2024年2月6日火曜日

夜の暗い布団の中から

頼んでおいた刺繍(クロスステッチ)の本
これは一生ものだから、日付と名前を書いた
ちょっと文字遊びをしながら書いて
それがとても良い感じに仕上がってご満悦



2024/02/05()

昨日のノムのカードリーディングからまだ1日しか経っていないことにビックリした。


すごい濃密な空気が自分の人生に流れ込んできたような感触があって、もっともっと時間が経ったみたいな感じがする。


仕事は忙しいしやることてんこ盛りだったけれども、全てのことが現実なのにすごい遠いところで起こっているみたいに感じて、反対にイケメン上司は今近くに全くいなければ連絡が取れるわけでもないのに何だか存在感がいつにも増して濃い感じがした。


自分が今いるところがどこなのかわからないくらいに。







ノムに言われるまで全く認識がなかったけれども、私の人生の中で最上位に位置するのがイケメン上司にまつわる色んなことだったんだなと、あまりにも日常がそれに溢れすぎててその溢れすぎた感じに慣れて、さらには時々こんな風にブログにもアップしたりしてますます日常に溶け込んで、だからごはんを食べたりお風呂に入ったり家事をしたり夜布団に入ったりみたいな、そういう日常で毎日繰り返されるものたちとイケメン上司の存在そのものが同化していて、ある種の特別感が薄れて、だからノムが「僕がゲイだとカミングアウトするくらいのことをぶっしーはしたんだよ」と伝えてもらうまで特別なことという感覚がかなり薄くなっていた。


ちょうど今日風呂の中で読んだ吉本ばななさんの短編集の小説『ミトンとふびん』の中の『SINSIN AND THE MOUSE』という短編の始まりにこんな言葉があった。


【私の第一印象は、

「なんだか(部分省略)みたいな感じの人だなあ」

というものだった。

闇の中にぽつんと浮かんだ、そんなおかしな印象だけ。

人と知り合うって、そんなことから始まるだけのことだ。その小さな印象がだんだん絶えない流れになり、少しずつ無視できない水流を作り

そこにまた大きく気持ちが注がれていく。】


かゆいところに手が届くじゃないけれど、まさにこんな風な状態を自分も通過してきたんだなと思った。


イケメン上司本人より先に本人の名前を目で見て、勝手にお偉いさん的なおじさん、それもお腹が出ていたり頭が薄かったりはたまた反対に筋肉ムキムキみたいなおじさん像を勝手に想像したらまさかの長身でスタイルの良い爽やかイケメンで、本当にあまりのギャップに驚いたし、こんな人だったんだと名前から想像もつかない感じの人が目の前に現れて、とにかくすごい強く印象に残った。


いつかどこかにも書いた記憶があるけれど、私の場合、とにかく人と初めて会った瞬間のことなど基本的に全部忘れるし、仮に初めて会った時の印象とか会話とか仕草とか状況とかを稀に覚えている人たちがいるけれど、それでもやっぱり最初に会った瞬間のことを覚えている人なんて今よーくよーく振り返ってみると、イケメン上司以外にいない気がする。


顔とか雰囲気とか笑顔とか、たとえそれが社交辞令的な笑顔であったとしても、とにかく事細かに記憶に残っている。


特に、表情とかまとっている空気とかそんなものたちが記憶に残るなんて他に誰もいない。


普段はこんなことなくて、99%の人たちのことは本当に覚えていない。


姪っ子たちでさえ最初の時に見た時、抱っこした時のことを忘れている。


何となくのうろ覚えでしか今は記憶がない。


けれども、イケメン上司のことだけはかなり詳細に覚えていて、今となってはそこだけ切り取られたかのようにとてもくっきりはっきりと覚えている。


同じ日に事務所にいた他の人たちともはじめましてだったわけだけど、その辺りはたしかこの人がいて、あの人がいてみたいなうろ覚えの記憶しかない。


私は勝手に、魂が記憶しているものを見ているからこんなにも鮮明に今でも残っているんじゃないかと思う。


だってイケメン上司のすぐ隣りとかにいた後輩くんのことは、イケメン上司みたいに背が高いというのは覚えているけれど、表情なんてさっぱり覚えていないし、交わした言葉なんかももちろん忘れた。


イケメン上司だけ本当にとてつもなく色濃く残っていて、まさかそんなことが起こる未来を当時の私が想像できるはずもなく、これは時間が経てば経つほどに濃さが増してそしてようやく「本当に特別だったんだ」と気付く。


ノムからリーディングをしてもらった時に、「自分の感覚を信じる。それが御守りになってくれるから」みたいなことをノムが伝えてくれたけれど、こういうことたちがようやく自分にとって本当に特別なことなんだと体感覚だけじゃなく現実のものとして受け止められるようになった気がする。


私の中ではこれだけ色濃く残っていて、仮にイケメン上司側の方には私の99%側のいつも忘れ去ってしまうように私と初めて顔を合わせた日のことなど忘れていたとしても、それはもうどちらでも良いこと、むしろ何にも記憶されてなくてもそれが当たり前だと思うからなんて考える自分の中に残るのは「自分だけが知る感覚」なんだと初めて認識できるように今なった。


そして、イケメン上司側がどうであっても自分側の方は一貫してずっと同じで、ノムが言うような「御守り」という感覚が、ずっと自分の中にあって親近感みたいなものを憶える。







ばななさんの言葉にあるように、最初は何がどうなるとかは全くわからなくて何かしらの印象だけが一瞬のことのように自分の中にふわりと降り立つけれど(私からすると、印象に残ることさえも稀だから「残った」ことさえ特別ではあるけれど)、気付いたら無視できないくらいに水路が出来上がっていて、どうやっても頭から離れないくらいの存在感を放ち出して、それでも私は「気のせいだ」と思って打ち消そうとしたけれど、ある時、それはイケメン上司がいなくなる1ヶ月ほど前に妹と一緒に妹が通っていたヨガ教室に一緒に行って、そこでヨガをして普段ならないような意識層にアクセスした時にヨガをしてようが先生の声がすぐ耳元でしていようが私の中にあったのは細胞の隅から隅までイケメン上司へ意識を向けてしまう自分自身だった。


あの時からずいぶんと時間は経過したけれど、そして他にもっと強い出来事、例えば山で行方不明になったおじいちゃんをペンジュラムで探すとかそんなことも起こるわけだけど、出来事の大きさや特殊さなんかよりもイケメン上司の存在感の凄さの方が常に上回っていたから、外側で何が起ころうともあのヨガの日に感じたままのことがずっとずっと変わらずにあるんだなと知る。


そうなってくると、イケメン上司側の記憶だとか気持ちだとか意志だとかそんなのはどれも関係ないんだと気付かされる。


イケメン上司側の記憶が曖昧で気持ちはなくてそして私とどうこうなりたいというような意志が全く存在していなくても、自分側の方はそれに影響される何かだなんてことはない。


何にも左右されない、本当に自分だけの感覚がいつも日常に横たわっている。


もちろん欲を言えば色々叶って欲しいことはある。


だけど叶わなくても感覚は残ったままだし、あの2017年の夏から続いているものは私の中で変わることがない、そんな風に感じ始めている。


それだけ大きなことなのにあまりにも日常と化して、いつの間にか水流どころか小さな川から大きな川、はたまた果てしのない大海のような感じになっていて、そしてブログにも書き過ぎなくらいに色々書いたからそのある種の特別感みたいなのが薄れて、ノムに言われるまでイケメン上司にまつわる色んなことたちとそれに付随する自分側の動きというのがとてつもなく大きなことなんだという認識は全くなかった。


ノムとももう7年目くらいになる付き合いになりつつあって、その中でノムのゲイであることを周りにカミングアウトした話はけっこうな回数で聞いていて、でもどれ1つとして同じ話はなくて、自分の両親にカミングアウトした話など今でもかなりはっきりと覚えているし、カミングアウトする前とした後での見える世界、生きる世界の違いやノムの中の世界観、とにかく色んな話を聞いてきてどれもすごく特別で唯一無二で、そういうことをノムからたくさん教えてもらっていたからこそ、ノムが私に「ぶっしーがしたことは僕がゲイだとカミングアウトしたのと同じくらいのことなんだよ」と伝えてもらって、その言葉の深さや思いの深さ強さを私もノムのこれまでの色んな話と重ね合わせながら感じて、そしてそこでようやく本当にすごいことだったんだとジワジワと自覚めいたものが出てきた。


昨日書いた中に星のことも少し書いたけれど、社会的な肩書が変わるというのは、実際の先生たちから習ったこととして(先生たちの鑑定にやってきた人たちの例として紹介されたものたち)、事業を興すだとか親からの事業を引き継ぐだとか結婚するだとか、一度始めたらもう二度と前の状態には戻れないそのような強制力のあるもので、それが私の場合は同時に社会的なものも自分自身というものも大きく変化変容する時期で、そんなのが同時に起こるなんてまずないし、なんならそのうちの1つでも一生その星回りに遭遇しない人は遭遇しないくらいなレアなもので、そんなレアなものに対して私はずっと「社会的なものって何だろう?」と思っていたけれど、私の場合は多分イケメン上司のことにまつわるものが自分の中で一区切りついて終わりのようで始まりでもあり、そしてそれがノムの例で言うならばゲイであることをカミングアウトするみたいな、それくらい大きな影響力のあるものなんだと思う。


あまりにも非社会的なことで尚且つ超パーソナルなことで、私の中では「社会」という感じが1ミリもないけれども、今書きながら気付いたのは、人生そのものにこれ以上ないくらいに影響するものが今起こっているとするなら、まさにイケメン上司の存在から派生する色んなことたちはそれに匹敵する、匹敵なんて言葉じゃ足りないくらいの大きな影響で、もう色んなことがどうにもならなくてもそれさえも凌駕するくらいの何かを私はいつの時も自分の中で感じている。


ノムが「自分の手で完了したことをねぎらって!お祝いして!」と言ってくれて、完了した感じは全くなくてもでもたしかに1つ大きな区切りというか線を引いてみたみたいなことはしたと思う。


イケメン上司がまだ新潟にいた頃、ごはんに誘ってみるとかそんなことをする前の超好き放題に妄想することが可能だったある時のこと、私は餃子を作ってイケメン上司と一緒にビール飲みながら食べるということを想像した時があった。


この想像したシーンは今もとても不思議で、夢で見た風景なんかがずっと残り続けるみたいなことにとても似ていて、なぜか餃子を盛る皿まで浮かんでいて、ちなみに皿ははっきりとした形までは言えないけれども、ラーメン屋や中華なんかで出てくるタイプの四角い長方形の形で蒼いの方のあおが似合う感じのどちらかと言えば和風なお皿、そんなところに少しだけ残っている餃子、そしてグラスに注がれたビール、どれも家にもないしどこかで食べた時に見たものでもないのに妙に印象が強く残るもので、ここまで妄想するともうあっぱれな感じのだけど、とにかくそんなシーンが当時自分の中で何度も脳内放送されていた。


あまりにも印象的で今までもそのシーンは何度か思い出したし(少なくとも年に数回かけることのこれまで経過した年数分)、今だって叶ってくれたらいいのにと思ったりもするけれど、そういうことは叶わなくても別の何か大きなものが叶ったのかもしれないなと思う。


餃子ナイトではなくて、餃子ナイトが叶わなくても私の中の何か大切なものが自分の中にもたらされる、そういうことだったのかもしれないななんてノムのメッセージを聞いて改めて思った。


あと「生きていて欲しい、無事でいて欲しい」と願うこと、祈ることは、自分じゃそんなことしてるという認識がないけれど、ノムに言われてみて多分自然とやってるなと思った。


祈りや願いってもっと自覚のあるもので、自覚あるがゆえに自発的なものという勝手な思い込みがあったけれど、むしろ本物の祈りとかになるととても自然に無意識にそれをいつの間にかしているのかもしれない。


正解なんてわからないけれども、無意識のうちにしているのは言われてみてそうかもと自然に思えた。


これ言っちゃう?と思ったけれど浮かんできたから言ってしまおう。


例えばイケメン上司の人生でとてつもなく辛いとか苦しいこと、誰も味方なんていないと思うような出来事が起こった時に(あくまでも仮定の話)、そういえばあの人(=私)だけは何だか知らないけれど俺の存在をOKにしている人だというようなことを思ってもらえたら最高だなと思う。


私を好く必要もないし関係など作らなくても、ギリギリのラインの時に「あの人は味方だ」というようなことを思ってもらえたら(ということ自体の設定にかなり無理がありすぎるし、究極に追い込まれたのなら私など登場する余地も余裕もないだろうことはとりあえず脇に全部置いて)、もうそういう位置でもいいのかもなと思う。







現実世界の方は面倒なことが幾つか控えていて、早くその面倒なことたちが終わって欲しいと思っているけれど、それらのことで何かしている時もこの24時間は全然違う感覚の中で自分は過ごしていた。


夢を見て起きた後、一瞬自分がどこにいるかわからなくなる感覚があるけれど、あれに近い感覚が1日を通してほぼずっとあったと言ってもいい。


目の前の自分の手は資料見ながらさらなる新しい資料を作っていて、必要があれば関係者たちのところに行って確認作業をして、コーヒーやお茶を飲んだりいつも通りのことをしているけれども、自分の中では何か全く違う風が吹いていた。


私にしかわからない、私の世界にだけあるもの、そうしたものたちがいつからか自分の中に大きく占めるようになって、その感覚こそが私にはとてつもなく大切で他に代わりなんてきかなくて、そうしたことが自分の中にあることの奇跡とその圧倒的な強さや色彩、熱の帯び方が半端なくて、それらの自分の中にだけ映るものに私は1日中圧倒されていたのかもしれない。


これまではあまりに日常に溶けこみすぎてそこ偉大さや壮大さなんかに気付かなかったけれども、ノムが運んできてくれたメッセージたちによって何か新しい境地が自分の中に芽生えてきて、本当に不思議な感覚でいる。


全てはなるようにしかならなくても、自分の中の世界はずっとこの先も守られ続けるんだと思う。


外がどんなに騒がしくても、現実世界では何もなく願うような現実が訪れてくれなくても、それでも自分の中の感覚や見えてる世界は変わらずに自分の中に在り続けてくれる、そんな気がしている。


イケメン上司の隣りには誰か大切な人がいて私などそこに入る余地もないのかもだし、仮に隣りが空いていてもそこには入らせてもらえないことが私の現実であったとしても、自分の中で揺るがないものを私が自分の中から見つけられたからそれをノムが言ってくれたような御守りとして持っていられる、これから先生きていける、そんな感じなのかもしれない。


真夜中の1時台に目が覚めて、途中まで書いてあったものを書き足して、今外では除雪車が動き出している夜明け前までまだまだ遠い4時になる前で、こんな感覚でブログを書ける時もなかなかないから、これもまた前回に引き続きこのままアップしようと思う。

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