2022年8月3日水曜日

通じる言葉の奇跡

7月の土曜日の昼下がり、
車を運転中に虹を見つけた!

近くに止められる駐車スペースに車を止めて
撮影会

虹はいつ見ても
しあわせとかラッキーな感じがする

2022/08/03
3年ぶりに開催の長岡花火を
遠くから見た
一番の見どころのフェニックスと呼ばれる花火は
打ち上げ地点のすぐ近くの橋を車で走行して
超間近で見れた!


あれこれ書き途中の記事ばかりが溜まっているけれど、今日もまた「これを今書きたい」の気持ちに沿って書きたいと思う。

『担任に「日本手話」が通じない ろう学校の小3男児が北海道を提訴』

というヤフーニュースの記事を読んだ。


タイトルの意味もわからなければ、何で訴えられているのか、「日本手話」が通じないとはどういう状況なのかもわからなくて、本当に単なる興味本位で読んだ。


ちなみに200数件のコメントを読んでようやく色々小さな理解に至った。


そしてその理解によって、「言葉が通じる」ことの意味やその希少さを痛感した。


言葉が通じるって当たり前のことではない、という普段超当たり前のことの前提が実はすごい奇跡なんだと知った。


トンチンカンなことを言ったり誤った情報を書くのは嫌だから、私の理解として残ったものを整理すると、手話には「日本手話」と「日本語対応手話」というものがあるらしい。


「日本手話」の方はろう者の方たちが「日本手話」と呼ばれる文法にのっとってする手話で、「日本語対応手話」は日本語の語順に対して1つ1つジェスチャーをつける手話らしい。


ちなみに前者はろう者の人たちが、後者は聴者(聴力において健常者という意味なんだと思う)の人たちが編み出したというか対応させたものらしい。


小難しい説明は私もできないから、コメントを読んで「なるほど!」と思ったものを紹介したい。


日本手話は、言うなれば

I want to go there.

だとすると、

日本語対応手話は、

I there go to want.」私はーそこにー行くーしたい(行きたい)

という感じ。


「私はそこに行きたい」は日本語の順番としては合っているけれど、日本手話になるとそういう言い方にはならないらしい。


「私は、したい、行く、そこへ」と言われても1つ1つの単語の意味は取れても、「じゃあだから何!?」となる。


他の例として、日本手話は「本を読んだ。面白かった。」というものに対して日本語対応手話は「面白い本を読んだ」というのもあった。


私の個人的な感触として、日本手話は英語に近い文法、主語がどうしたということを端的にまずは表現してその後に細かな説明が付くのかな(I want to go there.)というのに対し、日本語対応手話は普段私たちが使う日本語の語順通りで、主語がこれこれこうでああでこんな風でそして◯◯したという起承転結に沿っている感じなのかな(I there go to want.←日本語の語順に倣って並べた物)と思った。


手話には方言もあって日本国内だけでも統一が難しいというのは聞いたことがあったけれど、そもそもの手話に全く文法の異なる日本手話と日本語対応手話とがあって、それは日本語と英語くらいに言語としての言葉も違えば文法も違うし、そしてろう者が第一言語として取得するらしい日本手話も日本語とはまた違うものらしいというのは今回初めて知った。


だから3年生の男の子は日本手話のみを知ってるらしく、日本語対応手話で担任に説明されたり話されたりしても、それこそ異国の言語を聞いてるかのごとく全く理解できないらしい。


コメントを読んで驚いたことの1つに、耳が聞こえないなら筆談でいけばいいと私なんかは思っていたけれど、後天的に耳が聞こえなくなった場合はそれが可能でも、先天的に耳が聞こえなくて最初から日本手話を身につけて「日本語」を知らずにいると、健常者に通じる日本語をろう者が必ずしも書けるとは限らないらしく、ろう者の筆談の日本語がそもそも怪しいから通じないことも多いというようなことを書かれている方もいた。(実情を知ってそうな人のコメントで、コメントした人も大なり小なり聴力に障害があるんじゃないかなと感じた。)


さらなる余談だけれど、日本語というのは世界でも3本の指に入りそうな文法の難しさがあると私は思っている。


英語とスペイン語を第二言語としてやってみた感想として、それらの言語は日本語とは比べ物にならないくらいにはっきりとした文法がある。


スペイン語なんかは現在形だけでも主語に伴って6種類の動詞の形があると知って(時制として未来形、現在進行形、線過去、点過去その他とそれぞれあるからさらにそれらの×6で実際はもっと語形が増える)最初は何て大変な言語かと思ったけれど、実は文法の区分はシンプルで、慣れてくるとかなりわかりやすい。


主語は

・私

・(仲良しさんの)あなた

・(目上の人や敬う相手の時の)あなた

・私たち

・(仲良しさんの)あなたたち

・(目上の人や敬う相手の時の)あなたたち

の6種類で、それに合わせてそれぞれ動詞の形が変わる。


特定の個人、物や事、動物なんかの場合、目上の人や敬う相手の時のあなた(単数)やあなたたち(複数)と同じ動詞活用になる。


英語で言うところの、Johnitthe dogとかの後に来るのがisdoesになるのと同じ感じ。


話を戻して日本語だけれど、日本語は動詞だけを聞いてもそれで主語は特定できない。


「眠る」とあるなら、眠るのが私なのかあなたなのか彼なのか私たちなのか犬なのかは判断がつかない。


さらに、時制なんかも音で聞いたり書き言葉を見たりしただけじゃわからない。


今書いた「聞いた(り)」とか「見た(り)」は、「た」で終わっているからまるで過去みたいだけれど、実際は現在形としての意味で私は書いている。


自分の頭も混乱してきたからこのくらいにしておくけれど、この微妙なニュアンスを理解するのはネイティブ日本語の日本人には難なく伝わっても、日本語を第二言語として習う人からするとそういうニュアンスもだし主語の使い分けもだし、スーパー難解の他の何ものでもないと思う。


さらには「助詞」が本当に難しいものだと思うけれど、「私が話した」「私は話した」「私と話した」「私に話した」では意味がそれぞれ全く異なるし、「私の話した」とか「私を話した」とは言わない。


とにかく日本語はスーパーカオスな文法の特性のある言語には間違いない。


聴力に何ら問題がない日本語ネイティブの人でさえ文法などきちんと把握してない人が大多数だと思うけれど、その微妙なニュアンスを音の情報なしに習得するなんて超至難の業だと思う。


とかいうような記事とコメントを読んでからの私の思ったことの本編がこの後。(前置きが長すぎる







このニュース記事とコメントを読んで私の中に真っ先に思い浮かんだのはイケメン上司に渡した手紙だった。


過去のブログにも少なくとも片手くらいの回数は「日本語をお互いに知っていること」の絶対的な条件とそういう条件が揃っていることの奇跡を書いた記憶がある。


同じ時代に、同じ空間にいることができて、年齢も近くて、そしてお互いに同じ言語を知っていることの凄さを本気で感じている。


大袈裟に聞こえても、他の人たちの時には湧かない、でもイケメン上司の時はそれがとてつもなく本当にすごいことだと感じる感覚は当時も今も変わらない。


言葉に関してはそこまで深く感じていたわけじゃなかったけれど、今回の手話の記事でビックリ仰天な内容を知って、同じ言語を第一言語で使っているって本当の本当に当たり前ではないんだと気付かされた。


もし私かイケメン上司のどちらかが先天的に聴覚障害を持っていて手話でコミュニケーションを取る毎日なら、同じ日本に住んでいながらにして片方はネイティブ日本語のみを使ってもう片方は日本と名前は付くけれども日本語とは似て非なる日本手話を使ってのみコミュニケーションを取るとするなら、互いにコミュニケーションを取ることは相当に難しかったと予想される。


聴覚障害があったのならそもそも職場で出会っていないとかいうことはここでは一旦脇に置いて、とりあえず「言葉によるコミュニケーション」のみに限定して話を進めたい。


小説や新聞を読む時はどうなのかわからないけれども、先天的な難聴者の場合書く時の日本語も意味が通じないこともあるという、どこまで本当なのかわからないけれども、そのくだりをコメントで読んだ時、本気でハッとさせられた。


私がこれだけつらつらとブログを綴るように手紙でもつらつらと脈絡や起承転結などないような文章が綴られていたわけだけど、そんなのを例えば手話でも他言語でもとにかく共通の言語認識がなかったとするなら、何一つ伝わることがなかったんだなとものすごく強く感じた。


手話とは違うけれど、普段の仕事で日本語から英語にする時、Google翻訳と別の翻訳サイトを使うと、不思議な訳が表示される時がある。


英語の方を読むと、「うん?」ってなる。


日本語を見ているからまだなんとなくのニュアンスは取れても、ネイティブの人からしたら意味不明な英語にしか見えないと思う。


本当に少しの差、下手すると日本語だと助詞1文字の差で訳が大きく変わる。


そういう時は色んな言葉の並び替えやら置き換えをして再翻訳を納得するまでかけてみるけれど、こういうことだって手間だし、手間をかけた分そこそこきれいな訳文が出てくるとも限らない。


もし書かれた手紙がそんな状態なら読むだけでもしんどいし、そもそも読む気にさえならないかもしれない。


私が書いた当時、日本語が通じるかななんて一切心配することもなかった。


内容が伝わるかとか、受け取ってもらえるかとか、受け取ってもらえても読んでもらえるかとか、そういう心配は山ほどしたけれども、「日本語が通じるかな」なんて微塵も思わなかった。


そして小学1年生の姪っ子に時々小さなおてがみを付けて何かしらあげたりするけれど、そういう時の言葉選びは姪っ子でもわかりそうなもので尚且つひらがなに限る。


せいぜいカタカナがプラスされるくらい。


そういうものも書いているからわかるけれど、とりあえず漢字も好き放題に使えて思ったことが書けるというのは、当たり前のようだけど当たり前じゃない。


細かく何かを心配しなくても手紙が書けるというのは、ある種とても恵まれた贅沢なコミュニケーション手段なんだなとわかった。


このブログもだけど、本当に自由気ままに書きたいように書いている。


これほど自由度の高い文章というのも、日常生活の中に意外とない。


児童養護施設や塾の時は子どもたちの日々の様子を、テレフォンオペレーターの時は受電した内容を、今は色んな資料の文章やメールを書いているけれど、「書く」ことにおいては数を相当数こなしているけれど、自由作文とか手紙みたいなのは案外と書く機会は少ない。


LINEやメールも用事を書くことが大半だし、唯一個人的なやりとりを時々する友人ノムがいてもそれはまたこのブログやイケメン上司宛ての手紙とは全く違う。


ノムとのやりとりは相当ユニークで独特ではあるけれど、それもまたとっても貴重なものではあるけれど、イケメン上司にまつわる何かを書く時のような気持ちには一切ならない。


本当にとても気の合うお友達に好きなことをあれこれおしゃべりするかのごとく書いてる。


イケメン上司の時はそれとは違う。


もっと自分の心情や奥底にしまっているものを取り出して、そしてなるべく伝わるように書こうと努めている。


色んなシーンが思い浮かぶことも多い。


回数重ねたからブログなんかはずいぶんと慣れはしたけれど、よくよく考えてみるとイケメン上司のことを書く時にしか感じない感触がある。


それはとても良いものだけれど、気付けばそんな感触に触れながら書く書き物なんて他に存在しない。


しかも、相当な回数、「この内容書いちゃう!?書いちゃって大丈夫!?」と迷う度に、ペンジュラムを持ち出して書く書かないを聞いている( ̄∀ ̄;)


他の人の時は基本そんなことしないけれど(魂的なメッセージの時くらい、聞くのは)、イケメン上司の時はかなりな回数聞いてる。


ちなみに聞いてもペンジュラムは絶対にNOが出ない。


イケメン上司が読みたい知りたいということじゃないと思うし、何で毎回YESなのか知らないけれど、とにかくYES


そんな風に、いつも書きたい気持ちと色んな回想やら過去へのタイムトリップ、そして自分の心の中の深いところへの探訪をしながら書いている。







「やる気」という言葉がある。


昨日(8/2)、ずっと連絡しようと思った友達に英語のサイトで使えるサイトをLINEで送った(職場のパソコンのブックマークを開いてアドレスを紙に手書きで控えて、それを見ながらサイトアドレスをiPhoneで手打ちするという、なんともアナログな感じ)。


その前の週に友達から超難しい日本語のスーパーマニアックな専門用語満載のタイトルをどう訳したらいいかといくつか候補を示されて聞かれた。


ちょうど残業終わりの時で、仕事のパソコンにブックマークしているサイトたちを駆使しながらLINEを返していた(仕事中( ̄∀ ̄;))。


時々そんな風に聞かれるから、これ使えるよ!のサイトをアドレスを手打ちして送った。しかも2つも!


しばらくやりとりした時に、私がこの間聞かれたものをそのサイトで調べたと言ったら、友達からは

「(笑)ほらほら、その探求心!

私にはそれがない・・・()

と返ってきた。


さらに私が

「あら、探求心だなんて光栄

っていうか気付いたけれど、別に探求心もやる気も誰よりもないけれども、気になったら調べたりとりあえず形だけでも確認したりするそれが、とってもやる気があって向上心もあると周りから見たらそうなるらしいことが最近わかった

実際は全く違うんだけどねー!」

と返して、


友達からは

「世のなかでは、物事に対してのそういう取り組みを「やる気がある」と捉え、表現するのですよ~」 

ときた。


「やる気」について、私は世紀の大発見をした気持ちにその後なった。


私の中の「やる気」って何を指しているのかということ。


例えば、このブログを書くことやイケメン上司に手紙を書いたこと、魂の関係について色々調べまくったり実体験を持つ人のブログを延々と読んだりしたこと、そういうことは本当にやる気にみなぎっていて超自発的に並々ならぬ集中力を持って取り組んできたし今もこうして書いている。


それは正真正銘の「やる気」がきちんとあるし、自分でもあるとわかる。


片や英訳の調べ物なんていうのは、やりたいわけでも興味があるわけでもなく、やらなきゃいけないから単にやっているし、強いて言うなら「知って損はない」ということならそれがやる気?理由?になってほんの少しやれることをする。


だからやる気などただの一度もなく、本当に実務的に必要だからやるとか、やらざるを得ないからやるとか、どこまでも対外側に理由があってやっている。


イケメン上司がらみになると、どこからともなく用意周到に内側からやる気が出てきて、そもそも「やる気がある!」なんて自覚する暇もないくらいにすぐに行動に移していて、気になればどこまでも調べたり深追いしたりして、常々色んなことが面倒くさいと思って得意の延期とか後回しをする(そして最後は夏休み最終日みたく自爆テロになる)、なんてことがイケメン上司にまつわる諸々の時はない。


最近ブログを書くペースがゆっくりしているけれど、それはやる気がないからじゃない。


むしろ書きたいと思っても体力的に余裕がなかったり、寝落ちしたり、そういう別の理由があって書きたい気持ちと書く行動が一致してないだけで、気持ちだけは常にたんまりとある。


このブログは、特にイケメン上司にまつわる内容は「書かなきゃ!」という義務感に迫られて書いたことはない。


いつの時も無尽蔵に湧き出る気持ちのまま書いている。


それがいつか尽きたのならそれはその時だし、気持ちがあるうちは書きたいように書こうと思っている。


そういう感じや気持ちを知ってしまっているから、だから「やる気がある」と仕事ぶりを見てありがたい評価をいただいてもあまりピンとこない。


仕事中このブログを書くみたいな気持ちになんて一度もなったことがないし、むしろいかに眠くならないか、いかに少しでも楽ができるか、そんなことにばかり力を使っていて、こういう人は「やる気がある」とは言わない。


イケメン上司と同じ事務所にいた時も、仕事内容はさっぱりだったけれども(事務職超初心者向けな仕事がほとんどで超助かった)、イケメン上司に会えることだけが楽しみで毎日楽しく通えた。


あんなにもやる気のないものをしに行くにも関わらず、ただただ誰かに会いたいからそこに行くとなると、本当に色んなやる気がみなぎるんだと知った。


過去にはけっこう面白い仕事も色々やったし興味のある仕事もあったけれども、だからと言って仕事に行くのが楽しみ!なんてことは一度もなかった。


誰かに会えるから仕事に行くのが楽しみ♪だなんてイケメン上司の時にしかなかった。


なんなら私は日曜日のサザエさんタイムと呼ばれる時間になると、翌日イケメン上司に会えると思ってウキウキしたし、お盆休みなんてあんなに長くいらないし無くても構わないとさえ当時は思った。


あれは本当に特別の中のさらに特別な状態だったんだと今さらに強く思っている。


しかも、今の職場では圧倒的に必要とされる度合いも、やりたい人からするととてもやりがいのある仕事でもあると思う(私は違う)。


そしてイケメン上司のいる場所で働いていた時は、業務上、手が欲しいのはわかったけれども何も私じゃなくて本当に良かったし、そして必要とされてる感も皆無に近かった。


さらに言えば、イケメン上司からは全く必要ともされていないどころか迷惑でしかないんじゃないか疑惑までくっついていたくらいのところに行っていたわけで、全然求められていないことはよーくわかっていた。


それでも私はやっぱりそこに行けるだけで楽しみだったし、必要とされてないことも残念ではあっても仕方ないと割り切れていたし、そんなことよりも自分が本当に体の細胞という細胞全てが満たされてしあわせな感じなんて過去にない生きる喜びが日々与えられていたから、他のことは本当に気にならなかった。


そういう生きる喜びとか内側から湧くやる気とかを肌感覚で知っているから、もうそれだけで十分と言ってもいいくらいだった。


高望みをするなら、イケメン上司からも同じように必要とされたりごはんくらい一緒に行ってもいいなくらいに思われたかったけれど、それは私がどうこうできることじゃないから、とりあえず私側というのはこれ以上ない気持ちと喜びを日々享受していたから、本当の本当に満たされていた。


「満たされる感じ」や「やらずにはいられない感じ」を知ってしまったから、どうしても「やる気」と第三者から呼ばれるものは仕事中の私の中にはない。


今思ったけれど、必要とされなくても自家発電のごとく自分に感じる力があればいくらでもしあわせになれるんだなと思った。


もちろんその根本にはイケメン上司の存在があって初めて成り立つものではあるけれど、その後のことはイケメン上司が私の方を向いてくれたらしあわせで、私を必要としてくれたらしあわせで、なんてことはない。


イケメン上司がどうであっても、なんなら必要とされず会いたいとも思ってもらえず連絡を取りたい相手にもなれず、何にもなかったとしても(としてもの仮定じゃなくて、現実に本当にない)、それがなくても自分は大丈夫などころか感覚はしあわせとか喜びとか、そういうのが半永久的に続くわけだからとっても恵まれている。


究極、何にもなくても、欲しいものが手に入ってなくても、「わたししあわせ!」などと言える境地に達するところなんて、まるで魂の修行を極めた人みたい()


イケメン上司が私にそういうことを教えてくれる係の人だとするなら、そりゃもう魂繋がりの関係が強いのも頷ける。


思い通りじゃなくてもしあわせ!なんて、本当に悟りの境地だと思う。(「きょうち」は「狂痴」とも漢字としてある模様…( ̄∀ ̄;))。


話が飛びまくりだけれど、とりあえずやる気やらしあわせやら色々私は味わって知ってるよというのが言いたかった。

(今、このブログの書き出し部分を見て驚いた。言いたかったのは、言葉が伝わることの奇跡の方だった(꒪ꇴ꒪;))

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