2016年4月3日日曜日

情報操作と真実と自由

今回のタイトル硬いなぁと思いながらも、とってもはっとさせられたから、思うままに書いてみようと

思う。

昨日の夜、いつものように携帯のドコモのサイトからニュースをななめ読みした。

わたしの世の中のニュースの情報源は、この携帯のニュースサイトだけと言ってもいいぐらいで、

それゆえに毎日ほぼ欠かさずチェックしている。

さすがに、テレビも持ってないわ、ラジオも聞く習慣がないわ、新聞も取ってないわで、ないない

尽しの生活は普段問題ないけれど、世間に出た時に不具合が多少はあるから、最低限の情報と

しての携帯ニュースチェックをしている。

話はタイトルに戻って、「情報操作」の話。

昨日もさらさらっとタイトルだけななめ読みして、そこから気になったニュースだけはさらにページを

追加で開いて読んだ。

その追加で読んだニュースのひとつを読んで、度肝を抜かれた。

本当にたまたまのたまたまとしか言いようがないけれど、わたしはそのニュースの裏側というか

一部というかに過去に携わったことがある。

直接ではなく間接的に。

そしてその間接的に携わったことは、当たり前だけど自分の目で見て聞いている。

現場を知っている。

そのニュースの何に驚いたかと言えば、事実が伏せられているだけではなく、なんと事実がねじ

曲げられ別の作り上げられたストーリーが展開されていたことだった。

ニュースなのに、「物語」に仕上がっていた。

報道した側に問題があったのではなく、そのニュースの大元の出先が発表した内容に事実とは

違うものが含まれていた。

本当に、あのわたしが見ていた聞いていたものは一体何だったのだろう?と思う。

何だったらそこで同じように見聞きしていた人たちが他にもいたわけで、その人たちにしてみても

そのニュースがどんな風に映っているのだろうかと思う。

大元は大元で、真実を告知できない事情があるのだろうと思われる。

でなければ、事実があんなにもねじ曲げられているというのはいかがなものか。

いわゆる「情報操作」がされているモロの現場を、何百字という小さな活字の世界で見てしまった。

ちなみに、これ絶対に問い合わせる人が出てくるだろうから、そのうちとんでもないニュースに発展

するのではないかなぁと個人的には予想している。

ニュースの行方はどちらでも良いけれど、それよりもわたしがもっと注目したのは「情報操作」と

いう非常に現代的でありつつも、そこからわたしが感じた内容の方だった。

これまで活字になったニュースは、何の疑問も抱かずに普通に読んでいた。

あぁ今世の中ではこんなことが起こっているんだ・・・という最低限の認識しかなかった。

それ以上深追いすることもなければ、ニュースは毎日毎日あるわけだから、いちいち細かく読み

砕くなどということはしていない。

週刊誌になると、尾ひれがついているのだろうと思うけれど、単純にニュースとなると事実だけが

そのまま公開されているもの、という認識だった。

ところが昨日読んだニュースは、すでに事実とは違う物語が「ニュース」として記されていた。

それは逆に言うと、日々自分が目にしているもの・耳にしているものが全て真実ではないかも

しれないという可能性を示唆するものでもあった。

自分が見ている世界が、いかにまやかしや道化に溢れているかもわからなければ、自分自身の

認知自体もわたし独特の癖によって本来の姿とは違う風に解釈していることだっていくらでも

あると思われる。

何もそれはニュースに限ったことじゃなく、自分の日々の生活や見ている世界にも言えることだと

思う。

「これが絶対だ!」なんて言えるものはとんと少なく、色んな事が色んなプロセスを経て認識される

間にどんどん事実から遠ざかっている可能性もものすごく高い。

うわさ話と一緒だと思う。

事実は人の数だけ存在すると言ってもいいのかもしれない。

そうなった時に、改めて自分の好きなように物事を解釈してもいいんじゃないかと思った。

だって事実じゃないことが「事実」として報道されてしまうような世の中。

その倫理を問うとわたしは「最低だな」と思う。

だけど逆手にとれば、自分の人生の中の混沌としたことだって好きに解釈してもいいのかなぁ

なんて思った。

それは決して自分に嘘をつくとかそういうことではなく、自分が生きていくのに自分にとって都合の

良い解釈をしてみるのもありなんじゃないかと。

ふとそんな風に思った。

たかが数百字の活字ニュース。

情報操作されていることはさておいても、そこに何とも言えない自由な部分を感じた昨日だった。

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