのコピー機の前を占領している時に何かしら自分の印刷物を取りにくる人だった。

その職場にいた時間は、その人がいなくなった後の方が2倍近く長かったのに、その2倍近い時間の時はほとんど誰ともかち合わなかったなぁなんて思った。

私は完全に背を向けていたから、来るまで誰が来てるのかわからなかったけれども、その人からしてみたら私が占領してるのはわかるわけで、急ぎなのか意図したのかは知らないけれど、とにかくけっこうな回数でかち合った。

そんな時からもうそろそろ2年になる。

まさかコピー機でかち合っていた時に、その人が私にとって私の直観で合ってるよ!って答えを示してくれる人だなんて全く思っていなかった。

その人だってまさか自分がその役割を果たすなんて、今この瞬間まで知らなかったと思う。

その人を通じて示される「私の直観で合ってるよ!」の行動は、言葉ではなく言葉以外の部分で表現されるということもわかった。

むしろ沈黙を守り続ける中でその人が示しているものはとてつもなく大きい。

書きながら気付いた。

文中にさらりと「沈黙を守り続ける」と書いたけれど、そうだ、私の見方が変わったんだと気付いた。

私はずっと「避けられてる」とか「嫌がられてる」とか「無視されてる」とかいう風に捉えてた。

だけどそうではなく、長い長い時間をかけて「沈黙を守り続けてる」というのが今一番しっくりくるようになった。

その人は静かにしているけれども、とにかく黙ったままそれでもずっとずっと変わらずに私のブログをチェックし続けてくれていることが、私にとって最大の支えになった。

ここ最近、その人が見てくれてると私が確信できる形で知った時に、真っ先に「見守ってもらえてるんだな」と感じた。

本人の意図とは違うかもしれないけれど、私からすると「見守ってもらえてる」になる。

切望した繋がりを手にできず、すべて避けられるようにして迎えた最後の時、自分の想いだけではどうにもできない現実を認めざるを得なかった。

その時にまさかずっと静かに見守ってもらえるだなんて、全く想像できなかった。

本人はそれを意図していなくても、それだけのものが私には伝わるし、本当に凄いパワーだなぁといつも思う。

そして、そうしたことがわかったからこそ、私はこの「直観」について書こうと着想を得た。



3月の終わりに、私は1年前と今とを比べて大きな変化が生まれたことに気付いた。

1年前、すべて手探りで心はいつも不安定で、その人との繋がりが何もないように感じていた時、私はモノたちから答えをもらっていた。

会える目処なんて全く立たない、連絡さえ取れない、それがわかっていても私はその人に向けてその人専用のお守りとしてオルゴナイトを買った。

このオルゴナイトが私にモノと対話することを教えてくれた初めてのモノだった。

第1号のモノ先生は、持ち主本人の意志を汲んでるのか、実に不思議なことをたくさん私に教えた。

このモノは、置き方に関してすごい細かい指示を出してきた。

特定の場所+特定の置き方をご所望されてた。

モノは私たち人間が知ってる言葉を話さないだけで、モノはモノでどう扱われたいとかどんな風に持って欲しいとか、それぞれ固有に希望や気持ちみたいなものがあると知った。

職場への同行は、ずっと単なるNOというよりも拒否という印象のNOをペンジュラム越しに伝えてきてた。

だから最終日以外は、毎日家で待機していた。

だけど、仕事の最終日、私はそのオルゴナイトのことも職場に連れて行きたかった。

私が関係者としてその場所に行けるのはその日が最後だったから、その最後の日、一緒に行って欲しかった。

その人と出逢えた場所だから、最後はそこに同行して欲しかった。

一緒に終わりを見届けて欲しかった。

前日の夜、オルゴナイトに聞いたら初めて同行することにYESが出た。

何回も何回も聞いた。

何回聞いてもYESが出た。

その人の意志とは関係ないと自分に言い聞かせながらも、「オルゴナイトが良いって言ったもんね!」と即自分ではなくまるでオルゴナイトがそうしたかったかのようにして、それで最終日そのオルゴナイトも共だって職場に出勤した。

1年前の私は、すがれるものなら何でも良かったから、本気でモノの声に支えられながらそれでその時をやり過ごしてた。

あれから1年。

本気でその人と繋がってると確信できたのは、先月3月に入って、何かの記事をアップしてからだった。

最初はたまたまだと思った。

日に日に、本当にきちんとこのブログのためにどこかで日々時間を取ってくれてることがはっきりとわかった。

1年前と変わったことを感じた。

1年前の私は、モノから何か心がやさしくなれるものや強くなれるものをもらっていた。

1年後の今、今度は本人からその部分をもらえるようになった。

ずっと自分のしていることに自信がなかった。

何になるのか?とか、無駄じゃないか?とか、こんなことして痛い人だとか、色々思った。

その人が私のブログを読むなんて有り得ないと言われた、ということもどこかの記事でも書いたけれど、本当に言われた。

暗中模索だった。

模索どころか繋がると信じる方が本当に難しかった。

模索は、答えがあるはずとか出口があるはずという希望的観測の上に成り立つ。

私には答えも出口も最初からなかった。

ありえないことに賭けたから、もしそれがありえたら本物の奇跡だというレベルの話だった。

だから、今あることは本当に奇跡だと感じるし、最初に「ブログ」と出た日の夕方からではとても考えられないところに今の私はいる。

そこに気付いて、それでそのことがきっかけで私はこの「直観」に関する記事を書くことに決めた。

自分の直観を信じて行動した結果、私は絶大な安心感を得た。

しかも想定もしていなかった形で突如もたらされた安心感だった。

この安心感に行き着くまで1年数ヶ月かかっている。

その間に積み重ねたことがたくさんあって、色々ダメだと思ったことも、理解されずに思わぬ方向から心に突き刺さる言葉たちが来たことも、本当に色々あった。

そうした時間をたくさん経て、それでようやく到達できた今だった。

下積みとは違うけれど、これが棚ぼた的な形でもたらされたものではなく、本当に小さく小さく積み重ねた先の結果だから、とても大きなものになっている。

しかも私が時間をかけたように、相手の人も時間をかけてくれていたことがわかる。

私よりもある意味私のブログに詳しい 笑。

その人がピンポイントで読んでくれた過去のブログを私も読んで、この『奇跡の果実』のシリーズにしれっと過去からの引用を含ませた箇所もいくつかあった(←大助かりv( ̄∀ ̄)v)。

今振り返ってみると、1年数ヶ月前の夕方に突如出てきた「ブログ」の一言が直観とかガイダンスだったとわかるけれども、当時は直観とかそれがその人と繋がる確実な手段だとは全く思わなかった。

もうそれしかないからそうした、そんな風だった。

今よしもとばななさんの『サーカスナイト』を読んでる。

そこの中にある言葉が、まさに当時の私の気持ちに近かった。

【あのとき自分から出てきた力をなんて言ったらいいんだろう、ほんとうにしなくちゃいけないと思ったことのために、いろんなことを置いておけた、そんな感じでした。】
(以上引用)

当時私が置いた色んなことは、先に書いた「何になるのか?とか、無駄じゃないか?とか、こんなことして痛い人だとか、色々思った」ことだった。

そう思うよりも、優先することがあった。

そう思ったままでもいいから、とにかく書いて発信すること、そこに私は力を使った。

もうそれしかできなかったから。

それしか私が自分で自分のためにできることがなかったから。

その人ともし繋がれる手段があるなら、それしか思いつくことがなかった。

この、先の見えない試みは、遠回りのようで実は一番私に合った確実な方法だったと感じる。

特に先の保証は一切ない中で自分の感覚だけで推し進める、何にもならなくてもそれもまた結果として受け止める覚悟は常に問われていたし、そうでもやりたいですか?って話だった。

すごいチャレンジだったけれども、私は私の気持ちに従ってここまでやってきて良かった。

途中一番きつかったのは、2018年の秋辺りだと思う。

その辺りから徐々に心はさらに一層折れた。

繋がるとは本当に思えなくなっていった。

もういいところ数ヶ月だろうなぁと思った。

数ヶ月というのは、私が小さな可能性を信じられるのが。

自分の気持ちの具合はさておいても、自分が賭けた可能性を信じられる力は、時間と共に小さくしぼんでいつかは消える…、そう思った。

そして、空の天体たちから【不要なものは全排除】の力がガンガンかかっているのはわかっていたから、どんなに繋がりたくても私の人生において【不要】と判断されれば、繋がることはできない、それがわかっていたから余計と私はこの究極の状態が怖くてたまらなかった。

こんな言い方はあまり好きではないけれども、それでも40年生きるとわかってくる。

魂レベルで必要と判断されない限り、私の場合は必要な人も体験も自分の人生に現れないし、そしてたとえ現れても残らない。

どんなに繋がりたくても繋がれない。

この辺りの不可抗力的な力の働き方は、他の人は知らないけれど、私の場合は強制的に働く。

それもあったから、私の中で本当の本当にあきらめモードが濃く濃く漂っていた。

そうした諸々を経ての今で、だから私は今この段階にきて、初めて自分の直観が本当に当たっていたことを知った。

いくらなんでも、この1年数ヶ月分の文章を今から全部書くのは無理。

1回1回は小さなものでも、コツコツ積み重ねたものが繋がるための大きな手段に変わった。

そして、その中でも特定の文章たちがその人と私を繋いでくれる役割を果たしてくれてる。

その人にしか響かないもしくは意味がわからないものがある。

そうしたものがきちんと伝わっている、相手から見てもそれがどれなのかわかる、ということがここに来て以前と比べたらずいぶんとはっきりとした。

数を重ねたことで、今の状態が見えるようになった。

数を重ねたのは私だけじゃなく、その人もその人のやり方で数を重ねたことが今明らかになったから、それが私の中で絶対的な安心感に繋がった。

ずっとずっと祈り、願い、望んだことだった。

いつまでもあきらめられず、自分でもどうかしてると思ってた。

でも、あの時にやってきた直観的なメッセージのおかげで私は「ブログを書く」という行動に移り、それをよくわからないまま積み重ね、そして今私をこんな遠くまで運んできてくれた。

運ばれた先には、その人との繋がりと自分の直観に従った行動で大正解と言わんばかりの絶大な安心感が待っていた。



上に書いたこととは別のことで、もう1つ嬉しい変化がある。

その人は私のこのスピリチュアル全開、ぶっ飛んだことばかりを色々言うことに対してもとりあえず読めるぐらいの包容力というか許容力がある、と知れたこと。

当初私は自分のオカルト的な部分を一切ブログには書かなかったし、書くつもりもなかった。

途中から、最初は多分ペンジュラムの紹介から、そのうちオルゴナイト、続いてモノと対話すること、天体から読み解く占星術とか、どんどんエスカレートして今はもう何でもかんでも書いてる。

死者の霊魂が出てきてコミュニケーションを取ったのも本当だから、とにかくあったことをあったまま書いている。

私はその職場にいたからわかるけれども、私がなぜそこに在籍できたのかと思うぐらいに、そこは超現実主義だし、私みたいな感じでは本気で仕事が回らない。

私の性質とは真逆の技術・専門性で世に貢献している会社で、その人だってモノと話すなんてそんなおかしな趣味の人なんて周りにおそらくいないと思う。

ある時から私はどこか開き直りもあって、私のそういうところが嫌ならブログも読まないだろうし離れていくと覚悟した。

私が色々書くようになった理由はそれもあった。

隠したって仕方ないと思った。

一時的なものではなく、死ぬまで私の中にあるものだから、そして私はモノの声を聞くのも楽しいし面白いと思っているからやめない。

モノの声を聞くだけじゃなく、他にも眉唾物の突飛な性格はベールを剥がせば剥がすほどじゃんじゃん出てくる。

でも私がどんどんそういう自分をこのブログでさらけ出しても、その人は変わらずにブログをチェックしてくれてることがわかった。

実際どんな風に思ってるのかは知らないけれど、少なくとも許容範囲なのはわかった。

私の世界観が無理な人は無理だとわかっているから(←体験済み。否定か拒否される)、ある意味これはこれで賭けだった。

私は自分を隠してその場に相応しい感じで振る舞うことは長年の積み重ねでとても得意だから、仕事に行っていた時は当然そんな自分は1ミリも出さずに社会人顔してた。

だから、その人が見ていた私とこのブログで発信している私とでは、あまりにも違うこともわかる。

社会人として可も不可もない感じで仕事をしていた。

仕事していた頃の私の印象がどうなのかは知らないけれど、ここでの私はそれとは別人のようなのはわかる。

この1年で、対面・メール・電話で、自分のスピリチュアル的な興味関心に始まり、石と対話だの死者の霊魂とやりとりする流れだの、色んな人たちに自らそうしたことを告白するようになった。

どの人にも初めて伝える時は緊張する。

ここでもそうで、自分をそのまま表現して初めて書く時は緊張よりも怖さの方がくる。

受け入れてもらえなかったら…というのは何回もつきまとっていた。

だけど、ここに来て、とりあえずこれだけおかしなことを発信し続けても無視されないことはわかった。

「ブログ」と出てきたあの頃からは想像もできない今になっている。

もしあの時無視してブログを書かなかったら…。

当たり前だけど、今の現実はない。

そして今回何よりも大きかった「見守ってもらってる」感と絶大な安心感は手に入らなかった。

当たり前だけど、「これ直観ですよ!従った方がいいですよ!結果出ますよ!」なんていう解説付きではやってこない。

あくまでもさらりとやってきて、やるやらないはあなた次第ですよ、って感じ。

でも、本当にそれが合っているなら、それが正解だとわかる結果がついてくる。

仮にやらなかったとしても困らなかったのかもしれない。

ただ、失うものも大きかったと思う。

今回得たものは、自分の自信も含まれる。

自分が信じたものが本当に叶うよ、ということも教えてもらえた。

信じる要素が1つもないような、限りなくゼロに近いパーセンテージのことに自分自身を懸ける時、それって何でできるのかって、それだけそのことが大事だからだと思う。

それだけ究極の選択を前にした時にやってきた直観だった。

また「魂」とか言っちゃうけど、本当に魂が叶えたい願いならどんな手段使ってでも訴えてくると思う。

生きているうちに本気で叶えたいことだから、いくら普段の生活からしてぶっ飛んだおかしな発想でも、それでも叶えて欲しいから全力で何かしらのメッセージを送ってくる。

魂系統の直観は、直観の中でも一番おかしなことばかりを言ってくるけれども、代わりに魂側からして絶対合格だから、叶える力も強い。
(魂系統の直観って…( ̄∀ ̄;)、言葉他にないの?と思う( ̄∀ ̄;)。)

時間もかかる場合もあるけれど、それでも必然と言わんばかりに叶えてくる。

4年越しにペンジュラムと私とを引き合わせるとか、モノと対話する発想をもたらすとか、探し物の誘導に見せかけて占星術に導くとか、こうして現代的ツールを使って繋がりたい人と繋げてくれるとか。

そうした時の最初にやってくる直観こそ変は変だけど、その直観の通りに動いてみると1つ1つがしっくりくる。

しかもそのこととは長い縁を紡ぎ始める。

対(たい)人の場合、相手から見たものはわからないけれど、私から見て強くて長い縁に見える。

そして、本当に大切にする。

がんばらなくても、自然な流れの中で「大切に扱う」自分がいる。

直観は、ヘンテコメッセージみたいだけど、それは自分を大切に扱うこと、そして自分が大切にしたいものを大切に扱うこと、それを最初に教えてくれる入口のようなもので、そしてその先には信頼とか安心というさらなる良きものが待っているよ!の合図なのかもしれない。

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