2019年4月26日金曜日

菜の花の花言葉




携帯のホーム画面をこの間撮った菜の花の写真に変えた。

その前まで桜で、それも綺麗だったけれど、菜の花は菜の花でまた良い。

元気な黄色と小さな花の形がちょうど良い塩梅に1つの花になっていて、見ていて心が安らぎながらも元気ももらえる。

これが仮にもっとでかい花びらならうるさい感じになったかもしれないけれど、大きすぎず小さすぎないこの大きさだからこそ心にフィットする。

『ビタミンカラー』って言葉が似合う感じ。

花言葉は何なんだろう?と思って調べたら、その中の1つに「小さな幸せ」ってあった。

この間調べたサビアンシンボル(占星術関連のメッセージ)にも出てきた言葉と同じでなんだか嬉しくなった。

菜の花を見ているとその花言葉がよくわかる気がする。

小さい蕾が今か今かと咲く出番を待っていて、次から次へと花を咲かせるその様子が「小さな幸せ」そのものだなぁと思う。

小さな幸せは特別遠くに探しに行かなくてもすぐ近くにたくさんあって、そしてそれに気付いた人から幸せをしみじみと味わう。

小さな幸せはそれだけでも幸せだけど、菜の花みたいに幾つもの花が束になって1つの大きな花になる様が、大きな幸せの象徴みたいだなと思う。

1つ1つの花ももちろんすごく綺麗だけど、それが集まるとまた別の綺麗さを生み出す。

これから咲く予定の蕾の様子がまた良くて、すでに大きな1つの花になっているのに、まだまだ幸せは終わらないよって言ってるみたい。

「小さな幸せ」の言葉にリンクして、過去のある時に記憶が戻る。

色々繋がっていた。

ちょうど昨日(4/25)から冥王星が逆行した関係で、冥王星関係の占星術の記事をいくつか読んだ。

自分が過去に書いた冥王星関連の文章も読んだ。

占星術関連の記事で説明されていた文章でなるほど!と思った冥王星の説明があった。

冥王星は公転周期248年ととても遅い。

だから、その冥王星がじわりじわりと移動していても、普段の生活でその影響をもろに感じるのはとても難しい。

影響は全天体の中で一番でかいのに、その凄まじさを感じるのが難しいという、若干ツンデレみたいな、わかりにくいというか掴みどころがない。

わかりにくくても、冥王星の担当するものは「破壊と再生」「死と再生」「大きな変容」「強制的な軌道修正」とか、とにかく規模が超でかいから当然影響もでかい。

ちなみに、冥王星が破壊するのは人間的なエゴ(個人の自分さえ良ければいい利己主義とか)で、そして再生するのは愛らしい。

で、それだけだとイマイチ掴みどころがないなぁ…と常々思っていたら、わかりやすく説明してくれてる人がいた。

白い画用紙があったとして、そこに限りなく白に近い水色を塗る。

それで全体を塗ってもまだまだ最初の真っ白との差はわからない。

そうやって何回も何回も同じ薄い水色を塗っていくうちにそのうち画用紙がもう最初の真っ白ではないことに気付く時が来る。

今さら真っ白い画用紙に戻して!と言っても戻れないぐらい、水色に変わっている。

もう白ではない。

気付いたら水色に変わっている。

というような変化の仕方が冥王星がもたらす変化と説明されてた。

それが個人レベルだと、心の奥深いところ、魂レベルでの変容を徹底的に促す。

冥王星は0か100の天体だから、根底から変えてしまう。

顕在意識ー頭で考えてること(思考)
潜在意識ー心で捉えていること(感情)
超意識ー魂で感じること・魂が知っていること

今さらだけど、私が言う魂レベルは上の超意識に当たるところで、1人の人間に3つとも組み込まれているけれど、冥王星が管轄するのは特に一番下の超意識のところだと思っている。

魂レベルでの変容。

冥王星に動きが出る時というのは、さっき言った画用紙みたいなゆっくりだけど確実に根底から変えてしまう変化を体験する。

今回の逆行について調べると、自分の心の中で組み替えがなされる期間、みたいな表現が多かった。

過ぎ去った過去はもう変えられないけれど、そのことでやり残したりとか心残りがあることにもう一度向き合うような、そういう意味らしい。

冥王星がもたらす大変容に関して、過去に自分が書いた文章を読んで、本当にその通りだったなぁと画用紙の話と連動して思った。

30代の終わりから40歳前後で、必ず誰しもが冥王星から「中年の危機」と呼ばれるような洗礼を受ける。

遺伝子レベルのような心の組み替えが起こってもおかしくないことが起こる。

魂が今世望んだ変容と言ってもいいかも。

それがまたジワリジワリ系だから、朝目覚めたらいきなり別世界にいたとかいうのとは違う。

昨日も今日と変わらないし、明日も昨日や今日と変わらないだろうと思って日々生きていても、何ヶ月とかいう時間の単位で過去を振り返ると、それまでいた世界と今生きてる世界が丸っと変わってる。

例えば数ヶ月前も今も同じ町に住んで同じところで働いて同じ人たちに囲まれていたとしても、目に映る風景が違う。

心の感じ方が変わると言えばいいかもしれない。

もう水色に塗る前の白い画用紙ではなくなってる。

ちなみに私の「中年の危機」に該当する冥王星の効力が一番大きかった時期、私は小さな幸せを日々感じていたおかげで、実は一番きつかった時は一番穏やかに過ごせていた。

人生にこんなにも喜びに溢れた時間が存在するなんて、本当に夢の世界だった。

菜の花みたいな感じで、小さな幸せが毎瞬今か今かと咲く時期を待っていて、次から次へと開花した。

季節は変わって菜の花は終わってしまったけれども、しぼんで枯れた花は土に還った。

私の心の中は大変容が起こった。

奇跡って本当にあるんだと知った。

頭ではそんなこと起こるわけないって否定し続けていたことが、現実に起こった。

当時のことで私は面白いエピソードを書いている。

菜の花が咲いた日、なんと私は30年ぶりにブランコに乗れるようになった。

胸のザワザワ感が気持ち悪すぎて絶対に乗れなかったのに、その日私は乗れた。

心が疲れて寄り道した場所で、1人でブランコに乗った。

普段だったら絶対に乗らない。

だけど、あの時は「なんか乗れる気がする」と突然思って、ダメならすぐ止めたらいいと思って乗ってみた。

そうしたら乗れただけではなく、あの胸の気持ち悪さもなければ、むしろ体で風を切る感じに心酔した。

ブランコが空中に高く飛ぶ時、見える景色も変わる。

同じ景色なのに見え方が違って感動した。

それぐらい、身体中の細胞が再生されて活性化した、わかりやすい変化がブランコだった。

ブランコはあくまでもその変化を表すバロメーターみたいなもので、実際にその日起こったことは私が生涯忘れることのないすごい特別なものだった。

頭や思考は、全力で否定していたけれども、魂レベルではしっかり変容のプロセスを受け入れていた。

そんなことはその時はわからなくて、気付いたのはそれからまた随分と経ってからだった。

小さな幸せが転がっていた時間にはもちろんもう戻れない。

戻れないし再現もできないけれど、感覚で記憶したことはすごくて、思い出の中で何度でも何度でもよみがえる。

小さな幸せを感じていた日々の感覚は、これから先も幾度となく思い出すだろうし、そして根底から変わるきっかけとなってくれたものでもあるから、それは私の中からなくならない。

それまでの私の心の土壌が乾ききった砂漠みたいな感じだったとしたら、頑張って咲いてもトゲトゲしたサボテン。(←トゲトゲしさは心のトゲと掛けてみた)

まぁ実際は、サボテンすら咲かないぐらいに荒まくっていた( ̄∀ ̄;)。

ところがブランコの日、天変地異が起こって、その土壌は菜の花が咲くぐらいの土に変わった。

私は同じような場所に立ったままだけど、ありえない土壌の変更がもたらされた。

そして今も砂漠化したり豊かな土壌化したりを繰り返しながらも、少なくとも四季折々の花が咲く土壌は今もしっかりと引き継がれている。

菜の花、小さな花の集合体で大輪を咲かせるけれど、その前に必ず小さな花を見事に咲かせる。

小さな幸せは、1つ1つが個性的で、今でもはっきりと輪郭を思い出せる。

あの時はいちいち全部頭で否定していたけれども、今となってはかけがえのない瞬間瞬間だった。

そして、それを自分の中にずっと持ちながらこれから先も生きていけるのは心強い。

自分の希望する形の花にはならなかったけれども、それでも花が咲いた事実やそこに自分がいられたことは、生涯を通じて変わらない。

この感覚を思い出した時に、最近創刊された占い雑誌の中に出てきた石井ゆかりさんの言葉を思い出した。

出版業界が超低迷してる中で、『My Calendar』というタイトルの占い雑誌が春先に創刊された。

そこに関わった色んな人たちの制作秘話をネットで読んで、実際に実物も見に行った。

その中にあった占星術家の石井ゆかりさんの言葉。


(↓以下引用)
【若い頃はキラキラした「未来」に向かっていけばいいんですけど、大人になると「毎日」が相手なんです。
生まれた日だけを祝うだけではなく、死ぬまで毎日のことを考えなきゃいけない年頃になったということです。
毎日の愛なんです。どんなにキラキラしたものでも、毎日、目の前にしていると色あせるんです。でも、その色あせたものに色をつけていくのが愛なんじゃないかと。】


昔、『My Birthday』という名の占い雑誌があったらしい。

言われてみればあった気がする(ちょうどアラフォー世代が小中高の頃に流行った雑誌とのこと)。

それが今回、「誕生日」から「カレンダー」に名前を変えて、新たに創刊された。
(『My Birthday』は昔に廃刊)

そのタイトル部分に目を向けた石井ゆかりさんの言葉だった。

菜の花の話に通じるものがある。

菜の花は、毎日の生活にあったもので、それは生活だから特別なイベントとか非日常の世界とかではなかった。

ある意味、すごい淡々としていた。

菜の花が咲いた場所は高速道路が見える所だったから、冬なんかは車の流れが止まるとニュース速報より先に通行止を把握して、それが周りの人たちと「今高速止まってるよ!」ってニュースになっちゃう、そういう所だった。

今説明した通り、華やかさのかけらもない日常だった。

大人社会には大人社会の都合やルールが山ほどあるから、高速止まるだけで一大事で、でも反対に言えばそれぐらいでしかニュースにならないぐらいに淡々と粛々と時間は過ぎる。

色は無色というより、変な混じり気のある決して透明ではない色つやの無い場所。

あえて言うなら、「不透明」という単語が似合っているかも( ̄∀ ̄;)。

「艶やか」とか「彩り」なんて言葉は似合わない前に辞書にすらないような場所だった。

そこに菜の花が咲くなんて、ものすごい話で、どんな魔法のタネが蒔かれたのかと思うぐらいに凄かった。

私の冥王星がもたらした中年の危機は、良い意味での破壊が起こって、そして魔法のタネで再生されて、最終的に私の生きている世界に大変容がもたらされた。

同じようなことが繰り返される毎日の中で積み重ねられたものっていうのはすごく大きい。

ちょっとやそっとのことじゃブレない。

そして日々のことだったから、しかもある意味無意識に近かったから、潜在意識、魂レベルで静かに水面下で色んな組み替えが行われていたと思う。

本人無意識でも、知らぬ間にたくさんのものが積み重なっていて、そして気付いた時には私の世界が変わっていた。

怖くて近寄ろうとしなかったもの、ずっとないことにしていたもの、そうした扉が勝手に開いた。

その後受け取ったのは、愛と呼んでもいいと思う。

それが菜の花が表す「小さな幸せ」だった。

小さな幸せはずっと自分の中にその感触を残してくれるって、随分と経った今改めて知った。

残りの人生、色んなことがあっても、またこの時の小さな幸せをいつでも思い出せる自分でいたいなと思う。

当時いつのまにか身に付いた感覚があれば、色々ブレてもまた戻ってこれる気がする。

自分の芯みたいなもので、そこは外側がどういう状況でもずっと在り続けてくれる、そういうものだと感じている。



明日から、小さな体で大きな幸せを全身で体現する、大人よりうんと悟りを開いている3歳児がやってくる。

悟りは別名「ギャング」とも呼ぶ。

冥王星に負けない破壊力を持って日々大人たちに体当たりしてくる。

少しでも平和な時間をもたらすために、ドラえもん、アンパンマンはじめ色々な番組をいくつも録画した。

これまでと違うのは、早い夏休みが確定した義弟も日をずらしてやってくること。

義弟が来ることは大歓迎だけど、それに伴ってギャングとは別の配慮が必要なのが面倒くさい( ̄∀ ̄;)。

部屋の構造上、まさかの4人で川の字で寝るとか、別にいいけれど、気遣いゼロとはいかないのが対ギャングにはないもの。

でもそういうこともまた1つ思い出にプラスされる。

今絶賛、ここから先の自分の進行方向を迷いまくっているから、ある程度方向性が出るまでもしくは次の何かで落ち着くまで心のザワザワは収まらないとは思うけれども、そんな中でも小さな幸せを思い出したり、ギャング・義弟・妹と一緒に時間を過ごしながら何かをまた土に植えたりすると思う。

「迷っている」という言葉は、通常選択肢があってという前提で使われるけれど、今回の私の場合は、消去法でいくと選択肢すらない、じゃあどうするの?と考えるだけでゾワっとしている。

何でも選べるのに何も選ぼうとしない自分に辟易としながらも、何かしらは選んでいかないといけないプレッシャーは半端ない。

ザワザワやゾワゾワは自分なりの答えを出すまで続くんだろうなぁと思う。

またギャングからたっぷり「今を楽しむ」ことを学ぼうと思う( ̄∀ ̄)。

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