2016年3月7日月曜日

自分の感覚を取り戻す本

1週間以上前になると思う、久しぶりに本を買った。

当初本を買う予定はなかったけれど、3人の人に贈る本を買うのに5000円分の商品券を使う

都合上、何か自分のためにも1冊買える位の金額的余裕が生じたからだった。

3人の人に贈る本はそれぞれ決まっていたから、最低限その3冊が揃っていることが条件だった。

3軒目の書店でようやく3冊きれいに揃い、あとは自分用の1冊を広い店舗の中をうろうろしながら

探し回った。

この数年で本を100冊以上の単位で断捨離してからというもの、本もめっきり買わなくなった。

そして本も他のものたち同様、それを末長く読むかどうか、繰り返し読むかどうかをしっかりと吟味

してから買うようになった。

この2年程は、1年に3冊も買えばいい方だと思う。

最初は心理系の本を見て回ったけど、どれも惹かれるものがなかった。

続いては料理本のコーナーに立ち寄った。

レシピ系統なら時々は手にとってページをめくる可能性が高いと考えたから。

でもこれまた「末長く愛用する」ことを基準にすると、やっぱりぴんとはこなかった。

余談だけど、そもそもの商品券5000円分というのも、細く長くご縁のあった方を通じていただいた

ものだったから、自分なりにこだわって使いたかった。

せっかくいただいたもの、同じ使うなら思い出に残る使い方をしたかった。

料理本のコーナーを少し外れて、料理関係のエッセイの本を集めた小さな一角に立った。

わたしが2~3年前どはまりした、高山なおみさんの『日々ごはん』がでーんと並んでいた。

これはいつものことだから、別に驚きはしない。

位置的にわたしの膝ぐらいの高さに並んでいたのだけれど、よく見ると見慣れない背表紙があり、

何だろうと思って屈んでみた。

『帰ってきた日々ごはん①』とある。

透明セロファンで本は包まれていて、中身は見えなかった。

背表紙にある帯に書かれている文章(本文より)しか読めなかったけれど、その短い文章を読んで

それにしようと即決した。

その短い文章を読んだだけで、自分の中の感覚がはっきりと何か大切なものをキャッチしたのは

すぐにわかった。

そしてこのエッセイ本こそ、わたしの色んな意味での原点であり、目指したいものが詰まっている。

ちょうど再スタートを切る時期に差し掛かっている。

絶対にこの本がヒントになるというのが直感でわかった。

理由なんかないけれど、多分何か絶対に思い出すはずと思った。

自分のための1冊も決まり4冊をレジに持っていくと、会計は5,079円だった。

あぁこの商品券の使い道は予め決められていたのだろうなぁと思った。

3冊はそれぞれ包装してもらうのは決めていたけれど、ついでのついでに自分用のものも包装を

お願いした。

数年前から時々、自分へのとっておきの品を買う時は、包装をお願いしている。

そうすると家に帰ってから、中身を知っていても開ける楽しみが待っているし、ものによっては

翌日以降に持ち越して、適度なタイミングで開けるという楽しみもある。


今回は、何だかんだとバタバタしていたせいもあって、包装された本は毎日枕もとのすぐ横に

置いて出番を待機することとなった。

「今日こそは!」というタイミングの時に開こうと思っていたからだった。

1週間も毎日毎日出番を待つものの、どの日もぴんとこなくて通過してしまった。

今朝もまた違う日にしようかと考えていたところ、ふと逆の発想をしてみた。

今朝ももれなく気持ちが上がるような日ではなく、それに比例するかのように窓の外の空も暗い

様子だった。

雨こそ降ってないけれどくもりなんだろうというのは、部屋の暗さ加減でわかった。

こんなテンションの低い日にわざわざ開けなくても・・・と思った。

実際にこの1週間も、そういう理由で開けなかった日もある。

だけど、この本は逆じゃないかなと思った。

天気も良くて、気持ちもとっても上向きで、朝からエネルギッシュな感じの1日・・・、そういう日よりも

今日みたいに天気も自分の気持ちも何もかも全体的に停滞気味な時にいいんじゃないかなって。

そういう意味では、今日なんか絶好のプレゼントオープンに相応しい日で、起きずに布団の中で

ゴロゴロ、当然パジャマ、電気も点けず薄暗い中・・・そんな中で開けるプレゼントも思い出に残る

ような気がした。

布団の上で体をむっくりと起こし、プレゼントを開けた。

また布団の中に戻り、1ページ1ページと開いた。

背表紙ももう一度読んだ。

2回目の今日読んでもまた良い。

少しだけ読書をしようとそのまま読み進めた。

たかが数ページでしかないのに色んなことを思い出した。

そしてそのたかが数ページ目のところで、わたしは泣いた。

何てことない日常の中に、人生でそうは経験しないだろうシーンが描かれてあった。

わたしは自分が何で泣いているのかもわからなかったけれど、そこを読むだけで泣けた。

心の琴線に鋭くでも柔らかく触れるものがあったから。

そして何か大切なものを思い出した。

いつぶりかわからない。

今しかないと思い、久しぶりにアイデア帳のノートを開いた。

今出てきた言葉を綴った。

また時間が経つとすぐに忘れるから、とりあえず出てきたものを綴った。

こういう一連の感覚をわたしは忘れてなんかいなかった。

忘れてなんかいなかったけれど、それを自然に出せるような余裕が日々になかったのも本当

だった。

そしてそういう感覚から遠ざかれば遠ざかるほど、自分の中の軸みたいなのがぐらぐらしだして、

ものすごく不安定だった。

不安や心配にばかり目が向いた。

うまくいっていることさえも、たくさん見逃した。

色んな事を前に圧倒されっぱなしだった。

そうこうしているうちに、アイデア帳はすっかり遠のいた。

いつも手を伸ばせばすぐにあるのに、数ヶ月ほとんど開くことがなかった。

最後に開いたのだって、何かしらのサイトのパスワードの確認のため、その部分だけ開いてさっと

確認しただけだった。

もうずっと開けなかった。

気持ちはどこか別の場所へ行ってしまったみたいで、それが余計と怖かった。

今日のそのだだ書きのメモの最後に「調子のいい時だけでなく悪い時にも書く」と書いた。

あぁようやくその領域にこれたんだと思った。

そのアイデア帳にはわたしの未来と直結するものが含まれている。

未来に直結する部分は、絶対に良い状態で自分を表現したいと思っていた。

そしてどういうわけか、そうするべきだろうとも思っていた。

でもそうじゃない。

至上志向の高いわたしにとって、良くないものをそこに含めるのはどこか抵抗が強かった。

だけど、良い状態だけではなく悪い状態でも書く、それが本来の自分ならそれが正解のように

見えた。


高山なおみさんの『日々ごはん』の話に戻ると。

実はわたしは当初この本を書評か何かで知ったのが最初だった。

それも1人2人じゃない、数名の著名の方たちが推薦していて、何がそんなにすごい本なのか、

正直タイトルだけでは想像もつかなかった。

ある時、うちから1時間ほど徒歩でかかる図書館へ行ったことがあった。

そこで『日々ごはん』を見つけ借りたのが最初だった。

単に興味があって借りてみた、そういう軽い気持ちで借りたのに、読んだらどんどん吸い込まれた。

本当に彼女の日記帳+時々料理のレシピが主な構成だけれど、その日々の営みがとてつもなく

魅力的だった。

彼女も気分の上がらない日は、畳の上にごろ寝したり布団の中にうずくまりながら、本を読んだり

空を眺めたりぼーっとして過ごしたりする。

それを彼女は、とっても嬉しいことがあった日と同じ文体で表現している。

何も特別な毎日じゃなく、人間であれば当たり前の負の感情に流される日々も普通に書いている。

そしてそういう表現の中で、わたしはわたしの何かを思い出していく。

彼女の話なのに、いつの間にか自分の中の何かと入れ替わって頭の中では別のストーリーが

展開していくなんていうのはしょっちゅうだった。

そういうことを12冊+別の出版社からも続けてもう1冊の合計13冊読んで、さらには気に入った

言葉たちをひたすら紙に写して書き取った経緯もあり、色んなことを『帰ってきた日々ごはん』で

思い出せるだろうと思っていた。

予想はビンゴ、読んでたかが数分で一気にノックアウト。

朝から布団の中で泣いていた自分がいた。


自分の感覚を取り戻す本。

世の中にこれだけたくさんの本があり、さらには感動したり何度読んでも面白い本がある中で、

自分の感覚をすぐに取り戻せる本なんていうのは、ものすごく限られてくる。

高山なおみさんの本は五感を使って読む本だというのは知っている。

頭で読むタイプの本ではなく、体の感覚を使って読むという方が近い。

だから、言葉から伝わる感覚を自分の体で思い出す。

今朝の布団の中での短い読書時間だけで、一気に体の奥底からどんと出てきたものがあった。

ずっと体の中にはあったけれど、忘れていた感覚。

それが一瞬で取り戻せて、そしてよくわからない涙が出ていた。

なぜかその本を見つけた時、「再スタートを切るのに相応しい本」と思ったのは、実際に手にして

読んだらその通りの展開となった。

本から呼ばれたのかもしれない。

「ここにヒントあるからね」と、本の方からアピールしてくれたようなものだった。

わたしの次の展開は、この本と共にあるような気がしている。

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