2022年7月16日土曜日

Compartir

ドミニカ時代から愛用しているスペイン語のミニ辞書
セサミストリートのシャーペンは中学の頃から
今は職場で日々使っている

引用元:石井ゆかりさんの公式ブログ
『石井ゆかりの星読み』のスクショ



Compartir 

「コンパルティール」と読む。


スペイン語で「分かち合う」とか「分ける」とか「共有する」という意味になる。


スペイン語の中でも特に好きな単語で、ある時に友達とcompartirについて話した時、この単語って本当にいいよねと言い合ったことがある。


compartirは分けると、compartirに分けられる。


前半のcom(con)は英語で言うところの「with」、「一緒に」という意味になる。


後半のpartirpartという単語が入っているところからも連想できるように、「分ける」という意味になる。


「一緒に」と「分ける」が一語になったcompartirは「分け合う」となる。


1つのものを誰かと分け合うという意味をたった1つの単語で表しているところがなんとも憎い。


今日のタイトルは、うんと前から書こうと決めていて(多分ここ1ヶ月くらい)、まず最初に言葉の説明をしようと計画していた。







これは通算6度目の夏に立って初めて生まれた心情で、ここまで来れて良かったなと自分では思っている。


2017年の夏、当時の私にはそれはもうものすごいインパクトが日々あって、そのインパクトをもたらす主はイケメン上司だったわけだけど、それは全てにおいて私側だけに起きていたことでイケメン上司からして私などいるのかいないのかわからないような人だろうとずっと思っていた。


イケメン上司としゃべらないだけじゃなく、1日8時間?7時間半?いる中でほとんど誰ともしゃべらずに黙々と仕事をするだけの私は、存在感のない派遣でしかなかった。


そんな人から突然ごはんに行きたいだのと言われたら、ホラーだなぁと今でも思っている。


心中お察しします、とイケメン上司に声をかけたくなるくらいの状況だとずっと思っていた。


世間一般では誘われたら嬉しいとかいうのはあれは嘘だと思う。


誘われて困惑、混乱、迷惑、負担になることもある。


下手したら嫌がらせになることだってあると思う。


イケメン上司の反応を見て、私はどこをどう見てもイケメン上司が喜んでるとは一度も思ったことがないし、本当の本当にやらかしたな自分、と自責の念こそ湧けど良かったなどとずっとずっと思えずにいた。


今も良かったとは思えていない。


そこは変わらない。


だけど、ほんの少し変わったところがある。


当時のことは、私には本当に色濃く細部の細部まで記憶に残っている。


一生モノの記憶だと自分では思っている。


それは私側だけの話で、イケメン上司側には多少のインパクトはあってもそれこそ無かったことににしたいとか消し去りたいようなものならまだ「意識にある」からマシな方で、特段何の意味も記憶も残らない時間だったんじゃないかなとずっとずっと思っていた。


私がごはんに誘ってくるとか怪しげな分厚い封筒を机の上にポンと置きにくるだとか、そういう想定外過ぎることは記憶に残っても、それ以外の何てことない、特筆するようなことが何もない日々は何にも記憶として残っていないんじゃないかなと、そんな風に考えていた。


私がいたかいないかなんて記憶の片隅にも残らないだろうし、私が自ら動いた部分はあまりにも突拍子もなくてインパクトがありすぎて良くも悪くも記憶に残っても、それ以外は本当に静かにしていているのかいないのかもわからないみたいな人だったから、私には色んなイケメン上司の姿が今もなお残っていても、イケメン上司にはインパクトのあるところ以外は私にまつわるものは何も記憶にないんじゃないのかとずっと思っていた。


今でもそれは思っているし、まぁそんな高望みをしても仕方ないから、そこは仕方ないと何の抵抗も疑問もなくあっさりと割り切っている。


でも、5年近い時間をかけて、独り言のようにぶつぶつと当時の色んなシーンを言葉に起こして、さらにはブログにアップしてということを数えきれないくらいに繰り返したおかげで、そしてそれらに目を通したであろうイケメン上司側の行動も重なって、イケメン上司の方にも多少の景色が薄ぼんやりとでも記憶に定着してくれたと思う。


私にしか見えていなかったものがイケメン上司も半強制的に見せられて、読めばもれなく当時のシーンが再放映されて、うっすらと何かが頭に思い浮かぶかもだし、ものによってはくっきりはっきりと記憶にあってそれが引き出されることもあっただろうと予想している。


心の温度差とか同じシーンでも私側とイケメン上司側とでは全く違う景色となっていても、少なくとも同じ時空間を共有した同士には変わらない。


何かしらの形で私もイケメン上司の記憶に残れたのなら本当にとっても光栄だし、それがあるのなら私側もずいぶんと救われる。


これまでは「私の独りよがり+大迷惑」でしかないとしか思えなかった当時のことも、どうやらイケメン上司も嫌ではなかったんじゃないかと思えるようになった。


嫌ならこのブログは絶対に見ないし避ける。


私は自分が普段から色んな人たちのブログを読むからわかるけれど、少なくとも私は「この人の文章、無理!!!」ってなると一切読まないし見ない。


中には気に入って読んでいてもある時から受け付けられなくなって読むのをやめたブログもいくつかある。


イケメン上司がどんな気持ちで私のブログを見ているのかはわからないけれど、少なくとも嫌がられてはいないとようやく思えるようになってきた。


それは今日1回ぽっきりとかではなく、このiPhoneに入っている下書きの数をざっと数えても740個、以前のパソコンからアップした分も含めたらこの5年の間に800とか超えてるだろうアップした分を積み重ねて、そしてどうやらその回数に等しいくらいにイケメン上司も見て触れてきただろう私のぶつぶつ独り言に付き合ってもらったわけで、それが私の中で嫌がられてはいないと信じられるだけの回数になった。


本当に嫌ならさすがにそんな回数イコール時間を使うなんてもったいなさすぎてできない。


ましてやイケメン上司は今も間違いなく何かしらの管理職だろうから、絶対的に忙しい。


忙しい毎日の中で少しでも私のブログを見る時間を作るというのは、ある程度の優先順位が高めでないとそんなことしている暇なんかないと思う。


読んでの通り、読んだからと言って心が軽くなったり元気になったりするようなものじゃない。


単なる一個人の完全なる独り言で、見てもらっていてどの口が言うのかと思うけれど、本当に何かためになるようなものじゃない。


なのに見てもらえるだなんて本当に有り難い。


これもある種のcompartirかなと思う。


ある時、同じ時間、同じ場所に居合わせて、とりあえず顔を見たら「イケメン上司さん」「武士俣さん」くらいは知り合う状況がもたらされて、その間にあった色んなことが今でも私の中にはくっきりはっきりと残っている。


私の個人が見ていた景色は私にしか見えていなくても、ただただ同じ場所に同じ時間、時間と言うよりも同じ時代に立っていた事実は変わらない。


感じ方と受け取り方は違っていても、切り取られた同じ場所と同じ時間に居合わせることができたことは永久不変で残ってくれる。


何かをシェアした、compartirできた、compartirできるものを持てた、そのことはこの先の人生でも確実に私を支えてくれる。


イケメン上司的にはあまり好ましい解釈ではないかもわからないけれど、解釈は個人の自由だから、私はここに書いたような解釈でこれからはいきたいなと思っている。


compartirの片割れがイケメン上司で本当に良かった。







「ちゃんといてくれる安心感」

(石井ゆかりさんの2022/7/13の星占いより)


言葉としてとてつもなくおかしいのは重々承知で書くと、イケメン上司がブログを見てくれることは、私にとってイケメン上司が今日もどこかにちゃんと生きて「いて」くれることとイコールになっている。


決して私のためにいるのとは違うけれど、この世のどこかにいることがわかる。


これだけ長い時間を積み重ねてみて、そこから得た安心感はどれほどだろうと思う。


私は元々安心感の乏しい傾向が強い。


私の場合は自覚がなく、占星術の講座の申込みをした時(2018年春)に初めて先生にわかりやすい言葉で指摘されてそれでようやく「あ、なんか思い当たるかも」となり、さらには今1年生になった姪っ子の成長をコンスタントに見れて、そこでとにかく愛情いっぱいに育つとどう心が育まれるのかということを目の当たりにして初めて感覚的にもわかった。


私だってもちろん大切にはされて大きくなったわけだけど、親の不安を感覚的に知っていたり、社会への不適合具合が著しくて、変な不安や不安定な感じがデフォルトなんだと30代も終わり頃になってようやく気付いた。


もちろん悪いことばかりじゃなくて、それがあったからこその伸びしろや色んなことに対して安心できるように自分に配慮する術も手に入れられたけれど、まぁ基本が不安の上に立ってぐらぐらしている風だから、けっこう気をつけていないと一気に不安に飲み込まれる。


とかいう基本的な性質を持った私が、イケメン上司に会えるわけでもないし好意を持ってもらっているのとも違うし、なんなら嫌がられている疑惑まであって、私ストーカーですか⁇ぶりにヤバいんじゃないかと思ったりもして、ってな中でイケメン上司がいてくれる感覚というのは本当の本当にすごい。


何か具体的にしてもらえたわけでもなく(ブログは別として)、もしかするとイケメン上司の隣りには大切な誰かがいつもいるかもしれないし、本当に普通といわれるものさしで見たら私なんかは無い無いだらけになってしまうけれど、どうしてだろう、イケメン上司は私の中にいつもいる。


これを書き始めた翌朝、夢の中にイケメン上司が出てきた。


夢の中ではイケメン上司と私とは言葉を普通にタメ口で交わすくらいの親交度で、少なくとも出張なのか遠方への長期滞在なのかを伝えられていってらっしゃいと見送るくらいの立ち位置に私はいた。


家からじゃなくてどこかの事務所みたいな感じだったから、夢の中でもイケメン上司は私の上司とか仕事の関係者で私も私で事務員なのか何かだった。


イケメン上司はボストンバッグみたいな宿泊用のかばんを肩にかけて、そして腰あたりに位置するかばん部分に手を置いていた。


私はその手を見て「これ、本当に◯◯さんの手?」と瞬時に思った。


私が知っているイケメン上司の手はひと回り以上大きくて、爪の形や指の形にもなんだか違和感だった。


思わず手を見てから顔をもう一度見て、顔はイケメン上司なのに手は本人の手とは違うように感じた。


ほどなくして目が覚めたけれど、私はその夢の中の自分の感覚に驚いた。


私がイケメン上司の手を見れた時というのは一度きりで、しかも時間にして1分とない。


今でもはっきりと覚えているけれど、イケメン上司が珍しくとある現場に現場要員として行くことになって、そのための事前準備的な意味だと思うけれど、現場の資料のファイルが見たいと言われたのかこのファイルたちですか?みたいな感じで聞かれたのか、その辺りは忘れたけれど、とにかくそんな風にしてファイルを必要とされた時があった。


で、私はどういうわけかその中の1つの現場だけすぐにはファイルを作らなくて何かのついでの時でいいやと放置していた。


まさかイケメン上司がそれらを必要とするなんて想像さえしていなかった私は、慌ててその放置したファイルも急いで作って、それをイケメン上司の席に直接行って渡して見てもらった。


要るのか要らないのかわからなかったのと、私が見ても薄いファイルなのはわかったから、イケメン上司が見終わるまで私はその場で待っていて、その待っている間にイケメン上司の手をガン見していた。


イケメン上司は資料見てるから私が何してても気付かないし、こんな素敵なチャンスが舞い込むなんて、私のおサボり、スーパーファインプレイ!!!と1人で超盛り上がっていた。


とかいうその時1回きりしか見てないから、記憶としてはかなり薄いだろうものなのに、なのになんだかそこはすごい記憶力が発揮されて、5年も経ったある日の夢の中で私はイケメン上司の手を見て違うと瞬時に判断できるってすごいなと思った。


私の記憶力のすごさの方ではなくて、それだけ記憶に残るイケメン上司の存在の方のすごさが際立っていた。


少し話が逸れたけれど、いつの時も普通にある、存在しているイケメン上司の存在感は、私にとって不動の安心感と安定をもたらす。


私のためにいてくれるのとは違うけれど、それでもいてもらえることは私の心を強くする。


そして、石井ゆかりさんの言葉「ちゃんといてくれる安心感」、そういうものを私は享受している。







今回のことを書くにあたって、イケメン上司がいなくなってから数ヶ月くらいの間だったと思うけれど、ある時高校からの友達に会った時にその友達が言ってくれたことを思い出した。


ちなみに彼女は私以上に物事に対して疑い深く、さらには自分の感覚などまるで信じられないという人だから、安易に何かを言ったり相手を喜ばせるために何かを言うとかは一切しない。


そんな彼女がイケメン上司の話を私がした時にふと言った。


「みんな覚えている。◯◯さんは、ぶっしーがいた時の色んなこと、みんな覚えている」


友達は何の根拠もないけれど、突然そうだと感じたのとその感じたことに何の疑いもなくてポッと出てきたみたいな説明を付け加えていた。


普段の友達がどんな風かわかるだけに、きっぱりと言い切ってそしてまさに会ったこともない誰かのことをその人の立場でのことを言うなんて、普段だったら絶対にない。


だけど友達は「そういう感じ。どうしてと聞かれてもわかんないけれど、ふっと出てきた」みたいなことを言っていたと思う。


言葉としては嬉しかったけれど、その時の私はまだまだ色んなことに対して超懐疑的で、友達が嘘を言ったとも思わなかったけれど、かと言ってそうだとも素直に思えなくて、何とも言い難い気持ちで聞いていた。


たしか彼女のペンジュラムでも私のペンジュラムでもYES NOを聞いて、双方きれいにYESが出たんじゃなかったかなと思う。


とかいうことを、今回突然思い出した。


あの時は超半信半疑というか、全く実感の伴わない、摩訶不思議な話という感じだった。


けれども、今はもしかしてそれもあながち嘘じゃなくて本当かもしれないと思う。


イケメン上司の目に私がどんな風に映ってその当時の景色がどんなだったのかはさっぱりわからないけれど、意外にも何か色んなことを覚えているのかもしれない。


少なくとも普段から静かにしている分、色んな景色や人間模様なんかが見えているのじゃないかなと思う。


本人自ら静かに観察しているかもしれないし、観察しなくても気付いてしまうタイプかもしれない。


いずれの場合でも、イケメン上司はけっこう色々見たり見えたりするタイプなのかなという気がする。


私にしてくれた超イケメン行為なんかは、その最たる例だと思う。


かなり気付きにくいこと(なんなら本人も気付いていないという天然ボケな感じ)になぜかイケメン上司はきちんと気付いて、私史上本当に最高にイケメンなことをしてくれた。


それだって、「気付く力」が絶対的にいる。


そういう風に考えると、色んなこまごまとしたことたちがけっこう記憶に残っているかもしれない。


ましてや魂繋がりなどとなれば、通常の人間関係では得られないような境地のインパクトや印象があっても不思議じゃない。


それが好ましいか好ましくないかはさておいても、インパクトの強度はかなり強いんじゃないかと思う。


もしそんな風に私や私がいた風景が何かしらの記憶に残るものとなっていたのなら、それが好ましくない方向でも私は単純に嬉しい。


記憶に残れるのならもはや中身は何でもいいとさえ思っている。


素敵な武士俣さんじゃなくていい。(そんなことはなから期待もしていない。)


「ゲッ((°Д°;))))、強烈Σ(; )))) 」でもいい。


何か印象として私が残るのなら、それで十分だと今は思える。


人生のある瞬間に同じ時間、同じ空間にいられたこと、そこで同じものを体験していたこと、感じ方や見え方は全然違っていても同じものに接していた事実は残る。


それが今の私に、5年経過した今も残っていることが、自分の芯の部分に大切なものをもたらしてくれる。


私の一方的な思い込みや勘違いでもそれでいい。


2017年の夏、たしかに目の前にイケメン上司がいて、そこに私も毎日行けたこと、イケメン上司がいる空間に私もいられたこと、それ以上でもそれ以下でもないけれど、それが私にとって自分の人生で最大の「生きてきた中で一番うれしいこと」だった。


次元の違う喜びで、あれはもう別格すぎて人生で二度とは味わえないと思う。


後ろ向きな意味で言っているのじゃない。


あまりにも別格すぎたから、その別格だということを言いたくてそのように言っている。


そしてそんな別格の異次元の喜びの瞬間たちが、どんな印象でもいいからイケメン上司の記憶の中にもあるのなら、それはものすごくうれしいことだし、そうだといいなと思っている。


compartirー共に分け合う。


5年経過した今年の夏に初めて手に入れた境地に今はホッコリとした気持ちになれている。

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