2019年4月18日木曜日

桜と心模様






[写真たち]
桜満開の様子。
私だけかもしれないけれど、桜並木の近くの川はドブ川的な汚い川の場合が多い気がする(ΦдΦ)。
全然綺麗ではない川の近くでも、毎年綺麗に咲き誇る桜の美しさに目を奪われる。
桜のある公園のベンチにいたら、声が聞こえる距離に高齢者のデイケアグループの人たちがいた。
スタッフの女性が「暑いろう?タオルやろうか?かぶせるのは頭だけど」と言っていたのに吹き出しそうだった。
直射日光がモロに頭のハゲたじいさんのハゲ頭に当たるから、のご配慮のようだった。
普通に聞いてたら失礼な言い方だけど、多分それを言えるぐらいの関係性なんだろうなぁと思った。
その後笑い声が溢れていたから。
小学校の校歌にも使われてる山にはまだ雪がもっさり積もってる。
それぐらいの山に行けば、まだ桜が楽しめる気がする。(もちろん山登りなんかしないけれど)



>>>2019/04/10

今週の月曜日、8日のことだった。

これも不思議な流れだったけれど、突然「これをしよう!」というのがとても静かに、でもすごい主張力を持って自分の中から出てきた。

最初は2ヶ月先の6月のある日にそれをしようと思った。

ちょうど節目になるから、その日にしよう!って。

『奇跡の果実』の終わりが見えたのが4月に入ってからだった気がする。

それは良かったけれど、相変わらず自分の方向性が見えなかった。

これからやることも感覚的に掴めては来たけれど、ある部分は頑なに動こうとしない自分とか、動きをかけても事態が変わらないとか。

不安はワッサワサ出てきた。

動き出さなきゃいけないとは思っても、気持ちが動かない。

だから自分の中から何かを湧くのを待つ他なかった。

それが月曜日の夕方ごろ出てきた。

鳩が豆鉄砲を食らったみたいな感覚。

その思ったことの下書きを携帯のメモに入れた。



火曜日(4/9)になって、何も6月まで待たなくても、今週末でもいいんじゃないかと思った。

今週末に動き出すなら、1日1記事のペースでいけば『奇跡の果実』が終わる。

私の中で絶対の順番があって、まずは『奇跡の果実』を必ず終わらせること。

それに区切りをつけることで、私の中にスペースが生まれる。

その状態で月曜日に出てきた願いを自分のために叶えるべく動こうと思った。

こういう気持ちで『奇跡の果実』を終わらせられるのはすごく嬉しい。



月曜日に出てきた願いの輪郭がはっきりすればするほど、自分の中で長く持っていた制限の存在に気付いた。

私は自分からそれをしちゃいけないと思っていた。

それは私が暴走しないためのストッパーでもあったからこれまでは本当に必要だった。

そして、ストッパーのおかげと現実にあったことを見て、私は長い時間、自分にとにかく集中した。

『奇跡の果実』を書いている間やこの1年社会から離れた期間のことだけを言っているのではなくもっと長い間、自分の力ではどうにもならなかった現実を前に、私ができることはひたすら自分に集中することだけだった。

自分を徹底的に見ることも自分の資質に気付くことも自分の魂の設定を知ることも、とにかくありとあらゆることで自分の気持ちが動いたものには何かしら自分の体も動かした。

その集大成と言わんばかりに、『奇跡の果実』を書くことになった。

そして書き終わる今、色んなことに区切りがつくこともわかった。

区切りがつくことが見えても自分の気持ちは見えなかった。

ずいぶんと焦った。

だけど、ここに来て、自分の本当の願いに気付いた。

ずっとストッパーをかけて触ろうとしなかったけれども、やっぱりそこは大切にしたいことで、少なくとも私は欲しいと思っている。

その欲しい自分の気持ちに対して、私は自分からチャンスをもう一度だけ与えてもいいんじゃないかと思った。

私は賭けることにした。

私が本当の本当に願っていると自分が思っていることが私の人生に必要なことなら、その方向に物事は動いていく…。

反対にそちらが魂が設定したこととズレていれば、それは私の元へは流れてこない。

ダメな場合、受け入れるためにまた自分を相当ケアしなきゃいけないのはわかっている。

でももう今の私ならそれはできる気がした。

そして、そこまでしても繋がることがなければ、それは繋がってはいけない、そういうことなんだと思う。

審判が下るみたいなことで超絶怖い気持ちもあるけれど、同時に私はラストチャンスに賭けたくなった。

自分のために自分の本物の願いを叶えるために、そのアクションを起こそうと。

それが当たらず落選したら、私はそれを自分の運命・宿命だと思って受け入れる気でいる。

だから、その自分の気持ちを今のうちに書き残そうと思って、『奇跡の果実』を放(ほう)ってこの文を書いた( ̄∀ ̄;)。
(↑Lesson14を仕上げる前にこの文を書いていた)



さっきホロスコープを出して驚いた。

携帯メモの時間でホロスコープを出した。

史上最強のホロスコープが出てきた。

ホロスコープの中でも一番影響力があると言われるものが出てきた。

それだけのものが出てきたから、願いの種類や方向性は本物だと私は思ってる。




>>>2019/04/17
『奇跡の果実』を書き終える前から、「これだけはやり遂げたい」と思っていたことがあった。

私はどうしたかというと、書き終えてすぐにそれを行動に移した。

私はそれを自分のためにしたいと思った。

そんなことしてもまた駄目だろうなぁと思いながらも、それをした。

自分で色々決めて動く時期に入っているのは嫌と言うほどにわかっている。

だけど、どれも心が動かなければ体もそれに伴って動いていかない。

そのことだけが唯一私が本当に心にならって動けることだった。

可能性のあるなしではなくて、自分が真っ直ぐな思いで動けるのがそれだった。

その後、ものすごく予定通りに思った通りではないから撃沈するわけだけど、そして私は自分が動いたことでそれが私にとっては動けるラストチャンスなのもわかっていたから、余計と撃沈したわけだけど。

昨日(4/16)桜並木がある川沿いめがけて運転していた時にふと出てきた。

私のこの予想不能な動きは、もしかして見る人によって温度差があるんじゃないかと思った。

例えば、テーマは「走ること」だとして。

私は走るために、とりあえず道具見に行ってみる?のノリに対して、「走ること始めませんか?」が相手には「東京マラソン走りましょう」とか「走ること始めたら次は『ランナーの会作りましょ!』とか言い出すんじゃね?」とかいう風に映ったかもしれない。

男女の恋愛前の状況とかにも似たようなことが言えるかもしれない。

例えば「連絡ください」が、片方は「言葉交わしませんか?」とか「おいしい焼き鳥食べに行きません?」とかなのに対し、もう片方は「連絡=結婚迫られたりして」とか「押し倒されたりして」とか、そういうでかいものをいきなり結びつけてる可能性もある。

言葉に対しての温度差やその先の世界の広がりは人によって違う。

言うなれば、私は走る道具見に行く?とかちょっとおしゃべりしてみる?ぐらいの小さなステップを頭に思い描いていても、受け取る側はフルマラソンだの結婚だのとすごい大きなものを思い描いたかもしれない。

なんてことを運転しながら思った。



『奇跡の果実』の最終話に出てきたNさんの言葉が心の中に響き渡る。

大切な人・大切な想いだから、大切にそれを育もうとしたこと、適当に扱ってはダメだと感じていたこと、わかるなぁと思った。

色々矛盾してる風だけど、私はいきなり東京マラソンみたいなことを望んでるのとは違う。

最終的に東京マラソンとかホノルルマラソンとかいう結果になるかもしれないけれど、そこをいきなりは目指していない。

私の中で大切なゆえ怖さの方が大きいから、小さくステップを作って、それを1つ、また1つとクリアしたいみたいなそんなイメージでいる。

そして、その小さなステップがすでに合わないようなら、それこそ合わないものを無理矢理合わせるものではないから、その時こそ本当に仕方ないと思っている。

でも、もしかしたら小さなステップは同じ歩幅で同じペースかもしれない。

私はそれを単に確かめたかった。

そこをうやむやにしたまま次に進むというのがもう私はできないんだとわかった。

だから、1週間ぐらい心の中でそっと温めながら、それを心の中のゴールみたいにして『奇跡の果実』の残り3篇を書いていた。

変に間を置くと、私の思考はまた余計なことばかりをごちゃごちゃ言い出すから、それを避けるためにさっとすぐ行動に移した。

私的には小さなステップの提案のつもりでいたけれど、それは私側の勝手な思いであって、もしかしたらいきなりすごい爆弾をブッ込んできたと思われても仕方ないか…、と運転しながら思った昨日。



例えば私はカツカレーを食べたかったとする。
(カツカレーを食べたいなんて、よく考えたら人生で一度もないことに今気付いた)

ど田舎にカツカレーを配達してくれる店はないにしても、仮に近くにCoCo壱みたいなカレー屋さんがあって、デリバリーもしてくれますよというものがあったと仮定して。

私がしたのは、カツカレーが食べたくなって、とりあえずお店にカツカレーの注文を入れたこと。

食べたいと思っても、思っているだけじゃカツカレーは出てこない。

カツカレーを食べたいとなったら、
1:自分で材料を調達して作る
2:お店に注文する
3:誰かに作ってとお願いする
の3つが選択肢として有り得ると思う。

3は話の主旨がズレるから省いて、となると選択は2択になる。

1は単にカツカレーを食べたければいくらでもできる。

でも、これがもし私が作ったカツカレーではなくて、ある特定のお店のカツカレーを食べたいとなれば、選択肢は自ずと2になる。

私が今回動いたことは、カツカレーの2のパターンに類似している。

今時は都会ならネットで注文できるらしいけれど、私もネットで注文をかけたとする。

ネットの不具合があれば、注文は通らない。

注文は通っても、完全閉店しているなら、これまた行き違いで注文は通らない。

もしくは頑固シェフで、自分の気に入ったお客や気に入ったタイミングでなければ作らない主義なら、注文は流されても通らない。

だけど、いずれにしても、それは私が「カツカレー食べたいなぁと想像だけする」とか「自分でカツカレーの材料を揃えて作る」では叶わない。

CoCo壱ならCoCo壱にきちんと注文して、あとは来る来ないを待つしかない。

そのラストチケットを私は使った。

注文を出すのに必要な道具だった。

ちなみにラストチケットを使って48時間経過した昨日の夜、これもまた突然の思い付きで、チケットに必要なアイテムを目に付かないところにしまった。

長い時間お守りとして常に目に付くところに置いていたものを、自らの手で見えない場所へと移動させた。

一応、モノ自身にも聞いた、移動させていいかどうかを。

そんなことずっとなかったのに、アッサリと移動していいよと出た。

そっか…、何とも言えない気持ちになりながらもしまった。

お役目終わりと言わんばかりの感じで、自分から聞いたくせして、「えっ?本当にいいの?本当に?」と往生際悪いことした。

意味不明な頭痛で布団にいたけれど、ムクリと起き上がって、最後はラストチケットを移動させた。

何が言いたかったかと言うと。

お気に入りの店のカツカレーを食べたい私は、そのためのオーダーをしたということ。

オーダーが通らないことを百も承知で出した。

選択肢が他にもあるならそれ以外を選んだけれど、ない時は選ぶ余地もない。

だけど今回は、私が一番大事にしたのは、自分の気持ちだった。

オーダーを通したいなら、最低限オーダーは出す必要がある。

それは「思い描けば引き寄せられる」なんていう誤った引き寄せの力で引き寄せられるものじゃない。

本当に自分が望んでいるものに対して、それに伴う行動を自分のために起こした。

だから、本来は結果がどうあれ、私はその結果に一喜一憂せずに、自分のためにできたことに自分で自分にがんばったね〜と言っておけばそれでいいのかもしれない。

だけど、人間の欲たるやそんな単純構造になっておらず、そして悟りなんか開いてない煩悩まみれの自分では、出てきている結果に不服申し立てしたい気持ちでいっぱいになっている。

どこに不服申し立てをしていいのかさえもわからないけれど。

わかってる。

不服申し立てするのではなく、来た結果を真摯に受け止めるのが私にできる唯一のことだということ。

ただボヤくぐらいの自由は残されていたから、ボヤいてみただけ。

カツカレーならまた注文したらいい。

だけど、私の注文は、一生に一度しか許されていないと私が思っていること。

これまでは許されているとさえ思わなかった。

ただ、今回は突然のように「最初で最後、それだけは自分のためにしてもいいんじゃないかな…」と思えた。

何度も何度もできない。

一生で一度。

だから、最初で最後のスペシャルカツカレーの注文をしてみた。

それは、東京マラソンとかホノルルマラソンなんていうそんなスケールのでかいことじゃなくて、私の中では「道具見に行ってみる?」とか「ホームページでちょっと要項(中身)を調べてみる?」ぐらいの小さなステップを想定した。

だけど、たとえ小さなステップでも、できるのは一生に一度だけ。

だから、これがダメなら私はもう本当にそのダメな現実を受け入れて完全撤退を決めている。

スペシャルカツカレーを食べたい気持ちはそのままにして、現実は違う方向に進む…。

できれば、気持ちと進む方向性をある程度一緒にしたいけれども、最初に書いた通り、私の訳の分からない魂の計画表に沿わないなら、どんなに頑張っても絶対に無理なのはわかっている。

気持ちが切り替わらなくても、これまで同様時間は通り過ぎていくわけで、その時はカツカレー食べたいままでいいからもうカツカレーは永遠にカツカレーの願い事のまま、自分の生きる道は違う方向に向かうんだと思う。

本気で最初で最後の注文だった。

でも本気で覚悟しただけあって、しかも毎日毎日その覚悟だけはブレなかったおかげで、私の最後の注文はとてもスムーズだった。



その時もあとからもれなくホロスコープを出した。

月は28日周期で12星座を1周する。

スペシャルカツカレーを注文した時間は、私が生まれた時の月の位置とほぼ同じ位置に月は位置していた。

月は、無意識の領域を表していて、無意識の気質・無意識の欲望・感情(特にプライベートな感情)・心の安定・過去世含む記憶を表す。

要は、自分の無意識にある本気で叶えたいことが表面化していると読める。

そして、魂の辿る道や輪廻転生で積み重ねたもの、目に見えないところからのご縁、現実意識と魂意識の交差点を表す、私の生まれた時のドラゴンヘッドとドラゴンテイルの組み合わせのところに、空の海王星がドンと乗っている。

公転周期:165年の海王星が自分の生まれた時の個人天体とか軸に乗るなんてのは、普通に考えて一生に一度しかない。

別の言い方をすれば、海王星が乗るなんてことを経験しない個人天体も普通にあるということ。

そんなものが今ガッツリとドラゴンヘッドとドラゴンテイルのラインにピッタリと重なっている(360度分の1度)。

色んなことを曖昧にすると言われる海王星だけれど、私はその世間的に認識されている解釈に納得がいかなくてすごい調べた。
(私のホロスコープは海王星の影響が多すぎて、そうなると私の人生は『曖昧一直線』みたいな解釈になるからそれが嫌で必死で調べた( ̄∀ ̄;))

調べてわかった。

海王星は曖昧にするんじゃなくて、正しくは今世この世に生まれた魂的な計画にとって正しいとされる唯一の生き様のみを残して、それ以外は容赦なく「ない」ことにする。

その「ない」が人間的に計画したものと合致しないから、それで色んなことを曖昧にすると怖れられている。

実際は反対で、人生で本質的なものだけ唯一残して、あとはゼロにする。

今回の場合で言えば、過去世から持ち越している自分の資質や才能、過去世から約束されている人間関係に対して、今世も必要だと判断されるものは残りの人生でも引き継がれて、反対に不要と判断されれば一刀両断、削ぎ落としされる、そんな流れだと私は思っている。

魂の設定はさすがにそんなに詳細にはわからないから、煩悩の私と魂の私とで差があった場合、煩悩側は容赦なくゼロにされて、魂側は煩悩側の私が望んだとは思えなくてもその望んだとは思えない魂側が意図した現実だけを残す。

だから、スペシャルカツカレーの注文は、私の人生を懸けてのことだった。

私は毎回走る道具を見に行くでも、毎回マラソンのホームページ眺めて終わりでも本気で良いと思ってる。

なんなら、1回だけ試しにホームページを眺めて、全然お互いの方向性が合わないから解散しようかでも致し方ないと思っている。

もちろんフルマラソン出場しまくりという結果もありだと思う。

その形は何でもいい。

私にとっては、形の詳細についてどうこうこだわっているんじゃなくて、それがたとえ道具見て終わりでも何かしら「有」だということにこだわっている。

スペシャルカツカレーは、注文が通らなければ、道具もホームページも見ることができない。

その土俵にさえ立てない。

「無」しか存在しない。

だから、私はその土俵に立つための超裏の手を使って、最初で最後の注文をかけてみた。

そんなことを知ってその行動に出たわけじゃないけれど、結果的にはそういうことになっていた。

改めて、無意識の領域って凄いなぁと思った。

なぜなら書き終えるまで私は、何時何分どころか何日に『奇跡の果実』が終わるかなんてわからなかったから。

書き終えた日も、他の用事を全部断るなり先延ばしにするなりして、とにかく「書き終える」ことだけに専念した。

書き終えた時間やスペシャルカツカレーの注文時間なんて、そんなのこだわってその時間にしていない。

たまたまその時間になっただけ。

なんなら当初私の頭の計画では、2日前の金曜の夜には全て書き終えて、土曜の朝には注文しようと思っていたから。

ところが書く方がズレにズレて、そして週を超えてズレると、私側の都合があまり良くなかったから、それで何とか週末に書き終わらせた。
(『奇跡の果実』最終章は、単純に5回に分けて書く内容を私のこだわりで1話にしたから、当たり前だけど、1日じゃ書き終わらなくて3日ぐらいかかった_φ( ̄ー ̄ ))

だから、後からホロスコープを出してみてビックリした。

『奇跡の果実』第1話書き始めの日と比べてもホロスコープは全然違っていた。

始まりははじまりらしい、終わりはおわりらしい、それぞれ特徴が出ていた。

ちなみにここではしゃあしゃあと書いているけれど、スペシャルカツカレー注文後の実際の私は「あの覚悟はいずこへ?」と思うぐらいにお通夜のようなメンタルになり、そのうちネガティブモードMAX値を振り切って発動、そして最後は何が本当の原因かわからないけれど、謎の頭痛とお腹下しが待っていた( ̄ཀ ̄;;)。

今やっと通常モードに戻りつつある。

ホロスコープ信者になったというよりも、毎度毎度、後から過去の特定の出来事の起こった時の空模様を見ると、体の中にGPS的な装置でも付けられてるのかと思うぐらいに影響出まくりの何かしらがある。

信じたくなくてもNOなんて言わせてもらえない事実を突き付けられる((((;゚Д゚)))))))。

私が最初で最後に使う超裏の手だという覚悟は、しっかりとホロスコープに出ていた。

これこそ職権濫用的な超裏の手で、これまではそれは絶対にしてはいけないと思っていたからそれを使うことさえ思い付かなかった。

私の心の中で「もうこんなこと二度とはしません」と誓っても、そんなのは知られることもない。

とにかく、私は人生で最初で最後の超裏の手の職権濫用をして、こんな秘策を使っても何にもならなければ仕方ない…とあきらめている。

もう二度は使えない秘策だから、何もなければその何もないことが私の人生においての答えなんだと受け入れようと思っている。

簡単に割り切ることも受け入れることも難しいけれど、万事休すでもう施しようがない。

でもこれだけは自信を持って言える。

たとえ職権濫用でも、私は自分が本当に叶えたいことを叶えられるかもしれない可能性に賭けて手段を講じて、それは後悔していないこと。

そして、そんなはちゃめちゃなやり方でも、そうまでして叶えたいことであること。

是が非でも叶えたいという時のパワーって凄いものがある。

凄まじいと言ってもいい。

凄まじいパワーは、人生でそう何度も発動しないし、意図的に発動もさせられない。

それだけ自分の人生を懸けようと思わない限り、そして私が思うに、それだけ叶えたいという魂側の強い希望もないと、そこまでは動かない。

衝動と呼んでもいいかもしれない。

だから、超裏の手職権濫用案件は、魂側も総動員しての動きだった、そんな風に思う。



昨日桜を見ながら歩いていた時、1年後はどんな桜の景色を見ているのかな…と思った。

新潟に戻ってからは3回目の桜になる。

2年前の桜は、朝早く家を出て、昨日と同じ桜並木を歩いて、その後出勤前にモーニングをしていた。

その時はまだその後に起こることなんて1つも知らずにいた。

去年の桜は、初めて立ち寄った桜のスポットで、ホロスコープを独学で始めて何日目という時だった。

その1週間後、違う桜の木がある公園で、初めて自分のオカルト体質に気付いた。

今年の日中の桜の景色は、2年前と同じ場所とは思えないぐらいに違うところを歩いているようだった。

色んなことがもう戻れないところまで来ているのに、気持ちは怖いばかりで前に進もうとしない。

スペシャルカツカレーの注文は思い出すと具合が悪くなってくるから、桜を見ている時だけは桜に集中しようと思った。

そう思ってすぐに私の脇を通った車のナンバーが私の誕生日だった。

しかもご当地プレート的な感じで、花火柄の誕生日ナンバープレートだった。

全くよろしくない状況でも、「これでいいんだよ╰(*´︶`*)╯」と言われてるみたいだった。

カツカレーは特別よろしくないのに、これでいいと?Σ(゚д゚lll)

カツカレーの記憶は頭から全く離れないけれども、私は必死で花見散歩に集中するようにした(ΦдΦ;)。

そんな風に歩きながら、来年はどこで桜をどんな気持ちで見ているかな…と想像した。

大真面目に、今年より穏やかな気持ちで見れますように( ̄^ ̄)ゞ、と願いなのか誓いなのかよくわからない気持ちを思い浮かべながら桜の花を目に映した。

0 件のコメント:

コメントを投稿