2016年5月1日日曜日

再生の時

過去にあきらめたことがあった。

そのあきらめたことは、人生の中で一番の痛みで後悔で絶望に近いものがあった。

なかったことにはもうできなくて、ひたすら前を進むしかなくて、それでもいつも宙ぶらりんになった

ままの自分の気持ちみたいなのだけが残っていた。

とりあえず前を進めるようになったというのがわかり、その残っている気持ちみたいなものは

いつか気にならなくなるまでそのままでいいと思った。

そう思えるようになるだけ楽になれた。

無理になかったことにしたり、色々納得のいかないものを否定したり、そういうことは止めようと、

自分に優しくできるようにもなった。

そうしたらその置き去りにされていた過去から、もう一度チャンスが与えられた。

すでにあるものだから、誕生とは違う。

やり直すのとも違う。

生まれ変わるのとも違う。

「再生」再び生きる、がなんとなく一番しっくりくる、今日時点で。

この年になってみると、癒せない過去の1つや2つはあって当たり前と思うようになってきた。

何も痛みもなく順風満帆な人生を送っている人なんて多分この世に誰もいない。

自分が過去に望んだような再生の形とは違うけれど、まさかそんな機会が巡り巡ってくるとは

一度も考えたことがなかったから、正直おどろいた。

一度も考えたことがなかったというのはちょっと嘘だ。

考えれば考えるほど絶望的になるから、考えないようにしてた。

そう、考えなかったんじゃなくてわざと考えないようにしてた。

そしていつか考えないようにしていることさえ日常に溶け込み、そんなことさえ忘れていた。

そんなことさえ忘れていたら、再生のチャンスが巡ってきた。

もう何も目指さなくていいのが楽かもしれない。

前は目指すものがあった。

今はそれがない。

何もないところにまた1から出発しているようなものだ。

ゴールの形が決まってないから、とりあえずその時その時の感じで自分を出したらいい。

または自分を出さない選択もあり。

直太朗の歌の中に、「真っ白いキャンバスにあなたなら何を描きますか?」という歌詞がある。

本当に真っ白いものを与えられ、描いたり描かなかったり、消したり足したり、自由な感じで

絵を描けるような感じがしている。

直太朗はいつかのライブで、「自分だったら何も描きませんけどね、テヘ」と言っていた。

再生って不思議な言葉だなぁと思う。

これまでの過去、死んでいたわけじゃない。

だけど止まっていた。

ある地点からずっと沈黙を保ったまま止まっていた。

それが今開かずの扉みたいなのがパンと突然開いて(本当に勝手に開いた感じ)、そして止まって

いたものに命が吹きかえされた。

自分ががんばったわけでも、自分から扉を探したわけでもない。

扉が開く直前まで、わたしはそんなこと1つとして意図していなかった。

そして意図していないところに勝手に開いた。

必要があって開いたんだと思う。

じゃなきゃ開くわけがない。

2016年5月1日備忘録として

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