2019年5月15日水曜日

大人買いしたノート










最近大人買いしたもの(o´艸`)。

同じ日にノート4冊!!!!

当初は2冊だけ買う予定でいたのが、一目惚れして思わずもう2冊買った。

元々、ホロスコープ独学ノート2冊目になるノート(定価千円以上の超高級ノートv( ̄∀ ̄)v)とホロスコープ哲学メモノートの計2冊を求めていた。

ホロスコープはホロスコープでも独学ノートと哲学メモノートは違っていて、独学は本当にホロスコープの知識や自分のホロスコープのメモ書き専用。

哲学メモノートは、星読みと心やホロスコープならではの人生哲学なんかのみに内容を絞って書いている。

【超高級】独学ノートを買った後、セリアにある小さなノートを哲学メモノート用に探しに行った。

このセリアの小さなノートシリーズは本当に書きやすくて気に入っている。

100冊以上のノートをあれこれ使ってみてわかったのは、本当にメーカーや種類によって使いやすさが全く違うということ。

特に私の場合、紙質にこだわりがあって、書いた瞬間「Love(♡´艸`)♡」となりそうなほど好きなものもあれば、反対に書いた瞬間「うわぁー( ̄ཀ ̄;;)、これ最後まで使うの…?」というのがある。

ちなみにノートほど値段では当たりハズレを測れないものもないと思う。

高ければ使いやすいとも限らないし、反対に安ければ品質落ちということもない。

強いて言うなら、写真の中の紳士なノートみたいに、Made in Japanで値の張るものは確実に良い紙を使っている。

例えば有名な海外ノートの「モレスキン」は、値段は2千円前後したと思うけれど、あの紙質がどうしても好きになれない。

今回私がセリアで買った百円ノートより確実に紙質は下がる。

あれは単にブランド代だと私は思っている。

反対に今回のセリアで買ったノートは、百円とは思えない素晴らしいクオリティーで超絶気に入っている。

さらに気に入ったものでシリーズが出ているなんていう超まれなノートにこの度当たったから、それでセリアに見に行った。

本当は探していた方(水玉模様)がそのセリアには無くて、でも代わりに写真の中の花柄ノートシリーズが新しく出ていて、一目惚れした(♡´艸`)♡。

罫線の太さも紙の厚さも中のデザインも申し分ない。

クルッと後ろを見たら「kyowa」とあった!

このkyowaという会社のノートは本当に使いやすくて気に入っていて、そこが出すものなら大丈夫!と思って選んだ。

何種類かあって、2種類に絞ったけれども、これもまたいつシリーズがなくなるか知らないから、とりあえず2冊買った。

買いながら、それを哲学メモノートにするのはもったいない気がした。

特に黄色い花の方は本気で気に入って、それを別の特別なノートに使いたいなぁと思った。

で、ピンときた。

自分取扱説明書的な使い方をする小さなノートが欲しかった。

少し前、ある占星術家の方がそういうノートを作ることだったか、書くことだったかを推奨していて、「それ良い!!!」と思ってた。

そういうのはまず「形から入る」のが大事な私は、ノートだけは自分が見るだけでテンションが上がるものがいいと思ってた。

今月末に東京で占星術の中級講座があるから、その時に東京で心ゆくまで探し歩いてもいいかなぁとは思っていた。

でもセリアで見て、「これ良い!!!これで自分取扱説明書を書こう!」って決めた。

早速使い始めたのが写真の中の文がつらつらと書いてあるもの。

左のきれいな花柄ノートは去年の占星術講座のいつかの帰り道に東京で買ってきたお気に入り。

このノートこそもっと使い方を考えてから使い出せば良かったと若干後悔したノート。

ちなみに最初は占星術関係のメモで使っていて、今は心のビタミンになる言葉を書き留めている。

しかも超絶こだわりがあって、あの花柄に似合う人たちが発信している言葉に限っている。

今となっては時すでに遅しだけど、このノートすごく気に入っているから、今度からお気に入り度が他のより高いものは、特別なノートにしようと思っている。

話が脱線したけれど、本来探していた水玉模様のノートがなくて、近所のセリアにあったはず!と思ってその後見に行ったらビンゴ!

最初なかったけれど、よーく見たらノートの合間に挟まっていて、最後の1冊をゲットした。

だから、ノート探しに3軒も店を回って、合計4冊それぞれ探し求めていたものを手にして大満足した。



家に帰ってきてから気になって「kyowa」という会社を調べてみた。

愛媛県にある協和紙工株式会社という会社で、私はこの会社にあれこれ世話になってるんだなぁなんて思った。

初めてホームページ内の「リクルート」なるページまで見て、私このノートなら営業本気で興味持ってやれそうと思った( ̄∀ ̄)。←営業の募集があった。

ホームページ開いて社名まで調べたのは今回初めてだったけれど、私にとってちょっとした偶然が重なって嬉しかった。

そもそも私はこのノートに出会うもっと前に、このkyowaという会社の別の文具を使った。

ある夏の日、私は自分の頭の中にある計画を形にするためにセリアに行った。

名刺サイズのメッセージカードが欲しくて、それを探しに行った。

当初からシンプルなデザインと決めていて、余計な装飾なし、茶封筒的な色の茶色で…と思っていた。

で、カード側の方は見つかったけれど、どういうわけか封筒がない。

それでよ〜く陳列棚を見たら、写真にある武士メモとセットになっている茶封筒を見つけた。

武士メモは何の役にも立たないどころか今後も使う予定もなかったけれど、封筒はどうしても欲しくてそれを買った。

武士メモ渡せる相手なら普通に武士メモをおふざけ又は愛嬌で使ったけれど、そういう用途には相応しくない相手だったから、封筒だけ使うために武士メモセットを買った。

茶封筒の1つはなんと九州にも一緒に旅した。

茶封筒を大切にかばんにしまって、そしていざ本当に必要な場面になってかばんから封筒を出して、お目当てのものとうまい具合に大きさがフィットするかを確かめた。

ドンピシャすぎて、この自分の着想といい、お目当てのものを事前調査してまで狙いを定めたことといい、何もかもピッタリのものだったんだと嬉しくなった。

九州の旅でのラストを飾るに相応しい思い出となった。

茶色の名刺サイズのカードも武士メモ用の茶封筒も何の意味も為さずに時は過ぎ、秋が深まったある日、私は武士メモを捨てようと思ってそれを手に取った。

今後も使わないと思ったから、捨てる気満々だった。

ところがその時に袋に印字された「kyowa」という会社名とそしてよくよく見たら「武士」のデザインであることに初めて気付いて、他の人には全く意味がわからない内容でも、私には息を呑むぐらいにハッとした偶然だった。

用途に合うものを選んで買ってきただけだった。

メーカー名も武士のデザインも全く関係ないもので、その時はスルーどころか気付くこともなかった。

なのに、まるでその計画を応援するかのように、その計画に相応しいものがそこにはあった。

茶封筒は確かに必要としていたけれど、別にメモは「武士」のデザインじゃなくても良かった。

だけど、私がイメージする名刺サイズの茶封筒は選択肢として武士メモセットしかなかった。

メーカー名そのものは何の意味もないけれど、それと色んなことが重なることで新たな意味が加わる。

意味は為されなかったけれども、きちんと色んなことたちが「それで良かったんだよ」と言わんばかりに揃っていた。

それに気付いたから、私は武士メモを捨てることをやめた。

思い出として残すことに決めた。

一生使わないものでも、なんか忘れられないものになったから、取っておきたくなった。

いつか捨てたくなったらその時に捨てればいい、そう思った。

それからいくつもいくつも季節が巡ってついこの間初めて「kyowa」のホームページを見て、それが協和紙工株式会社という会社が作ったものだと初めて知った。

気になって、茶色のメッセージカードのメーカー名も一緒に調べた。

それは全く違う会社だった。

あの時は無我夢中だったから何にも気付かなかったけれど、きちんとパズルのピースとピースがカチッとはまるように色んなことがきれいに揃っていた。

いくつも季節が巡って、最近はもう意味を為した為さないはどうでもよくなった。

たしかに意味は為さなかった。

私はそうしたものたちがどうなっているのかも知らないし、もう灰になってこの世には現物さえないのかもしれない。

でも私の生きる世界ではものすごく意味があったし、それで私にはもう十分だった。

満たされないものはそのうち何かの糧になるか昇華されてきれいに終わるかすると思う。

それでも、その瞬間がない人生と意味は為さなくてもそれがある人生なら、それがある人生の方が比べ物にならないぐらい素敵で素晴らしかった。

武士メモが灰になっても、その素敵で素晴らしい世界は消えることがない。

未来のノートの中にkyowaの文字を見つける度に私は武士メモのことを思い出すと思う。

不器用だったけど一生懸命だった人生の時間を思い出すと思う。

協和紙工株式会社のノートのクオリティーがあまりにも自分好みだから、これからもお世話になりそう。

そして今回、そのお気に入り紙質ノートで「自分取扱説明書」を書けるのは粋だと感じている。

いつもいつも心の深いところにある言葉。

小説家の吉本ばななさんがどこかのエッセイで言っていたこと。

死ぬ時に持っていける唯一のものは思い出だよと。

だから私たちは生きている間、ずっと思い出作りに精を出すんだと。

意味の有る無しよりも、思い出となるものを大切に思える自分で本当に良かった。

そういう自分に自分が救われている。

2019年5月13日月曜日

【断る力】の抜き打ちテスト




[前回のブログより]
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・2人の人からの頼まれごとを、迷ったのに引き受けたこと
→「断る力」が必要だったんだと今は気付いた


共通点は、自分の本音を言えてない。

頼まれごとは一度引き受けたものの、本当に一番はじめに自分の中に湧いたのは、「引き受けたくない」だった。

ただそれをどう伝えるかを考えたり相手の状況も読みすぎて、「断る」勇気がなかった。

自ら招いたことで、自分で反省しつつ、ちょっと在り方を今後考えるというか今までとは違う行動の選択肢が必要だと感じている。

ちなみに2人目はさすがに自分で気付いて、私ではなく他の方法で解決出来そうなやり方をやんわりと伝えてみた。

そちらで動いてみるとのことで、そこで何とか終わってくれるといいなぁと思っている。

今後それでもまた来た時は、できる範囲で今回はやるけれども次回からは条件付けて引き受けることをはっきりと言おうと思っている。

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この話の続き。

これをアップした3時間後ぐらいに、2人目の友達から連絡が来た。

「断る力」テストが実施された( ̄∀ ̄;)。

もちろん抜き打ちテスト(T_T)。

結果から言うと、私は断ることができただけじゃなく、なんと友達から「ありがとう」とまで言われたv( ̄∀ ̄)v

美談(?)を書こう!そうしよう!と思って書いている。

美談の前に、その美談直後に知り得たことを2つほど。

1つは、もしかして今、「自分の本音を言う」「断る・NOと言う」ことが私だけじゃなく、多くの人のテーマかもしれないということ。

美談の後(←「美談」と呼ぶあたり( ̄∀ ̄;))、毎週日曜日楽しみにしているホロスコープの記事を読もうとそのサイトを開いた。

1週間の星の動きから考えられる影響とその影響を感じるだろう私たちの心とを繋げて素敵な文章を綴る方がいる。

自分で言うのもなんだけど、私そういう文章や情報を見つけるのがとてつもなく上手いv( ̄∀ ̄)v。

その人のこともどうやって行き着いたのかさっぱり覚えていないけれど、たしか今年に入ってから見つけたものだったと思う。

開いてみたら、「番外編」となっていた。

こんなこと初めてで、恒例の週間ガイダンスは休止で、その人の近況が書かれていた。

その方も絶賛体調不良、そしてその体調不良が体そのものよりメンタルから来ている感じだった(←本人談)。

それだけでも驚きだったのに、さらに驚いたのはそのメンタル不調の原因に「伝えられなかった」「言えなかった」ことを挙げていた点。

えっΣ(꒪◊꒪ )))) ??

何このシンクロ???と思った。

体調不良はまだいいとしても、その不調の原因に挙げていることまで重なるって何だ何だ⁇と思った。

ふと気になって今自分で書いた「5月のメッセージ」を読み返した。

【自分の想いを自分の言葉で表現していく】

うん、書いた。

たしかに書いた( ̄∀ ̄;)。

だけどカードを見ていて浮かんできた言葉だけを書いていたから、その言葉の意味は書いている時にはわからなかった。

「自分の想いを自分の言葉で表現していく」って聞こえはいいけれど、これ、私の場合、「断る」とか「NOと言う」という意味だった模様( ̄◇ ̄;)。

これ書きながら、目の前でスズメがピーチクパーチクと絶え間なく鳴いている( ̄∀ ̄;)。

まるで「おまえも喋っとけ!」と背中を押すみたいに…(゚o゚;;)。

だから、自分の思いを外に向けて出すのは、今回の私みたいな「断る」とか「NOと言う」場合も含まれるらしい。

もう1つ知ったのは、ただいま19日満月に向けて大浄化促進期間らしい。

もちろんそんな調べ物じゃなくて、別の調べ物してたら、2人立て続けに「今浄化のエネルギーがとても強いから、体や心にある不要なエネルギーを手放しさせられる」みたいなことを言っていて。

おかしい∑(ΦдΦlll)!!、と思ってきちんと調べたら、どうやら毎年4月下旬から5月のどこかであるさそり座満月を「ウエサク月」と呼ぶらしく、それが天界と地上のエネルギーが互いに行き来する状態になる模様。

きちんと調べてないから気になる方は「ウエサク月」で検索してください(ペコリ)。

私が頭の中で解釈したのは、
[さそり座=支配星冥王星=破壊と再生]
だから、しかも
[さそり座の満月=さそり座の性質が満ちる]
すなわち
[破壊と再生が強調されやすい]
だった。

さそり座の満月は1年通じて1回しかないから、その時に破壊と再生エネルギーが上昇しやすいのは、頭ではなんとなくわかった。

で、【浄化】とか言われてもいまいちわからないけれど(私みたいに体調不良になれば別だけど)、調べた中でキーワードがいくつかあって、それがまさにこれから書くこととも繋がっている。

自分の本心ではないもの、自分が望んでいないもの、もうそれイヤ!となっているもの、断ち切りたい悪しき人間関係や習慣、ドス黒い感情とか、そういうのを一掃するための破壊と再生エネルギーが強く働いている模様。

それを自分の中から吐き出して、そうすると身軽になって新しいスタートを切る準備が整うから、そのための大浄化祭らしい。

渦中は強烈だけど、良き方向に行くための準備運動として受け入れるしかないんだな…と調べながら思った。

論述ばかりしても仕方ないから、「断る力」のその後の話を始めようと思う。



今回の友達からの頼まれごとは、「英語」だった。

最初連絡が来た時に、私はすぐには「はい」と返事しなかった。

ちなみに、最初に思ったのは「やりたくない」だった。

「やりたくない」とストレートに言える時はいいけれど、そこに色んな事情が挟まっている場合、「やりたくない」と即座に言い切れる人は何人いるんだろう。

しかも事情や相手との関係性に色んなものがくっついていたら、より言いにくい。

ちなみに今回の依頼者とは長い付き合いの友達、細かい事情も知っている、無下に断ることは今後の関係性をおかしなものに向かわせるかもしれないから断るにしても超配慮が要る。

というスタートだった。

私の中で断る時に断りにくい断トツの人たちは、「親しい人」とか「お世話になっている人」。

断る時に心苦しさもあり、でも安易に受けると自分の首があとから絞まるから避けたい。

こういう時、人間って面倒くさいなぁと思う。

ロボットならスパッと「それはできません」と言うか「はい、かしこまりました。ご用命の際にはもう一度お呼びください」と感情なくしてやれるんだろうなぁなんて想像する。

私が最終的に一次対応としてしたのは、
・量と内容を見て、すぐ終わる場合はいいけれど、そうでなければ直接伺う+有料
の提案だった。

必殺「返事を濁す」、はいもいいえも言わないことでその場をしのいだ。

上に書いたみたいにストレートには言っていないけれど、友達はその返信にOKだった。
(友達から有料で英語の仕事をまかったことがあるから、お金がかかることを言うのはそこまで大変なケースじゃないのが今回は救いだった)

だけど、私の中でスッキリとしなかった。

細々としたことがある度に私は今後毎回こんな葛藤を体験するのか…と予想できて、それは嫌だと思った。

しかも線引きが難しすぎる。

話がかなり脱線するけれど、私が人に頼めない、頼むことをものすごく苦手とする理由は、実は自分側の体験がものすごく関係している。

最近、それも今年に入ってから気付いたけれど、私が頼めないのは私が頼まれる側をこれまでたくさんしてその時の気持ちを嫌と言うほど味わってきたからだった。

自分が人に頼むことを苦手とするのは30代の途中から気付いて、だからそのこと自体は別に目新しい発見でもなかった。

ただ何で苦手なのかがわからなかった。

親に自立ばかりを促されたから?と思っていたけれど、そうじゃなかった。

人に頼まれることの内容が私の場合、すごい専門性を帯びていて、本来ならお金をもらってやるようなレベルのものを頼まれることが多かったからだった。

若干タチが悪いのは、その専門性の高い内容を私はある程度普通にやれてしまって、自分の中でもそれでお金をもらう発想が長いことなかった。

私がそんな風だから、頼む側の人たちもかなり気軽に頼んできていた。

お金云々と言うよりも、本当にそのことに私もエネルギーを使う、確実にエネルギーを使う、それに対して頼む側の人たちがそのことに対して私と同じかそれ以上に軽視してる節があるのは気付いていた。

だから私はやると確実に疲弊する。

その流れがわかっていたから、だから私は相手に何かを頼むのはその人にとってそれがどんな負担になるのかを考えると頼めなくなる。

自分が頼む側になる時、お金で解決できるものの方がむしろ楽で、お金を介さないものの時ほどどうしていいか毎回かなりな確率で悩む。

ただ今回は完全に専門性を帯びたもので、頼んだ側と私側との温度差がかなりあるのはわかった。

そしてふと気付いたのが、私が「了解!」と一言言うことで相手は私がそれをどう感じてるかさえ思いを馳せず頼んでもいいんだ、ぶっしー嫌がってないし、ってなるんだろうなぁとまで想像した。

それは完全にそう思わせてもおかしくない私側の返答に問題があるとわかった。

今回軽々しく引き受けたら、次も絶対にその流れを継続してしまうと思った。

ヤバイ、手を打とう、そう思った。

で、私は日にちを置いて、次なる作戦に出た。

今回頼まれたことに対して、「とらの巻が市販されてると思うから、探してみて」と連絡した。

私が「やりたくない」と言えない代わりに、私は代替え案を考えた。

困っているのはわかっていたから、その解決策、しかも今回だけじゃなくて長期的な解決策になってくれそうなものをチラつかせるという手段に出た。

友達は喜んでくれたしお礼まで言ってくれて、逆に自分のこの小賢しいやり方にウンザリしつつ、これでちょっと様子を見ようと思った。

友達は週末に探しに行くと言って、実際にゲットして、とりあえず問題解決したことを連絡くれた。

とここまでは良かった。

これは私の心の中の話だけど、私は今回まだはっきりと断るとかNOということをしてないから、多分それをしないといけない状況が来る気がする(ΦдΦlll)とヒッソリと思っていた。

ビンゴーー( ̄∀ ̄;)!!!

友達からとらの巻を買った報告と共に、言い添えられていた。

「もしそれでも解決しなかった時は聞いてもいい?お願いします」
的な返信。

ドタッ←倒れる音。

もう意を決して言うしかない。

30分ぐらいiPhoneとにらめっこしながら文章を書いた。

好きな人に告白するのとは別のすごい緊張を伴う作業だった( ̄∀ ̄;)。←愛の告白はあくまで方便(遠い目)。

寿命が悪い意味で縮まりそうだった。

もう頭の中の知恵を総動員して、なんとか友達に悪い風に伝わらないように、そしてそれは友達に対してどうこう思っているということではなく、私側の負担が増えてそれが私が嫌なことだということも強調した。

過去にも他の人たちから頼まれて、みんなに言っていることでもあることも伝えて、もし今後必要なら私の方は有料対応ですることを提案した。

何に対してごめんねかもわからず、だけど思わず
「本当にごめんね、こんなこと言い出して。
でも、過去に安易に引き受けてあとで自分の首がしまって大変だったから、私側のスタンスを伝えようと思ってね。
私側の勝手な話だから、少しでもわかってもらえたらありがたいです」
と結んで送った。

感謝が湧くように、「ごめんね」も自動的に湧くらしい( ̄∀ ̄;)。

いや、でも本当にごめんなさいとは思った。

友達は良識ある人だし意味不明なことを言いだしたりもしないからその辺りは心配していなかったけれど、それよりも友達がこれで私と距離を置くとかはなるべく避けたいなぁと思った。

そんなことで距離を置かれては私が悲しい。

親しい仲だからこそ、その辺りのさじ加減が難しい。

よく知らない人の方が断りやすいし言いやすい。

だから、何か営業とかされても、私は色々面倒だから即断るのはわりかし得意な方だと思う。

それをどうしたって発揮できないのが親しい人たち。

友達からものすごく丁寧な返信が返ってきた。

内容を要約すると
・ぶっしーに時間をかけてもらうつもりはなかった
・軽い気持ちで送ってしまってごめんね
・本当に困った時は頼りたいけどいい?
・気になるところがあったら言ってね

それに対して私はこれ以上ないぐらいにお礼を伝えて、困った時はまとめての対応ですることで合意は取れた。

さらに、友達から最後に「本当、ぶっしー色々ありがとね!」と来た。

ということで一件落着!!!



実際にやってみてわかったのは、やっぱり言わないと伝わらないこと、わかってもらえないことがあるということ。

引き受けた時点で、相手側はそれをOKだと当然思う。

自分もそれで納得していることならいいけれど、納得できてないことならそこは言う必要がある。

やり終えて真っ先に浮かんだのは、
「体張って自分のことを守れるのは自分しかいない」
ということだった。

もちろん誰かが守ってくれることもあると思う。

だけど、基本的に私に代わって私の不快とするところや苦手とするところ、やりたくないことを毎回毎回察知してくれて、私の代わりに代弁してくれたり守ってくれる人なんて誰もいない。

言い方はもちろん考える必要がある。

相手が大切な人なら尚更のこと。

だけど、相手がどんなに大切でも、やっぱり自分に対して自分が苦となるものはさせられない。

その時は自分のために自分が立ち上がるしかない。

超怖いし、何もしなくても勝手に解決して欲しいけれど、そんなことはない。

自分のために勇気を出すこと、自分のために動くことの大切さを今回は学んだように思う。



[写真説明]
今回の話とは全く関係ないことだけれど、仕事で仲良くなった人がある時私に上の写真を送ってきた。

プロセス好きの人で、応援しているプロレスラーの人が何を言っているのかネットの翻訳システムでもわからなかったから訳して欲しいというものだった。

成人した子どもがいるとはとても思えない綺麗な人で、こういうタイプの女性がモテるのではないかと思った。

いつか男性が書いたコラムで、「ギャップを感じさせる趣味を持ってる女の人はポイント高い」とあって、その趣味の例にプロレス観戦が挙げられていた。

私もモテたかったら、プロレス観戦を趣味に持ったらいいんだろうか( ̄∀ ̄)。←動機がおかしい。

それはいいとして、あの写真のように短い文章を訳すのは、「これ何の苦行ですか?」と思ったぐらいに辛かったし難しかった(T_T)。

知らない単語だけならまだしも、なんと辞書を引いても意味が通じないものがあった。

最後の単語「vibras」。

「振動する」という意味の動詞の名詞形だというのはわかった。

vibrasという単語単体では辞書になくて、それに近いもので、振動する大人のおもちゃの名前はあったΣ(꒪◊꒪ )))) 。

直訳して、「あなたたちのGOODな大人のおもちゃありがとう」では当然おかしなわけで、うっかりそうだったとしてもそんな和訳を送るのは絶対に避けたい。

っていうか、そもそも応援してくれているファンに向けてそれはないでしょう?と思って、私は次なる手に出た。

サイト名は知らないけれど、今世の中には便利な翻訳サイトがあって、「これって〇〇語でどういう意味?」的な質問が誰でもできるようになっていて、そしてそれを母国語で話す一般人の人たちが自由に返信するシステムになっている。

今回みたいな単語や独特の言い回しで辞書にないものは、そのサイトが超重宝する。

これまでスペイン語で使ったことなかったけれど、あまりにもわからないからその単語を入れて検索したら出てきた!

中南米のどこかの国の言い回しで、相手にとっての良いものやgood luck的な意味だということがわかった(今再度調べたら、「コロンビア」の人たちが答えていたから、多分コロンビアのスラングみたいなものだと思う)。

ということを、スペイン語と英語の両方で説明されている文章を読んで、それで最後私が日本語に訳したのがこちら↓↓↓。

【友よ、俺の大腿四頭筋が引き裂かれてしまって約3週間(プロレスから?トレーニングから?)離れなきゃいけなくなった。またすぐに会おう!俺のための応援、本当にありがとう!】

これ訳すの、本気で30分もかかって、お願いしてきた人には今回が最初で最後の翻訳ですということは大変さと共に伝えて了承してもらった。

っていうか、大腿四頭筋ってどこ?

大腿四頭筋がそもそも引き裂かれるものかは知らないけれど、正しい日本語での負傷時の言い回しを知らないから、そこは直訳した。

ニュアンスで肉離れみたいなイメージなんだろうか?

それって3週間で治るの?

とまぁ色々突っ込みどころ満載だったけれど、もはや私には終わることがすべてで中身は何でも良かった。

ちなみにこんなの全然まだかわいいレベルの頼まれ事で、私が過去に引き受けた諸々は全く笑えない、本気でこれは何の得があって?みたいなものが色々来ていた。

「断る力」「NOという勇気」は、今後も私の中で大きなテーマなんだろうなぁ…と思っている。

2019年5月12日日曜日

喉の風邪と心の中







今回の風邪が想像以上に長引いてる。

しかも、のどの超激痛を伴った炎症に始まって、今また咳と痰、咳は一度始まると止まらないぐらいの重症化した咳になっている。

ちなみに、二次災害のように、ギックリ腰調の腰痛も発生( ̄ཀ ̄;;)。

咳もくしゃみもひどく腰に響いて仕方ない( ̄∀ ̄;)。

もっぱらどの姿勢だと咳する時に腰に響かないかを模索している。
↑今の最大の研究テーマ〆(ΦдΦ)

今回の喉の風邪は、まさに今の自分の象徴だと思う。

この1ヶ月ぐらいのことを振り返ると、今回の喉の風邪との関係がなんとなく見えてくる。



【ここ1ヶ月ぐらいの振り返り】
・2人の人からの頼まれごとを、迷ったのに引き受けたこと
→「断る力」が必要だったんだと今は気付いた

・「5月のメッセージ」を書きながら、自分が綴りたい内容が薄ぼんやりと見えたこと

・両親ときちんと話ができてないこと

・文章を書くにあたり、自分が大事にしているポイントが見え出してきたこと

・心身共々落ちても読めるブログと落ちたら読めなくなったブログの差に気付いたこと

・18年前、日本に帰ろうと決めた時の理由を改めて明確に思い出したこと

・新年度始まったあたりから、占星術よりも占い師さんたちのブログをやたらと読んでいること


どれも心と体が連動していると感じる。



・2人の人からの頼まれごとを、迷ったのに引き受けたこと
→「断る力」が必要だったんだと今は気付いた

・両親ときちんと話ができてないこと

↑上の2つはとても似ている。

共通点は、自分の本音を言えてない。

頼まれごとは一度引き受けたものの、本当に一番はじめに自分の中に湧いたのは、「引き受けたくない」だった。

ただそれをどう伝えるかを考えたり相手の状況も読みすぎて、「断る」勇気がなかった。

自ら招いたことで、自分で反省しつつ、ちょっと在り方を今後考えるというか今までとは違う行動の選択肢が必要だと感じている。

ちなみに2人目はさすがに自分で気付いて、私ではなく他の方法で解決出来そうなやり方をやんわりと伝えてみた。

そちらで動いてみるとのことで、そこで何とか終わってくれるといいなぁと思っている。

今後それでもまた来た時は、できる範囲で今回はやるけれども次回からは条件付けて引き受けることをはっきりと言おうと思っている。

両親に本音を言わないのは、はなから理解をあきらめているのと、まるで日本語とアラビア語でキャッチボールしてるかのごとく全く交わる点すら見出せず、それで避けている。

のども詰まるなぁとわかる( ̄∀ ̄;)。

どちらもいきなり生まれ変わったかのように100%の変化を最初から達成できるわけじゃないから、徐々に自分のできることを自分のためにする他ないなと思っている。



実はちょっとした実験をした。

冒頭の不調を書いた時、夜明け前の4時ぐらいで、とにかく咳は出まくるし、さらに痰なのか何なのかのどのどこか通り道の部分に何かがずっと引っかかっていて異物感があった。

異物感を感じながら、「これって本音を言わないところが原因かな…」と思った。

それで今回ののどの風邪と連動してそうなものたちを列挙したのが上に書いた【ここ1ヶ月ぐらいの振り返り】で始まることたち。

気付いたなら、もしかしてのどの異物感が取れるかも…と期待しながら、いつのまにか寝ていた。

今朝の8時過ぎにこの部分を書いているけれど、気付けば、咳も痰も相変わらずだけど、のどのつまりだけはきれいに取れてるv( ̄∀ ̄)v。

実験成功♪─v(≧∇≦)v─♪

そういう時に効くとかいうツボをネットで見つけたからそこも押したけれど、なんとなく心理的要素の方が効果をもたらした気がする!

自分の中でずっとわだかまっていた諸々に気付いたことで、のどの異物感もグッバイしてくれたみたいな 笑。



・「5月のメッセージ」を書きながら、自分が綴りたい内容が薄ぼんやりと見えたこと

・文章を書くにあたり、自分が大事にしているポイントが見え出してきたこと

↑上の2つは、また別記事を途中まで書いているけれど、体調悪い時に「5月のメッセージ」をやってみて色々感じることがあった。

大きく言うと、「癒し」の要素を取り入れるように意識すること。

これ、この後に書くこととも連動している。
(読めるブログ読めないブログの話と)

いつだったかブログにちょろっと書いた記憶があるけれど、私は少し前から「男性性と女性性」についても調べ物を始めた。

もちろん、調べ物の理由は、自分を癒したいからv( ̄∀ ̄)v。

で、この間友達にそのノートを見せたら、友達が中身にいたく感動してくれた。

「これいいね!」って。

心に沁みるとも言っていた!

余談だけど、私がお気に入りの包装紙を貼り付けたノートだけど、その包装紙見ただけでどこの菓子屋メーカーなのかを言い当てた友達のあくなきスイーツ愛も知った 笑。

やっぱり癒しは大事!と思って、今後も癒しのためのテーマの掘り下げは満足するまでやる予定!

しかもそれが他の人にも役立つ可能性があるなら、よりやる気も出やすい。

他人のためにやろうとは思わないけれど、自分が癒されたものを人に紹介して、それに触れた人も同時に癒されたら超お得!と思う。



・心身共々落ちても読めるブログと落ちたら読めなくなったブログの差に気付いたこと

↑これは今回ものすごく顕著だった。

「月」について調べ物をしていた時に、ハッシュタグを辿って行き着いたブログがあった。

ハッシュタグ機能を考えた人、天才だと思う!

で、その「月」のハッシュタグなんて調べたことなくてクリックして見たら、それで今回初めて行き着いた占星術家の方がいた。

その方が超絶素敵過ぎて、その方にはいつか本気で会いに行くんだろうなぁと思っている。

占星術の知識はもちろん、人生哲学もされている仕事の在り方も、もうどストライク過ぎて胸ズキューンだった(o´艸`)。



その胸ズキューンの方とは対照的に、この1ヶ月ほど頻繁に読んでいたブログがあったけれど、最近体調不良も手伝って、発信されてる内容にもあれ?となった方がいた。

読んでいて反発を覚えるところが出てきて、その頻度が増えていってる。

さすがに今は合わないとわかって読まなくなったけれども、最初違和感を感じた時はこれなんだろう?と思った。

で、よくよく見比べると、実はズキューンな方とその人は同じことを言っている。

なのに、片や真っ直ぐに受け入れられて、片や読んでいて気分が悪くなってくる。

その差は、物の捉え方のプロセスの差や体験を通じての人間的なセンスの差だとわかった。

2人とも、特に読めなくなった人は寝たきりからの全回復を遂げた凄い体験の持ち主だけど、体験の差ではなくそこで何に気付いたのかが差となって表れている。

胸ズキューンの人は、そもそも1つ1つのプロセスやそこに至るまでの気持ちや決断、そういうものをとても大切にされてる。

動けない時、思い通りではない時、そうした時の心構えが本当に素敵で、そしてそうなってる人に対しての批判が全くない。

反対に大病した方の私が読めなくなった人は、その辺りが粗い。

元はきめ細かい人だったけれども、何かが違う。

きめ細かいことを知ってるのは、私は1年前ぐらいにその方からある商品を購入したことがあって、その時のエネルギーは本当にきれいな人でとても気に入ってた。

だけど、本人が色んな活動を続けて今に至った時、すごい残念なぐらい、そのエネルギーが別の方向に向かっているように見える。

表面は同じことを今もされているから、本人さえ差は気付かないかもしれない。

でも、最近読んだ文章の傾向がもう以前のそのきれいで真っ直ぐなエネルギーではなくなった風に私には感じる。

はっきり言えば、前のエネルギーはすごく好きだったけれど、今のエネルギーは好きじゃない。

そして、しばらくと言っても1ヶ月もなかったと思うけれど、ブログを読んでいて違和感を覚えるようになった。

いくつかあるけれども、そのうちの1つが日本に対する見方だった。

日本に対する考え方を見て、「それは絶対に違う」と感じた。

その方は海外と日本と行き来しているけれども、私がこれまで見たことのないタイプの捉え方をする人だった。

それが悪いというのではなく、その発言によって、「この人日本をよく思っていない」ことが滲み出ているし、そしてそれは日本をよく思ってないだけではなく、そこに暮らす人たちのこともどこか蔑視というか否定的に見てるようなところを感じる。

もしかしたら元々そういう考えは持っていられたのかもしれないけれど、前のきれいな頃を知っているから何だか残念に思う。

今はその粗さや心の深い部分で信じているだろうものが出ていて、私はその見えない部分の考え方そのものが好きじゃなかった。

見えなくても言葉に出ちゃってるからわかる。

海外に住むと感じるのは、日本の窮屈さをはじめとする色んな負の側面もだけど、それと同等に日本の素晴らしさや良さも実によく見える。

本当にどの国のどの場所も、プラスの側面とマイナスの側面の両方があることがわかる。

海外に出ると、私は逆に住んでいた時には気付かなかった日本の良さがわかると自分が体験してみて感じた。

それはアメリカの時もドミニカ共和国の時もそうだった。

その人が発信していたマイナスの側面も言わんとするところがわかったけれど、でもプラスの側面もあるよね?と私は思ってしまう。

物の見方に非常に偏りがあるとわかって、マイナスばかりに目がいって、プラスが軽視されてる風なのが本当に残念過ぎた。

批判したい人みたくなっているけれど( ̄∀ ̄;)、要は私の価値観や感覚と全然合わないことがはっきりとわかった。

で、話を戻して胸ズキューンな人。

胸ズキューンな方は、清濁合わせてすべてを同じぐらい慈しんでいることが本当によく伝わってくる。

マイナスなことさえ、それをとても冷静に捉えて、そこに必ず希望の種を見つける。

それがひしひしと伝わってくるから、言葉も真っ直ぐ入ってくる。

私が目指したいのはそういうところなんだと気付かされる。

どんなこともマイナスだけじゃないこと。

必ずプラスも宿っていること、その視点を私はこれからもとても大切にしたいと思っている。



・18年前、日本に帰ろうと決めた時の理由を改めて明確に思い出したこと

↑これも改めて思い出した。

最近のひそかなマイブームは、このブログ内で読まれた記事を自分も読むこと。

これが実によくできたシステムで、このブログには何が読まれたかを察知する機能が付いてる。

そのツールを使って読まれた記事を辿って自分も読むと、オンタイムで必要なヒントが得られる。

どこの誰が読んでくれたのかは知らないけれど、「ありがとう♡♡♡(*´꒳`*)」並みに感謝しまくっている。

で、今回ももれなく18年前の真実に辿り着いて、改めて自分の気持ちを確認した٩(๑>▽<๑)و
(今回はもしかしたら、読まれた記事の前後でアップされた別記事を読んだかもしれない)

私がなぜ18年前アメリカに残らず日本帰国を希望したのか。

当時の私は、子どもたちと何かを一緒に積み重ねることにものすごく心惹かれていた。

そして、それをするにあたり英語でのコミュニケーションに限界を感じていた。

どうやっても、細かなニュアンスがどうしても英語ではわからなかった。

英語を通じて、ここに書いたことと同じ感覚で私は理解ができない。

例えば「悲しみ」は理解できても、「いつもじわりじわりと心の中に潜んでいて、時々無意識に浮上してくる悲しみ」は英語(外国語)では理解できない。

後者のタイプの感覚までを知りたいと思ったら、私の場合、絶対に英語では無理だとわかった。

日本語でも怪しいのに英語だともっとわからない。

だから大学卒業を間近に控えた私は、迷わず日本帰国を選んだ。

あの時は表面的にしかわかっていなかったけれど、今ならわかる。

私はやっぱり言葉が大事なんだということ。

もちろん、色んな言葉でコミュニケーションは取れる。

そして言葉だけではなく色んな方法でコミュニケーションを取れることも知っている。

でも、私が極めたいのは、そういうことじゃなかった。

最低限、言葉の使い方や重み、意味を体感覚で感じることだった。

書いてて思い出したけれど、学生時代のボーイフレンドと別れるキッカケになったのは、言葉だったことがある。

私:I can’t deal with you.

彼:What do you mean “deal with”?

直訳すると、
「あなたのことを処理できない」
「“処理する”ってどういうこと?」
になる。

もちろんそんな意味で言ってないし、私的には「どうしていいかわからない」と言いたかっただけなのに、私の言葉の使い方誤りで逆鱗に触れ、もう修復不可能なまでに怒らせてしまった。

私は今でもdeal withがそんなにもいけない言葉で相手を憤らせるkiller wordだというのが感覚的にわからない。

これが母国語ではない第二言語の私の限界だった。

これもし仕事だったら笑えない(私生活でも笑えないけど)。

こういうことがわからないのは私にとってストレスの他の何物でもなかった。

他に良い例を思い出せないけれど、こういうストレスを仕事に持つのは嫌だった。

だから私の中で「母国語で仕事する」ことは、ある意味必須の条件だった。

実際に子どもと関わっている時も、子どもが今めちゃくちゃ大事な何かを告白してくれてる!ってわかっても、本当の本当に細かいニュアンスがどうしたってわからなくて、寄り添う努力も言語を伸ばす努力も両方できても限界が必ずあることを毎回悟ってた。

だから、私にとって、日本語で自由自在に表現するというのは、言葉だけじゃなくて言葉の裏側にあるもの、もしくは言葉そのものからは見えないところに存在している性質や重量感を言葉と一緒に感じることが大切だった。

しかも、日本語なら他の言い回しに関して選ぶ余地が自分の中にある。

自分でもわかるけれど、他言語になった時の私は日本語以上に表現がストレートになる。(毒舌と言っても言い過ぎじゃないと思う( ̄∀ ̄;))。

そういう表現の幅があるのも私には大事で、当時から「人と関わる」ことだけは自分の中にずっとある計画みたいなものだったから、そこも譲れなかった。



・新年度始まったあたりから、占星術よりも占い師さんたちのブログをやたらと読んでいること

↑これはまた別の記事でガッツリ書きたいことだけど、3月くらいから占い師を生業としている人たちの文章を読み漁っている。

占い師を目指してるのではなく、その方たちが見ている世界やそこから引き出された世界観に超惚れ込んでる。

想像したらわかりやすいけれど、例えば「占いに行こう!」と人が考える時は、絶好調よりもそうではなく鬱々としてたり悩んだり迷ったりしている時の方が圧倒的に多い。

そういう時に行こうと考える、イコール、占い師さんたちが接する人たちもそういう迷える仔羊状態の人が多いわけで、そうした世界から見た価値観が本当にすごい。

厳しさと優しさを同在させられる、本当に素晴らしい感性を持っている。

進みたいのに進められないとか、決めたいのに決められないとか、そういう人たちに対して伝えられる人生哲学や世界観をたくさん持っている。

そういうのを最近はひたすら読み漁っている(+写経のごとくあれこれノートに転写している)。




今回喉にきた、それもものすごい不調を引き出しているのは、1つは自己表現を自分の中で抑え込んだことも関係しているだろうし、そういう自分を出すためにまずは不要になったものを体の外に出そうともしているんだと思う。

体が苦しいし心も苦しいけれど、「絶対に良くなる」と信じていられるのはとても心強い。

ちょうどこの1ヶ月にあったことも、自己表現や自分の価値観に関わることが多かった。

それと関連しているのか?、やたらと部屋の窓からちょうど見える位置に鳥たちが毎日やってきて、ご挨拶のようにチュンチュン鳴いてしばらく私の目の前で羽休めをしていく。

鳥はコミュニケーションを表すとされているけれど、「コミュニケーションだよ、コミュニケーション!」と言われてるみたい( ̄∀ ̄;)。



[写真]
最近わかったけれど、システムが誤作動するのか私が並べた順番とは違う風に写真が出てくる( ̄∀ ̄;)。

今回は
・散歩中に見つけたたんぽぽの綿毛
・同じく散歩中に撮った太陽の写真
・友達が見て即わかったお菓子の包装紙で包んだノート
・部屋の窓から見える鳥さんたち

ちなみに、たんぽぽの綿毛を撮っていた時、ちょうど下校途中の5年生か6年生の男の子が私の横を通って行ったけれど、明らかに不審者を見るような視線で「何やってるの、あのおばさん?」みたいな無言のメッセージみたいなのも感じたことを記しておきたい( ̄∀ ̄;)。

そりゃ、草むらに向かってスマホを向けて何か撮っていたら、私だって「何やってんのあの人…」と思うかもしれない。

2019年5月11日土曜日

日本社会の観察記

2019/05/08

ゴールデンウィーク中の仕事で超感動したことと、そして感動の先に感じた疑問と、その後友達と話したことと、そして今たまたま見つけた外国に住む国際カップルの人が日本に帰省して感じたことを読んだ感想とが、不思議と繋がったから、備忘録として書きたい。

こんなこと書いても何にもならないし、だから何だ?という話でしかないけれど、これを数年後、10数年後に読むと面白いかもしれないと思って書く。



ゴールデンウィーク中の仕事で超感動したのは、ハンガーをはじめとする備品たちだった。

これまでハンガーに注目したことなんてなかったけれど、今回本気で欲しい!!!と思ったぐらいにすごく考えられてデザインされたハンガーに出合った。

日常的に洗濯物を干す人なら、そしてどんな人でも丸首なりVネックのシャツの1枚2枚はあるだろうから、そうしたタイプのものをハンガーにかけるのなら、これ以上ないユーザー目線に立ったハンガーだった。

誰が開発したのかは知らないけれど、本当に超画期的ですごく感動した。

他にも商品関連の備品が至るところにあるわけだけど、どれも本当に効率や能率を最大限に引き上げるための創意工夫が半端なかった。

初めて作業する私でもものすごく作業しやすかったし、それぞれの備品たちを最初に開発した研究者や企業は本気で凄い。

日本って本当に凄いんだなと感じた。



感動も大きかったけれど、その後疑問も沸いてきた。

本当に凄くてそういう良いところは開発側も使用側も双方にとってメリットがあるからいいけれど、そこまで良くした後、その後はどうなるのかな…と思ってしまう。

始業後最初の2時間は、私は掃除を割り当てられ他のスタッフの人たちと一緒に担当した。

掃除に関してもマニュアルがあって、そして数人で手分けしてやるんだけれど、それがとにかく超ギリギリのラインでやっている。

最初の日に教えてくれた子が「結構急ぎ目にやらないと終わらないので、速さを意識するようにお願いします」と説明してくれた。

やってみて超納得した。

たしかに超本気でやらないと終わらない。

しかも細かなところまでは手がどうしても回らない。

初日はもう少し掃除しようよと心の中で思ったけれども、実際にスタッフの人たちの動きを見ていて、とにかく誰もサボってないしテキパキと動いているのに、それでも手落ちが普通に出るような作業量にとにかく驚いた。

作業量に対して人員数が見合ってないからそうなることがわかった。

内部事情を全く知らない私からすると、どこまでも利潤や効率を求めるやり方に、人間側の負担がデカすぎて、それが本当に変な形で出ないといいなぁと思わずにはいられなかった。

いくつか前のブログに、完璧過ぎるマニュアルだからマニュアルにないイレギュラーなことがあった時の対応に疑問を持ったことを書いたけれども、私がその人たちを悪く思わないのはそこがわかっていたからだった。

あのすごい労働環境の中でお客さんに対しては本当に丁寧な接客をしているし、私に対してだってすごくきちんと対応してくれてる。

並大抵のメンタルではやれないぐらいに凄かったから、だからそんな無理を強いてる運営陣に疑問は持ってもそこにいた個人個人には何か責めるような気持ちは湧かなかった。

失礼に当たるかもしれないけれど、「大丈夫ですか?」と思わずにはいられなかった。

本当に取り返しがつかなくなるんじゃないかと心配になるぐらいに、素晴らしいサービスや商品の裏側を支えている人たちの存在が気になって仕方なかった。

ちなみに私が同じことしたら、私は100%早い時期にメンタル系の病気になる。

断言できるぐらいに凄まじかった。

そういうのを見て、本当に思ったのは「何を目指しているんだろう?」ということだった。

企業が目指しているものは、安価で良いものを提供することなのか、それともそれと引き換えに人間らしさを抑えて闇のようなものを生み出すことなのか、見ていてよくわからなかった。



ゴールデンウィーク中、友達と会った時に、たまたまキャッシュレス化の話になった。

2人とも超がつくアナログ人間だから、「〇〇ペイ」だのという現金を伴わない支払い方法も使っていなければ、その仕組みもよくわかっていない。

私のように本当にわからない人間が喋るから実際のことはわからないけれど、そうした通貨システムの割引もだし、仮想通貨の利益もだけど、そうしたものは何で生まれるのかその仕組みがよくわからない。

通貨システムの割引が今あちこちで謳われているけれど、私は消費者としては有り難いのはわかるけれど、仮に10%割引になってその割引分は誰が負担するのかなと思う。

企業が負担するなら、もしくは提携先企業でもいいけれど、その負担分って結局回り回って従業員の人たちにしわ寄せとか、何か別のところにしわ寄せがいくように思えてならない。

今回私が3日間行った店は、1年の中の1番2番を争う繁忙期だったらしく、セールによってもたらされる利益も大きいのは話を聞いていてわかった。

ただ、利益が出た分従業員に還元されるかというとそうではなさそうだった。

これは塾に勤めていた時にものすごく感じていた。

当時私は、途中から正社員から契約社員に切り替わった。

時間が絶対的に欲しかった私にはたしかに有り難い制度ではあったけれど、今でもよくわからないことがある。

おかしな話ではあるけれど、私はフルでバリバリ働いていた正社員の頃より週4.5日、時間にして36時間働いていた契約社員の頃の方が売上を上げていた。

じゃあその売上分が給料に反映されるかと言うとそうではなく、給料は契約社員としてのものになる。

契約社員になって給料はもちろん下がった。

変な話、会社に入るお金は私を契約社員にした時の方が多い。

人件費削減に加え、私が思いの外売上に貢献したから、余剰分まで増えた。

余剰分は想定外だったにしても、余剰分は全部会社に回って終わった。

何が言いたいかと言うと、利益を上げてもそれは従業員個人には反映されないということ。(もちろん会社によりけりだと思うけれど)

で、そのキャッシュレスの割引も、その割引分がどこに行くのかが非常に不透明だなぁと感じる。

そんな話をしてたら、友達が「ちょうどね、昨日NHKでその現金化をやめてキャッシュレス化する制度の番組をしてたんだよね」と言って面白い話をしてくれた。

スウェーデンだったと思うけれど、スウェーデンは今現金での支払いをする人が全人口の2%以下の1%台しかいないとのこと。

基本的に何もかもが現金ではない形での支払いで、街行く人たちに該当インタビューしても「もう3年ぐらい現金を見てないよ」とか言う人ばかりだったらしい。

さらには手の甲の親指と人差し指の間ぐらいのところに注射でマイクロチップのようなものを埋め込んで、それが個人の支払いシステムになるようにしてる人たちも出てきているとのこと。

だからそういう人たちは手をかざすだけで支払いができるから、財布は要らなくなる。

その国でそんなにもキャッシュレス化が浸透したのは、きちんと理由があった。

国内に7つだったかの銀行があって、その銀行同士が協力して統一されたシステムを導入したとのこと。

人件費の削減はもちろん、例えば現金時代、店舗で売上が合わないというようなこともなくなって、今は全てデータ化で売上管理がなされている。

レジ締めなんかもデータでするから、いちいち現金を勘定することもなくなった。

人的負担が減ったことで、人々は余計な仕事をしなくて良くなって、残業しなくて良い、早く家に帰れる、自分の時間や家族の時間をより多く持てる…という良い流れを生み出した。

スウェーデンは、そうした個人の生き方やライフスタイルをより良くするために導入されたキャッシュレス化だったから、導入率100%に近いところまで行ったようだった。

番組でも言われていたらしいけれど、日本と全然出発点が違うなと思った。

日本のキャッシュレス化は正直何が目的なのかがよくわからない。

スウェーデンでは、この店では使えてあの店では使えないということが基本的にないらしい。

国を上げての統一した制度だから、とにかく均一に制度がどこでも使えるシステムになっているらしい。

銀行はと言うと、そうしたことに疎い高齢者とかが使い方を習いに行っておしゃべりしてくるサロン的な存在になっているらしい。

全然日本と違うとわかった。

これはつい最近のこと。

私はひょんなことから、ナナコカードと呼ばれるカードをもらった。

ありがたかったけれども、どこでも使えるわけじゃない。

ネットで検索して、使える店舗を探した。

セブンイレブンで使えるのは知っていたけれども、私は基本的にセブンイレブンで買物をすることがない。

一度セブンでポイントを使えるようにしてもらわないとでその時にお菓子を1つ買ったけれど、店内を見ても欲しいものがなかった。

だから私は今度は他で使えそうな店を探した。

最終的に確実に使う化粧水にしようとナナコカードが使えるドラッグストアに行ったけれど、今度は探してる化粧水がなかった(゚o゚;;)。

ドラッグストアを3軒回って、ようやくどうやら愛用していた化粧水はこの1〜2ヶ月で廃盤になったようだと知り、3軒目のところで使い心地が似たものを見つけてそれを買って帰ってきた。

2年か3年は気に入って使っていたのに、どうしてまた勝手に廃盤になるかな…、また化粧水ジプシーになりそうなどと思いながら帰ってきた。

日本はマネーカードにしても統一していないから、ここでは使えてもあそこでは使えないというのが本当に多い。

これは私みたいに本当に全くの素人、仕組みや制度もわかっていない人間から見ての感想だけど、日本のキャッシュレス化は「競争原理」が働いているようにしか見えない。

LINEのスタンプ欲しさでいくつかの企業からお知らせが来るけれど、どれも「うちの商品良いですよ」的なアピールになっている。

LINEペイとSuicaが違うのはなんとなくわかる。

だけど、LINEペイとLINEショッピングの違いはわからないし、LINEショッピングの中のAmazonと普通のAmazonの違いがわからない。

とにかく一事が万事そんな風で、お互いに協力しているというよりも、競争している風にしか見えない。

あと友達いわく、日本のキャッシュレス化が難しいだろう理由も番組で言っていたらしい。

キャッシュレスになるということは、別の言い方をすると全てのことがデータ化される。

データ化されると非常に都合の悪いことがたくさん出てくる人や組織もある。

それらをまとめて闇の勢力とするなら、日本では闇の勢力がまだまだ根強くて、そことの和解も得られないとキャッシュレス化を推進するのは難しいらしい。

それはものすごくよくわかる。

派遣の仕事の1つで、クレジットカードの不正利用に関する部署にいた時があった。

不正利用かどうかを調査することも含まれていて、クレジットカードで使われた店舗やサービスに問い合わせをして具体的に何に使われたかのデータを他社から提供してもらうこともあった。

「人妻・熟女との出会い」とか「〇〇ホテル(←名前がいかにもラブホっぽいのとか)」とか、超具体的に出てくる。

いつだったか、還暦手前の男性のお客さんに自分の記憶にある使用履歴を確認した時、電話越しに告白された。

「非常にお恥ずかしい話なんですが、アダルトサイトを利用しました」とか。

調査前だと、使用履歴は出てもそれが具体的に何のサービスや商品かはわからないから、お客さんに日にちと金額を伝えて内容確認する作業があった。

情報にも色んな段階があって、初期対応の時は私側から見ても何に使ったかは具体的にはわからなかったりする。

だからお客さんと1つ1つ確認しないといけないんだけど、そうやって言わなくても済んだようなことまでもが明るみになることも当然出てくる。

個人単位でもそんな風だから、これが企業となればもみ消したいことなんか山ほどあると思う。

スウェーデンの仕組みが上手くいった理由が「国民の生活向上」にあったとするなら、日本の仕組みは何が目標なのか少なくとも私にはわからない。

かつてのような競争原理ではもうどうにもならないところまで来ているから、より一層日本でのキャッシュレス化がどんな風に進んでいくのか、そこはとても興味がある。



そんなこんなを経て今回最後行き着いたのが、外国在住の日本人の人が日本帰省時に感じたことを綴った文章だった。

外国に住んでいるからこそ、日本のサービスの高水準・低価格のところが気になるとあった。

本当に海外ではありえない現象で、海外では高水準のサービスや製品にはそれ相応の適正な価格が付けられていて、反対に安ければ安いなりのものだというのが当たり前になっている。

日本はそうではなく、すごく良いものも異常な安さで出回っていて、そのしわ寄せが労働者側に行くだろうと察しが付くぐらいに酷いとあった。

私もそれは思う。

本当に品質の良いものが日本では至るところで提供されている。

でも今回そういう典型的なザ・日本の高品質低価格な店に行って、見方がかなり変わった。

本当にありがたいし、私だってこれからいつ消費者として使わせてもらうかはわからない。

だけど、それを裏で支えてくれてる人たちを今回垣間見て、それが本当に良いのかどうかわからなくなった。

代償があまりにも大きすぎる、その事実に唖然とした。




世の中はどんどん便利になっている。

まだまだ発展できるところもたくさんあるから、これからもさらなる進化を遂げていくと思う。

だけど、私はやっぱりどんな時も最後は「人」だと思っている。

「うわ、これ便利!」ということよりも、「これされてすごく嬉しい」ということの方が記憶に残る。

3日間の仕事でも、記憶に残るのは人とのやりとりだったし、これが日常だと余計とそうなる。

7年か8年前になると思う。

ねずみ講系の人に捕まってしまって、しつこく勉強会だのミーティングだのと誘われた時があった。

最後は適当に尻尾巻いて逃げたけれども、その時にポロっとこぼした話が私は今でも忘れられない。

ある程度上まで上り詰めたその人は、ある時にすごく嬉しかったこととしてこんな話をしてくれた。

ある方のお宅に呼ばれて、手作りのおつまみをあれこれ用意してもらってもてなされたという内容だった。

本当にそれだけの話だったけれど、その人が本当に欲しいのはそういうものだとすぐにわかった。

いつものトゲトゲして張り詰めた空気はなくて、声が柔らかくなっていた。

そしてそれが本当に嬉しかったと話していた。

人間はそんなに複雑怪奇に作られていないと思う。

色んなシステムやサービスが形作られていて、もちろんその恩恵もたくさんあるし、その技術者の方たちの仕事魂も感じる。

NHKの『サラメシ』という番組で、色んな働く人のランチを紹介すると共に、その人たちの仕事内容や職場風景もドキュメンタリーのように放送される。

本当に色んなサービスや商品があって、見ていて感動する。

いつかは段ボール会社が紹介されていた。

それを見るまで、スーパーやホームセンターなんかで段ボールに入ったまま並んでる商品の【段ボール】に目を向けたことなんてなかった。

本当に段ボール1つとっても、ディスプレイや陳列する際にどちらでも使えるようにものすごく細かい工夫がされていて、見ていて超感動した。

段ボールなんて最後廃棄するものだけど、そこじゃなくていかにその段ボールを取り扱う店員さんたちが使いやすいかを考えて設計されている。

扱うのは段ボールだけど、その段ボール会社の人たちが相手にしているのは、どこかの見知らぬ働いている人たちなんだとひしひしと伝わってきた。

そういう人たちに良いもの、便利なものを届けようとみんなで一致団結していた。

そのテレビの中の働く人たちもだし、至る所で働く人たちも、いつも中心にあるのは、人間の心じゃないのかな…と思う。

それは何も働く人たちだけじゃなく、自分を見ていても感じる。

自分の心が張り詰めている時にさっと一言声をかけてもらったり、気持ちが塞ぎ込んでるような時に美味しいものを一緒に食べたり…。

メールやLINE、電話なんかでさりげない一言をもらったりとか。

そういうことだけで、本当に救われる。

何も超特別な何かじゃなくて、そうしたことたちで心が満たされるところが大きい。

ここに書いたこと1つ1つは繋がりがない話だけれど、これからますます便利さが加速した時に、最後の最後本当に残るのは、人と人の繋がりだとか人の心なんだろうなぁと思っている。

2019年5月10日金曜日

夜のツバメノート






数時間前の夜、思いついてあるノートを出してきた。

その前の夜のこと。

「私愛されてる」と思った。

普段なら言葉に出すのも恥ずかしいだけじゃなく、「そんなわけない」と全力否定する。

だけど、その夜はとても自然に素直に「私愛されてる」と思った。

そして書いた時は、「私すごく好きなんだ」とも思った。

思ったのに書き忘れた( ̄∀ ̄;)。

そのノートはある特定の記録だけを目的にわざわざ購入して、そしてその記録のみを綴るノート。

1万年永久保存可能と声高く謳っている「ツバメノート」。

早くから私の自分チャージのための存在で、そこに書かれた記録を読むだけで元気が出る。

これまではあったことを回想して書くだけだった。

30枚ノートがそれだけではいっぱいにならないことも知っていたけれど、気にはならなかった。

「私愛されてる」感覚は、布団の中で携帯触ってる最中に出てきた。

これまでなら全力否定していたけれど、今回はとても素直にポロリと言葉ごと出てきた。

そして出てきたものを否定せずに、「うん、そうだよね」となった。

あまりにも自然に出てきたそれは、当初自分の心の中だけにとどめておくつもりだった。

だけど途中からその感覚をどこかに書いておきたくなった。

見える形に残しておきたい、記録の一部にしたい、そういう気持ちが強くなっていった。

最初日記帳か日々の記録ノートに書こうかと思った。

いやいやそれじゃないよね、もっと違うところがいいと思って、そしてそのツバメノートを出してきた。

最後のページは思い出の一部をすでに貼り付けてあって使えないから、ボコボコ感を避けるために次の見開き1ページを飛ばしたページに書いた。

そうだ今度からこの手の心に響いた何かは、そこに書いたらいいんだと思った。

ポコポコ毎日生まれる感覚ではないからそんなに書くこともない。

だけど一度自分で意識できるぐらいに感じたら、じわーっといつまでも残る。

それが起こるレベルはそう何度もないとわかるから、その滅多にないその時だけ後ろ側から書き詰めたらいいんだとわかった。

久しぶりに開いたついでに、一緒に出てきた「いつか書くことのリスト」を見た。

リストにはお茶だのメガネだのテプラだの封筒だのと出てくる。

最初「お茶」と見て「?」となったけれど、そうだ特保の烏龍茶だとすぐに思い出した。

他にもキーワードはメモ用紙いっぱいにランダムに書かれているけれど、どれも見るとすぐにその物やシーンを思い出す。

普段の記憶力からは考えられない、鮮明すぎる記憶たち。

少しだけ過去に書いたものや貼り付けたものにさっと目を通した。

最初のエピソードは「目」だった。

何から書こうと思って、そして堂々の初陣を飾ったのが「目」だった。

目は読まなくてもどの光景かすぐに思い出せる。

今気付いたけれど、この世の中でその光景を知っている人は私1人なんだとわかった。

目撃者は私1人だけ。

自分だけが目撃できたってすごい確率だなぁと思う。

目撃のチャンスは少なくともその光景の中にいれば誰にも等しく与えられたものでも、気付く気付かないは別の確率。

生涯を通じて私だけが独り占めできる光景だと気付いてとても嬉しい。

もはや私の脳内にしか存在しないシーンでも、それでも嬉しいは嬉しいし、特別は特別。

このツバメノートは特別だから、ケースに入れているけれど、そこから一緒に出てきたメモが超シュールだった。

レシピメモじゃなくて献立メモ。

それも「バレンタインとかクリスマスに何か振る舞うなら…」という、ALL妄想で仕立てた献立。

相手もいないのに、超真剣に考えて、そのうち一緒に飲む飲み物まで書き足してる。

仕事中、仕事するフリしながら思いつくままに書いていた。

献立はまだその後にも続く。

メモの写真右側の副菜的なのは、左側メモ一番下に書いた「ちょこちょこ盛った前菜」としてどうかな…と思ったもの。

ちなみに、ビーフシチュー、キッシュ、アクアパッツァ、かぼちゃとクリームチーズのサラダ、ソーセージとさつまいもの黒こしょう炒めは作ったことがない( ̄∀ ̄)。

さつまいもとクリームチーズのサラダは作ったことがある気がするから、作れると思う。

かぼちゃのサラダの要領であとはクリームチーズ入れればいいでしょ?と思ってる。

キッシュはずっと作りたいもので、今年こそは試したいと思う(と思って早数年経過…)。

食材がかぶらなくて、尚且つメインを邪魔しない副菜…って考えて出したものだったと記憶している。

もちろん考えたのは仕事中…( ̄∀ ̄)。

超絶くだらないメモだけど、私はその中身が好きで、ツバメノートと一緒に保管している。

ツバメノートの中身とは関係ないけれど、これもまた思い出として取ってある。

いつか本当にそのメニューが作れたら最高に良い!!!

ちなみにやたらとオシャレな感じの献立ばかりだけど、昨日の夜に私が作ったのは、ワラビと新玉ねぎの中華和え。

オシャレから程遠い( ̄∀ ̄)。

塩抜きされたワラビと新玉ねぎのスライスときゅうりの千切りとカニカマを割いたものを、ごま油・酢・しょうゆ・砂糖で和えたら出来上がり!

分量は、得意のザ・適当!

自分でも「絶対においしいはず!」と予想した通り、超絶おいしいサラダになったv( ̄∀ ̄)v。

献立はさておいても、心温まるエピソードやじわーっといつまでも残る感覚が生まれた時は、またツバメノートを出してきて書き足したいと思っている。

そしてパワーチャージしたいと思う。

本当にそのツバメノート、「読むビタミン」になってるのがとても嬉しい。

ツバメノートに記されたエピソードたち、本当に無限のパワーと愛を秘めている(♡´艸`)♡

2019年5月9日木曜日

5月のメッセージ




【5月のメッセージ】

・変化・変容の時。プロセスの最中。

・変容している自分を受け取ること。

・ユニークな形での変化(これまでに体験したことのない変化)の可能性あり。

・自分のところに来ている情報、サイン、メッセージに目を向けること。

・旅立ち、新しい出発の時。

・既存の概念を打ち破るような体験をする可能性がある。

・因習にとらわれず、自分が持っているオリジナリティを大切にする。

・ここから先の変容・変化は、天体的に一朝一夕に出来上がるものではなく、長いスパンをかけて完成していくもの。
すぐに結果を出すことよりも、小さな積み重ねを大切にしていく、自分の足元をしっかり整えていくことが、長い目で見た時に自分のためになる。

・一歩一歩着実に進むこと、積み重ねること。

・周りから理解を得るのに時間のかかることもあるけれど、どんな時も自分の軸、自分の中にある自分が一息つけるところを持っておくことが大切。
自分パワースポットのようなものを持っておくといいかも。[補足1]

・未だ見ぬ世界へと旅立つ。

・目先のことより長期的なビジョン。

・次に向かうための十分な知恵も力も自分が持っている。[補足2]

・すべてがそのままで調和している。[補足3]

・変化変容の時は、痛みももれなくセットでついてくる。痛みに対して否定的に捉えず、それも1つのプロセスとして自分の中で体感していく(自分のペースで!)。
あまりに痛い時は、自分チャージをする。

・生まれた時から備わっているもの(過去世から引き継いでいるものも含む)を使える形に整えていく。

・これまでは当たり前だと思っていたことが自分の才能や資質だったと気付くこともある。

・ボーンコレクター…骨を集める人
→自分の骨格=自分の中心の支えとなるものが何かを確認する。
→火葬されても尚も残るもの=永久不変のものに注目する。[補足4]

・自分の想いを自分の言葉で表現していく。それは対他人に向けてというより、対自分に対して確認する意味合いの方が大きい。

・耳を澄ませる。自分のために静かな時間を持つ。
自分のための静かな書き物をする。[補足5]

・これまでとは違うことをしてみる。[補足6]

・同じ志を持つ人たちとの出会い。

・過去の振り返りが鍵や自信になる。[補足7]



ー以下(*)ガイドブックより引用ー
The Enchanted Map Oracle Cards

*あなたの深い部分で、美しい変化が起こっています。

*低い自尊心や見切りをつけた夢、疲弊する人間関係や不健全な習慣を手放す必要があるでしょう。失うものもあるでしょうが、あなたは変化した自分の姿にきっと満足するはずです。

*美が姿を現す前に、私たちはすべて一時的な不快さを経験しなくてはならないのです。

*あなたは自分のことを、臆病で、欠点だらけで、愛される価値がないと思っていませんか?他人に批判されるに違いないと思っていませんか?本当のあなたには、強さと無限の可能性があるのだと、ボーンコレクターは伝えています。あなたが傷ついたときに奪われたものを、彼女はずっと大事に預かっていました。今あなたが望みさえすれば、それは再びあなたのものです。あなたには欠けているものなどありません。



[補足1]
「自分パワースポット」っていうのは、巷で言われるパワースポットじゃなくて、自分の中でその場やモノに触れてるとパワーチャージできるもの・事という意味。

どこかに行かなくても、いつもより丁寧にコーヒーを淹れてゆっくりと飲むでも、お気に入りの音楽を聴いてゆっくりするでも、気晴らしに美味しいごはん食べに行くでも何でもOK!


[補足2]
「知恵も力も自分が持っている」と思えない場合の補足。

持っていないなんていうことは「ない!」けれども、そこは人によって感覚が違うのは想像できる。

そんなの持ってない!となっていた時に私が実際にしていたこと。

・自分にも知恵や力があるのかも…ととりあえず思ってみる。

・自分がこれまでできたことを具体的に挙げてみる。
【ハードルはうんと低く!がポイント】

究極、「今日も生きてる!」で二重丸。

・上に関連して、毎日1日の終わりにその日何とかなったことやできたことを10個書くのもおススメ!

細かく見ていくと、自分はアレもできてコレもできて…というのが見えてくるようになるし、自分の持っているものにも気付けるようになる!


[補足3]
「すべてがそのままで調和している」というのは、若干究極の考え方ではあるけれど、後から振り返ってみると意外にもそうだったりする。

色々思い通りではない状況を前にした時、それが「調和」しているなんてとても思えない。

だけど、例えばじっとしていることで事故や危険を免れたり、不調和に見える状況が調和へと繋がるステップだったりする。

不調和があったからこそ、知恵が湧いたり、人から助けられたり、自分の対応力が増したり…ということもよくある。

無理にそう思う必要はないけれども、もしかしたら今は今で必要があってそのようになっている…、と思うとちょびっと気持ちが楽になれたりはする。


[補足4]
「永久不変のもの」の追記。

ボーンコレクターを調べていた時、よくよく考えたら、人体って燃やしても最後骨は残るんだよねーということに気付いた。

そして、骨=体の中心を形作るもの。

永久不変に残るものは、状況や環境など色々変わっていく中でも変わらないもの。

それは自分の内面的なものや価値観かもしれないし、特定の人間関係や一生付き合うモノかもしれない。

人間関係で永久不変っていうとちょっと語弊が生まれそうだけど、例えば私の例で言うなら、亡くなった母方祖母が自分の中にずっと生き続ける、そういう風に、状況が変わっても変わらずに大切な人という意味合いで言ってる。

何がなくても、又は何が変わっても、変わらずに自分の中に残り続けるもの、そういう本物を自分の中で見つけていくことが大事かな…とカードを見て感じた。


[補足5]
「自分のための静かな書き物」

書く書かないは自由だけど、「自分のための静かな書き物」をするためには、1人で自分の声に耳を澄ませる必要がある。

カードの中にきつねがいるけれど、きつねというのは聴覚がものすごく優れているらしい。

調べたところによると、無風状態の静かな林の中で10数メートル離れた場所の枯葉が落ちた音を聞き分けるぐらい、耳が良いらしい。

下の段の真ん中のカードも「サインに気付く」という意味のものだけど、背景を見るとやっぱり静寂な感じが漂っている。

自分から自分に向けられたメッセージやサインというのは、1人で静かにしていた時にふと訪れるもの、そんな風にも取れる。


[補足6]
「これまでとは違うこと」というのは、大きなものじゃなくて、気軽に簡単にできることからやってみるといいと思う。

例えば、毎回同じ道を通って駅へ行っていたとするなら、いつもとは違う道を通ってみるとか。

いつも同じメニューばかり頼む店があったら、頼んだことないものを注文してみるとか。


[補足7]
「過去の振り返り」をする時におススメなのが、昨日や1週間、1ヶ月前とかではなく、半年とか1年単位以上前と比べての今の現在地や今の自分と比べること。

そこから見て自分が何が変化していて、何が続いていて、何をやめて、何を絶ったのか、そんなことが見えてくる。

激動の時代の今、変化は目まぐるしくても、自分自身のことになると昨日と変わらない今日のように見えたりしてわかりにくい。

でも大きな時間の単位で見ると、確実に違うものがある。

私の好きな考え方の1つに、【今日の自分が過去最高に知恵を持っている自分】というのがある。

30代、何回もつまずいて色々やらかして自分で自分が嫌になったり窮地に陥ったりしたことは山ほどあった。

そんな時に出会った言葉だった。

言い方はもう少し違っていたけれども、たしかにそうだなぁと思った。

確実に今の自分が過去最高に長生きしてたくさん経験もしたから、一番知恵があるというのはなるほど納得だった。

そして、結果はどうあれ「自分がんばったな〜」と思える部分が出てきた。

色々大変な時を過ぎ去って、とりあえず今があると思うと、それだけでウルっと来る時がある 笑。

何かできたことよりも、何とかやってこれた、何とかそこを切り抜けた自分を思うと、やたらと自己肯定感も高まる 笑。

そういう振り返りならありだなぁと思う。

自分のために丁寧に飲み物なんかを淹れて、それで色々振り返ってみるのもいいなぁと思う。



過去の振り返りで、友達がわかりやすいエピソードを1つ教えてくれたから紹介。

友達は仕事でカッターを使う。

1年前友達は、同じ場所をカッターで派手に切ってしまって、医者に行くぐらいの騒ぎになった。

それが今回、また同じ場所をカッターで切った。

ところが今回は朝早く1人で出て仕事をしていたから、周りには誰もいなくて1人で対処しなければいけなかった。

そんな時に、去年何回も医者通いしなくてはいけないぐらいの傷になったのに、今回はその後何かの折に学んで、1人でその場ですぐ対処できたとのこと。

ちなみに友達いわく、そういう時は、止血してある程度落ち着いたら、傷口にワセリンを塗ってサランラップで巻くといいとのこと。

逆に消毒は、治すための菌まで一緒に殺してしまうからよろしくないとのことだった。

渦中は大変だったものの、その後落ち着いたら、「1年前と同じ状況なのに、それを落ち着いて対処できる自分になってる、そのことに感動した」と話してくれた。

職人肌みたいな職場で普段怒られてばっかりで全然進歩がないと自分では思っていたけれど、少しずつ色んなものを積み重ねているんだと実感した、とも言っていた。

過去と同じ状況を体験したことで自分の変化や成長を見て感じ取れた、と友達はしみじみと語っていた。

過去を振り返ることでパワーがもらえる、それも自分自身からもらえる、友達の話はそういう教えも含まれているように私は感じた。



【最後に私見】

流れに乗りまくりな人はその勢いでどんどん進んだらいいと思うけれど、私みたいにああでもないこうでもないと立ち往生してる風な人の視点から大切だと最近感じること。

完全な私の肌感覚だけど、「無理せずに自分の感覚で一歩一歩」なのかなと思う。

ゴールデンウィークの終わりに3人の人から連絡をもらった。

それぞれ別件での連絡だったけれど、3人に共通していたのは、みんな何かしら不調があったもしくは進行形だということ。

体に出た人、心に出た人、人間関係に出た人、みんなそれぞれ違ってはいたけれど、体に出た人は3月4月が本当に毒出しみたくかつてないほどの体調不良を経験したと言っていた。

私は体と心のダブルで今頃になって出てきたタチだけど、弱れば弱るほどとりあえず体力も落ちているからガツガツはいけない。

ちなみに3人とも「具合どう?」なんて聞いてないのに、3人ともが自分の具合について話してくれたから、それで「今全体的にそういう流れなのかな…」と思った。

去年2018年から徐々にヒートアップして、これから2020年に向かってますます時代の変化が促されていく流れになっている。(空の天体配置でははっきりその相が出ている)

世の中だけじゃなくて、個人レベルでもその影響を感じている人は結構いるんじゃないかと思っている。

年明けから3〜4人に星の動きを聞かれたけれど、「楽になる?」という質問に対しては、個人差があるけれども、とにかく余計なものには削ぎ落としのエネルギーがガンガン入ってきているから、最終的には良くなる方向でも渦中はけっこうヘビーだと思うと答えている。

少なくとも2020年年末まではその流れは続くから、長期戦であることは言った。

こういう時、別にビビらせたいのではなく、「心配したほどじゃなかった!」ならいいけれど、「大丈夫!大丈夫!」と軽く受け答えするのは私の美意識に反する。

そういう流れだと思えば、そのように心構えもできて、それで大したことなければ一番いい。

反対に何かあれば、「あー、今そういう天体の動きなんだなぁ、星回りがそうだから仕方ないなぁ」と、とりあえず自分以外の影響も含まれていると思えるものがあるのはけっこう心強いと私なんかは思ってしまう。

もちろん、それは【良くなっていくための流れ】であることはきちんと説明する。

で、その激動の渦中にある時に私が感じるのは、自分にとっての【心のオアシス】をいかに作って常備できるかだと思う。

渦中はどうしてもキツイ。

恐怖や心配、不安なんかもじゃんじゃん出てくるし、見通しの立たない先行きに対して「楽しみ」なんて自分を鼓舞するのも難しい。

そうしたメンタルに影響が出るタイプの感情、恐怖・心配・不安あたりは、掻き消すよりも見たり受け止めたりする方が早いとわかるから、その辺りはかなりできるようにはなってきた。

だけどそうじゃなくて、なんだろう、そういう感情が湧き出た時も、自分の中で自分がくつろげるところ、自分が安心できる場所があるとすごく心強い。

自分の心のオアシス、それを持っていていつでもそこに戻れるなんていうものが1つでもあるといいなぁと思って、ここ最近は意図的にそれを作るようにしている。

【心のオアシス】とか【自分パワースポット】とか【自分チャージ】が、これからの激動の時代を生き抜くための大切なアイテムになると私は思っている。

2019年5月6日月曜日

発熱体からの文筆活動

それは突然だった。

最初のどに詰まりを感じて、声が出ているけれど、半分くらいしか出なかった。

変なのと思いながら、そのままおしゃべり。

次はおなかが痛くなって、そして頭も痛くなった。

友達がお開きにしようと言って、それで車に乗り込んだら、体は倦怠感でいっぱいになり始めていた。

家に着くと寒気がして、夏日のような日なのに、極暖のヒートテック出してきて、毛布ももう1枚用意した。

足首ウォーマーもして、厚着+羽毛布団+毛布2枚という、すごい格好をしてもまだ寒かった。

節々は痛いし、腰も痛い。

肌が服と密着しているところに違和感がある。

熱出るんだなぁと思って、そのうち38度になった。

久しぶりの発熱。

何が辛かったって、体は全身辛くて休みたいのに、とにかく1時間としてまともに眠れない。

目が覚めて時計を見ると1時間も経ってない。

そんなことを繰り返しながら、朝になった。



友達に近況を話した時、とても感動した言葉があった。

「それ、あと絶対に1ヶ月はかかるよ」

「もしすぐに返事きたら、それもうその人じゃなくなっちゃうよね」

友達は会ったこともない人をそう言った。

事実だけ述べてるに過ぎない私の話から、絶妙すぎる人物像を思い浮かべて、そして放った言葉だった。

なんだかとても嬉しかった。

この友達は、1年以上、もしかしたら1年半近く前に、突然私に言ってくれた子だった。

当時は限りなくゼロに近い可能性に賭けてやっていた。

私でさえもそんなことあるわけないと思いながらやっていた。

そんな時、その友達にその話をしたら、
「読んでるよ!絶対に読んでるよ!」
と即答で言われた。

そのまたもう少し後で友達がどうしてそう断言してくれたのか教えてくれた。

「あの時、本当に不思議なんだけど、見えたんだよね!ぶっしーが話してくれてるその目の前で、突然パッと画像みたいなのが出てきて、読んでる姿なんだよね。顔とかわからないけれど、そういう映像みたいなのが一瞬出てきて、だから私『絶対に読んでる』ってわかったというか、断言できたんだよね!」

その友達は霊能力もないし、後にも先にもそんなの一度しかないから本当に当たっているのかは知らないけれどと言いながら、そんな風に映像が見えたのはその時だけだったと教えてくれた。

そんな自分に役立たない情報じゃなくて、自分に必要な情報をそうやってヒントのように見せて欲しいとボヤいてた。

友達の話の真偽はわからないにしても、当時の私の心をものすごく救ってくれた。

色々絶対に駄目だと絶望感たっぷりだった私に一抹の光をプレゼントしてくれた。

友達の話が本当かどうかなんて確かめようもなかったけれど、それを聞いた私はそれがもし違っていたとしても嬉しかった。

何かしら繋がりが欲しかった当時、もし本当に友達の言ったことが事実ならすごく嬉しいことだった。

違っていてもそうだと聞くだけで私はパワーチャージできた。

何にもすがるものがないようなその時に、すっと差し出されたその言葉は、私の心の奥に真っ直ぐに届いた。

そして、友達は私を喜ばせようとか気持ちを良くさせようとかいう意図が全くないのも知っていたから、本当にあくまでも自分が目にしたことを口にして伝えてくれてるのもわかった。

本当に嬉しかった。

そして、友達が見た映像の情報は、その時から数えて1年以上経過して、本当にそうだとわかった。

友達にその証拠写真を見せたら、友達も「本当にその通りだったんだね〜」と感心していた。

何かが水面下で繋がっていたんだと思う。

2年前の夏、その友達と一緒に花火に行った日、お互いにとても近くにいただろうその時に磁場が繋がったのかもしれない、と私はこれまでも何度となく思った。

知らない者同士でも、何か役割があるのであれば、そういう不思議な繋がり方をしてもおかしくない。

それとは別に、1年前にもその友達と私とである看板を見たという話で大いに盛り上がった。

友達に聞いた。

あれから一度でも同じような事件が起こって看板を見た道を通ったのかを。

友達ははっきりと言った。

本当にその時限りで、あれ以降そんな訳の分からないことは起こっていないと。

看板も見ていないし、未だにあれは何だったのかと思うと言っていた。

そして今回の発言。

すぐに連絡するようならもうその人ではない、多分毎日携帯見ちゃどうしようってなってるよ、と友達は言った。

友達は、その状況も否定しなければ、その人の性格的なことも否定しないどころか、むしろスムーズならもはやその人ではないとさらりと言い切った。

色んなことが「異常」だと私は言ったけれど、友達は最後まで「異常」という言葉を使わなかった。

私がそう言っても「異常っていうのとは違って、何て言えばいいんだろう…」って言葉を一生懸命選んで感じたことを伝えてくれた。

当事者たちが言葉にできないものを、友達が代わりに代弁してくれてるみたいだった。

途中からすでに体の具合が色々おかしくなっていたけれど、友達の言葉はどこまでもやさしくて、そのやさしさはしっかりと伝わってきた。



熱で頭がボーっとしてなければ書けない、そう感じながら書いた。

のどの調子が最初悪くなった時、友達と「それ移ったんだよ 笑。言いたいことが言えない、のどの不調が飛んできたんだね」と言って笑った。

友達は言った。

「それを見ることで、相手もぶっしーから元気をもらったりしてるんだよ。じゃなければ、時間をかけてまでそんなことしないと思うよ」

これは友達の予測でしかないけれど、そう言われて嬉しかった。

頭がボーっとしてると何でも書ける( ̄∀ ̄)。

発熱様々、体調不良バンザイv( ̄∀ ̄)v

(ちなみに熱はもう下がって微熱中。頭がシャキッとしたらアップするのをためらうかもしれないから、さっさとアップしよう)