2014年12月23日火曜日

活字を読まない1週間 ④メッセージ編

活字を読まない1週間を過ごしていた時に、届けられた主なメッセージ。

1:不本意な生き方

『小さい家』という映画を見た。

それも、見ようと思って見たのではなく、たまたま気ままにぷらぷらと出掛けた先で、

ちょうど宣伝のA4の小さな広告が目に止まって、広告を見たらちょうど当日の1時間後に上映

とわかり、しかもワンコイン(500円)、面白くなくても損はないなぁなんて思いながら

何の予備知識もないままに見た映画だった。

ストーリーは割愛するけれど、第二次世界大戦中を背景にしていて、

そこで兵士として召集された若者が言った言葉が「不本意な生き方」だった。

言論も思想も生き方も、何一つ縛られていない時代に生きてること、

すっかり忘れてたわたしには、良い喝を入れてもらった台詞だった。


2:自分のことやりやぁよ

これは、上の映画もお出掛けも一通り終わって、あとはうちに帰るだけという頃。

乗り換えの電車の駅で夕飯の買い物をしようと外に出て、

スーパーでは結局何も買わずに出てきて、なんだかくたびれただけだったなぁ・・・

なんて思って信号待ちしていたら、突然知らないおじさんに話しかけられた。

おじさんはホームレスでも精神病を患ってる風でもなく、普通にシラフな感じで、

今の時代、国も会社も何も頼るものはない、と前置きした後に、

「だから自分のことやりやぁよ」

と諭してくれた。

1分に満たない会話だった。

会話というより、おじさんが一方的にわたしに話しかけてた。

この話は別のブログでもアップしたけど、それを読んだ友達が

「それ、たぶん神様ですよ。僕はそう思っちゃいますね。」

とコメントしてくれて、その言葉がまたさらに元のメッセージを輝かせてくれた。


3:不具合があれば交換

あまりにも当たり前すぎる話だけど、これが執着している時は、はっきり言って忘れてる。

活字に触れられない暇な時間を、手芸タイムにしようと目論んでいた。

作ってみたい作品の写真と作り方の両方が載っている本を図書館から借りてきた。

材料もすべて揃っていた。

活字を読まない3日目にチャレンジ中の日、毛糸と編み棒と本と出して、さぁ編みましょう!

と意気揚々と始めた。

著者の本は他にも持っていて、実際にその本の中の作品を作ったこともある。

それは今も健在で、普段使いで活躍している。

だから今回もうまくいくはずと頑なに信じていた。

さらに、簡単な編み物に関しては、ほぼ自力で編み図を解読できる自信もあれば、

昔むかし、3体ほどクマのぬいぐるみを編んだこともある。

妙な自信を持って始めたはいいけど、それが編めない。

何かが大きくまちがっている、ということはわかるものの、

一体何をどうまちがっているのかがさっぱりわからない。

他の本2冊も広げて、それぞれヒントになりそうなところを読み解いて、

毛糸ももう一度ひも解いて1からやり直して・・・

それを何回続けたか忘れたけど、ようやく何回目かで

「これは難しすぎる」

ということに気付き、その作品に関しては作ることをやめた。

難易度がわたしには不適応だった。

でも、何かは作りたい。編みたい。

ということで、ここは一気に切り替えて、まずは図書館に行って確実に編めそうな作品の本を

借りてこよう、と決めてそのまますたすたと出掛けた。

2日後、新たに毛糸を購入し、デザインも色も抜群の鍋つかみを一つ完成させた。

あそこで切り替えなければ、今スーパー愛用中の鍋つかみはなかっただろうし、

自分の変な自信をかいかぶって勘違い野郎のまま終わっていたと思う。

今回は編み物のことだったけど、普段の生活でも色々生かせそうな教訓だなぁと思った。


4:何かしないと何も舞い込んではこない

この言葉に最初触れたのは、20代の頃かと思うから、もう数年もしくはそれ以上経ってる。

そして、この言葉を言ったのは、篠原涼子だ。

何かの雑誌でインタビュー記事になっていて、どうしても何もやりたくない時、

気持ちが入らずぐずぐずしてしまう時なんかにどうしてるか、

っていうような質問だったと思うけど、

その時の彼女の答えが上の言葉で、実際に彼女はそういう時わざと動くらしい。

これは時々頭をかする言葉だけど、今回もまたやってきて、

そしてそのおかげで窮地を抜けることができた。

6日目。朝から雨。いつもより1時間以上早く目覚めたはいいけど、

そういう変なリズムで始めた日というのは、だいたいその後ぐだぐだになりやすい。

案の定そうで、その日はお昼までにわたしは3回寝て起きてを繰り返した。

三度寝の後、猛烈な後悔と、自分のぐだぐだっぷりにほとほと嫌になり、

その日1日をぐだぐだ一色にしようかとも思った。

だけど、そこで「何かしないと何も舞い込んではこないよ~」と天使なのか悪魔なのか

わからない囁きが頭をかすめ、

わたしはあれこれと選定した結果、台所の洗いものをすることにした。

最近そうかなぁ・・・?と半信半疑で思っているけれど、

たぶん洗いものは家事の中でも好きな仕事だ。

元々めんどうくさがりのわたしだから、堂々と洗いものが好きだの、家事が好きだのとは

言いきれない。やらない時はひどくても放置する。

まぁだけど、洗いものに関しては、個人的に色々と面白いと思ってる。

きれいになるのはもちろんだけど、

それとは別に毎回違う表情を見せてくれる皿たちの積み重なってる姿を見るのが好きだ。

その日の食べ物に合わせて皿や器をセレクトする。

当然毎回違う組み合わせになる。

そうすると、洗ったあとに積み重ねる姿も全然違う。

それがわたしには非常に面白い。

洗いものをしていたらそのうち元気になってきて、ふと外を見ると晴れ!とは言えなくとも

晴れ間が雲のすきまから見えるくらいになっていた。

洗いものの後、ちゃちゃっと身支度を整えて散歩に出かけたのは言うまでもない。


5:らく~に生きていいんだよ

これは最終日、出掛けた帰りのバスで見たメッセージ。

座席を選択できる時は、決まって選ぶ席がある。

理由は、外の景色がよく見える窓の配置の席だから。

その日もたまたまその席にそういう理由で座っただけだけど、

ふと窓に目をやったら、『らく~に生きていいんだよ』という本の広告のシールが貼ってあった。

1週間とにかくやりきろう!と躍起になっていたけど、

どちらかというと楽しいより疲れたとかしんどい時の方が多かった。

活字を読まない1週間を実際に体験したことは、貴重だったしそれはそれで良かったと思ってる。

でも、実情としては、心和む時間より、ざわざわというか落ち着かなかったり、

何をしたらいいのか迷ってしまって逆に疲れたり、

7日目ともなれば、そういう諸々が蓄積されたピークでもあって、

そのピークの頃に見た「らく~に生きていいんだよ」にどれだけ救われたか。

うまいことできてるなぁと感心しきりだった。


こうやって書き連ねると、どれもこれも当たり前に見えたり、

そんな期待するほど大きなメッセージでもない気もするけど、

あの時はとにかく読まないことに全身全霊で向かっていたから、

上に書いたようなメッセージが届けられたりしたことにいちいち歓喜していた。

活字を読まない1週間を始める前、もっと大量に届くかと勝手に期待していたけど、

思ったほどは来なかったなぁ・・・

書いていて気付いた、自分が欲張りだということに。

ちなみに、上の中でも、「自分のことやりやぁよ」と言ってくれたおじさんだけは、

今思い返してみても非常に摩訶不思議で、ああいうのを神の仕業というのかなと思ってる。

2014年12月20日土曜日

いいね!のふしぎ

わたしは日常的にいくつかのブログを、それもどこの誰かも知らない、だけどたまたま何かの

流れで辿り着いて、読んだら面白くてはまった、という方たちのブログを読んでいる。

大きく分けて、料理のブログと障害や病気を持ってしまった子どものお母さんの子育てブログだ。

それぞれ数名、個人的に好きなブログの著者が存在する。

今時のブログと言うのは、「いいね!」機能がついているものが大半で、

その記事を読んでいいと思ったら、「いいね!」を押すんだろうと思う。

わたしは押したことないからわからないけど(登録手続きが必要らしい)、

まぁ、いいと思ったものに「いいね!」というのは十分に理解できる。

今回、その「いいね!」に違和感を覚えたのは、ブログからまた別のブログへとネットサーフィン

をしていた時。

わたしが日常的に読む方たちの記事は、少なくとも「いいね!」は2桁。

ひとりだけ、レシピ本を出版された方がいて、その方は3桁。

1桁という方もいらっしゃる。

でも、その「いいね!」の数うんぬんではなく、内容はどの方のものもすごく新鮮で面白い。

プロの書き手ではないのに、文章表現がずばぬけている方もおられれば、

障害や病気を持ってしまった子どものお母さんなんかは、もうその細かな気付きや感性が

すごい。すっごい小さな出来事に喜び悲しみ怒り笑い、ひとつひとつを愛でるかのような姿は、

時として涙が出てくるぐらいに心に響く。

料理ブログの方たちも、自分たちがうまくできたレシピを無料でじゃんじゃか公開されてるし、

おいしい食材や調味料を使っての感想や仕入れ先も惜しみなく出されているし、

とにかく、どれもこれも何かしら発見と感動に充ちている。

話は戻して、ブログネットサーフィン中。

単に○○食べましたとか、○○に行きましたとか、○○もらって試してみましたとか、

感想もなければ情報もない、はっきり言ってまったく面白くない

芸能人であれば許されるような内容でも、

一般人が同じことすると非常に痛々しいようにしかわたしには見えないブログ、

そういうブログたちに何百の「いいね!」がついているのを見て、驚いた。

なぜ、そんなものに「いいね!」が何百もつくのか。

それが数人続いて、何か違和感を覚えてしまった。

「いいね!」って何だろう??

話はそれるけど、これは友達が教えてくれたスペイン語の「いいね!」。

スペイン語だと「me gusta(メ グスタ)」で、それは英語に直訳すると「I like」になる。

厳密に言うと、gustaはlikeとは違っていて、likeは「わたしは○○が好きです」という感じだけど、

gustaは、「○○がわたしを好きにさせる」という感じになる。

日本語の「いいね!」よりも、スペイン語のいいね!(me gusta)の方がより親しみがあって、

そして「わたしもそれいいと思ったよ~!」という感じがひしひしと伝わる。

2014年12月15日月曜日

今回の選挙で気になったところ

昨日2014年衆議院選挙があった。

徒歩5分の投票所に行って、選挙うんぬんよりも私が最も気になったところは、

投票用紙を出すための機械が導入されていたこと。

通常、投票用紙は係の人から直接手渡しされていた。

いや、今回もそこはこれまでと全く同じだった。

じゃあその機械、どこで使うのかって。

その係の人が、投票用紙を渡す前に、ぽちっと機械のボタンを押し、

その機械からひゅんと1枚投票用紙が出てくる仕組みになっている。

これは間違えて2枚渡さないようにするための機械なんだろうか!?

さらに気になったのは、投票用紙1枚の発行に対し2人の人員が配置されていたこと。

最初に①小選挙区の用紙、次に②比例区の用紙、最後に③最高裁判所の用紙

とあると思うけど、

その各用紙の発券に対し、それぞれ2人ずつ配置されている。

機械は用紙ごとに1台ずつで、なので1台の機械に対し2人の人員配置。

で、不思議なのは機械もそうだし、人員配置もそう。

これまでそんな機械は選挙の時、使われていなかったと思う。

重複防止のために導入されたとするなら、それはもう仕方ないとしか言い様がない。

だけど、1台しかないから、1人がボタン押して紙出してそしてそのまま有権者に渡す。

もう1人は何もしていない。

監視役なんだろうか?

どうしても2人の人員、合計6人+機械3台が必要なんだろうか??

しかも、その機械、紙を入れる部分の大きさがあの選挙の投票用紙ぴったりで、

それ以外には使えそうにもない代物だった。

たぶん、選挙の時にしか使われない備品だろう。

それも必要なのだろうか???

ちなみに、うちの近所の投票所はいつも投票率が低い。

朝9時で3%台。

前に夕方というより夜に近い時間に行った時は30%台だった。

並ばなくてはいけないほどの混み具合に遭遇したことはない。

だから余計と、あの機械と役割不明の余剰にしか見えない係の人とが目立ってしまう。

政治うんぬんよりも、選挙そのものの在り方というかシステムに対してつっこみどころ満載だ。

2014年12月9日火曜日

活字を読まない1週間 ③感覚編(過去の保存記事に加筆) 

2年ぶりに地球の裏側から日本の新宿の街に降り立った時。

ビルに付いている電光掲示板と看板の多さにくらくらした。

宣伝のつもりなんだろうけれど、あまりの多さに頭は混乱、

そして多すぎて結局はどの看板の文字も胸に残らなかった。

残ったのはあの圧倒された感覚だけだった。


facebookに登録しているが、facebookもあれに近い感じを覚える。

時々開くと情報の氾濫。

数十人、しかもアップする人はごく限られたメンバーでしかないけれど、

ささっと目を通すだけで息苦しくなる。

もちろんほのぼのした気分になるものもある。

だけど、大多数はうぅぅぅ・・・と唸りたくなるくらいの情報。


自分の足元が見えなくなった時、

私はfacebookを見るのをやめた。

もちろんアップされている内容はその人の人生のごく一部の瞬間でも、

自分の生き方に迷いまくっている私には見るだけで毒みたいなところがあった。

私の捉え方の問題だと言われたらそれまでだけど、

色々と笑えない状況下で他人のうまくいっている様を

正面から見るようなエネルギーがなかった。


上に書いたのは、およそ1年前だ。

この文章も合わせてこの1年で16個の記事を保管したままになっている。

順々にアップするなり消去しようと思っているけれど、今読んでも斬新なままだ。

内容が全く古くさくない。

例えば、今すぐに新宿の街にわたしが行っても、恐らく同じ感想を抱くだろうし、

facebookも相変わらず情報の洪水で圧倒される。

先ほど、少し出掛けてこようと思って外に出たけれど、

最初の大きな横断歩道を渡るところで、全然出掛ける気分じゃないと気付いて取り止めた。

散歩にもならない外出を終え、今パソコンの前に座ってこれを書いている。

情報の少ない空間の中で、ほっと息をついている。



2014年12月9日

上の文章は途中で切れてる。

このブログを始めた初期に書いて保存し、

さらにいつだったかアップしようと付け足して書いたのをまた保存し、

そして今回まったく別のアレンジを加えてアップする。

この上に書いてある感覚、

例えば新宿駅の外に立ったときのおびただしい数の電光掲示板とか、

facebookのどこまでも溢れかえっている個人情報や

パソコンの画面の隅々まで隙間がないくらいにびっちりと埋まっている広告の文とか、

あれらを見ての感覚を、今回あの活字を読まない1週間でも同じように感じた。

何せ天気が悪くてきちんと外出できたのは2日だけ(初日と最終日7日目)だったけど、

一歩外に出ると、まず文字を目にしないというのは不可能に近かった。

標識や信号(と一体になってる地名の看板)なんかは仕方ないにしても、

至る所に宣伝やポスターや、とにかく自然ではない人工物、

その人工物に活字、活字、活字・・・これでもか、という位の活字のオンパレード。

それらを目に入れないようにする方がうんと努力がいることだと知った。

例えば電車に乗ったとしよう。

実際に30分ほど乗っていたのだけど、窓を通して外を見ようとする。

窓の全容を見ると、そこにも何かの宣伝シールが窓に貼られている。

もちろん、シールは視界に入れないようにし、風景に集中する。

一事が万事この調子だった。

家の中では、活字を読まなくてもいいように上から布をかぶせたり、

一部のものはクローゼットにしまったりした。

いつも部屋のすみに置いている本たちはそのままにしたけれど、

わたしの視力では相当近くに寄らなければ題名すらうっすらぼんやりだったから、

紙のかたまり同然だった。

今日、雲ひとつない青く澄みきった空の下を歩いた。

と言うとかっこいいけど、実際はトイレットペーパーがなくなって買いに出かけたのだけど。

近くの公園は、落葉樹と針葉樹が混在している。

針葉樹の下を通ると、そのはっぱとはっぱの隙間から青い空、

冬独特の空気が澄んだ青い空がのぞいていた。

寒かったけど、その空とか風とか光の具合にしばし見惚れて立ち止っていた。

活字は相当響くものがないと立ち止って読むことはしないけど、

自然のものはただただ見るだけで癒されたり心の中が洗われたりする。

そういう感覚も、この活字を読まない1週間があったから、余計と強くなったように思う。

いかに活字情報が町の中に溢れているかということもわかったけど、

同時にそうではない自然のものも、自分が見ようとすればきちんとそこにあること、

それが感覚として自分の中に取り入れられるようになったと思う。

ちなみに、冒頭の2年ぶりから始まる新宿の風景は、2009年の6月の晴れた日のことで、

だからもう5年以上も経過しているけれど、わたしはあの時の感覚を今でも覚えたままだ。

活字を読まない1週間 ②実際にやっての感想&変化

11月24日~30日の間、活字を読まない1週間を実施した。

やる前からはりきって準備(おたのしみイベント)をしたり、

元々情報少なめの生活だから、意外といけるんじゃないかと予想したり、

とんでもない悟りが訪れるかもと過度の期待をしたり、

そんなこんなで始めた1週間。

最初に結論を言うと、

楽しみで用意したものたちは、実際にやるのだけど楽しみではなくなり、

活字なくてもいける気がするというのは正しかったけど、

実際には想像をはるかに超えて「NO活字」生活が非常にこたえ、

悟りが訪れるどころか、本当に早くこの日々から脱したいというのが、

渦中の時の、超本音だった。

終わった時は本当にうれしかったし、その直後からまたいつもの日常に戻るのだと思ってた。

たしかに、日常は戻った。それにプラスして、

戻ってすぐには気付かずにいたけど、予定外の恩恵が色々ともたらされていた。

これはわたしの場合だけど、自分の習慣が変わった。

11月はNO活字含め、3つのことを並行していたから、実際にどれが作用を起こしたのか、

それとも3つの合同作用なのか、真相は不明だけど、

ただわかるのは、自分の習慣が変わったこと。

変化を列挙すると(というほどの数もないけれど)、

◎活字に触れる時間が減って、他のことをする時間がその分増えた。

◎中毒のようにはまっていたブログたち。
  今も読むけれど、節操を持って読むようになった。

◎「今日はこのままもうダラダラして終わりそう・・・」という時に、
  これまでは確実にその結果が狂いもなく訪れていたけれど、
  なぜか、やっぱりやろうと切り替わって、実際に何かを始めるようになった。

◎食事中、食事に100%集中するようになった。
  (以前は、携帯で料理ブログの写真見たり、本見たりしてた)

◎自分がその時にする活動をしやすくするために、片付けるようになった。
  (机の上とか、自分周辺とか)

◎これまで後悔していた、大学生の頃の生活の記録を残さなかったこと。
  そうだ!とひらめいて、今記憶にあるものを記録する、という方向転換を始めた。
  (卒業後13年もして、ようやく気付く)

ちなみに、やっていて堪えがたい状況だったのは、大きく2つ。

1つは、これは想定外の頭痛の日。

わたしは年間で指折り数えるくらいしか頭痛に悩まされない。

その日がたまたまやってきて、重症であれば寝るしかないけれど、

痛いけど軽症、普段なら横になって本を読むか携帯で何か読んでいるかのどちらかの時。

どちらも当然できず、かと言って起き上がるほどの元気もなく。

手持無沙汰な時間だけがどんどん過ぎて、その時間が半永久的にすら思えて、

それはそれは頭だけではなく、精神衛生上もよろしくない感じだった。

最後は少し眠った気がする。

そこを抜けた時の安堵感といったらなかった。

もう1つは、用意していた楽しみ(編み物と刺繍)が思いの外楽しくなく、

さらに悪いことにその週は7日中5日は雨が降るという、

1ヶ月分の雨の日がまとめてきたかのように名古屋は天気が悪く、

出掛けるのも面倒で、家にこもった。

適当な気分転換を見つけられず、

そういう時にいかに自分が普段活字にどっぷり漬かっているのかモロ見えで、

変なネガティブループにはまりかけて、ちょっと大変だった。

あちこち話は飛ぶが、自分の中での悟りこそ開かれるようなことはなかったけど、

代わりといっては変だけど、色んなメッセージが方々からやってきた。

これは書くと長いから、また別便でアップの予定だけど、

それらは活字に触れなかったことで、思わぬところから届いたメッセージだったと思う。

全体を通して、やってみて良かったと思う。

多少のもがきみたいなのももれなくついてきたけど、やってわかったことが色々あったから。

多分、やらなければ今見えていることは見えないままだったと思うから。

2014年11月23日日曜日

活字を読まない1週間 ①スタート前

明日11月24日から30日まで、活字を読まない1週間をスタートさせる。

これはわたしの思い付きじゃなくて、今月の頭から開始した毎朝行っていることと連動させて

紹介されていたエクササイズの一環だ。

数日前、その部分を本で読んだ時、「えっ!?まじめに!?活字を読まない!?1週間も!?」

と思った。

冗談かと思ったけど、本は大まじめに提唱している。

(※本の名前と何を毎朝やっているかは、12月に入ったら公表)

頭の中を切り替えて、やること前提としてわたしは何を断つのかを自分の日々の行動と

照らし合わせて考えてみた。

およそ5つ。


①10名近くの方の日々のブログチェック
   →はまっている方たちばかりで、毎日チェックしてる

②携帯ニュース
   →テレビのないわたしにとって唯一のニュース元で、この5年ほど毎日欠かさずチェック

③毎朝1ページだけ読む本
   →365日それぞれの日に贈られるメッセージ本を、基本的に起きてすぐ読む

④小説・エッセイなど、その日の気分で読む本

⑤携帯のメール、LINEのメッセージ


①が一番楽しみにしているものだから、正直すべてを断つのはかなり勇気がいる。

でも、これは1週間後にまとめてチェックできるから良しとすることにした。

②のニュースは、1週間何も知らなくてもそれは大して困らないような気がしている。

まぁこれもOK。

③と④の本に関しては、まぁ読まなければ読まないでも大丈夫かなと思ってる。

代わりに、暇になって手持無沙汰は困るから、わたしはこの数日で暇にならないための

下準備をかなりしっかりと行った。

この準備が思いの外楽しく、と言うより楽しいことしか用意しなかったから、

逆に今からその楽しみを決行出来る日が楽しみでしかたない。

⑤の携帯のメールとLINEのメッセージだけは、自分で特別ルールを作った。

1日1回、朝もしくは夜のどちらかにチェックする時間を設ける。

緊急を問うものが仮にあった場合、1週間放置というのはどう考えてもやばいので、

それだけは避けるべく、そういうルールにした。

当然、何も届かない日だってあるわけで、そういう日はチェックせずに終わる予定。

①~⑤までのそれぞれの対応策が決まったら、何とかなる気がしている。

これが仕事をしていたり、何か責任あるものに関わっている最中であれば難しいものも、

今それらとは無縁の状態だから、逆に行いやすい。

(本当は、抵抗を生み出すような状況であればあるほど、良いようだけど、本によると)

今回、唯一例外ルールを作ることになったのは、

火曜日26日午前11時。

森山直太朗の春先のコンサートの先行予約のために、それは絶対にゆずれないから、

パソコン開いて、活字だらけの説明読んで、応募しようと思ってる。

余談だけど、パソコンメールは元々毎日チェックする習慣がないから、

そしてパソコンそのものも普段はクローゼットに眠っていて使う時だけ出すスタイルだから、

パソコンからの活字問題は、今回全く問題なし。

多分、小学校に入ってから今の今まで、一度も活字を読まない1週間なんて過ごしたことがない。

デング熱でドミニカで入院していた時でさえ、多少具合が安定してれば、

人が差し入れてくれた本を少し読んでいた。

旅に出る時も、基本は何かしらの本を同行させているし、

どこかで本や雑誌があれば見るし、携帯があれば携帯で何かを読んだりする。

だから、今回のこの活字を読まない1週間というのは、史上初であり、

その大変さよりも、そこから一体何を感じ何を思うのか、そして何をして過ごすのかに

興味津々だ。

あと、何を思うのかについては、その都度、そしてその都度が難しくても、少なくとも1日1回は

記録に残そうと思ってる。

2014年11月22日土曜日

初心に返る~私の目指す文章~

11月になり、二日酔いだった朝以外、毎日継続して朝行っていることがある。

それについては、11月が終わったら経過報告としてこのブログに残したいと思っているけれど、

今日はその途中で起こったことについて記したい。

その毎朝行っていること、とりあえず始めたはいいけれど、これと言った効果を感じられず、

これはやっていて意味があるのだろうか・・・と数日前悶々としていた。

そこで私は、

同じことをやっている人が絶対にその効果についてネット上で触れているのではないか、

と思い立ち、実際に携帯で検索してみた。

「○○○(←やっていることの名称) 効果」と入力すると、

たくさんのページがヒットした。

あぁやっぱりやってる人がいるんだとうれしくなって、トップにきたサイトを開いた。

これが怒りの元凶となるのだけど、後にこのサイトのおかげで私は自分が目指す文章の

在り方について自分でもう一度初心に振り返り、結果的には「これこそが効果のひとつ」と

思い至った。

私が今毎朝継続していることは、ある本に書いてあることを実践している。

本はまだ読み途中にしても、とりあえず自分のペースでやろうと決めた朝のことだけは

やり続けている。

先ほどのヒットした某サイト、ここでは混乱を避けるために「Aサイト」と呼ぼう、

まず開いて驚いたのは、

本の引用をたくさんしまくっているのだけど、その引用先がなんと著者名や著書名ではなく、

どこの誰かもわからない「某クリニックの院長」となっていた。

引用の仕方はきちんと「“”」(クオテーションマーク、引用符)が使用されていたから

そこは問題ないにしても、内容はすべてと言っていいほど本の引用。

なのに、その提唱者は、Aサイト内では某クリニックの院長となっている。

完全におかしい。

某クリニックの院長は自分の言葉としてそんな書き方をしたのだろうかと思い、

私はその後その院長のページとやらも見てきた。

いや、院長は、しっかりと著書名と著者名を最初に紹介し、

一部本の引用もあるけれど、あとは自分自身の所感や感想を述べていた。

少なくともこの方は、実際に本を手にして読んで、自分でも実践していた。

その院長の書いたことを引用しまくっていたAサイトの方は、

これは私の勝手な予想だけど、多分サイト管理者はその本を一度も読んでない。

読んでないし、実践もしていない。

でもまるでその本に書いてあることをすると、すごく効果があると強調しまくっている。

世間を騒がせている小保方さんの論文ではないけれど、

この引用の仕方は法的に問題ないのだろうか??

Aサイトの文章は携帯画面にすると3枚分になっていたけれど、

3枚目の最後の最後で、本当の著書名と著者名が紹介されていた。

これは、絶対に最初に提示しなければいけない情報ではないのか!?と思いながら、

もう気分悪すぎる、これ以上調べるのは止めようと、携帯をオフにした。

夜寝る前に調べるんじゃなかった・・・と後悔しながらも、

私はなぜそんなにもそのAサイトの文章に苛立ちを感じていたのか、

どこの誰かもわからない人の文章にイライラするのか、

それの方が異常な気がして、そのイライラの原因を探る作業に移っていった。

もちろん文章を公にする上でのモラルにも引っ掛かったけど、

それ以上に、自分ではやってもいないだろうことをあたかもやった風なにおいを漂わせ、

さらに実証してもない効果をひたすら上から目線的な感じで書いている、

効果と言っても、自分ではその効果を実感してないから、

本に書いてある文章をそのまま期待できる効果として引用していた。

その在り方に私はすごく引っ掛かっていることがわかった。

考えているうちに、私が最初このブログを開設するにあたり、

自分で強く思い、これだけは守ろうと決めたことを思い出した。

1年近くそんなことすっかり忘れていたけれど、これこそが私が目指しているものだと、

はっきりと悟った。

私は自分の体験談を書こうと決めていた。

ワークおたくのように、私は色んなタイプの1人でできる心理的ワークをかなり沢山やっている。

誰と比べてということではなく、私の生きている時間の中でワークの占める量が多い、

という意味でやっている。

大学ノート現在6冊目に突入している(基本的に、自分のやったワークはすべて記録)。

大体1ページに1ワークとすると、60ワーク×5冊で、300ワークはこなしてる計算。

それが人と比べて多いか少ないかはわからないけど、

私はその中で自分がこれは効果があった!というものは積極的に公開していこう!

と1年前の開設時に思った。

思いとは別に、このブログ自体その時々の記録のように変わっていったものの、

今でもその思いは同じだ。

公開していくことは、私の今後のテーマになっていくんだと思うけど、

とにかく、見聞きして終わりではなく、必ず自分でもやってみることを信条にしている。

やってみると、自分の合う合わないがわかる。

合わないものはもうそのまま放置して、合うものは真剣に取り組む。

本に書いてあることは、本を読めばわかる。

でも、例えばそこで何かの方法論が紹介されていたとして、

その方法論が実際の実践において、どんな風に作用があるかはやってみないとわからない。

色んな本を読んで、私が知りたい情報はその作用的な部分だけど、

往々にして方法論だけが紹介されている本が多い。

やってみると個人差があることは十分想像できるし、

そんな個人差のある部分をあれこれ本で紹介することは難しいのかもしれないけど、

私が知りたいのはそこだし、そして必ずと言っていいほど行き詰まる。

行き詰まった時の対処法なんかが書いてあるとさらによろしいけど、

そんなご丁寧な本はそんなにない。

多数の本やネット上での色んな情報、ワークショップ、セミナーでの情報、

それら色んなものに共通して、理論や方法論、一般的な流れの説明は多いけど、

実際に行動しそこでどんな効果や問題が出てきて、

特に問題に対してどんな方法が解決に向けて可能か・・・

そういうものが非常に少ない。

だから、私は逆にその部分を自分の体験したことを通して自分の言葉で語れないだろうか、

とそんな風に考えた。

そんな思いから始めた、このブログだった。

Aサイトには怒りをはじめ色んな負の気持ちを感じたけど、

このAサイトに触れたことによって、自分が大切にしようと決めたことや、

文章を書くにあたって私が盛り込みたい内容の中心軸がはっきりとわかった。

その毎朝やっていることの効果は全然感じられないと思っていた矢先に、

意外な形で効果第1号としてもたらされた。

毎朝やっていること、何を今取り組んでいるのかは12月公開予定。