2020年1月23日木曜日

疲れた時に読みたいもの

2020/01/22 水曜日

今日はお偉いさんに予約を取り付けて(私の上司が)、そのお偉いさんと月末までに提出の英訳の件で質問攻めする予定でいた。

どうしても英単語が1つ思いつかなくて、そのために前任の人にも連絡を入れて、それのヒントも教えてもらって、さぁ行くぞ!とまでいかなくても、それをする気満々で今日は仕事に行った。

朝のラジオ体操も真面目にブンブンと手足をしっかり動かしてやって、今月当番のポットの水入もして、さぁ次はお偉いさんへの質問のために準備しようと、とりあえずメールをチェックした。

∑(ΦдΦlllΣ(꒪◊꒪; ))))∑(ΦдΦlllΣ(꒪◊꒪; ))))

今週、アメリカのお客さんが本社に来ているのは知っていた。

そのために先週色々ありえない量の英訳をしていたから、もっと早く言ってくれー!!!と思いながら取り組んでいたから。

だけど、もうそこでお役御免になったのは知っていて、今週は違う中国語並みに熟語オンパレードな、「動作内容確認後、確認書類記入」みたいな、本当そんな感じの日本語を英訳している。

そうしたら、今朝のメール。

明日(1/23)その海外のお客さんが来るとあった。

そして、その会議に使う資料を英訳してくださいとメールが来ていた。

∑(ΦдΦlllΣ(꒪◊꒪; ))))∑(ΦдΦlllΣ(꒪◊꒪; ))))

何で今なの?とまずは思った。

しかも最初は赤字だけ訳すと聞いて、まぁ午前中から午後の早い時間までやったら終わりそうだからいいかと思ったら、なんと全部だと言う。

定時までに終われば御の字なくらいに先々が見えなくなった。

しかも、あまりにギリギリ過ぎて、多分誰もチェックできないと思った。

ガーン( ̄(工) ̄;)

ちなみに、定時間際になって、それが明日みんなに配られる資料だと知った。

それ大丈夫なの!?という感じだった。

色んな意味で絶望的な状況だったけれども、最後、本社の英語担当の超お偉いさんが見てくれることになって、本気で事無きを得た。

その後私の秘密の英語の先生からも協力を得て(こちらは英語じゃなくて社内の諸事情を踏まえた上での英訳の注意事項の確認)、とにかく終わったのが21時10分過ぎ。

今のところは朝8時始業、正しくはラジオ体操が7時55分から開始だから、とにかく朝が早い。

なのに21時越えって…( ̄∀ ̄;)( ̄ཀ ̄;;)。

そこから30分くらいかけて家に帰った。

もちろんグッタリ。





前置きが長くなったけれども、そんなスーパーグッタリな1日の終わりに、少しだけ気持ちを緩(ゆる)めるために、風呂で読書をしようと考えた。

占星術系の本や読みかけの小説もあったけれども、どちらも読むだけの元気がない。

私は無印の1センチほど厚さのあるノートを手に取った。

それしか気が緩んで楽しく読める、心が和むものは考えられなかった。

パラパラと後ろの方のページをめくって、私は2017年の夏から秋にかけての記録を読んだ。

日々の記録を目で追いながら、心の中では当時の風景を再現した。

隣りの席の人とのきわに置かれたせんべいの姿も、段ボールに無造作に投げ込まれたうちわも、その段ボールをおそらく自分の車の中に運ぶ持ち主の後ろ姿も、事務所の風景も、手紙を渡した朝の日の本当に一瞬だけ、それは1分にも満たない小さな時間のことも、色々と思い出された。

手紙の時なんかは、本当に細かな動きまで憶えている。

人が出たり入ったりして慌ただしくて、私はその間に自分の作業机側にいつも置かれていたセロハンテープを適当な長さに切って、急いで茶封筒に封をした。

貼り終わってふと周囲を見ると、なんと私ともう1人しか事務所にいなかった。

今しかない!と思って、私はすたこらと部屋の角を目指した。

そして私の手から封筒は旅立って行った。

まさかその後今になっても忘れられないほどの瞬間になるだなんて、その時は思いもよらなかった。

うんともすんとも言われずに、ただただ無機質に場所移動しただけの茶封筒がちょこんと机の角に置かれた。

相手の目には同じ光景がどう見えていたんだろう…、風呂の中でその時のことを読みながらそんなことを思った。

文字を目で追いながらも心は違うところにいた。

最後の冷たい挨拶の描写や、できませんごめんなさいと言われた時の描写もあった。

それを見て、もう二度とはやってこない時間だと知ったら、それらさえも特別な瞬間で特別な命の時間だと感じた。

数ページに渡る記録は、ほんの少しの時間のことではあったけれども、私はそこのページたちにこれまで何回目を通したかわからない。

そして、死ぬまでにまたもっとたくさんの回数をそのページたちとご対面するだろうと思った。

感慨深かったのは、その同じ文章を読むにあたって、今後もその時どきで自分の感じ方や思い出すシーンが違うだろうことと、その違いを感じた時の自分の気持ちを思って、ほっこりするような哀愁漂うような、言葉には尽くせない気持ちがムクムクと湧いた。

その時のことをもう誰とも共有できないし、私1人で思い出すしか術がない。

だけど、やっぱりあの瞬間はあって圧倒的に良かった。

今日英訳をしながら、この風景が記憶に濃く残ることはほぼほぼないだろうと思った。

だけど、当時の一瞬一瞬は、スローモーションで物事を見ているように、1つひとつのことがとてもくっきりとしていて鮮明だった。

そして自分の身の置き場所が変わっても、そこは変わらないと知った。

丸一日英訳に費やして、本気でグッタリとしていた。

もう文字なんか何も見たくなかったぐらいに疲れていた。

なんだけど、そこだけは違った。

読むと光景が浮かび上がる。

その人がその光景の中にいる。

小さな点が幾重にもある。

小さな小さな瞬間の点たちの中に、その人はこれ以上ない存在感で残っている。

限界にいくくらい疲れていても、当時の記録からその人を思い浮かべたり当時の風景を思い出すのはなんてことなかった。

むしろ力が湧く。

やさしい気持ちになったり、切なくなったり、当時の自分の心の中のリアルな感じを思い出したりと忙しい。

書きながら眠くなってきた。

そういうのを思い出して、夜眠りにつくのも粋だなと思う。

聞いてみたい。

同じ風景がその人の目にはどんな風に映っていたのか、聞いてみたい。

読み返さずそのままアップしよう。

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