2021年5月3日月曜日

心の徒然_GW2021


ゲリラ豪雨の空に姿を見せた青空
2021/05/03

田植え前の田んぼ



2021/05/01 

あと少しで明日


転勤の話を聞いてちょうど5日が経った。


あの日や翌日と比べて、自分自身は落ち着いてきたし、日常が戻りつつある。


距離が気にならないわけじゃないけれども、あの衝撃が薄れてきたなぁと感じる。


日常をスムーズに送るにはそういうことに対して感情過多にならず淡々とやり過ごせる方が良いのだろうけれど、この薄れる感覚にもなんだか寂しさを覚える。





2021/05/02

朝の布団の中で(6時)


昨日スーパーに行った帰り道、あと少しで家に着くという頃に思った。


あぁこうして衝撃が薄らいで何もかも気にならなくなったように日常に戻って行くんだろうなぁ、と。


これまでと今回の新天地を知った今とで何が違うんだろう


何も違わない。


距離が離れた分、関係性もさらに遠くなっただけ、遠くなっても「それは仕方ない」と割り切ろうとするだろう、日常に戻った時の自分はそうしてしまいそうでそれさえも怖かった。 


その人が自分の毎日の中にいた時間の方がうんと少なくて、いないことの方が当たり前と言えば当たり前になる。


そして「いた」時間についても、その人の意志でいてくれたのとは違う。


単に異動先の1つが新潟で、たまたま私もそこに居合わせられただけという偶然の産物状態でそうなった。


必然だと私は感じているけれども、実際には「偶然の産物」とする方が自然だったりする。


だから、その人からしたら、恐らく希望もしていなかった新潟に行くことになったからいただけだったのは重々承知している。


「これ誰にも言わないでくださいね」と前置きされた上で、その人が当時転勤になったのは本人が希望を出していたことをその人と仲良くしていたSさんから転勤後何日もしないうちに聞いた。


本人も出たがっていて、そもそも新潟に滞在希望なんかしてなくて、本人の前の人は長くいたことも聞いたから転勤は本人希望だったと聞いて当時も今もより一層そうだよねと納得しているし、それを知った上でずっと4年近い時間を過ごしていたから、実際は何も変わらない。


変わらないけれど、2回目の今回の転勤話は違う。


さらに遠くに行ったことは、確実に「繋がっていない」ことを突き付けられたように感じて、それに自分が激しく反応している。


反応したけれども、あまりに生々しい感情と対峙し続けると日常を送るのに差し障るから、何もなかったかのように奥にその気持ちを押しやろうとしそうだなぁと心配になっている。


奥に押しやったり平然と日常を過ごしたりすることはできる。


その辺りは長いこと人生で訓練してきたから、とても長けている。


だけどそれは本当は何も変わっていないと知った時に、自分がしんどくなる。


何事もないようにするよりも、自分の気持ちに耳を傾けたり自分に正直であることの方が大事だなと今回のことで思った。


自分しか自分の気持ちに気付いたり労ったりすることができない。


だから自分がその係を放棄すると、それはまんまと自分に返ってくるだけだと今回よ〜くわかったから、なるべくそうならないようにしたいなと思った。







10時台、外は雨


昨日、友達のノムからお届けものがやってきた。


中には劇団四季の会員会報誌と浄化用のバスタイムソルト、小さなお手紙が入っていた。


ノムがその会報誌向けに劇団四季の稽古を見学に行って、その時のことを交えながら新作の演目の紹介をした文があって、それを私が読みたいと言ったからわざわざ送ってくれたものだった。


でも、その冊子よりもお気に入りとなったソルトよりも、ノムの書いた小さなお手紙に私は何よりも気持ちが傾いた。


ハガキサイズよりも一回り大きい小さなお手紙には、普段のノムの文章量から考えるとうんと短いものなのに、その中の一言の強さと言ったら破壊的なものがあった。


ノムとノムのパートナーのミッチーとで、9匹の猫たちと一緒に住んでいる。


猫たちはノムたちが積極的に飼おうとしたのではなく、野良猫たちが1匹また1匹と住みついて今の暮らしになったとのこと。


多頭飼育問題がニュースで取り上げられたりしているけれども、2人の暮らしはそういうこととは180度違うところにある。


数だけ聞くと多いと私も2人の家に行く前は思ったけれども、いざ行ってみるとそんなことは全く感じなくて、2人が1匹1匹の猫にありったけの愛情を注いで日々お世話しながら共存しているのがよくわかる。


ペットではなく、日常を共にする家族とか同士という感じだった。


それは普段の電話越しのおしゃべりでも感じるし、ノムやミッチーとのLINEのやりとりでも時々猫ちゃんたちの話や写真が出てくるから、言うなればテレビで放送される大家族の構成員が人間か猫かの違いくらいにしか私には感じられない、そのくらい2人がとても大切に猫たちの命を守っていることがわかる。


その中の1匹が死んでしまったとあった。


その言葉の重みは命の重みとイコールで、全く関係のない私にもその重みがきちんと伝わってきた。







ノムの言葉を読んで、何て言葉を返すが良いのかを考えて、ノムに連絡した後、2、3日前から続いている手紙のことが頭の中をよぎった。


生きているうちに会えるってすごい、というようなことを私は手紙の中で書いた。


私に本物のアフリカ料理をふるまってくれたとあるアフリカ人女性がいた。(どこの国だったかは失念)


友達の友達で、私も一度だけ会ったことがあった。


その一度の時に彼女お手製のごはんをいただいた。


その彼女が病気だったのか事故だったのかはわからないけれども、亡くなったと何年か前に友達から連絡を受けた。


その時に、その友達が生きているうちに会えるってすごい、ということを言って、その言葉は今も私の中にずっと生きている。


日常がルーティン化して代わり映えない昨日と今日、今日と明日みたいになってくると、生きていることが当たり前の前提になりやすい。


本当は当たり前のことじゃないのに当たり前のような錯覚を覚える。


生きているうちに会えるってこと、普段は本当に全く意識しない。


だけど、その人と同じ職場に行っていた頃はそのことを本当に日々ものすごく意識していた。


命の偉大さ、生きてることの不思議、そんなことを日々感じながらその場にいた。


そのことを思い出しつつ、残りの人生で会うこともないだろうことを思う時に、生きて会えたこと、巡り合わせてもらえたこと、同じ時代に生まれたこと、同じような年齢で生を受けられたこと、同じ職場にいられたこと、その人と知り合えたこと、お互いに元気にそこに日々通うことができたこと……、そういう色んなことが普通ではなく本当にすごいことなんだと改めて強く強く感じた。


これは妄想じみた話だけれど、もし本当にその人と私とが過去世と呼ばれる過去のどこかで家族同然みたいな関係で日々近くにいて、そして今世でもう一度再会した魂同士だとするなら、本気ですごいことだと思う。


それって本当に1つとして過去の選択が狂ってはいけない。


どんなに嫌で不服な選択肢さえも、それを選んで今ある人生の通りに人生を組み立てていかないと、その人と私とは出逢えなかった。


もしその人が「新潟なんてあんな田んぼの真ん中にある事務所に転勤なんて嫌です。今のところに留まらせてください」なんて言って通ったとするなら、私がその職場に行ってもその人はいなかったことになる。


もし私がそのひとつ前の職場で、契約更新になっていたのなら私に更新しない理由なんてなかったし、当時の仕事は本当に色んなものに感謝したくなるくらい私の大学での学び+社会人人生で色々やってきたことでついた力を全部組み合わせないとやれない超マニアックな仕事を最終的にすることになって、自分でもやってて面白いと思える仕事だったから、更新と言われたのなら即答でお願いしますと言っていた。


契約終了に対して未練とかはなかったけれども、なにせ私しかそのマニアックな仕事はしてなくて何でこのタイミングで終わりなんだろう?と思ったし、実際にその人のいる職場に行き始めて、「この仕事は私じゃなくてもいいのに、何で私ここに行くことになったんだろう?」と思っていた。


当時20数名が一斉に契約終了になったから、そのポジションは他の人たちにオファーされていても何らおかしくなかった。


むしろ事務経験のない私に来たことの方が驚きで意外だった。


そういうことを言い出したら枚挙にいとまがないけれど、魂と魂が今回の人生でも再会するということになるのなら、そのくらいの勢いと有無を言わせない実行力がいるのかもしれない。


絶対服従と言わんばかりに物事たちが実際と同じように寸分の狂いもなく動いて、それで実際に出逢えるシチュエーションにまでなったわけだから本当に凄いと感じる。







2021/05/03

夕方の豪雨の音を聞きながら


もう少し書きたいことがあるけれど、一旦ここで区切ってアップしようと思う。


昨日の夜、両親が妹家族がいる金沢から帰ってきて、またいつもの3人暮らしに戻った。


私は頭の中で勝手に6日までゴールデンウィークだと思っていて、有休足して8連休と本気で思っていたのに、昨日かおとといになって初めて5日迄な上に7連休と初めて気付いてガッカリした。


日常に戻るのは時間の問題になってきた。


だから残り2日の中で書きたいことを書き切ってしまいたい、そう思っている。


また同じようなことを書くとしても、小さな私にしかわからないような事でも、今しか書けないことはなんとなく感じているから、その「今」のことは今のうちに書いて残しておきたい。


過去のノートや過去の日記帳、手紙の下書きを少しだけ今回見てわかった。


今同じように書きたくても、もう当時の自分と同じ気持ちと同じ感覚になって言葉を綴ることはできない。


それは今も同じことで、今感じたり考えたりひらめいたことは、やっぱり今しか書けない。


例えば来年のゴールデンウィークに今と同じように一人きりの時間が持てて、例えばそのタイミングでその人が九州に転勤したと聞いたなら、今とは違う風に感じる可能性ももしくはもっとあっさりとあぁ繋がらないどころかこれからは知らないどこかで互いに生きる道なんだと認めて前を向くかもしれない。


はたまた結婚したと聞いたとするなら、それもまた今年の今とは違う反応をするだろうと思う。


とにかく何であったとしても、今の心の内は今しか書けない。


だから書き切ろうと思う。


18:23  ゲリラ豪雨並みの今

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