2020年11月17日火曜日

家族の食卓

初日の夜ごはん
香箱蟹は弟がさばいた!!!
マカロニサラダと生姜焼きは私。

泊まった宿の朝焼け
(能登半島)

朝焼けその2

宿の目の前の浜辺

1人バスの金沢駅前


急遽決まった家族の集い。

コロナ第3波と言われ、GO TOトラベルキャンペーン中と言えども県をまたぐ往来は世論的にAll OKとは言えない今、本当に急な形で家族みんなで集まることになった。


妹夫婦は秋の初めくらいに、今の店舗兼住居を兼ね備えた物件を契約して、年明け2月くらいを目処にパン屋を開業する。


今すでに開業のために忙しくなっていて、そしてしばらくはまとまった休みを作るのは難しい。


そしてコロナで色々どうなるかわからない最中、どういうタイミングで会えるのかもわからない。


色んな事情を加味して、土日から火曜日までの時間を前半は父母と、後半は東京の妹と過ごすことが決まった。


家族全員が揃ったのは、月曜の朝2時間弱だけだった。


だけど、たとえ短い時間でも家族みんなで揃ったのは何より良かった。


仕事もちょうど大きい仕事が全て片付いた後で、2日席を空けても問題ないという絶妙なタイミングだった。


とっさに「今しかない」と思って、周りに何やかんやと思われたり言われたりしても、健康であることや周りに誰も陽性者がいないこと、全員のスケジュールがきちっと足並みが揃うこと、そんな千載一遇のチャンスを逃さなくて本当に良かった。





コロナが蔓延する中、今回が初めての遠出且つ家族の集いだったけれども、今回ばかりは本当に「集まる」ことを選択して本当に良かった。


私の生き方は定まらないにしても、妹2人はそれぞれ道と住む場所もある程度決まってきて、もう3姉妹がお互いに近くに住むことは生涯を通じてないと思う。


そこに年老いていく父と母、どんどん自分の世界が広がる姪っ子…、となればなるほど、色んなことが難しくなる。


「会う」ということが単純に難しくなる。


そこに加えてコロナがあって、ますます難しさが増す。


コロナ以外のことで不安要素や不確定要素がないなんていうのは、これから先いつになるかわからない。


林先生の「今でしょ!」の言葉通り、今が最善だった。


1人1人それぞれの道の上で生きている以上、同じタイミングに同じ場所に集うというのはとても難しい。


例えば妹なら、本当は日曜の閉店後金沢で合流したかったけれど、お店の事情でそれができなかった。


私もこの月曜火曜なら大丈夫でも、1週間前の月曜火曜なら仕事で2年に一度しか開催されない大型のイベント出展の英訳があって、さすがにそれを知っての休みの申請はできなかった。


立場は派遣でも実質何かあれば一番量をこなさないといけないわけで(実際にそうだった)、立場は弱くてもやることは役員級のことをしないといけない以上、のんきにお休みとはならない。


先週なら私は最小限の時間しかみんなでいられなかったと思うし、そうなると月曜の朝、妹夫婦宅でみんなで朝ごはんを囲むこともできなかった。


炊き立ての白いごはんと味噌汁、茹でたウインナー、あとはご飯のお供のもろもろ以外はとてもシンプルなものでも、家族みんなで囲む食卓はこれ以上ないおかずだった。


7人分のご飯の用意なら普段ならブーブー文句を言ったと思うけれど、今回は全く嫌ではなかった。


みんなで囲むこと、それが一番大事なことだった。





お一人様人生、何のプランも計画していない自分の人生の怖さや不安と言ったら、数え上げたらキリがない。


けれど、今回のような急なタイミングでみんなで会えて、ましてやコロナという全国的な規制まで加わった状況下で実現できて、改めて思った。


自分の中の人生最大順位は「人」だということ。


家族に限らず、自分が大切だと思う人たちと時間を共にすることは簡単じゃない。


気持ちを通い合わせることも、時間を都合つけることも、そのために必要なお金や場所を整えることも、本当に大事だと思い知った。


寂しい部分も必ず避けては通れない1人老後でも、今回みたいな時間が自分の人生に時々でいいから現れてくれるなら、私はなんとなく騙し騙しでも人生生きていける気がした。


住む家とかお金とかも、孤独な気持ちを誰の目も気にせずに抱えていられる自分だけの場所と、それができるだけのお金があれば、それで十分だと思っている、真面目に。


今回少しだけおみやげを買ったけれども、おみやげを買えることさえも私は感動していた。


まずは長いニート生活以来のプチ旅で、おみやげに使えるお金があることに感動して、そしてさらにはあげる人たちも思い浮かべて買えることが嬉しかった。


そもそも今回は本当に極秘で出ているから、そもそもおみやげを買う必要がない。


渡す相手は、私がコロナ禍でも家族と会えたことを何よりも喜んでくれる人に限定していて、こちらもありのまま話せる。


本当に限られた条件を難なくOKにしている人限定で、そういう人を持てることがものすごく嬉しい。


自分の人生がこの先どうなるかなんて全くわからないし、どうしたいというのもあるようでない。


あるとするなら、本当にさっき書いたみたいな、孤独を1人で自分のペースで安心安全に抱えられる場所とお金だけで、その他のことはどんどん人生でオマケのようになっている。


人生の影の部分に対して、自分はその耐性とそれを抱えながら生きることができるのなら、他はもう本当になんとでもなるような気がしている。

2020年11月14日土曜日

㊸【おいせさん手帳】根本からの変容〜蠍座の新月




おいせさん手帳第43回目

担当:ノム


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


11月14日 

自分自身に関心を向けて、自分の軸を太く太く。

蠍座の新月を前に

 

明日の午後、蠍座で新月を迎えます。

蠍座は、物事を根本から変容させるエネルギー。集中力が増す時期です。

今、自分が気になっていることがあれば、本腰を入れて取り組んでみる。

あるいは、ずっとモヤモヤしていたことを思い切って断ち切る。

自分の深層意識にアクセスし、本当の気持ちに気がつきましょう。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




今さらな感想だけれど、限られた字数の中でギュッと濃縮したメッセージを書き上げるってすごいなぁと、今回のノムのメッセージを読んで思った。


占星術講座を取る前から私は3人ほどのカウンセラー系の人の無料メルマガを登録していた。


そこには新月満月の度にそれぞれの新月満月に合わせたメッセージや今すると良いこと反対に避けることなんかが書かれていて、その内容が一体どんなカラクリなんだろう?と思っていた。


蠍座の新月と魚座でも牡羊座でもその新月の差がさっぱりわからなかった。


そして今だからわかるけれど、「情報」はたくさん書かれていたけれども、「心に届くメッセージ」ではなかったなと思った。


当時の私は3人の人が何を基に書いているのか全然わからなかったけれども、それぞれカウンセラーなりコーチングのコーチなりだと思っていたから、その人たちは特別に宇宙的な情報をおろせる、自分にダウンロードできる特殊な技術の持ち主なんだろうと勘違いしていた。


占星術講座を取って、ようやく新月満月の仕組みがわかったし、例えば今回ノムが書いた蠍座の新月だとどうしてノムが書いたようなメッセージになるのか、その理屈がわかる。


理論理屈がわかる今だからこそ、限られた字数の中で無数にある蠍座の性質の中から今回のメッセージを選ぶノムの感性と完成度の高さに感嘆のため息が出る。


必要なメッセージを本当にわかりやすく端的に書いている。


講座の時に先生が「野村さんの文章はとても参考になる」と言っていたのがわかる。


先生いわく、ノムはフラットに読んで内容をまんべんなく網羅していて、それをわかりやすく書いているとのことだった。


ちなみに武士俣さんは情報が偏っていて1つのことばかりに目を向けがちだからもっと広くフラットに見る練習をしましょう、と耳にタコができるくらい言われていた( ̄∀ ̄;)。


ノムは先生に「野村さんはこれまでどこかの占星術講座を取ったりしましたか?」と質問されていたくらい、まさか今回がお初の素人で新人だなんてとっても思えないみたいだった。


ノムが持っている書く力と書く時の材料の集め方、集めた材料から必要なものを選定する力、そしてそれを言葉にする力、そういうものが渾然一体となって、今回みたいなメッセージに仕上がる。


この世で唯一無二のメッセージは、こんな風にして届けられる。


おいせさん手帳を持っている誰かが今日のページを開いて、今日の新月パワーを知る。


どんな性質を帯びた新月かなんて専門知識がなくても、誰にでも伝わるわかりやすい言葉でノムが伝えてくれてる。


本当にすごく良いメッセージだなぁと改めて感じた。





ノムのメッセージの中にある「物事を根本から変容させるエネルギー」というのが、蠍座の性質の1つに数えられる。


来月にはさらにその力が強まる天体配置になるけれど、それの序章的な今回の蠍座新月とも言えると思う。


今「蠍座新月」とネットで調べると

・真実に気付く

・心の奥底の想いや願い

・変容と再生

とか、そういうワードが立ち並んでいた。


新月パワーか何かは知らないけれど、昨日仕事で大きなトラブルが発生した。


締切に間に合わないことが確定して、それが社内の締切ではなく客先に対して間に合わないことが確定した。


私もその間に合わない理由の1つを作っている。


結論から言えばそうなるけれど、私は間に合わない理由を作りたくて動いたのとは違った。


そもそもは大容量の取説の英訳依頼が先月来た。


数十ページあって、そんなのを私やもう1人の担当者で担当したら他の仕事が一切できなくなるから、外注翻訳に出すことになった。


本当は元となる和英の資料があってそれを見て作ればいいという担当部門からの話だった。


ところがその資料を見て、速攻使えないことがわかって、なぜならきちんと誰かわかる人が作っていなくて和英で内容が不一致なだけではなく、英訳がボロボロだった。


そして日本語も本当に下書きみたいな感じで、文章も構成もおかしかった。


で、上司と相談して、今回の取説の日本語をきれいに整えて、それを外注翻訳に出せばきれいな英訳が戻ってくるから、それが一番手っ取り早いとなった。


そして上司と私とでそれぞれが同じ取説を読んで気になるところを全部チェックして、担当者に戻して日本語を直してもらって、それから社内でOKが出たらあとは外注翻訳に出す算段にあった。


ところが最初の原稿に不備がたくさんあったことも手伝って、担当者から戻ってくるまでかなり時間を要して、そして戻ってきたものがさらに不備が無数にあってそれの指摘と確認と修正を私が主だって担当して、そこはもちろん最短でしたけれど、そんなこんなで締切に間に合わなくなった。


ちなみに私が最後に担当部門でOKが出た原稿を見た時も、構成がぐちゃぐちゃで言葉も2ページに1つくらいの割合で誤記や見落としがあって、それら全部を気付いた限り拾って確認して直した。


表紙には大御所たち3人の印があったのと、他にも専門分野の担当者たち(役職付)が名を連ねていた。


一言で言うと「見ていない」。


それが私にはわかった。


私や上司が細かいんじゃなくて、本当に誰も何も気付かないほど能力がないのでもなく、きちんと見ていない読んでいないからそうなってるのが一目瞭然だった。


なのに、それは私の部署の責任だと担当部門が言い出した。


私も怒られたというか、注意を受けた。


だけど、私は本当に何が間違いなのかわからなかった。


今回は英語から今度ヨーロッパ言語にさらに翻訳される。


日本語がコケているというのは、すなわち英語もコケて、さらにその後の言語も全てコケる。


それが今きちんとできるかどうかの瀬戸際にあって、それを日本語の時点でみんながなあなあにしている。


私は単に日本語が適当だとその後の英語チェックがものすごい大変になるのがわかっているから、それをしたくなくて単につっこんでいる。


でもきちんと作れば良いものができるから、それの方が会社の利益にもなればお客さんも信頼と安心してその取説を使える。


当たり前のことだと思う。


だけど表面的なことばかり見て(遅れるのは当然アウトにしても、そうすると体育会系会社あるあるで上からお叱りがくるのと色々煩雑な申請があるらしい)中身がスカスカでそれで客先に出す方がどうかしている。


みんな怒られたくないとか、とりあえず間に合えばいいとか、何が大事なの?自分の沽券(こけん)なの?と思う。


原稿の最終チェックをしてもらうために、私の方で全て直したものを印刷して、回覧の準備をした。


普段はそのままだけれど、今回は回覧用の書類の一番上に手書きででかくメモを付けた。


上司と私とで3回ずつ見ていて、それでも抜けてる可能性があるから丁寧に見てください、お願いします、と書いた。


さらにはそのうちの1回は、各担当部門がOKを出した後も不備が色々あったこともやんわりと書いた(多分私のやんわりは世間一般では「はっきり言い過ぎ」と言われる( ̄∀ ̄;))。


そんな話を同級生の同子ちゃんにしたら、「ねぇ、今度からそれする時上司と部長の判ももらった方がいいよ!」と言われて、私は担当者のところに行ってメモ用紙を借りて、そして上司はさておいて部長に初めてそういうことで印をもらいに行った。


部長も苦笑いしながらも押してくれた。


これがどうなるかなんてわからないけれど、私はここ2ヶ月くらい、本当に英訳もしてるけれど、それと並行して日本語の修正をかなりしていて、それを毎回報告に上げている。


もちろん私が修正を扇動してるんじゃなくて、英訳するのにわからないから確認に行くと、担当者がよく読んで「意味がわからない」と言って冗談抜きで2分3分読み解こうとフリーズするから、それで日本語を変えよう!と担当者が言って、書き直してもらったのを今度は私が打ち直して整えている。


担当者と私はわかっても他の人たちは知らないから、それでそれを毎回関係者に連絡している。


会社で嫌われても煙たがられてもなんなら切られてもいいから、とにかく最低限の質のものはきちんと出したいから、それでできることは全てやる。


締切だって毎回無茶ぶりな依頼だけれど、全部間に合わせている。


今回は間に合わないのが私1人のことではないと思うけれども、間に合わなかったのは今回が初めてになる。


しかも英訳じゃなくて日本語が間に合わない…。


ずっとそうした不具合修正が続いている中、昨日の一件は本当に根底からの見直しをせざるを得ない、そのことを突き付けられているように感じる。


ちなみに私の英語の大師匠、社内でもトップクラスのMr.ダンディは、私のそうした様子を見て笑いながら「武士俣さんの思い通りに物事が動いている」とよく言う。


Mr.ダンディこそきっちりとしているから、みんなMr.ダンディの前ではピシッと背筋が伸びているし、私にならギャアギャアと言って私のせいみたいなことを平気で言うようなこともしなくなる。


とにかくそんな風にして今物事は動いている。


根底からの変容よりも、私は自らの身の安全を第一にしたいところ( ̄∀ ̄;)。


(今日はこれから急遽月火と有休も取って、姪っ子と妹たちに会いに行ってくる。家族みんなで会うのは1年振りくらいな気がする。

2020年11月12日木曜日

㊷【おいせさん手帳】自分セラピーの威力




おいせさん手帳第42回目

担当:私


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心身を守る呼吸〜命のバリア〜

皮膚の日(い(1)い(1)ひ(1)ふ(2))


皮膚は体を守ったり、体温や水分を調整して体を調和させるためにあります。生命を維持するために必要不可欠な働きを、皮膚は呼吸しながら担っています。私たちの心にも皮膚のようなバリア機能があります。それは自分の心を守るためやバランスを保つためにバリアを張るのです。皮膚と心が呼吸するイメージをして生きている今の自分に感謝を伝えましょう。


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この文章を書いた時の感覚はよく覚えている。


基本的に、何かしら「◯◯の日」にヒットしていたのなら、書く内容は自由だった。


どんな風にアレンジしても創作しても問題なくて、これも「皮膚の日」ではあっても私は皮膚の役割と心のバリアを掛け合わせて書いた。


おいせさん手帳全体に通じて言えることだけれど、私はメッセージを自由に書けるのなら、自分のために何かできることや自分の内側に向かうものを中心に発信したいと思った。


それはノムも同じで、外側の何かによって自分を満たすのではなく、自分1人で何の道具とかもなく簡単にできることに目を向けた。


今思えば不思議な流れだなと思う。


30代前半から半ばの3年から4年ほど、たくさんの心理系のワークショップを受けたり本をあれこれ読み漁った。


コーチングのスクールにも通ったし、NLPと呼ばれる心理療法的なものも約1年通い詰めた。(そしてNLPは協会登録料3万円という最後のオマケまで付いていて、なけなしのお金を払ってライセンス証やロゴマークをもらったけれど、一度も使ったことがないという…)


色々やってみて、それが多いか少ないかは知らないけれど、習い事のために普通に100万円以上は払っただろうし、書籍も何十万円単位で注ぎ込んだと思う。


だけど、私が最後に行き着いたのは、

「いつでもどこでも簡単に1人でできる心のケア」

だった。


まずはニートになった時にあちゃーと思ったのは、「お金が無い→心理ケア用の諸々はカット(受けられない)」だった。


自分の生活の維持が最優先だから、カツカツの生活費ではプラスアルファなんて絶対に出せなかった。


その時に初めて「自分でとにかくケアすること」の必要性と必然性を嫌というほどに感じて、誰かや何かに頼るのではなく、自分の力で何とかする習慣作りが大事だと悟った。


今振り返るとそれはとても大切で、もし私が当時お金をある程度自由にできるくらい持っていたのなら、そしてそういう状況がずっと続いたとするなら、私は未だに心のケアは誰か専門家を訪ねたと思うし、そして何より自分の中の自分治癒力みたいなのは育たなかったと言い切ってもいい。


そして、そんな風に自分でするようになってから気付いたことは、「とにかく超簡単で手軽にできること」の大切さだった。


大体心のケアをする時は、自分が滅入っている時がほぼ100%と言ってもいい。


そういう時は心の中がいっぱいいっぱいで、基本余力がない。


その余力がない時に、手順の書かれた資料や本を出して、それを見ながら順にやるなんて絶対に無理だとわかった。


なんなら、手順を録音してやったらどうかと思って、携帯に自分で手順を読んだものを録音して、それを聞きながらやったこともあった。


でもそれは使い勝手がものすごく悪いとわかった。


目を閉じながら瞑想するみたいなものだったけれど、私の声の手順のタイミングとその時々の私のタイミングとが実に合わなかった。


「もう少し今のところに浸っていたいな」なんて思っていると次の手順が携帯から聞こえたり、反対にもう次にいきたいのに!ってなっていてもシーンとなってしばらく無音だったりして、どちらの場合もタイミングが合わなくてものすごくやりづらかった。


だからそれはほぼ使わずに終わった。


とにかくそんな風にして、自分であれこれ試したからこそ、超簡単で手軽にできるもの以外は自分には使えないとわかった。


今思えば当たり前のことだけれど、私なんかは最初は第三者からの誘導であれこれ心理セラピー的なものを受けていたから、そしてそれらが実によく効果が出ていたから、「きちんとした手順を踏んだもの=効果がある」と思い込んで、自分で自分にする時もそういうのが大事なんだと勝手に思い込んでしまっていた。


振り返ると、心のケアや自分のケアに関しては、「細く長く続けること」が何よりも大事だと思っている。


思考のクセやネガティブループに突入するパターンなんかは、長年染み付いているからそう簡単には変わらない。


色々心理セラピー的なのをあれこれ受けて、たしかに効果のあるものは色々あったけれど、その効果の後全てが変わるなんていうことはまず絶対と言っていいほど「無い」。


一時的に楽になったり、場合によっては長年のトラウマ級のことが綺麗に解消することもあるけれど、解消されてもそれはたくさんあることの中の1つに過ぎなくて、すぐに次の何か不具合を自分というのは見つけてしまう。


そんなの永遠に終わりがないし、例えばトラウマ級のことの80%を解消できたとしても、自分で解消されていない20%を見ていて「まだまだダメだ」と思い込んだり、実際はすごく癒されてるにも関わらず自分にその自覚がなかったり(自覚を持つことも、持論だけれど、ある程度訓練する必要があって、鍛えれば鍛えるほど自覚できるものだと私は思っている)、はたまた「癒さなくても大丈夫」という「癒す必要」とは反対の価値観を持てないことにはずっとずっと自分の中をグルグルしてしまう。


それよりも、毎日の中で1分でいい、自分のために意識的に何かすることを365日続けることの方がうんと大事だったりする。


「続ける」の中には「今日は何もしたくないから何もしないこと」も含まれる。


何かしたらいいと思いがちだけれど、何かしないことに対して罪悪感を持たず・自分を責めたりせず、本当に何もしないことを選べるというのも、とても大事なこと。


私なんかはそれが何年も難しかったから、本当にできるようになったのはこの1年とか2年くらいだと思う。


しかもまだまだ下手くそとか不慣れだなと自分で思っている。


とにかく、そういう一見サボる風なことも大切で、そうしたことを何が昨日と今日で違うのかわからないようなことをひたすら自分のためだけに毎日積み重ねるというのが、時間はかかるけれど一番効果がある。


それを365日続ける、もちろん渦中はそんな風に思ってなかったけれども、とにかく私はそれをずっとしてきて効果を実感したのと、そしてそのおかげで今の自分がある。


専門的なセラピーももちろん大切だけれど、最後はやっぱり自分の力が一番モノを言う。


自分で自分のことを引き受けるようになってから、私の場合は本当に良くなった。


誰かや何かに頼っている間は、「自分で自分に何かをしてあげる」ことは思いつかなかった。


だけど気付けば「自分なら予約なしでなんならお金もかからず、常にいつでもいる」わけで、その自分を使うことの方が手っ取り早いとわかった。


そして難しいのは無理だから、簡単に気軽にできること、例えばここに書いたような自分にありがとうを言うとか、皮膚ならいつもより丁寧にクリームを体に塗り込むとか、そういうことで十分。


むしろ、それくらい簡単なことでないと続かない。


単純に、1日1分自分のために何かしたとして、それを365日やれば約6時間分の癒しタイムになる。


反対に自分のために何もしなければゼロ、又は自分攻撃をしたら攻撃時間が約6時間になる(実際はもっともっと多いけれど)。


とにかく小さくてもいいから、本当に日々続けて自分ケアをすることがとても大切だとようやく最近になってわかるようになってきた。


色々前置きが長かったけれど、「外側の何かによって自分を満たすのではなく、自分1人で何の道具とかもなく簡単にできること」にずっとずっと目を向け続けてきた私にとって、それをまさか公の場で頼まれて発信できる流れになるなんて、何年か前の私には想像もできなかった。


自分の中でコツコツとやって効果をようやく実感できるところまで来て、そのタイミングを待っていたかのように1年前のおいせさん手帳の話が舞い込んできた。


書ける嬉しさももちろんあったけれど、自分のこれまでの努力や積み重ねが天から認められたみたいで、それもそれでとっても嬉しかった。


自分にとっての自信に繋がった。





実際に自分のためにしたことで、特にハードル高かったけれどかなり良かったものたちを紹介。


・自分の「何もしたくない」をとことんOKにすること

(「今日は何もしない日」と決めてとことん休んだり、したくないことを全回避する)


・「暴飲暴食」OKにすること


・「寝たい」欲求に逆らわず、本当に寝てしまうこと


・休みの日何もできずに終わっても「今日休むことを最優先できたことが素晴らしい」と自分に言うこと


今までもだけれど、残りの人生も嫌でも自分と付き合っていかなきゃいけないから、いかに自分と、特にダメだと思っている自分と上手く付き合っていくかがとても大切だと思う。


だから上に書いたような自分をとことんOKにすることが、自分で自分を満たす行為に繋がったんだと思っている。




朝のでっかい太陽
2020/11/12

朝の幻想的な風景
2020/11/12

霧が出まくっていて、
そこから少し離れたところに出たら
とても綺麗で幻想的な風景だった。
車を止めて写真撮影したのはいいけれど
遅刻ギリギリだった件

2020年11月11日水曜日

㊶【おいせさん手帳】新しい始まりに繋がる扉




おいせさん手帳第41回目

担当:私


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11月11日


今年の空模様より、テーマ『破壊と再生』

1が4つ、再生スタートの日


今年一年を通じて、想定外の出来事に見舞われた人、しんどいことが重なってしまった人、心がしんどいと感じた人も多いかもしれません。なぜなら、空の上では、破壊と再生のエネルギーが強まったためです。それは新しい始まりに繋がる扉として、必要なプロセスとして起こっています。しんどいことの先には、よりあなたに相応しいステージが用意されています。


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このメッセージだけは、本当に届く人に届いて欲しい、そう思う。


そして、実際にはどう掲載されたのかを見てみたら、超ガッカリした。


最後は

「あなたに必要なプロセスとして起こっていると心得よう。」

となっていた。


「しんどいことの先には、よりあなたに相応しいステージが用意されています。」

から感じとるものと、実際に活字となった文字たちから感じとるものは全然違う。


「しんどいことの先には、よりあなたに相応しいステージが用意されています。」に私が込めた想いがある。


本当に今年の星回りがキツいのは最初からわかっていた。


個人にどんな風に出るかは個人差があるにしても、全体的にキツい、それも人生のターニングポイント級に大きな変化の渦中にいる人も多いだろうことを予想して、それで書いた言葉だった。


しんどいだけだと頑張れないし心が折れるけれど、しんどいことの先に光が少しでも見えたら、見えなくても小さな希望の灯火を見つけられたら少しは楽になれるかもしれない、今の辛いことがずっと続くわけではないと思えるかもしれない、そういうことを想像して書いた言葉だった。


そしてもっと言うと、書いた言葉の中身は、私が自分の人生のしんどいポイントをいくつか通過して得た法則みたいなもので、その時はどんなに苦しくて辛くても必ずそれが明けてくれること、そして明けた時はその時の自分にピッタリな状況が用意されていることもわかってきたから、それを踏まえてのメッセージだった。


それがまさかの違う言葉となって手帳には載っていたとは…。


残念だけど仕方ない。


届かないことが今は正解だったのかもしれない。


でも、たとえそれが1人でもこのページに行き着いて、何か自分の中に響くものや得るものがあればとっても嬉しいし、私の言葉や情報が届いたのならそれもとっても嬉しい。


欲を言えば、よりたくさんの人に触れてもらいたかった言葉ではあるけれど、まぁ仕方ない。





そうしたことはさておき、私は1が4つ並ぶ今日という日に、調べたらどんな風にも行事的なことを書けそうではあったけれど、私はあえてそうせずに実際に書いたように書いた。


例えば、「恋人の日」なんてのもたしか今日だったと思うけれど、個人的にしんどい時期にいそうな人が多そうな今の星回りを知っていて、それを発信しないことの方が罪のようにも感じた。


受け取り方は人それぞれでも、せめて情報だけは真っ直ぐに発信したい、そんな風に1年前の私は考えて、それで実際にこの文章になった。


『破壊と再生』と聞いて、怖いと感じる人もいるかもしれないけれど、私の価値観で言えば、何が起こっているのかわからずにいることの方が怖い。


窮地に追い込まれても、それを自分の努力不足とか不運だとかいう風に捉えがちになるだろうし、本当はそんなの関係ないはずなのにそのように思い込んで自分の気持ちが落ちることの方がたちが悪い。


だから、少しでも今年という時間が「破壊と再生のエネルギーがもたらされやすい」と知っている方が楽になれることもある。


ちなみに私は知って楽になれるタイプ。


これはどう受け取るか個人の感覚の方が強いけれど、「破壊と再生」の破壊側は、決して物事や事態を悪化するために起こっているのとは違う。


そのまま進むのは危険だったり無理があったりするものに対して、とことん破壊のエネルギーが働く。


建物が建っていたところに破壊のエネルギーが働いた場合、草1本残さないほどの強力なパワーで徹底的に壊す。


それは比喩だけれど、それくらい強いエネルギーが今年もこれからしばらく3年ほども働くと星からは読み解ける(山羊座の冥王星)。


(ちなみに2017年くらいからその流れが加速していると占星術ではよく言われているけれど(調べるのが面倒だから調べないけれど多分そのくらいなのは間違いない)、そのピークは今年の年末あたりで、その後3年くらいはまだまだ破壊のエネルギーが強めかもしれないけれども、今年ほどではないと思う。)


当然渦中はしんどかったり苦しいとか辛いとかいう感情がじゃんじゃか湧くけれど、それでも破壊で終わりじゃない。


「無」になったところに今度はこれまでとは違うものが再生される。


再生されるものは、再生されてみるとわかるけれど、自分にとってより良いものだと断言してもいい。


個人的にわかりやすいのが、国や行政、企業の情報。


これまでは都合の悪いことは煙に巻いたり「無い」ことにして公表していたりしたものが、ここ近年は全て公に出ている。


スポーツ界のパワハラなんかもそうだし、国のずさんな資料管理も色んな問題が起きる度に指摘されている。


もちろんいきなり全てが解決するわけではないけれど、まずは「これまで通りとはいきません」と宣告を受けるかのごとく物事が明るみに出て、その後は放置というわけにはいかないからテコ入れがなされる。


まさに破壊と再生だと思う。


ちょうどわかりやすいニュースが、福岡のとあるマンションの傾き等欠陥住宅で、それがとうとう施工主側大企業たちが欠陥を認めて、住民投票的なもので賛成多数でこの度建て替えが決まった。


渦中はさぞかし強烈だったと思うし今も色々あるとは思うけれども、最終的に建て替えになってより安全性の高い住まいに変わるのは、まさに破壊と再生のテーマに沿った内容だなと感じる。


それは個人レベルでも起きてくる。


もしかしたら渦中はあまりにも遅々として進まず、破壊にも再生にも気付かないかもしれないけれど(ちなみに破壊の最中の私は「人生がものすごーくおかしなことになっている」とは思ったけれども、それがこれまでの人生そのものを破壊するくらいに色んなことが起こっているとは全く思わなかった)、数年単位で比べると「あれ?」とか「おや?」と思うかもしれない。


先に言ったようなニュース的なものを見るとわかるように、色々そのままにしておけないものたちは明るみに出た後今度は再生される方に転換している。


第三者委員会が入ったり徹底的な調査が行われてその後は改善される流れに入ったりする。


だから破壊されて終わりじゃなくて、必ずその後セットで再生もやってくる。


どういう形かは人それぞれでも、私個人の体験からすると悪くはならない。


むしろ生きやすい流れがくるし、そして違う場合は「その流れは違います」とわかるように何かしら事態は反応を見せる。


そのまま進んではダメなものに関して、わかりやすいくらいに進めさせてもらえないとか、途中でダメになったりする。


反対に、本質的に正しいこと・適切なことは、個人の力とは思えないくらいに色んな力が働いて物事がスムーズだったりもする。


白黒はっきりというか、色々わかりやすい形で物事が動くのが今年の特徴だなと個人的に思う。


とにかく伝えたいメッセージは、

「今年一年を通じて、想定外の出来事に見舞われた人、しんどいことが重なってしまった人、心がしんどいと感じた人も多いかもしれません。なぜなら、空の上では、破壊と再生のエネルギーが強まったためです。それは新しい始まりに繋がる扉として、必要なプロセスとして起こっています。しんどいことの先には、よりあなたに相応しいステージが用意されています。」

ということ。

2020年11月10日火曜日

本と回想と今




今日(11/7)届いた本。

マニアックな占星術本を探し始めて1ヶ月くらいになると思う。


『スピカ占星学』なる本は、当初買うリストに入ってないどころか、その存在すら知らなかった。


マニアックな本たちを探す中でたまたま見つけたフレーズ

「お客さんがその問題に対して成熟するのを待つんや」

というものを吐いた人が「カリカリ博士」という、どんだけでもふざけた名前で、でもその言葉や言葉が意味する世界に魅せられた私は、カリカリ博士なる今は亡き人物が気になった。

(出典:スピカ占星学)


探してようやく行き着いた古本で、中身も知らないし何なら本人が書いたのではなく関係者が追悼の意を添えて出版した本と知って、余計に不安しかない本ではあったけれど、逆に占星術ではなくもっと物事の真髄に触れる話を関係者たちが回顧して文章を寄稿したかもしれない…、と思い始めた。


カリカリ博士なる人が同志たちに言った言葉を知れるかもしれない。


最悪本当に違うなら、手にしてから手放してもいいと思った。


そして、今回だけはペンジュラムがものすごい勢いでYESを強く伝えてきて、何がそんなにすごい本なのかわからないまま東京の中野にあるマニアックな中古品を取り扱う店から買った。


ホームページを開いて見ると、フィギュア盛りだくさんみたいな店で、そんな店で眠っている占星術の本って真面目にどんな性格のものなんだろう?と思った。


しかも、メール便なら150円の送料のところ、660円だと注文後連絡が来た。


間違いかと思って、メール便対応が可能なら変更して欲しいと返信したら、規格外の大きさだから660円宅急便扱いとのことだった。


ますますどんな本が来るのか訝しげに思ったけれど、とにかく手に入れて見てみないことには気が済まないとわかって、注文をした。


届いて想像を絶する内容のものが届いたけれど、少しだけ読むとペンジュラムが激推しした理由がわかった。


ちなみに想像を絶するというのは、表紙をめくって数ページはまずカリカリ博士の写真が写真集ばりに何ページにも渡って続く。


イケメンでもなければ、絶対に好きにはならないタイプの顔で、それだけでも十分インパクトがあった、もちろんよろしくない方の意味で。


さらには、本人死後の本だけあって、本人が書いた文章はないんじゃないかと思った。


ますます失敗した気がした。


だから、適当にめくって、本人とのおしゃべり記録みたいなページから読み出した。


カリカリ博士とスピカ占星学の名前の由来が説明されてた。


ちなみにカリカリ博士は「1926年くらいかな、ドイツの無声映画でカリガリ博士というのがあってね、その語呂がおもしろいでしょ。で、字画を計算したらカリカリになってん」で、スピカは「恒星の名前でね、金と女と名声に恵まれるという意味があって、それでつけてんけどねー、んー、全然効果ないわ。どんどん反対の方へ行ってるとゆうか…。」とのこと。

(出典:スピカ占星学)


どちらもずっこけそうな話だった。


そんな感じなのに、私は珍しく本を読み進めた。


占星術の本は一気に読み進めることはなくて、少しずつ気が向いた時に読んでるけれど、カリカリ博士の本は会話形式のところはとりあえず一気に数ページ読んだ。


読んであるところを見て止まった。


その言葉に触れるためにペンジュラムが買え買えと薦めたのかもと思ったくらいに、そこでピタッと止まった。





「心というのは、人と人の間の空間にあるもの」

(出典:スピカ占星学)


これはカリカリ博士の言葉でもなく、関係者の言葉でもなく、今回寄稿した人の1人が何かの本で見たとあった。


言葉を読んだだけで、私は絵面まで想像した。


今回ももれなく登場したのは、過去に勤めた職場のイケメン上司だった。


私の脳内の絵面は、新潟にいる私と何百キロと離れているその人との巨大空間の間に丸いボールみたいに心がドンと横たわっているような感じだった。


そしてその後、今と3年前とを比べて気付いた。


その人が本当に別格であること。


心の種類にも色々あって、でもその人がいた時に感じていた心と今日々の中で横たわっている人間関係の中にある心とは全く別物だと気付いた。


されていることは同じでも、感じ方が全然違う。





今の日々の人間関係に困ったものが1つある。


先に言うと、「気持ち悪い」。


スーパー幼稚すぎて意味不明な男が1人いる。


ある時から私は奴に無視されている。


理由はわからない。


考えられるのは、いちいち私が細かく何かを指摘してくることが嫌なのか、派遣なのに態度がでかいのか、そんな辺りではないかと思う。


ちなみに細かい指摘は、もし指摘せずに流したら逆に会社の看板を汚すようなもので、指摘しない方が1000%問題になる。


だから私は自分が悪いことをしてるとは全く思わないし、彼以外の人たち大御所も含めて少なくとも私の指摘に耳を傾けてくれるし、指摘した不具合は百発百中に近いくらい、大御所だろうがぺーぺーだろうがその時の担当者の最終判断で修正されるのが常々の展開になっている。


奴からの無視は別に構わないけれど、なんと奴は仕事の連絡をしないという、本当に社会人としてどうなのかと思う無視をしている。


それは上司にお願いをして、上司が根回しをして今のビッグプロジェクトに関しては私も含めて関係者の名前を具体的に出して、全員に連絡するように通達してくれたこと、そしてちょうど物事が大きく動き始めた日、奴は休みを取っていて、本来なら奴が担当する調整連絡係を仕事がきちんとできる別の人が代理でその日は担当したら、そのままできる人(硬派さん)が継続して担当する流れになった。


硬派さんが関わってくれることになって、とりあえず私は仕事がスムーズにできるようになった。


仕事はやりやすくなったし、困ったことは全て硬派さんに直接伝えて直しなり調整なりをお願いすれば良くなって、本当に助かった。


仕事はいいけれど、日常的な無視はずっと続いていて、それが空気としてとっても気持ち悪い。


ここ最近は、奴は変わらないのはわかったし、だけど超絶気持ち悪い状況は同じだから、いかに自分の中の気持ち悪さを減らせるか、その調べ物をして実践している。


リアル心理実践をして、何が役立つかをひたすら模索している(苦笑)。


人間性の低さに加えて人としてバカすぎるとわかっていても、気持ち悪いのはそう簡単に消えてくれないから、私はあとどのくらい今の職場にいるのかわからないけれど、残りの時間平穏に過ごせるように、そのための努力を自分の心がある程度安息するまでやろうと思っている。


関係ないけれど、これはお金が解決してくれないことの1つだなぁなんて思った。


これ1億積んでも気持ち悪さが軽減することはなくて、今のところにいる以上は自分の力でなんとか自分の心の状態を改善するしかない。





そんなことを思ったら、3年前のイケメン上司の時は「気持ち悪い」なんてただの一度も思わなかったことに気付いた。


私がごはんに誘ったら、イケメン上司はそこからわかりやすいぐらいに私のことを無視した。


普段接点がないから最初は気付かなかったけれど、ある時仕事の伝言をしないといけなくなって仕事の伝言を本人の席の前に立って直接したら、完全に無視されてることに気付いた。


短い伝言だったけれど、完全なる無視を決めこもうとしているその姿や場の空気を見て、私の心はボキボキに折れて本気で目の前で泣き出すかと思ったほどだった。


ありとあらゆる理性をかき集めて、最後の「お願いします」まで声を変えずに言い切ったところまで今でもよく覚えているし、その後自分の席に戻って心の中に重たいものが広がるのを感じながら、今すぐ立つとおかしいかも…と思って泣くのをグッと堪えながら、いつどのタイミングかそれは忘れたけれど、私はトイレとかに隠れてその後泣いた。


仕事中に泣いたのは社会人になってから3回目。


最初の2回は自分の心が不安定なところに強烈なパンチに見舞われたから涙が出て、でもそれは相手云々のことではなかった。(その時もその場は普通にやり過ごして、そっとトイレに逃げた)


その人の時だけだった。


されたことと言うよりも、その人からそのようにされてしまったことが本当に堪えた(こたえた)。


そしてその後に実際に面と向かってやりとりできたのはその人の最終日で、それまで3週間近くあったけれど、その間気持ち悪いなんてただの一度も感じなかった。


ただただ悲しく、ただただ寂しく、止まらない時間の前で何も為す術もなく、ひたすら迫る最後の日に向けて私の心の中はありとあらゆる悲しみや寂しさやその他の暗くて重たいものだけで覆われていた。


その人が私を気持ち悪がってるかもとは思ったけれど、私側はそんなことは一切なかった。


無視の種類も違うし、私の感じ方も全然違うけれど、今回のカリカリ博士の本で気付いた。


見えないところに横たわっているものは、見えなくても人によって感じ方が全然違うこと。


そして、今現在のものは超絶気持ち悪いけれど、イケメン上司の時はそんなことは一切なくて、私は何とかそれさえも守ろうと必死だったこと。






「心というのは、人と人の間の空間にあるもの」


これも私の超勝手な解釈だけど、この言葉に励まされた。


人と人との間の空間は、何も目に見える物理的な空間だけじゃない。


目に見えないところにも空間は存在している。


遠方にいる友達やその友達から連絡が来たりする場面を思い出すと、その感覚がよりリアルにわかる。


お互いに見えないし会えない。


それでもふと脳裏に浮かんで連絡を取り合う。


そこには確実に、2人を繋ぐ心がある。


心が交わるからこそやりとりできるってわかる。


イケメン上司が何を思ったり何を考えたりしているのかはわからない。


わからないけれど、確実に何か感じるからこそ私のブログを見るんだと思う。


それは私の心のギュッと硬くなったところを癒してくれる。


現実的には何も繋がってないし、連絡が来ることもないし、生活圏は何百キロと離れてるからバッタリ会うこともない。


でも見えなくても相手の何も知らなくても、このブログが待ち合わせ場所のような機能を発揮して、とりあえずちょびっとだけ繋がっている風になれてる。


その人側はさておき、私側から見て、その人と私の間にあるところに心がある。


その心に自分が救われている。


変な言い方だけど、ブログを見てくれてることがその人の命の確認に繋がっている。


時々、今日も生きてるんだなぁと思う。


そして、その人が生きてて良かった、と思う。


心があるっていうのは、そんな風にして相手の存在を命の時間を感じるための状態のことを指すのも1つだろうと思う。


3年ぐらいかかって、私はこの状態を受け入れるようになった。


第一希望は、その人の見えるすぐ隣りでその人が年をとっていく姿を見ることだった。


不思議な感覚だけれど、隣りで生きるとか一緒に生きるとかいう言葉より、隣りでその人が年をとる重ねる姿を見たい、最初にそう思った時に言葉はしっくりきても何とも不思議な感覚すぎて変なのとも思った。


だけど、半年ぐらいして、人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けた時に、①いつかの過去世で私は10歳ぐらいまでしか生きられなかった男の子だったこと、②その時にペンジュラムを自分の友達のようにいつも近くに置いていて大切に持っていたこと、③その男の子の意志を今生強く引き継いでいること、④その時身近にいたのがイケメン上司だったこと、を伝えられた。


ちなみにホロスコープ鑑定は本来そんなことを聞きに行くものじゃないし、鑑定士さんも基本的には成人してから何かが視えることはなくて、でも必要性があるとそういう情報がやってくる、そう伝えられた。


必要性というのは、その内容に関わる人物たちの魂から伝えられる、鑑定士さんの意思や判断ではなく、相手側の意志や判断から伝えられるものだと言われた。


さらには、私の場合、私よりもイケメン上司側からの意志で今回はこの情報がもたらされてることも言われた。


さっきわざと番号を①〜④と振ったのは、実際にその順番で伝えられたから。


そして、①②③は、鑑定を受ける前にもらった情報だった。


その男の子の自分のことは何も思い出せないけれど、それを読んだ瞬間に声が震えるほどに私は泣いたし、そして目の前のペンジュラムを見て私はそれが本当だとわかった。


何一つすぐにできるものがない私にとって、ペンジュラムだけが唯一練習も努力もなくいきなり使えて、さらにはものすごくマニアックな高度な使い方を自分でどんどん開発していったから、その話を聞いて合点がいった。


時々自分でも何でこんなことができるんだろう?と思っていたから、その話を聞いたことで繋がった。


④は、鑑定士さんに会いに行って実際の鑑定の時に伝えられたことだった。


しかも、ただ伝えられたのではなく、イケメン上司の話の時だけ鑑定士さんはしばらく何かと交信してる風で意識はここにあらずみたいな感じだった。


鑑定士さんがしばらく違うところに意識を飛ばしてるだろうところを私はただボーッと見ていて、そして鑑定士さんが今ここに戻ってきた時にイケメン上司がどんな風に過去世で関わっていたのかを鑑定士さんが視たり感じたりしたまま教えてくれた。


そして、イケメン上司について、隣りで年をとるのを見たいとかいうあの不思議な感覚も、その話を聞いてようやく腑に落ちた。


年をとるのを見るというのは、深く紐解くと、「長生きしたい」ことがわかる。


それも単に「長生きしたい」だけじゃなく、長生きして少しでも長く自分が大切に思う人との時間が欲しい、その人の生きる様子を見ていたい、長く生きて色んなことを共有したい、そういう気持ちが含まれての今生だったのかな…と思った。


相手もだけれど、自分も長生きしていないとそれは叶わない。


互いに元気に生き長らえてこそ初めて実現するもので、まぁもちろん現世としてはそれだけじゃなく互いの意志も必要だけれど(苦笑)、そこを言い出したらどうにもならないから止めるけれど、とにかくそんな風に思った人だった。


色々こじつけのようではあるけれど、イケメン上司の最終日の最後というのは、私が帰る前に棒読みのような挨拶を交わした瞬間ではなく、本当に私が立ち去る瞬間に見たのが最後だった。


その最後の時というのが本当に変で、イケメン上司は私の姿が絶対に自分の目に触れない位置に、ものすごく変な立ち位置で立っていた。


しかも、もうパソコンも郵送できるように箱にしまってないし、本人ももう時期去るからそんなに大がかりな仕事もそうそう残っていないだろうに、どういうわけかものすごく変な位置に立って、現場側の上の人と話していた。


現場側の人は自席にいて、そこというのが隣りも後ろも広々としてるのに、イケメン上司はどういうわけか超狭いその現場の人の目の前にキスができそうなくらい近くに立って、ちなみにその位置だけが唯一私を見なくて済む位置だから、当時の私はそれも見てさらにそんなにも嫌がられていたのかと思って、より一層心がボキボキボキボキ折れたけれども、その半年後くらいにホロスコープ鑑定を受けて上のような話を聞いた時に「もしかして…」と思った。


過去世の話を整理して想像すると、当時は私の方が先に死んでいて、さらにはその死にゆく私を見届ける家族的な立ち位置にイケメン上司はいて、もしその記憶が本人さえもわからない深いところに刻まれたままだとするなら、最後の瞬間の行動もわからなくもない。


もちろん、私側の超都合の良い解釈だというのも重々承知の上で言うと、もし本当にそういう事情が裏側にあったとするなら、あの最後の時にとった行動は本人にとって自己防衛的なものだったのかもしれない。


変なたとえだけれど、心が痛いのと魂が痛いのとは、全然違うと思う。


例えば今の職場の気持ち悪い状況は、あれは心が痛いというか、意識レベルで気持ち悪いと感じるものでも、基本時間が経つと忘れる。


そしてはっきり言ってどうでもいい。


でも、イケメン上司の時は全て違っていた。


自分でもどこから来るのかわからないくらいに色んな感情が渦巻いていて、寝ても覚めてもずっとある感覚だったし、基本「忘れる」という選択肢がないまま今に至っている。


そのくらい強くあるものに対して負荷がかかると、それは逃げ出したくもなるだろうし、背も向けたくなって当然な気がする。


さすがに本当に気持ち悪いとか生理的に受け付けられないとかであれば、ブログを見るなんて自分の首を絞めるだけで良いことなんか何もない。


イケメン上司から見た私がどんな風なのかはわからないけれど、本人からしても掴みどころのないものを湧き上がらせるスイッチみたいなのかもしれない。





週末に読んだ、とある人のブログがとても感動的だった。


その女性春さんは、職場で息子ほど年の離れた男性がいわゆるナンバー1のソウルメイトと思われ、でもこの度長年勤めた職場を退職すると決められた。(ナンバー1というのは、繋がりの強さ的に1番という意味)


全ては読んでいないけれど、職場内の彼とのやりとりをいくつか読んで、その情景が私がイケメン上司と体験した瞬間と2つほど似ていた。


起こったことは違うけれども、場の空気や相手の反応が似ていて、それを見つけてからというもの、ここ数週間何回かに分けて読んだ。


見たところ、春さんという女性は、社内でもとても仕事ができて、かなり上の立場にある方だと思われる。


春さんが辞めるに当たって、社長やら会長やらが登場してしまうあたり、普通の平社員という感じはしない。


文章を読んでいてもとても聡明な方だとわかる。


そんな彼女が魂の繋がりが一番強いと思われる男性に職場で出会って、そしてそのストーリーがあれこれと描かれている。


直近の記事に、とうとう彼も含めて社員全員が彼女の退職を知ることとなった旨が書かれていた。


他の人たちは反応が何かしらあったけれど、彼の方はずっと沈黙を守ったままだった。


春さんはもうこのまま何もなく退職して、全ての縁が切れて彼との間には何も残らないだろうとずっと思っていた。


ところがある日、夜遅くに会社を出ると、たまたま彼と出口の辺りでかち合ったらしい。


普通に挨拶してすれ違ったかと思ったら、5メートル近く離れてから彼の方が春さんの方を向いて、本当に辞めてしまうのかを聞いたらしい。


ちなみにそんな風にどストレートに聞いたのは、社内で彼だけだったとのこと。


本当にそうだと答えてそれで終わるかと思いきや、彼の方が退職して落ち着いたら飲みに行こうと春さんを誘った。


まさかの展開で春さんは驚いていた。


春さんはそのことを「奇跡」と呼んだ。


淡々と今書いているけれども、それを読んだ時、どこの誰かも知らない春さんに対して嬉し涙が出た。


春さんの数年に渡る葛藤は、まさに私の葛藤そのものだった。


状況も違うし、春さんたちは飲みに行ってもいいくらいのやりとりを数年間に渡って積み重ねていて、私とはまるっと状況が違うけれど、それでも読みながら自分もどこか救われるような気持ちになった。


色んなことが普通じゃないし、ひたすら己の修行みたいなこと満載すぎるけれども、それでも小さくても希望を持つこと、希望を持つことを自分に許すこと、そして希望を持って今日という1日を毎日積み重ねていくこと、そうしたことに対する力をもらえたように感じる。


さすがの私もそんなに図々しくイケメン上司の毎日に土足で踏み込むようなことはしたいと思っていない。


せめて生きている間に、何かしら本人から連絡が来たら本当の本当に御の字だと大真面目に思っている。


自分が特別でありたいと「思わない」と言ったらそれは嘘になるけれど、でもかと言ってそんなものは強制するものでも無理強いするものでもないから、そんなことを気にして連絡が取れないのなら申し訳ないと思う。


自分自身も自分の人生も色々普通じゃないのはわかっているから、そういう私をあなたのパートナーにしてください、なんて絶対に言えない。


そんな高望みなことはしないし、その人の人生をそっとしておくぐらいの心遣いはもちろんしたいと思う。


ただ1回でいい、生きている間に普通にやりとりできたらいいなぁと思う。


本当に普通のやりとりを近くにいた時に1回でもできたら良かったなと思うし、それができていたのなら今は全然違う状況にあったと思う。


色々間違えたなとも相変わらず思う。


自分がばあさんになってからでもいいから、その時が来てくれるのなら気長に楽しみに待っていたいなと思う。


友達とか名前のつく関係は目指さなくていいし、1回連絡を取れたからと言ってしつこく付き纏うとかもしない。


嫌われることをしたいのとは違うから、本当に普通におしゃべりして終わりで十分だと思っている。


魂の繋がりだからと言って、今世も特別に何かしらの関係を持つ必要はないと私は思っている。


私は本当にただの一度も自分がその人にふさわしいなんて思ったことがない。


そして「ふさわしい」という枠で言うなら、いくらでももっともっとふさわしい人が必ずいる。


それは残念だけど、多分私じゃない。


だから、もう何かを期待するとか変に警戒される風な感じで近づく気は全くない。


そもそも1回でも会いたいと言うこと自体が重たいのかもしれないけれど、希望を言うくらい許されたっていいと思う←開き直り。





ふと、書いている時に、私がもしイケメン上司の後輩くんの立場としていられたら、もっとお互いに良かったのかな…なんて思った。


だけど同時に、もし私がそうだとするなら、何にも気付かずに終わったかもしれないとも思った。


あくまでも異性という形で出会わなければわからなかった、そんな気がした。


でも異性は異性でも、どうでも付き合うとか結婚とかする必要はないし、それこそ性差を超えた友達もありだったと思う。


その辺りの接し方?ふるまい方?は私は案外上手だと思う。


その人と仲良しのSさんが思い浮かんだ。


Sさんの立ち位置に憧れる。


趣味で繋がれるってなんて良いキッカケなんだろう。


そして、色々無理しなくていいのがとても羨ましい。


Sさんは既婚者だから変な心配や警戒をしなくていいし、その人もSさんには素の自分をどの程度かはわからなくても少しは出せていたんじゃないのかな…なんて思う。


人間関係って狙ってできるものではないのはわかっているけれども、もしそういう入札システムみたいなのがあったり券売機みたいなのがあって選べるのなら、「とりあえずご飯友達」みたいなのをポチったのになと思う。


話がどんどんおかしな方に流れていっているけれど、魂繋がりに階級があるとするなら、もっとライトなものでお互いに気持ち良く時間が過ごせる関係性だったら良かったのかもしれない、なんて思うこともある。


趣味とか飲み仲間とか、そういうのだったら、少なくとも今みたいな感じとは違って、可も不可もない関係性を持てたかもしれない。


でもそういうのではなく、超ガチなやつで、完全に魂の修行系で、自己研鑽+魂の成長第一で、俗世的な人間関係は残念ながら当てはまらず…。


そういうのも手伝って、その人の異性的なパートナーの位置に私がいることはないだろうし、そもそも選ばれるとは全く思っていないし(思っていないも何も、現実選ばれていない)、それなら何にも当てはまらないままでも小さなやりとりができる関係が良かった。


本当に星読み担当とか、魂メッセンジャーとかでも良かったのになぁなんて思う。


生涯一度きりの係でも私は喜んでやるのに!といつも思う。


話が脱線しまくるから、この辺りでアップしよう。


心の話からどんどん脇道にそれて(いつものこと)、気付けば何の話をしていたのかさえも忘れるくらい。


どうやったって構えてしまうだろうけれど、襲ったり付き纏ったりしないから、安心して連絡くれたらいいのにな…、といつも思う。


ちなみにこれだけ書いておきながら、彼女や奥さんがいればそもそも連絡なんかしないか…とも思った。


すべては神のみぞ知るの領域。