2020年7月12日日曜日

衣替え・服・車・心の中

ようやく衣替えをして、シーツも洗って、羽毛布団からタオルケットに切り替えた。

毎日制服なのをいいことに、衣替えは延び延びになっていた。

突然スイッチが入ってくれて、夏服を段ボールから出した。

夏服と冬服を入れ替えて、自分が本当に服が少ないことに気付いた。

おしゃれに興味がないのは相変わらずで、私は生涯服に興味もなく過ごすことになりそうな気がした。





仕事が恐ろしいほど激務で、それも周りの人たちが先延ばしにしたことでそのしわ寄せが全部私のところに来るという、よくよく考えたらおかしな構造だと気付いた。

この間職場の人に言われてようやく私も理解できたけれど。

私の仕事はたしかに「英訳」かもしれないけれど、取り扱う内容のレベルは、重役たちが客先に謝罪方々持ち込むような案件がほとんどで、それの英訳をしている。

だからいつもすごい緊張感だし、失敗できないプレッシャーも半端ない。

珍しく、何も書きたくなくなるくらいにグッタリとした1週間だった。





衣替えをしながら、1年前、2年前の自分のその時の記録が出てきた。

気持ちが落ちていて、未来の心配をたくさんしていた。

未来の心配というのは、このまま何もしたくなくて働かず、なのに生き続けることになったらどうしよう?みたいなことだった。

お金の心配とも違っていて、社会に出る自分というのが全然想像がつかなかった。

今働いていて思うのは、基本的にやる時は超がつくぐらいに全力でいくから、その辺りはあまり心配しなくても良いことだった。

それよりも、ひとたび外に出る気持ちがなくなると何もしたくなくなるのが私の自然体のようだから、それも自分だと受け入れていくのが自分にとって一番やさしい在り方なんだろうと思う。





4連休の初日に開催の飲み会に向けて、服の新調などをした関係で、足りないものをユニクロへ見に行った。

その前に図書館に寄って、ZARDのベストアルバム的なものを借りた。

車のスピーカーからは今はもう生きていない人の声が流れていると思うと、不思議な気持ちになった。

ずっと聞き慣れたその声は、もうこの世には存在しない人なんだなんて信じられなかった。

いじめ全盛期の頃に流行っていた曲が続いた。

あの頃は、いじめられる自分が死ぬほど恥ずかしかった…、それが当時の一番の気持ちだったかもしれないと今さらながらに思った。

いじめられることは、そういう存在なんだと、自分が価値のない、いじめられても良い存在なんだと、それを親や妹たちに知られるのが嫌だった。

今思えば、そんなことはもちろんなくて、そして間違ってもいじめられてもいじめる側ではなくて良かったと思っている。





ふと、今人生で一番自分のペースで生きていられるんじゃないかと思った。

相変わらず鈍臭いし、ノロマな部分もたくさん持ったままだし、足りないところは数え上げたらキリがないくらいだけれど、なんとなく自分のペースと社会のペース又は外の世界のペースとが調和できるところを見出して、その中で心地よく漂う瞬間も色々とある。

意地悪い人たちにも時々遭遇するけれども、基本的に人には恵まれている。

助けて!と言えば、助けてくれる人たちがいる。

10代の頃の居場所はないわ自分がいていいんだか悪いんだかわからないわみたいな、そういう自分が存在しているだけで苦しくなるみたいなことはなくなった。

平和な日々がある。

大人になった今の方がうんと生きやすい。





久しぶりに服を買った。

夏服のセールをやっていた中で、春秋服みたいなのを2枚、60%と70%OFFで買ってきた。

名古屋時代、超手狭な収納生活によって、私はある法則を自分の中で見つけた。

服は
・春夏秋
・秋冬春
のいずれかのパターンでいけるものを基本とすること。

そうすれば、たくさんの服は要らないし、あとは足りないものは冬ならヒートテック重ねるとかすれば良かったり、夏はそういう中に着るものを減らせばいい。

そういうマイルールができてから、本当に楽チンになったし、そして元々服に興味のない私は余計な手間ひまを省けてさらに良くなった。

買いながらもう1つ気付いた。

体重がよく増減する私は、5キロほどの増減にも耐えうる服をいつからか買うようになった。

今は明らかに適正体重ではないってわかるけれど( ̄∀ ̄;)、でも反対に何キロなら適正なのか自分でわからない。

思春期と呼ばれる頃から1年として同じ体重になったことがないから、何キロだといいんだろう?

最低値と最大値で25キロ違うと、ちなみに最大値はさておき最低値も最低値で骨と皮みたいな、拒食症みたいとは言わないけれど、本当にやばい感じになるから、そんなにも減っては良くないとわかる。

ブラックな働き方の時は、毎日2食外食、夜は早くて23時過ぎみたいな生活で、それを1年もしたのに体重が5キロも減っていた時はぶったまげた。

私の場合は、過食や拒食というのとは違って、メンタル的なものが知らないうちに体重に表れる。

加齢と共に減ることは少なくなったけれども、この間なんかも、ちょっと疲れる集まりだったのか、何もしてない、むしろ食べすぎなくらいの翌日に一気に1.5キロも減っていたのにはビックリした。

一事が万事そんな風だから、服もとりあえず着れるもの、それもその時々の体重でプラマイ5キロくらいは見て選ばないといけない。

自分の体だから慣れてはいるけれど、こんなのもある種特殊な体質なんだろうなぁと思う。




久しぶりに買物をして思ったけれど、色んなメーカーの服を取り揃えてるセレクトショップ的なところとユニクロを回っただけで、グッタリとした。

みんなよく耐えられるなぁと思った。

そう思うと、私はスーパーを意味もなくフラフラするのは好きで、それは全く苦にならない。

今はしてないけれど、他にも好きなのは陶器のお店。

焼き物が盛んな町の焼き物屋さんを回ったり、大阪の名前は忘れたけれど皿ばかりをひたすら売る店が立ち並んでいるところもすごく好きだった。←2回か3回行った。

逆に、合羽橋はあんまり面白いとはそこまで思わなくて、とにかく雑多な感じの中から素敵な1枚を見つけるのが超楽しくてやめられなかった。

それ繋がりで言うと、デパートのキッチン雑貨の階は超楽しくて、そこだけは唯一何のためらいもなくセレブコーナーにも入っていける。

デパートのヴィトンは入ったことがなくても、キッチン業界のヴィトンみたいなコーナーはじゃんじゃん入る。

改めて、服は着れればいいのタイプなんだと再認識する。





帰り道、とある車種の車の横で信号待ちをした。

違うところを見るフリして隣りの車を見た。

本当にすごい似合ってたんだな…。

と改めて思った。

服以上にもっと興味のない車ではあるけれど、ある車だけは今でも見かけると見入ってしまう。

夏のある日、休憩室的なところの窓から下を見下ろしたら、その人が車に乗って休憩に行くところとちょうどかち合った。

その時がたしか初めてで、あの車に乗ってるんだーと知った。

車に対して似合う似合わないなんてそれまでただの一度も思ったことなかったけれど、その人は本当に自分に似合う服を選ぶように車を選んだみたいに見えた。

今も乗っているのか替えたのかは知らないけれど、少なくとも私が知ってるその車は本当にとてもよく似合っていた。

時が経ったんだというのも感じた。

ZARDの坂井泉水さんの声がもうこの世には存在しないのと同じように、あの時の風景はもう私の中にしか存在しないんだと、チクッとする感覚と共にそんなことを思った。





買物にグッタリとした私は、もう買物を目的に遠出をするなんて無理だなと思った。

そう思った瞬間、八王子ナンバーの軽とすれ違った。

八王子から軽で新潟くんだりまで来たんだろうか…と思ったら、本気ですごいなと思った。

そうしたら次は福山、そして札幌と続いた。

どの人もローカルな場所で見ているから転勤族かもしれないけれど、本当に目的がなければ遠路はるばる来るような町ではないなと感じながら、それらのナンバーたちを見た。

読みにくいと思って「遠路はるばる」にしたけれど、本当は「遠路遥々」の方が見た目が素敵だなと思った。





ひまわりがたくさん咲いてる畑の脇を2か所通った。

ジワジワと記憶がよみがえってきた。

記憶云々よりも、そのスローモーションのように反応している自分に感動した。

ひまわりはいつの間にか特別ではなくなって、ひまわりの記憶を呼び覚ますのにほんの少しだけ間ができたことに嬉しくなった。

初めてだった、ひまわりを見てすぐに反応しなかったのは。

確実に進んだことを自分の中で噛みしめた。




明日からまた1週間。

仕事が憂うつに感じる。

整えられるところまで整えるけれど、気持ちがイマイチ上がらない。

だけど、ここまで書けたから、ある程度休息できて心を休ませられたと思う。

4度目の夏、逆に忙しいのなら夏の日々を思い出さずにいられるかもしれない。

思い出したい気持ちと、もう戻らない時間との葛藤と、その鬩ぎ合い(せめぎあい)もいつか乙なものになったらいい。

そんなことをせめぎ合ってもどうにもならないのに、心なのか魂なのかはそんな単純構造にはなってないようで、効率良く割り切るとかできないままになっている。

この夏、私はどんな思いで夏を通りすぎていくのか、それを観察しても面白いかもしれない。

奇跡は起きない…、って今度こそ本当に受け入れ始められるようにならないかと思うようになってきた。

服や車に注目した後、本当の本当に互いの接点や共通点なんて何もない気がいつも以上にした。

庶民代表みたいな私と、若干ズレてる私と、色々興味なさすぎな私と、星とかオカルトとかそういうことにはなぜか縁ある私と、その全てと真逆みたいなその人とがそもそも同じ職場にいたこと自体がありえないことだったんだと思う。

7月8月そして9月と私が何を思うかは知らないけれど、せめて自分にだけはきつく当たらないようにしたいなと思う。

会いたいなら会いたい、忘れたいなら忘れたい、さみしいならさみしい、何でもいいから自分にだけは嘘がないようにしたい。

叶う叶わないとか、合う合わないとか、そういう外の基準じゃなくて、自分基準で何を思って感じているのか、それをせめて大事にできる自分でありたい。

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