2020年1月3日金曜日

発熱と小さな自分

小さな自分が出てきた。

正月早々、風邪のような症状でダウンした。

最初は喉の痛みと少しばかりの咳。

そのうち頭痛と節々の痛み。

微熱から一気に38度台後半の発熱。

姪っ子と妹が風邪菌を持っていたけれども、私以外誰ももらっていないところを見て、もしかして浄化!?と思った。

ペンジュラムに確認すると、風邪ではなく浄化らしい。

年末は浄化のエネルギーが強くて体調不良になる人が多いといくつかのブログで目にしていたけれど、私には今回それが来なくて、とうとう大浄化も私は抜けて健康体を手に入れたんだ!と喜んでいたら、正月早々体を悪くした。

なんとなく想像していたけれど、熱は一晩で下がった。

私にとっての浄化のための体調不良、特に発熱は、基本的に長引かない。

だけど、喉の痛みと節々の痛みはパワーアップした。

不具合が起きているのは、何かしら気付いてねのサインだと思っている。

熱が出た1月1日の夜は、1時間おきにトイレに行った。

汗もかかず解熱したから、多分このトイレ作戦が功を奏したと思う。

真夜中に1時間ごとに起きてよく眠れなかったことと、熱で頭がボーッとしていたことで、出てきた出てきた。

なんとなく予想はしていたけれども、小さな頃からの自分が出てくるのが今回大事だったんだと思う。

「小さな頃の自分が出てくる」というのは、本当に立体的に小さな自分が現れるんじゃなくて、小さな自分が感じていた感覚がほぼそっくりそのまま出てくる。

小さな自分は心が剥き出しみたくなっていて、本当にそのまま色んなことをストレートに感じる。

その分ものすごく傷付きやすいけれども、代わりにその自分が出てくるとちょっとだけホッとする。

普段はその自分は出てこない。

理性や大人の自分が抑え込んで出てこない。

だけど、発熱とか普段とは違う体調になって色々体が緩んだ時や心が朦朧とした時に、そういう自分がひょっと出てくる。

今回も今回ですごく不思議な感じだった。

4歳の姪っ子とのやりとりで、子どもの頃の自分が出てきた。

姪っ子は1対1の時はいいけれども、大人の人数が増えれば増えるほど、変な優先順位が現れて、私なんかは露骨に意地悪を被る。

「ふみこはダメ!」などと言われたり、本気の嫌がらせにしかならないことをされたりして、決して気分の良いものではない。

ちなみに今はこうでも、時間の経過と共に変わってくると思っている。

児童養護施設で働いていた時もそうだったけれども、私は決して子どもウケするタイプの大人じゃない。

最初から子どもに好かれるタイプの人というのはいて、私はその空気はどうやっても出せないし、そんなことで勝負しようなんて思わない。

ただ、根性だけはあるから、子どもとどんなにぶつかって嫌な感じになっても、それはそれ、次は次と割り切って付き合えるのと、自分の感情で子どもを振り回したりはしない。

ダメなものはダメとどこまでもはっきりと言うけれども、自分の感情に任せて相手を怒ったりなじったりとかはしない。

そういうことが子どもたちも肌感覚でわかってくると、私に向けてくるものが変わってくる。

子どもが心を開いてくる。

時間も労力も半端なくかかるけれども、誠実に勝るものはないと私は思うほど、人間関係ではそういうことが大事だと思っている。

姪っ子はさておいても、そんな風に小さな自分が出てきて、自分が超がんばってがんばってがんばり抜いて今があるんだと知った。

大人の私でさえも戸惑う。

明らかな意地悪だったらまだ何だかんだと言葉で説明できるけれども、そうではない絶妙な態度で拒否や否定、無視をするのはどう伝えてみようもない。

ちなみに姪っ子は多分意図的にしている。

怒られたいとかいうのよりも、多分私の反応を見ている。

要は、自分の一番醜い姿を私には見せている。

明るくて朗らかなところではなく、意地汚くて意地悪い自分を見せる。

こんなに意地悪してもふみこは好きでいてくれる?という挑発的なものを感じる。

可愛くて愛くるしい自分が愛されるのは肌でわかると思う。

でもそうではない自分も愛されるかどうかはわからない。

でも小さな体の中にも腹黒さや意地悪さはきちんとあって、普段はそれを出せないんだと思う。

そこで自分の命が危なくならない相手で、尚且つこの人なら受けてくれそうというので私にそんな面白くない役割が回ってきてるんじゃないかと思う。

現に、姪っ子は意地悪をする時に私の顔をガン見して私の反応を確かめたり、不意打ちに私にすり寄ってきて可愛らしさをアピールしたり、かなり面白いことをしている。







姪っ子とそんなやりとりがいくつかあって熱でうなされていた時に、小学校1年生か2年生の頃のシーンが出てきた。

いじめられるシーンといじめっ子が自分にすり寄ってくるシーンとが続けて出てきた。

私は毎回どのように親に説明していたのか知らないけれども、帰り道の途中に神社があってお清めの水場のすぐ前を通る時、しょっちゅうその水をずぶ濡れになるまで掛けられていた。

服とかが濡れてるのは明らかにおかしいのに、私は素知らぬ顔をして家に帰っていた。

親が気付かなかったかどうかはわからない。

だけど私はしれっとした顔で何事もなかったかのようにしていた。

書いてて思い出した。

これは予想でしかないけれども…。

その後も大人になるくらいまでの年齢域で私は何回か自分の身に危険が及ぶような状況に遭遇したことがある。

子どもの頃もその後のもう少し年齢域が上がった頃も、本当に身の危険が迫ると私は声を出せなくなる。

「助けて」の一言が言えない。

今はそういうことに出くわしてないからどう反応するかは知らないけれども、少なくとも成人前の私はあまりの恐怖で完全に声を失い、ひたすら耐えることしかその時々はできなかった。

だから子どもの頃も、ものすごく嫌だったけれども、声を出さなかったのではなく、出せなかったのではないかと思う。

そこにプラスして、帰り道の2人のいじめっ子のうちの1人が休むと、今度は手のひらを返したようにもう1人は私にやさしくなって仲良く話をしてくる。

素直に私はそれを喜べなかった。

今日だけやさしくて、また明日になってもう1人が戻ってきたのならまたいじめられる、そう思うと何で今だけやさしいのか全く理解できなかった。

そんなことを姪っ子とのやりとりを通して思い出した時に、今大人になった私でさえもさぁどう姪っ子に振るまおうかと考えるのに、小さな自分はどうやってそれらを対処していたのか、想像を絶するものがあった。

しかも大人になった私は心理セラピーの方法なんかも身につけて多少の知恵があるけれども、子どもの私にはそんな頼れる手段なんかなかったから、その時その時で小さな体で目一杯戦っていたんだろうなぁと思う。

そういう自分のことが今回の発熱の時にひょいと出てきた。

その自分と今の40歳の発熱の自分とは関係ないけれども、「そうだ」と思いついて、真夜中に果物缶を開けた。

本当は白桃や黄桃の缶詰を想像していたけれども、あったのはなんと生まれて初めて見たアプリコットの缶詰だった。

子どもの時に発熱すると母がいつも果物缶を開けて食べさせてくれたことを思い出して、それを今度は大人の自分が自分にしてあげることで、なんとなく子どもの自分が癒される気がした。

今回の体調不良は、長いこと自分の体の中に溜め込んだ負のエネルギーを外に解き放つ、そのために起こっている気がした。









もう1つ気付いたことがある。

私が高校以降繋がった人間関係というのは、1つには相手の人が気分によってコロコロ変わらない人だということ。

相手の出方が読めないようなタイプの人は私が苦手とするから、仕事とかでどうでも関わらないといけない場合でもなければ、親しい人間関係の中ではそうした人とは絶対に仲良くならない。

人間誰しも感情の起伏はあるけれども、それを周りに巻き散らしてしまうような人は私は苦手だし、そんな人と付き合いたくない。

派遣に行くと大体その手の人が必ずと言っていいほどいたけれども(派遣・正社員問わず)、個人としては絶対に関わり合いになりたくないと思った。

もう1つは、私がどうであれ、相手から見た時の私の価値観が同じ人というのを大切にしている。

いじめっ子の片割れが休むと親しくされる件も、私には本当に不可解なことだった。

昨日の私と今日の私とで差がないのに、どうして状況が変わると関係性や私の人としての価値みたいなのが変化するのか、全く理解できなかった。

この手のタイプの人も苦手だから、私はそういう人のことはとにかく避ける。

そして、これはニートや引きこもりのような状態になってより一層はっきりとしたことだけれど、そういう時こそ相手と自分の関係の真価が問われる。

そうした状況下にある私自身を否定する人とは関係を続けていけない、そう感じた。

これは言葉とかではなくて、超わかりにくいどころか私にしかわからないような感覚かもしれないけれども、たとえ同じ言葉をかけてきても相手がそれを私をまるっと受け入れて言ってくれているのか、反対にある部分の私を否定して言ってきているのか、その差がわかる。

前者は言われても変な感じはしない。

でも後者は言われるとすごいグサッとくる。

しかも後者のタチの悪いところは、本人は良かれと思って言ったり態度で示したりするところで、だからまさかそれが私には凶器のようになっているなんて本人は全く思ってもいないだろうと思う。

30代の10年間を通り過ぎて学んだことの1つは、何をしていても何をしていなくても、私そのものは変わらないし、そして私の価値そのものも変わらないということ。

社会の役立ち度ゼロで周りに迷惑かけてる度マックスでも、それで私そのものの価値が左右されるなんてことはない。

周りの評価はたしかに変わる。

だけど、それはそれだし、それに合わせて私の価値を自分の中でも変える必要はないと知った。

そして、そうなった時に本当に周りの人たちの考え方や価値観も見えてくる。

良し悪しはないし人それぞれだけど、ドン底をいくような時にそれを良しと思わない人たちとは長く付き合えないと思った。

良しと思ってない人たちは、見えない部分で私を否定しているのがわかる。

それは居心地が悪いし、自分が何か大きく間違えてしまっていてダメな人みたいに映って仕方なかった。

ただでさえ罪悪感満載、後ろめたさや自己否定の連続しているところに、さらなる追い討ちが来る。

私ももしかしたら見知らぬところでやらかしているかもしれない。

でも、できる限り、窮地に追い込まれている人をさらに窮地に追い込むようなことだけはしないにしようと思った。









微熱に戻って元気が出てきてから、久しぶりにリマーナすず先生のブログを開いた。

すず先生は占星術家で私が2018年の夏に個人鑑定を受けてきた先生。

時々、1ヶ月から2ヶ月に1回の頻度で先生のブログをチェックする。

すず先生のブログをチェックするのは目的があって、先生のブログは超マニアックなホロスコープの解説について教えて欲しいとコメントする人が後を絶たなくて、それに対してすず先生も無視せずに丁寧に返信している。

それが読みたくてチェックしている。

個人的にはマニアックな人たちはきちんと個人鑑定受けてください、と思うけれども、それとは別にその人たちの質問のおかげで私も新しく知れたりすることもたくさんあるから、恩恵に預かっている。

今回このタイミングで見た新しいコメントの内容は、今の私にピッタリのメッセージだった。

コメントで見かけたのは、私と同じ相を持つ子どもについて相談している母親からの質問だった。
(https://hapihapiastrology2.blog.ss-blog.jp/list_comments/16459342/)
↑リンク飛ばないけれども、それが書いてある場所。

『学びに関して長い期間、努力を続けることになるでしょう。』

すず先生はそのように返していた。

それを見て、「あっ!」となった。

これが学びかどうかは知らないけれども、私のこの自分の振り返りはある種尋常ではないと思う。

前は誰しもがするとは思わなくても、逆にする人もいるでしょうと思って特別とは思わなかった。

ある時から、占星術講座のクラスメイトだったノムから、ぶっしーのそのひたすら自分を見る習慣というのは普通じゃないし、ぶっしーほど自分を振り返る人もいないと言われて、それで初めてそれが普通じゃないんだとようやく自覚できた。

だけど、ノムもノムで私みたいにしているし、他にも同じようにやる人に何人か出会ったことがあるから、やっぱりそんなに特別とは思わなかった。

だけど、今回この体調不良のタイミングですず先生のコメントを読んでハッとした。

この自分の内面をひたすら見ることや、熱まで出して体はマックス具合が悪いのに、そんな最中に子どもの頃の自分の感覚を思い出して癒す行為を行うなんて、どう考えても普通じゃないなぁと。

そして努力しているつもりはないけれども、自分の心のケアについては長いこと学びを続けているのは本当だなぁと。

最近じゃ、こうした不具合が出ると、過去の自分の感覚が出てきたら、その感覚の瞬間をわざと自分の中で追体験して、それをスローモーションのように再生して、どこで私がこの感覚に至ったのか、何をその感覚と感情を結びつけたのか、そんなことの分析までしている。

そんなことして何の得になるのかなんて考えず、むしろやっても得にならないとも思うけれども、ほぼ自動的にそれをしてしまう。

ちなみにこれをすると、心の傷が和らいだり、自分が楽になれたり、はたまた未来の危険に備えたりできるから、そういう意味でやっている場合が多い。

人間の心なんて本当に複雑怪奇にできているから、基本的に機械のようにAを押したらaになって、Bを押したらbになるみたいな単純構造とはいかない。

いかないけれども、それを細かく見てあげることで自分が救われたり楽になれたりすることはある。

そういう意味で私はずっとそんなことをまるで毎日ストレッチする人のように自然とやっているし、それをすず先生の言う『学びに関して長い期間、努力を続けることになるでしょう。』に当てはまるんじゃないかなと思った。

超ぶっちゃけたことを言えば、世の各種心理サービスを提供している多くの人よりも圧倒的に私は自分を使って自分を見ていると自負している。

ブログの記事を1つでも読めば、その人の思考の癖とか価値観とか軸となる考え方とかが1つは確実に見えてくる。

なぜなら、自分で自分を見まくって、そして心理系でもスピ系でもたくさんの書物を読んできたから、そうした諸々の積み重ねでわかってしまう。

すず先生は同じコメント内で続けてこんな風に言っている。

『彼にしかわからない敏感な感覚だったり
複雑な葛藤を抱え、回り道をしがち。』

私のそうしたマニアックな分析から得たものは、それこそ「私にしかわからない敏感な感覚」に当てはまる気がする。

「複雑な葛藤」もこれかな…と思い当たる節がある。

例えば姪っ子にしても子ども時代のいじめっ子にしても、他の人たちと私とに何の差があるのか私にはわからない。

なんだか意味のわからない嫌がらせを受ける、だけど状況が変わるととても親しみを示される、それが私には不可解すぎる。

もちろん人間だから一定ではいられない。

だけどもこうした類いの状況を幼い頃から山ほど体験してきた私にとって、相手の出方が読めないのは相変わらずだし、それによってこれまでは自分もグラグラしまくりだったから葛藤もその分多かった。

最近は開き直って、それがたとえ姪っ子であってもされて気分の良いものではないけれども、それは私の問題じゃなくて相手の問題なんだと思うようになった。

私が何か嫌がらせをしていてその仕返しとして嫌がらせを受けるならわかる。

でもそうじゃない。

何もしてなくても、突然攻撃されたりするわけで、私が当たりやすいのかもしれないけれど、だからと言って私が悪いのとは絶対に違う。

でも、こんなこと言いたくないけれども、こうした状況がたくさんあったことで私はここまで自分を見る習慣を身につけたと思っている。

そういう意味不明な状況は山ほどもたらされてきたから、ある意味慣れている。

自分で言うのもなんだけど、ここまで本当に色んなことを体験してきて、それでもひねくれず相手に仕返ししようともせず、精神的に投薬治療や入院を伴うほど病んだり、はたまた誰かに危害を加えるとかしない自分を見て、本気ですごいと思う時が時々ある。

メンタル強めだと思う。

そりゃ独特の感覚も育ちやすい環境にあったなぁと思う。

とにかく、今回のタイミングですず先生の言葉を見つけられたことはとってもラッキーだった。

自分で自分の人生を肯定できるヒントがそこにはあった。






 

体が不調でもブログを書く元気はあった。

そして、小さな自分に戻ったみたいになって、その時の自分を振り返る元気もあった。

相変わらず怪人級のメンタルだなぁ…と自分で思う。

体の具合が悪いのにできるわけだから、これはある種の才能だとさえ思う(笑)。

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