2017年10月9日月曜日

手紙



9月のある週末、まだまだ暑さが色濃く残る頃、私は1通の手紙を書いた。
 

その手紙は直前まで全く書く予定のないものだった。

 

そして書くと決めてからも何を自分が書こうとしているのか、自分でさえもわからなかった手紙だった。

 

大人になってから書いた手書きの手紙はゆうに100通を超える。

 

もしかしたら、2、3百を超える数の手紙を書いたかもしれない。

 

大半は、仕事で深く関わった人やお世話になった人に向けて。

 

仲の良い友達に書いたものも数十通はあるだろう。

 

付き合ってた人たちに書いたものもあった。

 

だから手紙を書くこと自体は慣れている。

 

慣れてはいるけれど、その週末に書いた手紙は、そのどれにも該当しない相手だった。

 

そして、その手紙だけは、過去に一度も書いたことのないタイプのものだった。

 

あの時の私は「書きたい」とか「書かなきゃ」とか、そうしたことさえも考えたり感じたりする余裕がなかった。

 

体の方が勝手に動いていた。

 

人生の中でそう何度とはない、何かに突き動かされるように勝手に動く、その時がそうだった。

 

手紙を書くと決めてから実際に便箋を買いに出かけるまで24時間と経っていない。

 

そもそも書くきっかけとなった出来事が起こった直後、私はもうそのことから身を引こうとそれは潔く決めていた。

 

これ以上そこに関わっても仕方ない、と自分でもびっくりする位に「もうおしまい」とばっさりと断ち切っていた。

 

だから、「手紙」を思い立つまでは、私はもうその全てから自分の身を引き剥がすように終息に向かっているつもりでいた。

 

その日の夜だったんだろうか?

 

突然、「手紙を書こう」と思った。

 

このままではいけない気がする、伝えるべきことは伝えないと一生それはもう伝わらないことなんだと、明日自分が死ぬ予定みたいな差し迫った感情がどばっと出てきたような気がする。

 

例えば、伝えないという選択をもしあの時にしたなら、一生私の中にだけ生きるストーリーで、尚且つ言葉では到底表現できないような「大事なこと」の一言に尽きるようなものを相手に知らせることがないまま終わっていたと思う。

 

でもそうであってはいけない、そんな感じを感じていたんじゃないかと思う。

 

この辺りは、自分が何を思い何を感じたのかもう今となってはさっぱり思い出せない。

 

それ位、何か激情に呑み込まれるような、普段の自分では絶対に有り得ない色んなものが勝手に溢れ出ていた。

 

人生80年と考えたら、そういうよくわからない手紙を書いて渡す、渡されることがあっても、そんなこと一生に一度と思えばいいじゃないかと自分を鼓舞した。

 

書く内容も書く目的も、「書こう」と思い立った時もしばらくしてからも何も定まっていなかった。

 

まっさらな状態ではあったけれど、「伝えなきゃ」という気持ちだけは前に前につんのめるぐらい前にあって、それにひたすら体が追い付こうと動いていた感じだった。

 


 

その土曜日、私用を済ませた後、便箋を買いに出た。

 

その便箋を持って、日常とは違う空間に行って手紙を書き始めた。

 

午後の遅い時間、夕方になろうとしていたかと思う。

 

いざ真っ白い便箋に向き合うと、何を書いたらいいものか…と一瞬ためらったのち、もう思い付いたまま書き出してみようと書き始めた。

 

5枚目くらいに差し掛かった頃、先が見えない上、そもそもどういうところに着地点があるのかもわからなくなり、不安になって友達にラインで質問した。

 

この友達は過去に一度私からの手紙を受け取ったことがある。

 

今でも忘れられない、友達の思いやりに満ちた行為に私は泥を塗って、でもそれを友達は何てことないという感じにしておいてくれて、そしてもう何事もなかったかのようにその後も普通にしてくれてたけど、私はその後後悔だらけできちんと謝らなきゃと思っていた。

 

そのお詫びとお礼の両方を兼ねた手紙だった。

 

当時も同じような便箋で8枚も書いた相手でもあった。

 

その友達に、ネットで見ると長い手紙は良くないとあるけれど、あれこれ書いたら長くなってきてしまった、長いのまずいかな?みたいなことを聞いた。

 

正直、この友達からの返信は1ミリも期待していなかった。

 

というのも、過去にこの友達が私ともう一人の友達の分もまとめて飛行機のチケットを取ってくれたのはいいけれど、その飛行機の時間を聞いても、1週間以上平気で放置プレイをするような人だ。

 

仕事の休みの申請もあるから早く返信が欲しいのに待てど暮らせど来ず、本人いわく自分の気が向いた時が返信時のようだった。

 

仕事の休みの申請に支障が出てもおかしくないレベルのものを1週間以上放置されたから、手紙の長さについての質問なんかもっとどうでもいい話で、返信は期待せず、でもできたら何か答えが得られたらいいなぁぐらいの気持ちで出した。

 

そうしたら1時間後、携帯がブルッと反応した。

 

なんと友達からだった。

 

≫そういう手紙をぶっしぃが短く書けるはずがないので、「長すぎるかな」と考えたところでそれ以外はないよ。長さは気にせず思うように書けば良いと思うよ。

 

と返ってきた。

 

基本的に72時間以内に返信がないのが当たり前の友達なのに、この時だけはどういうわけか1時間で返ってきた。

 

確実にこれは味方がついていると思える流れだった。

 

多分手紙を書くことは間違いではない、ととてもポジティブに捉えてまた書き続けた。

 

土曜日何時間かけてその手紙を書いていたのかはわからない。

 

13枚にもなった手紙を私はその後翌日曜日の昼までに10数回は読み返した。

 

国語の教科書を読むみたいに途中からは飽きてはいたけれど、相手に差し出す以上は誤字脱字はもちろんのこと、きちんと伝わる内容を書きたいと思った。

 

最初で最後の手紙ならなおさらだった。

 

書き足したり言葉を少し変えたりしながら、どうにか完成形と呼べるぐらいにまでなり、日曜日また場所を変えて今度は清書した。

 

手が震えそうになりながら1枚目を書き出した。

 

一文字一文字それはそれは気を遣いながら書いた。

 

自分のひらがなの癖に気をつけながら、読める字を書こうと心掛けた。

 

3分の2を書き終える頃、少しずつ寂しくなってきた。

 

終わりが近付いていることがわかっていたから、それが寂しさを連れてきた。

 

書き終えた時は達成感とは別に、「終わっちゃったな」と思った。

 

そこではたと気付いたのは、下書きよりも清書の方が枚数をオーバーしていて、当初使う予定でいた封筒には収まらないことだった。

 

急いで閉店間際の百均に行き、封筒を探した。

 

紙の厚さの関係上、選択肢は1つしかなかった。

 

これまでの100通以上の手紙には一度も使ったことがない封筒だった。

 

一言で言えば、ださい。

 

要は普通の事務用の茶封筒で、そんな封筒で私的な手紙を人に渡すなんていうのは過去に一度もしたことがなかった。

 

でも背に腹は代えられない、これしか入る封筒がないんだから仕方ない、と割り切って、もう二度とは使い道がなさそうな24枚入りの封筒を手に店を後にした。

 

何せ無計画で書き始めた手紙だけあって、私はそれを一体いつどのタイミングで渡すのか考えていなかった。

 

手紙を書き終えてから、一体いつがいいんだろう?と自問自答した結果、先延ばしせずすぐに渡そうと決めた。

 

そこから2つ目のミラクルがまたやってくるとは、想像もできなかった。

 

「手紙を書く」と決めた翌朝のその土曜日から、私はお墓参りを始めた。

 

具体的にいつとは覚えてないけれど、いつからかもう自分の思考では到底想像できないようなことがたくさん起こり出していた。

 

「もうこれは流れに委ねるしか基本的に方法はない」と自分の中で感じたそのタイミングと手紙の発想がほぼほぼ似たような時期にやってきていた。

 

そこで私は「お墓に手を合わせて、ご先祖様に守ってもらおう」という、実に自分の都合だけを押し出した墓参りを始めることとなった。

 

手紙を渡そうと決めた日の朝もまずはお墓に寄った。

 

その時はクリアケースに手紙を入れて、お墓の前に持って行って願掛けをした。

 

頭を冷やして冷静になってから、「ところでこれどうやって渡すんだろう?」とずっと思っていた。

 

渡すタイミングが見当たらなかった。

 

まず渡す相手と私が2人きりになるなんてことはない。

 

さらに万が一そんな状況が生まれたとして、タイミング良く手紙を私が持っているのかというと、それも微妙だった。

 

無理な理由はいくらでも思い付いても、渡せる状況は1つも思い浮かばなかった。

 

それもあって、お墓の前に手紙を持参して「これを無事に渡せるようになんとかよろしくお願いします」的なことを祈る他なかった。

 

お墓を後にしたその直後、私は手紙を渡す相手の名字が書かれたとてつもなく大きな看板を目にした。

 

そこは元々事務所を経営していたところだったけれど、経営者の方が亡くなられて普通の民家になったタイミングで、なぜか看板に名字だけを大きく書き替えて残すということをされたお宅だった。

 

その看板を見た時に、何の根拠もなく「大丈夫」と思えた。

 

そしていざその場に行ってみると、千載一遇のチャンスが転がっていた。

 

先に言ったように、まず2人きりになど絶対にならない。

 

特にその時間帯はならない。

 

記憶の限りなったことがない。

 

だけど本当に一瞬、時間にして1分もあったかないかだろう。

 

完全に空間に2人きりになった時間が突如生まれた。

 

何がどうなっていたのかさっぱりわからないけれど、本来いる人たちが1人残らず全員席を外していて、普段いない人たちも一瞬いたけれどまたそれぞれが自分の用事を足しに出て、気付けば手紙の相手と私だけしかいなかった。

 

今しかないと思って慌てて封筒を持って行った。

 

余計なことを言い足せる状況でもなかったから、これお願いしますとしか言わなかった気がする。

 

相手も「はっ?」と思ったのかは知らないけれど、何も返事しなかった。

 

あまりに変すぎて、返事が返ってこなくても不思議じゃなかった。

 

史上最強にヘンテコな手紙の渡し方だった。

 

その日1日を終えた頃、ふと茶封筒を思い出した。

 

手紙を書き終えた時は、単に封筒に入りきらないと思って急遽変更した封筒だった。

 

だけど、結果的に、茶封筒だったおかげで他のものと一緒に持っていても何ら違和感なく風景に溶け込めるようになっていた。

 

紙2枚?3枚?くらいのあんな薄さが封筒を変更しなくてはいけない状況を生み出したのかと思うとすごい。

 

最初用意していた封筒は、風景にはなじまない。

 

それもシンプルなデザインだけど、若干浮いてしまう。

 

10数回の読み返しも無駄にはならなかった。

 

そのおかげで長さが若干伸びたのだから。

 

長さが封筒を変えるきっかけを作ったのだから。

 

そしてお墓参りにも驚いた。

 

本当にお墓参りが功を奏したのかは知らない。

 

だけど、渡せない状況はいくら思い付いても渡せる状況は思い浮かべることができなかった。

 

もうここは神頼みしかないぐらいのレベルで、手紙をささっと渡す状況なんて普段なら絶対の絶対に有り得なかった。

 

そうしたら、手紙を渡せる状況が一瞬にして生まれた。

 

今振り返ってみても、もうあの時と同じ状況はあれが最初で最後だった。

 

それぐらい何かに守られるかのように動き出していた。

 

 

~手紙にまつわるanother story~

 


手紙の舞台裏


2017年9月。
私はある1通の手紙をしたためる。

この手紙に至るまで、実に色んなことがあったことをここに記しておきたい。

 

 

2015年9月にさかのぼる。

 

私は13ヶ月目に突入した絶賛ひきこもり生活を前に、これからどうするんだろう?とそれまでと変わらず同じ質問を自分に投げかけていた。

 

13ヶ月引きこもろうと思って引きこもったわけではなかった。

 

気付いたらあれよあれよという間に1年と1ヶ月目に突入していた。

 

しかも引きこもることも「引きこもろう!エイエイオー!」というような勢いで引きこもったのではなく、気付いたらそういう生活になっていたという感じだった。

 

ある時自分がいつ人に会ったのかを確認したら、最初のぷー太郎3ヶ月くらいはさておいてもその後から1ヶ月に2人とか3人とかになっていて、しかも1人暮らしだったから、本当に誰にも会わず話さずなんていう日が1ヶ月の90%以上を占めていて…ということに気付いた。

 

「これっていわゆる引きこもりってやつ??」と自分のことなのに、まるで他人事のように思って、そこで初めて自分がいわゆる引きこもりをしていることにようやく気付いた。

 

当時のことは割愛するけれど、当時の私にしたら、人に会ってああでもないこうでもないと説教じみたことを言われたり促されるよりも、自分ひとりでいることの方がうんと楽だった。

 

しかも当時会っていた人たちはものすごく限定されていて、そうした私の状況を知りながらもそれまでと変わらずに接してくれて何も言わず見守ってくれる人たちだけを選り好んで会っていた。

 

きちんと社会生活を送っている健全な人たちからしたら、私の行動は異常そのものだっただろうし、実際に批難されたことも一度や二度じゃなかった。

 

とにかく色んなことから逃げたかったのと、それまで走ってきたかのようにはこれから先の人生やっていけないという自分の中の燃え尽き症候群みたいな感じと、色んな負の状況や気持ちが一気に押し寄せたような期間だった。

 

だから、私の中でその生活を終わらせる目途など全く立っていなかった。

 

そんな中、2015年の9月に突如転機が訪れた。

 

ある日突然見知らぬところから連絡が来て、私がやっていることを形にしてみないかという提案だった。

 

私は最初冗談だろうと思っていた。

 

なんかの新種の詐欺かとも思った。

 

どうせ何をしてるわけでもないし、会う場所はコメダだし、昼間だし、まぁ詐欺なら詐欺でその場で警察を呼んだらいいなどと考えて、実際に会うことにした。

 

会ったら、ビジネスとは少し違うけれど、大真面目に私のしていることを形にしてくことを提案された。

 

それは正当な評価だということはわかったし、きちんと私のしていることを下調べもしてきていることがわかった。

 

その上でどうですか?という提案をいただいたのだった。

 

返事は保留にして、また後日返事しますということでその日は帰ってきた。

 

さすがに怖くて、ネットでその会社を検索しまくった。

 

実際に形をした人たちのブログやサイトなんかも探しまくって、本当に安全かどうかを調べた。

 

何なら、そのうちのお一人には勝手ながら個人的に連絡を取り、聞いてみた。

 

その人であれば信頼できそうという感じがプンプンしていたから。

 

その会社とも私とも利害関係のないその人から信頼できる内容の返信をいただき、とりあえず危ないものではないことはわかった。

 

その後もどうするかさんざん迷ったけど、もうYESで行きなさいと言わんばかりのサインがあちらこちらからやってきて、それでようやくやろうと決めたのが2015年の9月だった。

 

それはやりたいことではあったけれど、同時にまたそれとは別に食べていくための社会生活も2足のわらじでスタートさせる必要があり、私はそれをきっかけに引きこもり生活を終了させた。



食べる手段としての仕事は派遣の仕事だったけれど、待遇に関しても派遣では有り得ない特例が派遣会社の上層部の人の個人的な働きがけにより実現した。
 

武士俣さん、このことは絶対に口外しないでください、社内でもそれを知るのは僕ぐらいなのでよろしくお願いします、と言われた位の対応をしてもらえていた。

 

私のやろうとしていることも知った上で、「これが僕にできる武士俣さんへの応援の仕方です」と言われた。

 

本当にありがたいばかりで、あとは普通に仕事に行って、それ以外の隙間時間で自分のやりたいことをやれば良かった。

 

ところがここで私はとんでもなく大変なことになった。

 

派遣なのにまるで正社員のような責任を問われる体質の会社で、さらには私の能力以上のものを日々求められ、できないと叱責と怒りと色んなものをぶつけられるという状況だった。

 

さらには、本来フォローする役割の社員の人たちが、私をフォローするどころか蹴落とす、責任を全部かぶせてくる、という社会人になってから一度も体験したことのないことを体験することになった。

 

私が社会人になってから唯一自慢できることは、どこのどんな職場に行っても、人にはびっくりする位に恵まれていること。

 

どこに行っても変な人の1人や2人はいるし、仕事できなかったり人間的に「はぁ~?」と思う人もいるけれど、それでも私はどこに行っても本当に良い人たちに恵まれていた。

それは私が正社員だろうが契約社員だろうが派遣だろうが関係なくそうだった。

 

だから聞いたことはあったけれど、本当にそういう変な職場に行ったのはその時が初めてだった。

 

それで結局私は、食べていくのに必要なその仕事を自ら手放した。

 

契約を更新せず、契約を結んでいた5ヶ月過ぎた時に期間満了で辞めた。

 

その後私はまた普通に何かの仕事に就きながら、本来のやりたいことをやっていく予定でいた。

 

ところがその後からとことん不採用をくらった。

 

派遣なのに不採用、何ならすごく得意な分野でも不採用、急募で派遣会社から太鼓判もらうような会社でも不採用。

 

明らかに何かがおかしかった。

 

しばらくは次の仕事を探すことに躍起になっていたけれど、不採用がいくつか来た時に、「この道じゃありませんよ」のサインなんだろうなぁとおぼろげに思った。

 

かと言って何かを始めるような気持ちなんか微塵もなかったから、正直どうしたいのかどうしたらいいのかさっぱりわからなかった。

 

仕事を多少は選んでいるにしても、自分が選んだものからは選ばれない。

 

ある時は手当たり次第とはいかなくても、それに近い形であちこちにコンタクトを取ったりもした。

 

それでもどこにも繋がっていかない。

 

イコール食べていく術がなくなる。

 

かと言ってのたれ死ぬわけにもいかない。

 

辞めてから3ヶ月になろうとしていた頃、絶対に選びたくなかったけれどこのままでは本気でまずいということで、恥を忍んで親を頼って新潟に戻ることにした。

 

それが2016年初夏のことだった。

 

 

新潟に戻ってきてからも、私の不採用は続いた。

 

当時のメモを見るだけでも最低10か所は落ちた。

 

それも契約社員やアルバイト、パートでも落ちた。

 

履歴書に希望を書く欄があるけれど、私は一切希望を書かずに出していた。

 

それでも落ちるから、もうどこにも行けないんじゃないかとさえ思っていた。

 

その頃から「本当に行く必要のある場所にしか運ばれない」とかなり本気で思うようになった。

 

なぜなら、超マニアックな経験を必要とするところでも3社不採用だったから。

 

自分が受かる素質があるなどとは思わなくても、少なくとも未経験者より経験者の方が絶対的に欲しいところだろう…というところで落ちたから「おや?」という感じだった。

 

それで10社以上不採用が続いた後、最終的に就いた仕事というのが今年の春先までしていた仕事だった。

 

そこは申し込んだ日から3日後には仕事開始と言う、信じられないぐらいにあっという間に決まった。

 

いきなり何でこの仕事に決まったんだろう?と疑問に思ったぐらいだった。

 

ここは興味のない仕事にも関わらず、働くことの楽しさを私に教えてくれた。

 

そして私の何の統一性もないこれまでの色んなジャンルの経験を存分に生かす、そんな仕事に抜擢された時はとても嬉しかった。

 

ただ期限付きの仕事だったゆえ、2017年5月に強制終了となった。

 

仕事が強制終了ということではなく(なぜなら一部の人たちは残って仕事を今も継続しているから)、私にとって次の流れに行かなければならないことが水面下で起こっている、という意味での強制終了だったと思う。

 

正直、なぜこのタイミングで仕事が終わるんだろう?と思っていた。

 

私が抜擢された仕事というのは、45人近く人がいて、私以外誰もすることのない仕事だった。

 

当時の上司が最後の方に教えてくれたことは、

「この仕事は誰でもいいんじゃないんだよ。

そして誰でもできるわけじゃない。

まずそれに対してジャッジしないこと。

抵抗がないこと。

それによってメンタルがやられないこと。

そして理解した上で仕事に取り組めること。

さらに対応力が必要だから、お客さんが何を言ってきたとしてもこちら側の意図を伝えて言い切れること。

咄嗟に迷ったりお客さんのペースに巻き込まれて話があらぬ方向へいかないように、きちんと軸を持っていること。

そして本来意図していることをお客さんがそうしてくれるように仕向けること。

それら全部できる人っていないんだよ。

だからぶっしーがやってくれるってなった時は、ようやくそれをしてくれる人が自分のところに来たんだな、って思った」

というようなことを教えてもらった。

 

ものすごく特殊な仕事をしていたし、やり残したまま5月末を迎えたけれど、私は契約通り5月末で終了となった。

 

だから「強制終了」という言葉が頭に浮かんだ。

 

そして次の仕事は、これまでその前の10数社不採用をくらった人とは思えない位にあっさりと決まった。

 

他にも紹介されていた仕事が3つ程あったけれど、それは何かしら条件が派遣会社か私の方で一致せずに断ったり断られた。

 

そして実際に決まったところは、なぜかすぐに決まって内心驚いた。

 

正直なところ、何でこの仕事に決まったんだろう?と腑に落ちる理由が1つもなかった。

 

その仕事(事務)は、私は未経験で尚且つ自分が得意とすることを1ミリとして発揮する場面がない。

 

だから、「何でこの職場に行くんだろう?」と当初から不思議で不思議でたまらなかった。

 

後々今の職場の人に聞いたら、面白いことが1つわかった。

 

今の仕事は人員不足で急遽増員になったところだった。

 

その人いわく

「派遣会社の人(Xさん)に、次に来る人はどんな人が相応しいか聞かれたことがあってね。

こういう職場だから、若すぎる子だと他の人たちとの年齢差プラス職場の体質的にかなり厳しいと思う。

だからある程度社会人経験のある人。

あと、この職場ゆえ、メンタルが強い人じゃないと絶対にやっていけないので、そういう人がいいと思います、って伝えたらね。

武士俣さん来て、『あぁぴったりな人が来た!』って思ったんだよ」

というとても嬉しいことを教えてもらえた。

 

「メンタルが強い」というのも、実はすごいキーワードだった。

 

3つ条件が合致せずに行かなかった仕事のうちの1つは、「メンタル的に平気な人じゃないと」という話が実際にあった。

 

どういうメンタルの強さを求められているのかを聞いて

「あぁそれなら私は平気です。

そういうのは基本気にならないし、そんなの自分じゃなくて仕事がそうだから私のせいじゃない、って割り切って仕事しますから」

と担当者に返したことがある。

 

その会話を交わした担当者(Xさん)が、実際に今の仕事を持ってきてくれたのだった。

 

それで始まった仕事が、まさか手紙の相手と出逢う舞台に繋がっていくとは当時ゆめゆめ思わなかった。

 

もっと言えば、私はその仕事を通じて出会いも求めていなければ、おおよそ年度いっぱいの契約になる予定と当初から言われていたから、それまで自分の今後の生き方を決める上での猶予をもらったんだ位に思っていた。

 

今仕事しながら次の方向性を定めなさいってことなのかなぁぐらいにしか思っていなかった。

 

そして実際に今の職場に行ってみて、自分がその組織的な体質にいよいよ合わないということもはっきりすれば、自分の持っている力を使わないことにも違和感を覚えたし、事務仕事について言えば本当に不向きだと日々痛感している。

 

何もかも予定外の流れがきて、最初頭でわかったことは今書いたみたいなことだった。

 

今ならわかる。

 

もちろん今の仕事から学ぶことはいくらでもある。

 

でもそういうことを学ぶためにそこに行ったのではないこと。

 

どちらかと言えば、「運ばれて行った」場所だった。

 

そこに行かなければ出逢えない人がいたから。

 

本当にそれが目的だったんだと思う。

 

そしてそれは論理的に設定した目的ではなく、自分自身でさえもそんな目的が潜んでいたなんて知らずにいた、そういう類いのものだった。

 

 

ふと思い出したことがあった。

 

不採用になった3つの会社は、どこも全部「1年以上の長期就労」が大前提の募集だった。

 

そうとは書いていない場合でも、基本的にはそういう人を求められていた。

 

実際に面接でも聞かれた。

 

だからもしそのどれかに採用されていたとしたのなら、私は絶対に今の職場にはいなかった。

 

とにかく流れのすべてが色々おかしかったし、何でこんなことになっているんだろう?っていうようなことがこの2~3年ずっと続いていた。

 

20代の半ば位から始まったことだけれども、自分の意志とは関係ないところで何かが水面下で動いている。

 

少なくとも30歳になるまでの私は、「成せば成る」と信じていた人間だった。

 

自分の努力で何かを手に入れること実現することは可能だ、ということを実体験としていくつも積み重ねてきた。

 

だから人生とはそうやって生きていくものなんだろうなぁと認識していた。

 

ところが、自分が努力しようが望もうが、その通りにならないことも人生にはある、ということを20代の終わりで体験した。

 

自分の行動や意志ではどうにもできないこと。

 

そういうものが人生には存在すること。

 

とにかく色んなことが起きまくった30代だったけれど、今わかるのは、今という人生の通過点において、やっぱり過去のピースどれ1つとして欠けてはダメだということ。

 

もし今の仕事やこの1つ前の仕事が、2足のわらじ開始当初の仕事であれば、私は100%新潟に戻ることはなかった。

 

なぜならどちらも隙間時間というものを十分に持てるから。

 

そして前回も今も人間関係は良好だし、良くしてもらっている。

 

そういう意味で不満はない。

 

辞める選択なんて頭に浮かばなかったと断言できる。

 

だけど、なぜかあの時だけは「新潟に帰りなさい!帰らなければ無理矢理にでもそういう状況を作りますよ!」と言わんばかりの状況だった。

 

私の中でも「何でこんなことになっているの??」と思ったことがたくさんある。

 

でも色々おかしなこと満載の中で、結局出逢うべくして出逢うようになってた人に繋がるのであれば、もうそれが流れなんだと思う。

 

 

たった1通の手紙には、そうした過去から脈々と続いている一連の流れがあった。

 

まさか2年前の9月に、2年後の私は新潟にいるなんて思ってもいなかったし、予定にも組んでいなかった。

 

なんなら私は、生涯を通じてもう新潟に住むことはないとさえ思っていた。

 

そして新潟に戻ったことで、その1通の手紙が生まれることも当然知らずにいた。

 

手紙を書くということは、当然手紙を渡す相手がいるわけで、そんな相手と人生でかち合うなんて、もっともっと想像できなかった。

 

手紙の舞台裏は、自分自身でさえも今この地点に立たなければ見えないこと知らないことだらけだった。

 


~手紙シリーズ~


言葉数の少ない人


数百人の人と関わってみて、これは私が独自に感じていること。
 
言葉数が少ないからと言って、その人が何も思っていないとか言いたいことがないという意味ではないこと。
 
どんな人も言葉を持っているし、色んな気持ちや考えを持っている。
 
ただそれをどの程度表に出すか、言葉にして外に発信していくか、その程度の差だと感じる。
 
自分を例にとれば、まるで今の私は全く人見知りしない人みたいに認識されがちだけど、私は自分の話をする時は相当人を選ぶし(むしろ自分の話は核心に触れるほど誰にもしない)、そして子どもの頃からの癖で瞬時に相手のことを「この人にはここまで話してもOK」とか「この人に話すのは危険」とかいうことを判断している。
 
ちなみに子どもの頃の私は、「はい」と返事すらできないような子どもだったから、当然自分の意思を周りの人に伝えるなんていうことはしなかったと言うより本当にできなかった。
 
本当に静かな子どもだったし、最強の人見知りだった。
 
年齢と共にそういう部分はだいぶ解消されたし、生活や仕事をする上で自分が困らないぐらいのコミュニケーション力はついた。
 
だけど基本的に自分からぐいぐいと行くタイプでもないし、核心に触れるような話は本当によほど相手を信頼できないとまずはしない。
 
スーパー人見知りな自分と今ぐらいになんとなくコミュニケーションをとれる自分とその途中の段階の自分と、色んな自分を体験してきてるから、だから言葉数が少ないとか人見知りするような人に対しても、私はそういう人を見ると「この人が話すと本当はどんな感じなんだろう?」なんてよく思ったりする。
 
 

何年か前、私はある中学生の女の子からとても大切なことを教えてもらった。
 
その子は社交的か内向的かとなれば、100%内向的。
人見知りかそうでないかと言われたら、100%人見知り。
ものすごく物静かで、挨拶と必要なこと以外は一切喋らない子だった。
 
大人の私だけにじゃなく、同年代の子どもたちにもそういう態度を貫いていた。
 
一応大人の私は、その子が不快にならなさそうな話題を選んで多少は話しかけたし、こちらが返して欲しい程の言葉での返答はないものの、だからと言って話しかけないのはもっとおかしな状況だったから、ある意味可も不可もない小さな会話をするようには心掛けていた。
 
いつまでも深まらない関係にやきもきもしたし、いつかその子はこの関係に嫌気がさして私の前から去っていくんじゃないかと思っていた。
 
とにかく一筋縄ではいかない相手だった。
 
週2~3回彼女とは顔を合わせていたけれど、その何の進展もない状況が延々8ヶ月続いた。
 
8ヶ月経ったある日のこと。
 
何年経っても忘れられない位、その日の光景も彼女のこともよく覚えている。
 
大革命が起こった。
 
そもそも2人きりになることのない場所だったゆえ、彼女と私だけが最後にその場に残ったのはその日が初めてだったかと思う。
 
私は仕事だからそこにそのまま居残るけれど、彼女はもう終わったからあとは帰るだけだった。
 
私は入り口まで彼女を見送ろうと思って、その子の後ろについて行った。
 
いつものように小さな声であいさつして帰るんだろうなぁぐらいの心持ちで彼女を見ていた。
 
そうしたら突然その子は堰を切ったように自分の話を始めた。
 
しかもその位の年齢の子なら、学校のことや友達のこと、恋愛なんかをべらべらと話すのが普通なのかもしれないけれど、彼女の話はそのどれでもなかった。
 
いきなり家族と家族の中の自分の立ち位置について、実にわかりやすい、それは黙ってその場で自分や家族を観察していないと絶対にわからないような話を一気に聞かせてくれた。
 
私はそこのおうちに行ったことは一度もないけれど、彼女の話だけで家庭の中がどんな風かいとも簡単に想像できた位、すごくディープな話だった。
 
その日を境に、その子は私との関わり合い方を変えてきた。
 
相変わらず余計な話や小さな声でのあいさつはそのまま継続された。
 
だけど、2人きりになる場面になると色んな話をしてくれるようになった。
 
これは私が勝手に思っていることだけれど、あの沈黙を貫いていた8ヶ月間、実は彼女は私を観察していて私が話す相手として彼女の基準を満たす人物かどうかを見定めてたんじゃないかと思う。

私は彼女のサインには何一つ気づけなかったけれど、言葉のなかった8ヶ月間も実は言葉ではない別の形で何かを私に訴えていたのかもしれないし、伝えようとしていたのかもしれない。

彼女が私に教えてくれた大切なこと、それは目に見えていることや耳に届く言葉だけで人や状況を判断しないことだった。
 
それって人間関係を築く時にとても大切な要素になる、ということを彼女は自分の身を呈して私に教えてくれていた。


   
その子だけではないけれど、言葉数が少ないからと言って、何も言わないからと言って、その人が何も感じていないとか考えていないなんてことは絶対にありえない。
 
むしろ言葉数が少ない人の方がそれを外に出さない分、内側では色んなことをたくさん感じてるんじゃないかと思う位。
 
自分もそうだけど、大事な場面で言葉を出せない時がある。
 
色んな思いが絡まって言葉にできない時もあれば、相手の決めつけてくるような態度を見て何も言いたくない時もある。
 
何か言ってもわかってもらえないとわかると、私は適当に取り繕うことは言っても自分の本心は絶対に言わない。
そうすることで自分を守る時もある。
 
だから状況はそれぞれだけど、ただそのどんな時も自分は色んなことを感じているし考えている。
それを表に出さないだけ。
 
これは私のこれまた勝手な個人統計だけれど、表面上言葉数が少ない人の方が、話してみるとすごく面白かったりする。
 
そしてそういう人たちからはっとさせられるようなことも多い。
 
言葉数の少ない人の方が黙っている時間が長いから、実際に話す時や沈黙の時の距離感が心地良かったりする。
 
人との距離感を多分ものすごく見極めているだろうから、距離感の取り方が絶妙だったりする。
 
そして視点も独創的ですごく面白い。
 
そういう視点があるんだ!と斬新なことが多々ある。
 
言葉数の少ない人の少ない言葉は、すごく深みや重みがある。

少ない言葉には奥行きがあって、そういうことにはっとさせられることがある。

いつだったか、自分は表現することがうまくないと思っている友達に、私もうまく言葉を繋げず誤解を与えたんじゃないかと思って謝った時、
「自分もそうだからわかるよ。
言葉にうまくできなくて、でも本当は言葉の裏に色んな思いや考えがあるってこと」
と言ってもらってものすごく救われたことがある。

言葉や表現が色々うまくないと思っている自分を救ってくれるのは、そういう体験を持っている人の体験から得た言葉であることが多い。

2017年9月29日金曜日

ブログを休んでいた間のこと

ブログを休んでいた間、実は全く書かなかったわけじゃない。


ちょこまかちょこまかと書いては、USBに残した。


といっても、それは最初の3か月ほどの話で、こうしてキーボード叩いて文章を書くのは多分1年ぶり…。


当時、今住んでいるところにどの位住むのか想像もつかなかったから、ネットを引かなかった。


そうしたらあっという間に1年4か月も過ぎていてびっくりした。


ネットがなければないなりに、生活にそこまで不自由さを感じなかった。


テレビなし生活を10年もしたわけだから、ネットもなければ何とでもなった。


どういうわけか、今の職場では、私だけメールアドレスもなければ、そうしたチェックの煩わしさからも解放されている。


iphoneも最低限の連絡用にしか使わず(さすがにネット検索はそれでするけれど)、それですべて事足りてる。


この超スーパーネット社会の中で、昭和のような生活を送っている。


それはそれで私にはとても心地よい。


ないと不便だと思うのはそのものがある時だけ。


ない生活が始まってしまえば、体も心もないことに慣れて平気になる。


平気にはなるけれど、やっぱりこうして久しぶりにキーボード叩いたら、こうして書くことは好きだなと再認識する。


書かない間も、いろんな形で私は書いていた。


日記や備忘録的なものが多かったけれど、手書きであれやこれやと残していた。


ネットはいつ再開させるかはさておいて、書くことは再開するだろうなぁという予感がする。


息をするように、私の指はひたすらキーボードを叩いていく。


考えて打ってるんじゃなくて、出てきたものをぽんぽんとキーボードに打ち込んでるだけ、という感じ。




1年4か月、実に濃密な時間がやってきた。


「働く」ことそのものが楽しいと思える経験をした。


興味のない仕事にも関わらず、働くって楽しいこともあるってことを、この春先までしていた仕事から教えてもらった。


人との出逢いもあった。


望む方向にはいかない結果が今の現実にはなったけれど、それはそれはものすごい体験が雨あられのようにやってきた。


生活の環境も、生きる道も、住む街も、あれもこれも変更した1年4か月だった。


色々先延ばしにしたこともある。


自分の選択に納得できないこともある。


これで良かったのか?なんて思うことも数えだしたらきりがない。


それでも私はたくさん笑って時々は怒って、時には泣いて気持ち吐き出して。


おいしいもの食べたり、きれいな風景に出逢ったり、人の優しさに触れたり、「生きてる」時間を過ごしてる。


今月に入ってから、1つ思い出したことがあった。


30代の中で、1年くらいに渡って「生きたい」と思えなかった時間が2回、だからトータルしたら2年は確実にあった。


きちんとカウントしたら、もっとあったのかもしれない。


その「生きたい」と思えなかった頃の自分の気持ちは今でも憶えている。


朝がくると「また朝が来てしまった」と毎朝思っていた。


死にたいとは思わなかったけれど、なぜならうっかり自殺したら次の人生ではもっと大変な人生を送ることになると聞いて、もうそれまで何とか乗り越えた数々の苦難よりきついものは体験したくないから、自殺願望だけはきれいさっぱりなくなった(10代の頃はそういうのもあった)。


先の見えないことに不安ばかりが押し寄せて、自分の力のなさに泣いて、逃げることさえ許されなかったような状況に本当に絶望していた。


例えば、10回ほど退職届を出しても辞めさせてもらえなかった仕事には、本気で逃げられないと恐怖しかなかった。


例えば、本当に何もかもと断絶して、引きこもりのような時間を13か月した時は、ひきこもることに違和感はなくても、そこから先の人生の再生の仕方がわからず1日1回は絶望すると計算したら何百回と絶望していた。


色々強烈なことがあっても、私はそれでも心ある人たちから何度も助けてもらい、そしてたくさんの色んなものたちに元気をもらっていた。


でもやっぱり心はどちらかというと弱っていた。


人生を楽しむ力が圧倒的に不足していた感が、今は当時を振り返るとそんな気がする。


例えば今。


自分の望んでいない現実もしっかりとある。


こんなの望んでいません、私が望んでいるのはこれこれこういうことです、と何度自分の中で宣言したことかわからない。


何ならこの3週間弱、毎朝の日課になった墓参りという名の願掛けの時なんか、もう自我丸出しの願い事をお墓の前で何度も何度も心の中で唱えている。


ちょっと不思議なことを話すと。


私はそのお墓参りの時間、雨の多い新潟で、実は一度も雨に当たったことがない。


1日を通じて雨の日だって確実にあった。


それでも本当にお墓参りのその数分だけ、雨の日でも雨がなぜか上がっていた。


その直後から大降りになったことだって一度や二度じゃない。


守ってもらえてるんだなぁと何度も何度も感じた。


そしてもっと不思議なことを言えば、別れと呼ぶようなその日、ものすごく雨が降った。


初めてお墓までの道すがら傘をさした。


私がきちんと泣けない分、空が泣いてくれてると本気で思った。


あほみたいなことを言ってるようだけど、そういう体験の1つ1つが「生きてる」ことをものすごく感じる。


そしてそれに勝るぐらい楽しいことも体験した。


1日の終わりにその日にあった出来事を思い出してはすごくしあわせになって、そして次の日もまたそれ以上の楽しみがあって夜眠ることが楽しみだった。


朝がきたら、その楽しいことを体験できるんだと思うと、それだけで心が躍った。


人生にこんなにも楽しいことがあっていいんだ!って感動した。


それは、生きたいと思えなかった当時の自分ががんばったことへのご褒美みたいだった。


過去の自分に何度も感謝した。


がんばったね、がんばってくれたおかげで今の楽しみがあります、って。


そしてその頃の感覚も知ってるから、今色んなことをもっともっと楽しめるようになったような気もする。


「生きたい」とかそんなの考えなくても、「今日もこれから楽しいことが待ってる」って感覚が先走る。


40代を1年半後ぐらいに控えている今、こんな感覚を自分が持てるなんて思ってもみなかった。


喜びとか希望とか、そういうものを人生で持つってすごいことだと私は思ってる。


もうそれどころじゃない日々がたくさんあったから、そういうことを人生で持てるようになった自分、もう一度持てるようになった今、感動する。


思い通りの現実じゃなくても、そういうことはあまり関係ないらしい。


思い通りじゃない部分に対して「奇跡が起きてくれないだろうか」と大真面目に思ってる。


その現実は非常に受け入れ難いけれど、それでも人生を楽しむ力が私にはあるんだということが今はわかる。


過去の苦しみや理不尽な出来事は、私に人生の楽しみ方を教えてくれる良薬に今はなった。


当時は七転八倒して、先の見えないことや目の前の悲しみや苦しみに泣くか塞ぎ込むぐらいしかなかったけれど、それでも今の私は笑ってる。


色々やらかしたことも、誰かの迷惑になってしまったことも、反省や恥ずかしさや色んなものがあったけれど、それでも今日も私は生きてることを許されてる。

ブログ再開試験中

ブログを再開しようと思ってネットカフェに来た。


iphoneは持っているものの、ネットなし生活を始めて1年と4か月。


今回どうしてもブログにアップしたいことが出てきて、それでネットカフェへとやってきた次第。


ところが、本来アップする予定だった方の別のブログが、久しぶりのため認証コードを入れろと出る。


そしてその認証コードを送ったというアドレスが、実は私のアドレスじゃない。


そのブログは色んな人たちからサポートしてもらって出来上がったブログで、実は立ち上げは私じゃない友達が全部してくれた。


だから友達が設定したことの一部は知ってるけれど(ログインに必要な情報とか)、こうしたトラブルの時のアドレスにアクセルすることができない。


何ならそのアドレスはすでに死んでる状態で、もうそこでアウトだった。


ということで、今事務局に問い合わせている。


細かな事情についても、知りうる限り全部書いた。


そのブログだけは何が何でも復活させたい。


そこには色んな自分の思いや周りの人たちの善意が乗っかっているものだから。


まさかブログ再開がこんな風な形になるとは想像もしていなかった。


だからここで記事を書きながら、気長に事務局からの返事を待とうと思う。







2016年8月29日月曜日

夏の終わり

夏の終わり

昨日の夜、地元の花火大会を数年振りに見た。

今、朝の強烈な太陽の光と鈴虫の鳴き声とのコラボの下書いている。

太陽は夏の太陽だけど、もう蝉は姿を消し鈴虫が台頭している。

体感温度は夏でも、そうした自然の変化を見て、季節の移り変わりを肌で感じる。

月初めは全国的に有名と謳われる花火大会も同じく数年振りに見た。

月初めの花火がこの数年で大きく発展していたのを見て、もしかしたら地元の花火も発展したかと思いきや、地元の花火は昔子供の頃に見てるのと何ら変わりはなかった。

最後のスターマインだけが気持ち豪華さを増したように思う。

スターマインを見て、夏が終わることの合図みたいに感じた。


その前の夜、母方の実家に叔母と行ってきた。

別の遠方に住む叔母といとことその小さな2人の娘も来るということで、誘われて行ってきた。

祖母がまだ生きていた頃には存在すらしていなかった小さな2人の命と共に、お墓参りをした。

いとこの教育の賜物で、3歳と1歳の2人は、ナムナムナムと言いながら墓の前で手を合わせていた。

夜は一緒に訪ねた叔母と布団を並べて寝た。

眠たかったはずなのに、友達とのお泊まり会のように会話は絶えなかった。

大した話じゃない。

でも気付けば、生まれてこの方叔母と布団を並べて寝たことがない。

何がどうということもなかったけれど、子供の頃に母の実家を訪ねていた頃のような楽しさがあった。

世代も交代し、そしてまた新たな世代も誕生してさらなる世代交代を目前にしている。

昔の大家族のような面影は失われている。

田舎の大きな屋敷は近代的にリフォームされ、随分と便利な家に生まれ変わった。

だけど、叔母達やいとこといると、どこか昔の空気を携えたまま、体も心もすっかり大人になった私も昔のどこかにタイムスリップしたような気持ちになる。

その大きな屋敷には、他にも何人かの大人がいた。

でも大人になった今も子供の時みたいに話のできる、または沈黙してることさえも忘れられる間柄は、やっぱり子供の頃に積み重ねたものが土台になっている。


今年の夏も終わる。

大人になり自分の生き方そのものが言葉では説明しにくいものになってからというもの、昔気質の大人に会うことに心の中で強く抵抗を覚えるようになった。

色々聞かれたりしても、相手の期待するような返事などまずできない。

適当に誤魔化すけれど、いつも後味が悪い。

でも、叔母達もいとこもそうではなかった。

本当に久しぶりに、私が私であることだけで関係が成立するという場に居合わせた。

背伸びも言い訳も取り繕いも不要で、聞かれたら聞かれたまま答えれば良かった。

それにストレートに突っ込まれても不快感はゼロで、むしろ居心地の良ささえあった。

叔母達といとことの時間は、夏の終わりにやってきた飛びっきりのプレゼントみたいだった。

また今日からそれぞれの日常に戻るけれど、大切な何かを満たしてもらったような感覚だけが週末前とは異なっている。