2022年1月8日土曜日

2017年のインパクト



アスファルトがしっかりと見える、雪のない夕方の暗い道を運転しながら、「2017年」という年がものすごくくっきりはっきりと出てきた。

年が明けて2022年になった。


それはわかる。


なんだけど、2018年、2019年、2020年、つい最近の2021年と、どれもこれも頭の中で色々整理しないとどの年に何があったのか思い出せない。


例えば、2019年なんて言われても、とっさに何があった年なのかパッとは出てこない。


つい最近の2021年でさえも、「2021年ってどんな1年でしたか?」なんて聞かれても、かなり丁寧に思い出さないとどんな1年とかどんなことがあったのか思い出せない。


そんな中、2017年だけは全然違っていて、即座に何があったと即答できるだけじゃなくて、大きな節目、目印のような1年として私の中にずっとずっとあることに気付いた。







頭の中で言い訳を考え始めた。


今も去年に引き続き、2つの記事を書き上げてアップしたいと思っているし、止まったままの下書きもある。


それとは別に、1ヶ月ほど前に「これ書きたい!」というものも出てきて、それも下書きを途中までしてある。


確実に3つは今後いつかのタイミングで書き上げる。


じゃあこの今書きたいとなった、しかも何を書くって決めたのとも違うしこれを書こうと頭にはっきりと案があるのとも違うけれど、これはどうしよう?と考え始めた。


4つ目として登場させるのは、いささか抵抗がある。


番外編とも違う。


色々言い訳してもどれもこれも違うように感じたから、とりあえず書きたいように書こうと思った。


心の中の言い訳を少しだけすると。


ここ最近、オカルト系の話は日々てんこ盛りだから、だいぶ続けて書いている。


今日(1/7)にも今年初の買物、タロットカード、私にとってのファーストタロットカード2点が届くことになっている。


この3連休中に確実にタロットカードが何かしらの形で始動する。


またこちらはネタがある。


そんな風にオカルト系は放っておいても何かしらがやってくるし、不定期でもけっこう頻度を上げて書かないと貯まる一方のものになる。


オカルト系のことは立て続けに書いても、それでも書き切れなかったことなんかもあるわけで、でも書けなければ「まぁいっか!」と即開き直る。


というか忘れる。


その一方、これから書くことは、他のことたちが表立って目立っていても、実は私側からするともっと強い存在感を放ってずっとずっとある。


消えることもないし、書こうとしている内容については絶対に忘れない。


頭の中どころか全身中の自分の記憶が作動して、忘れることなんか一瞬たりともない。


とにかく、ひたすらに「有る」し「在る」。


内容についての表情をあれこれ変えるのはオカルト系のものだと知っているけれど、表情どころかネタも何も変わらないこちらは、もはや何の新鮮味も持ち合わせていなくても、私にとってはいつの時も新しいというか他に類を見ない表情を見せている。


例えば車の中で「2017年」と出てきたことも、全然目新しい話とは違うけれども、私は書きたくてそして伝えたい。


そういうものだから、もう書いちゃえ書いちゃえ!、と何の言い訳も立たないけれども、自分が書きたい、ただそれだけの理由で今書いている。


オカルト系の色んなことが起こっていた時も、こちらはネタの1つもなくても、オカルト系よりも遥かに強い存在感があって、書きたい気持ちの強弱はあっても書きたい気持ちだけは常に有り続けている。


書きたい気持ちがない、ということだけはなかった。







新年仕事2日目の日(1/6)、わりと早い時間に、1つの記事が読まれたとわかった。


それは、「声」について書いたものだった。


自分の記憶も毎回いい加減だけど、この記事が読まれました、とタイトルだけが表示されても何のことを書いたのか忘れている。


昼休みに開いて、少しだけ読んだ。


読んで即座に概要を思い出した。


そして「声」について、改めて逡巡した。


ここ数ヶ月のことだと思うけれど、私はしょっちゅう人の声に耳を傾けている。


仕事中、私の席というのは色んな人たちが行き来する通路のすぐ脇だから、その人たちが内線や誰かを伴っての会話なんかがあると色んな声が耳に飛び込んでくる。


廊下でも似たようなことが起こる。


家でも、視覚的には見てない時のテレビの向こう側の芸能人やニュースキャスターの声に、時々意識して耳を傾ける。


自分が反応する声は1つもない。


「この声、いい!」ってなる声がない。


本当に不思議で、声を探せば探すほど、自分の中で勝手に作動して心地良くなる声ってないんだということに気付く。


この間、とある文章の中に「記憶は感情で残る」ってあった。


非常に残念なことに、声の具体的な質、そういうものは時間の経過と共にかなり記憶が薄まってきている。


なんとなくは憶えているけれども、今すぐにその声を自分の中で再現させたくても、かなり輪郭がぼやけている。


だけど、代わりにと言ってはなんだけど、その声を聞いていた時の自分の感覚はものすごく鮮明に憶えている。


その声を聞いて安心して、他の人たちの声が雑音のようになっていた中で、その声だけが小さいのにも関わらず、並々ならぬ存在感を放っていた。


主には電話を受けたりかけたりしている時の声を聞いていたわけだけど、手を止めてでも聞いていた、そんな感覚でいた。


だからこそ私に向けられた声色の変わった声にもすぐに気付いたし、その声が変わるくらいに私が嫌なのかと思ったこともものすごくはっきりと覚えているし、声にこんなにも色んなものが表れるって知ったのはその声が初めてだった。


自分の声って自分で決められないし、さらに自分が好きな声とか聞き心地の良い声とか、そんなのだって理屈はわからない。


だけど、理屈を超えたところで自分の中で色んなことが反応する。


全体的に音の少ない環境の中にいた。


自分は1日の中で数分もしゃべることがなくて、周りの人たちも最小限しかしゃべらなくて、全体的に静かなところだった。


そういうところで働いたことがなくて初めは大いに戸惑ったし、ただでさえやる気がないのにさらにその静かさが私には合わなくて、私はここで何してるんだろう?何のためにここにいるんだろう?なんてしょっちゅう考えていた。


後からきちんと気付いた。


あれだけ静かなところだったからこそ、あの声を聞くことができたこと、一挙手一投足に注目できたこと、そして自分の感覚や気持ちにどこまでも集中してそれを自分の中の細部の細部にまで行き渡らせて記憶にしっかりと刻めたこと。


いつかは声を忘れてしまうというか、どうやっても思い出せない時がくるかもしれない。


それでも自分の感覚だけは生涯ずっと残る。


それは4年という時間が教えてくれた。


どんなに時間が経っても、私の中にある感覚とか感覚を伴った記憶はずっとずっとある。


それを持てたことは、本当の本当に良かった。


今でもずっとそう思っている。


そして、残りの人生でもずっと持ち続けられるのは、自分に贈られたお守りみたいでとてもうれしい。







今回、この文章を書こうと思ったのは、伝えたい・残したいと思ったからだった。


昨日(1/7)タロットカードが2つ、無事に届いた。


今回の3連休もオカルト三昧になるかと思う。


先に書いたように、オカルト系のものは頼まなくても日々アップデートやらネタ到来やらで色々あるから、今年はこれまで以上にオカルト日記の筆が進むことになりそう。


そうなると、この本当に書きたい方が後回しになりかねないから、そうなってしまう前に書いてしまいたい、そう思って書いている。


オカルトグッズたちはもはや趣味みたいな領域で、ここに書いていることとはずいぶん毛色が違う。


ここに書いていることは、私にとって命の根幹、生きることで出逢えたこと・奇跡、そういう領域のもので、上手く言葉にできなくても書きたいもの、言葉にして自分だけじゃない、相手にも届くようにしたいもの、そんな性質を帯びている。







1月6日の帰りの車の中のシーンに戻る。


2017年の衝撃的な時間を軸として、今年は5年になるんだと頭の中で指を折りながら数えた。


秋になれば丸5年が経過して6年目に突入してしまう、そのことにももちろん気付いた。


5年という月日もけっこうな痛々しさを覚えたけれど、これが例えば10年とか20年ってなったとするならもっと痛いことになってしまうななんて思った瞬間があった。


区切りなんかどうやって付くのか想像もつかないし、いつか上手いこと気持ちが離れてもっと別のところに向かってくれたりするんだろうか?なんて自分に聞きながらなんだか苦しさを覚えた。


その時に出てきた。


「自分の気持ちを大切にしよう」


ここから先はますます明るい未来や望む現実からかけ離れていくことになる。


そこに目を向けてしまうと、しんどさや苦しさが出てくる。


1年、また1年と時間を重ねる、それも自分の中が何にも変わらないまま、状況も変わらないまま、時間だけが無常にも過ぎていく、そういう近未来を想像したら、やるせなくなるばかりだった。


だから、ここから先は現実がどうだとかいうことではなく、自分の中にある気持ちを大切にしたらいい、それを守ることができたのなら自分の中にまた新しい何かが出てきてくれるかもしれないし、今よりも自分自身もこの現実と付き合いやすくなるかもしれない。


自分の中にあるものだけを大事にできたのなら、私は自分で自分を救えるかもしれない、そんな気がした。


誰のことも頼らないという意地っ張りゲームとかではなくて、自分の中にあるものを自分だけは最後まで大切に守ることができたのなら、これから先どんなに時間が経とうと、全てのことがどんどん現実にあったこととは感じられなくなろうとも、自分は大丈夫な気がした。


いつも一番近くで見ている自分がこの色んなことに対して「それでいいんだよ」とできたのなら、状況も関係も全て関係ないところで自分の気持ちを守れる。


そうだ、それを今日のおいせさん手帳に書き残したらいいんだと思った。


「大切なもの、大切な人」を書き出すことをこの1週間はテーマにしている。


この質問を前にした時、けっこう面食らった。


新年早々逃げたくなってしまった。


大切なものは書けそうだったけれども、「大切な人」は「全力で無理!!!」と思った。


書くことも認めることも表面化させることもできない。


だからそこには触れず、別の方法を考えて書こうと思った。


それで自分の中でそこそこしっくりきた言葉が「自分の気持ち」だった。


ちょっと話は違うけれども、生きている中で一度は「あなたの大切な人は?」と聞かれたら、堂々と即答できる自分というものを体験してみたい。


相手のことも自分のことも疑わず、一点の曇りもなく、真っ直ぐに堂々と「〇〇が大切」と言えるような関係を人生で一度くらいは体験したい。







書いていたら、なんだかどんどん暗い内容になってきたから、最初の話に戻そう。


どこまでも輪郭をはっきりと持った2017年という時間を思った時、本当に大切な時間を人生でもらえたんだなと思った。


それがたとえすっごく短いものでも、その時間が人生にあるのとないのとじゃまるっと違う。


占星術視点の天体の運行上でも現実にそうだったわけだけど、2017年というのは私にとって「生まれ変わり」のような1年だった。


「再生ー再び生きる」


その選択肢をとても自然にそしてどこまでも極限など存在しないかのように、再び生きる力をもらいまくった1年だった。(正しくは4ヶ月弱)


だから、2020年とか本来ならけっこう強烈な星回りでそちらの方が印象に残っても良さそうなのに、私の方で強烈に鮮明に残っているのは2017年になる。


それを持てた奇跡に新年早々感謝したくなった。


そしてこれからどんな風に年を重ねても、自分の中で2017年は永遠で、あの時に出逢わせてもらえた人もその人がいた時間も空間もその全てのことは私の中からなくならない、ずっと力をくれるものへと今後はますます昇華していくことだろうと思った。




(追伸)

イケメン上司にまつわる3つの話は、自分の気持ちの入りきったタイミングで書いてアップする予定。

しばらくはタロットカードがホットだろうからそのことをいっぱい書いてしまうだろうけれども、書くのを忘れるとかいうのじゃない。

仕事始めの日、雪でいつもとは違う道から行ったら、曲がる場所を間違えるという、何がどうしたら通勤路を間違えるのか自分で自分にビックリしたけれど( ̄∀ ̄;)、イケメン上司にまつわる書きたいこと3つのテーマはずっとずっと覚えているし、忘れることもない。

その桁違いに優れている記憶力がもう少し日常側にも流れてくれたのなら、もう少しまともな人になれる気がしてならない( ̄∀ ̄;)

ちなみに、この文章を途中で読み返した時、何を書こうとしてるのか第三者が読んでわかるんだろうか?と思った。思ったけれど、いつものごとくこのままアップする。

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