2019年7月18日木曜日

eat LOVE ⑿ eat LOVE聖地

野村浩平 個展「 celebration!」@ plate tokyo 
(↑ノムの個展の案内文。リンク飛びます)

個展「celebration!」のお知らせ
(↑これも個展の別バージョン(?)の案内文)

(↑ノムとミッチーの日常)











2019/07/03

eat LOVEシリーズは真ん中ぐらいまで今書き終えた。

⑸の扉びらきを3時間ほど前にアップして、今は⑹タイトル未定の星トリオとの夜について書き始めた。

いつもそうだけど、シリーズものになる話の時は、最初は全容が掴めていない。

書きながら掴んでいく。

eat LOVEシリーズに関しては、今書いているものがラストのものになる予定。

星トリオとの夜の後に、ミッチーとレイさんの手作りごはんの話が来て、その次にノムとミッチーの話が来て、そして最後3人と過ごした時間のすべての総まとめみたいな感じで書こうと思っている。

その他にも、ホロスコープと重なった話とかも書きたいし、レイさんが口にしてくれた話も書きたい。

その辺りは、これをアップする頃には何かしら答えが出て、然るべき形でアップされるなりもしくは引っ込めるなりしてると思う。

とりあえず思いついたことをその時に書かないと忘れるから、今思いついたことから書く。




「問題を解決しない」

この辺りの感覚は、私は若干ズレてるかと思うから、あくまでも私の考え方で価値観だと言い切ってから話し始めたい。

eat LOVE邸というよりノムとミッチーに最初興味をガンガン抱いたのは、ノムが言葉少なめのミッチーをそのままにしていることと、そしてノムはノムでやっぱり言葉が欲しいからその自分の気持ちは気持ちで大切にしていること、そこにものすごく惹かれた。

これってすっごい難しいことだと思う。

ミッチーがベラベラと話したらミッチーではなくなるわけで、過剰にも喋って欲しいとかはさすがになくても、返事が言葉が欲しい時も当然ある。

それを求める自分と言葉少なめのミッチーとの両方を受け止めて両方を生かすって並大抵のことじゃない。

なんだけど、ノムはなぜかそれを自然にやってのけてる。

有名心理カウンセラーとかよりもノムすごいんだけど!と思った。

お亡くなりになられたけれど、河合隼雄さんという有名な心理学者がいられたけれど、その方のやってることにものすごく近いことをノムは知ってか知らぬかやっている。

私もあんまり詳しくはないけれど、2冊ないし3冊ぐらい読んだ河合隼雄さんの本の中のエピソードにすごいそっくり。

私が印象に残っている河合隼雄さんは、カウンセリングを受けに来る人相手に、基本為すがままで、本人が何も喋りたくないとなればそのままにしておくし、心理療法もやりたくないとなればそれもそのまま、なんだけどある時変化が訪れる、その変化は起こってもいいし起こらなくてもいいぐらいの心構えで普通に待っているみたいな感じだった。

変化を起こそうともしてないし、相手を治そうともしていない。

なのに変化が起きるわけだから(本人の力が出てくる)、すごい神の領域みたいなことをしている。

ノムがミッチーとお互いにしていることってそれにすごい近い感じがした。

で、いざノムとミッチーとレイさんがいる聖地へと行ってみて、それは想像していた以上にすごく鍛えられて整えられた空間だと知った。

サイトの中よりも、もっとあのeat LOVE色が色濃く表れていた。

3人のすごいところは、「問題を解決しない」こともすれば、「解決したい気持ちを隠さない」こともしていたところ。

解決したい気持ちを本当は隠したいのかもしれないけれど、関係のない私がそこにぽっと行くと、「解決したい!!!」気持ちがまるで吹き出しのように見え隠れしていて、それがまた何とも言えず良い感じだった。

解決したい本人はそれどころじゃないかもしれないけれど、それさえも空気に滲ませてしまう術をなぜか3人共が持っている。

それっていいなぁと思った。

本気でそう思った。




私という人は、オール1から始まり、スーパー人見知りで言葉を発さない子どもだったから、子どもの頃というのは、学力向上と能力向上と会話力向上と自己表現力向上のための日常的な訓練が至るところにあった。

それらの日々の積み重ねなくしては今の私にはなれないから感謝はしているけれども、代わりにそうした訓練を重ねれば重ねるほど「そのままの自分ではダメなんだ」という自己否定感をこれでもかと自分の中に植え付けていって、典型的な「自己否定強めの人」になった。

そこに加えて福祉の世界に入っていった私は、「問題は解決を図るもの」として教えられた。

悪くはないけれど、それが全部ではないと知ったのは福祉の勉強を始めて現場にも入った後数年経過してからだった。

一番初めに衝撃を受けたのは、今から14年ぐらい前になると思う。

申込制の福祉の1日講座に参加した時があった。

群馬までわざわざ公共交通機関を駆使して何時間とかけて行ってきた。(←隣県とは思えない遠さと不便さだった)

たった一度だけ診てもらった精神科で「うつ」と診断されてしばらくの頃だった。

外に積極的に出れるほどの心の状態ではなかったけれど、申し込んでお金も払ったか何かで無理を押して行った。

行って本当に良かった。

そこでは韓国人の大学の先生がとても素敵なことを教えてくれた。

先生のところに、大人の夜尿症カップルが訪れた。

夜尿症の自助グループで知り合ってそれで結婚した2人とのこと。

その2人が新婚旅行に行くことになった。

だけど、2人とも旅行中におねしょするんじゃないかと心配で気が気じゃなかったらしい。

そこで先生は大胆不敵な提案を2人にする。

「旅行でもらしてきたらいい、それで2人で笑って思い出を作ったらいいじゃない?一生忘れられない思い出になるから!」

そう言って2人を送り出したらしい。

すごいなと思った。

問題を問題として扱うんじゃなくて、そのままにすること、なんならそれを思い出に変えることを先生は提案した。

先生のこの提案は功を奏して、2人は粗相することなく旅行を終えたのだそう。

この話とノムとミッチーとレイさんで作る世界とに共通点を感じる。

とりあえず3人ともが徹底しているのは、何事も受け入れることと否定しないこと。

この徹底ぶりは半端ない。

私が知る限りの人たちの中で一番徹底していて、それもそれは自分が楽になりたいというよりも、自分の近くの大切な人を守るためにそうしているのが本当に伝わってきた。

3人それぞれの一生懸命さが混じり合って、その3人で作る世界は極上すぎて、素晴らしすぎた。




eat LOVE邸で求められたことって、結局自分でいることだったと思う。

例えば何かのパーティーとかイベントでドレスコードがあるとするなら、eat LOVE邸のドレスコードは「自分でいること」。

しかも、この「自分」は限りなく素に近い自分。

例えば私なら、ミッチーのように言葉少なめそして自らベラベラ話すタイプの人ではない人を前にすると、自分から質問を振りまくる。

質問を振っちゃ相手の返答の仕方を観察して、また質問をタイミング見て振って相手の返しを見る…、そのエンドレス行動に出る。

レイさんのように、同性の年上女性相手の時もかなり私はあれこれ立ち位置を考えてしまう。

話し方はもっと考えて、でも今回は気付くとタメ口調な自分に引いたりしながら、でもレイさんは何てことないのか普通に接してくれていて、その不思議な会話のリズムの中で私は楽しんだ。

ノムは、ミッチーに対して確認する時のノムの反応が面白すぎて、時々わざといじってしまった。

普段なら絶対に人をいじったりしないけれども、いたずら心がムクムクと湧いてきたから仕方ない。(←えっ?( ̄∀ ̄;))

喋りすぎな自分に引いたり、初対面とは思えないあまりの心許せる感覚にうっとりしたり、私の中は色々と大忙しだった。

そうした諸々がそのまま出てきてしまって隠せなかった。

普段ならそこまで出ない。

自分でもわかっているけれども、私は人間観察をアホみたくしているし、相手の人の感じを見て話す内容や範囲を決めていたりする。

とにかくいつもいつも意識があちこちに飛んでるわ、相手からどう思われるか気にしいだわ、色々裏を読み取ろうとして訳のわからないことになってるわで、こうして書き出すと本当に忙しい人だとわかる。

でもそれでいいんだなと思った。

思ったじゃなくて「思えた」。

初対面の時の私の自分見せ平均値が1とするなら、eat LOVE邸ではその10倍の10出してた。

もっと言うと、長い付き合いの友達の前で出す自分とそんなに大差ない感じだった。

緊張ゼロとはもちろんいかなくても(限りなく少ない緊張だったけれど…)、それよりも居心地の良さが勝っていた。

だから、私は初対面とは思えないリラックス度で、本当に昔から見知った仲の人たちと集っているみたいだった。



[7/18追記:この中では「eat LOVE邸」と私は言っている。その後、自分の中で書きながらどんどん変化したことがわかるから、文中は訂正せずにそのままにした。7/17に書いた文が下に出てくるけれど、そこに私が「eat LOVE」の後ろにくる言葉たちについて書いた内容とズレている。でもそのズレも書き続けなければ知らない域の話だったから、ここではそのまま「eat LOVE邸」にする。]




2019/07/06

今(8)『星トリオと織りなす占星術』を書いている途中。

こういうのは、出てきたその時に書かないと忘れるから先に書こう。

ノムとミッチーとレイさんと3人で会ったのがどうしてこんなにも印象に、それも体感レベルでの印象に残ったのか。

4人とも大人になって、それがどういう人格であれ、ある程度固まった形に形成された状態で出会ったにも関わらず、それぞれのままで一緒に時間を過ごしてみて、それがめちゃくちゃ心地良かった。

子どもはまだ伸びしろのような変化する部分を持ち合わせているけれど、大人はその伸びしろが基本ないとは言わないけれど、そんなにはない。

自分の感覚も何なのかわからないけれど、子ども相手だと「生理的に本当に無理」なレベルの人は何百人会って2人とか3人のレベル。

思い出しても、2人しかいない。

ちなみに本当に無理だったレベルは、最低過ぎるぐらい人を蹴落とす子と周りを引っかき回す子。

人を蹴落とす子は母親がそうで、その子自身もいつも被害者だったから、その部分はドン引きだったけれども、本人も本人で私が滅多に思わない「可哀想」な子だった。
(超余談だけど、母親は教育の現場に携わる先生だった。)

周りを引っかき回す子というのは、悪口を言いふらして人を傷付けるということを平気でしていた。

こちらの子は本人の気質?と思った(母親は一生懸命な人で、どうしたらこの子こんな風になる?という感じだった)。

書いてて思い出した。

嫁いびりする、でも孫は猫可愛がりなばあちゃんと同居しているんだった。

気質は訂正して、この子もいびつな人間模様が繰り広げられている環境の要因が大きいと思う。

いずれも、大人になって本気で人間関係苦労するよ!!って思って、心の中では常にサジ投げてた。

子どものことで私が完全にサジを投げたのはこの2人ぐらい。(表面上は仕事だから関わるけれど、生理的には本気で合わないタイプの子たちだった。)

なんだけど、これが大人になると、私の「無理なレベル」の種類が途端に増えて、どうしても関わらなきゃいけない時はがんばるけれど、プライベートでは絶対に関わらないことにしている。

ここまでひどくなくても、大人同士のやりとりはやっぱりどこか建前があって、そして本音は隠されて作られる節がある。

それは処世術と言ってしまえばそれまでだけど、それゆえに大人になってから初対面でいきなりピッタリと気持ち良く過ごせるなんて奇跡に近い。

緊張感はそこそこあっても、会ってすぐに、履いた瞬間足にぴったりフィットする靴みたいな、そんなフィット感は最後いつだったかなぁ…なんて思う。

あの時は、ノムが繋がっている先の人たちというのももちろんあったけれども、ミッチーもレイさんもごちゃごちゃ考えなくても肌に馴染むみたいな安心感とフィット感でいっぱいだった。

しかも4人ともよそ行きの顔ではなく、普段の素の状態に近かったと思うけれど、不思議とピッタリなのが心地良かった。




2019/07/11

「愛の現場からは以上です」

今脳裏に浮かんできた言葉。

あと少しで第10話、レイさんとのやりとりを書いてることが書き終わる。

この後狂いがなければ、
第11話:ノムとミッチーの話
第12話:このシリーズ
第13話:最終章
となる。

自分の中で番号にも満足している。

10というのは、1つの数の単位のまとまりで、ここで一旦区切りがつきますよという節目の数だと感じる。

その「節目」というのと、レイさんのキッチリとしたところが好きと言うところがカチッとハマっている。

そのカチッと感に私も満足している。

11というのは、まさにノムとミッチーを表した数字だと思う。

1と1、それぞれ対等に並んでいる様子と2つ揃うと別の数字(もの)になるところがまさに2人を表している。

12は特別な感じはないから飛ばして。

13。

13話で完了するのが本当にピッタリだと思う。

ある時のスピリチュアル系勉強会に行った時のこと。

世の中には13音存在するけれど、13音目は何か?と講師の方から質問が出された。

ピアノとか楽器をする人ならわかると思うけれど、通常音階は、ドレミファソラシの7音にピアノでいう黒い鍵盤部分の5音で合計12音になる。

じゃあ13音目は何か?という質問。

あの時の私は何かスーパー冴えててすぐに答えがわかった。

13音目は「無音」になる。

そう、音の無い世界が13音目。

そして、占星術では13度となる数字は「カリスマ性」を表すとされている。

頭良さそうな発言が続いたけれどv( ̄∀ ̄)v、13度はたまたまこの間東京で立ち読みしてきた占星術の本に書いてあったのを読んだだけ。

しかも私、自分のホロスコープの中に13度なんてないのに、なぜかそのページを読んだ。

話は戻して13音目の話。

eat LOVEシリーズはまさに「無音の世界」の話だと思う。

見えない。

「愛・LOVE」という見えない世界のものを私はひたすら綴った。

見えないし、有形物にはなりえない。

なんだけど、私はeat LOVE聖地では愛を感じた。

愛しかなかった。

そして、その愛の裏側では1人1人が見えないところで涙を流したり固唾を呑むしかないことだってたくさんあることを知っている。

スピリチュアル用語をこの際使うと、「光と闇」の2つで世界は成り立っている。

光だけでは光を認識できないから、必ず闇もセットで同時に存在する。

名古屋ニート時代に、いつもよく散歩に行く名古屋城近くの公園があった。

その名も名城公園 笑。

ある日の名城公園への散歩の時、ひなたを見て「日かげが存在しているからひなただとわかるんだ」と思った。

私は今でもその時の光景を思い出せるけれど、太陽がさんさんと降り注ぐ木と雑草との場所のすぐ隣りには日かげがあって、これひなただけってわけにいかないんだなと思った。

くもりや雨の日を思い浮かべるとわかりやすい。

そういう時は灰色一色の景色になる。

くもりなんかわかりやすいけれど、そこに一瞬でも日が差すってわかるのは、灰色一色(日かげ)に光が差し込むから光とわかる。

すべてが光なら、それはもう光だってわからない。

愛もそうだと思う。

もし愛だけしかこの世になければ、愛を認識できない。

愛とは反対の孤独とか寂しさとかがあるから、愛とわかるものに触れる時、人は愛を感じられる、私はそう思っている。

無音の世界も一緒だと思う。

音のある世界があるように音の無い世界もある。

eat LOVEの最終章は、まさにそれら全てを表すもので、その裏側にある孤独が描かれている。

書いてて思い出した。

最終章の最初の部分だけすでに書き出してあって、その中で私は自分が感じた孤独について触れている。

孤独の方を私は人生で先に知ったけれど、それがあったおかげで、eat LOVE聖地での体験はこれ以上ない愛を感じる会となった。

もし、私が今素敵なパートナーがいて愛されまくっていて、子どももいて子どもからも必要とされて…なんてことになってたのなら、私はそもそもeat LOVE聖地に出かけることもなかったと思う。

もっと言うと、何か特別なことを学ばなくても、自分の人生に与えられた目の前のしあわせを目一杯味わっていたと思う。

色々わからなくてそれが占星術に繋がったし、占星術講座に参加する動機になった。

とするなら、ノムにも出会わなかったし、当然ミッチーとレイさんにも出会わなかった。

あそこにいた私含む4人の大人は、多分どうにもならない孤独を知っている。

「愛が欲しいね」なんて口にしないけれど、すなわちそういうことだと思う。

深い孤独を知っているから、人のぬくもりも知る、そういうことをそれぞれの人生の中で体験してきた同士だと思う。




2019/07/15

今は11話のノムとミッチーの話を執筆中。

この辺りから本格的な佳境に入るから、情報もこれまで以上に盛りだくさん。

よって筆もちんたらちんたらとしているし、今日は朝から爆睡を数回繰り返して、ほとんど何も書かず、ようやく今これまでのやりとりから言葉を引き抜いたりしてる。

さっき2時間ほど前にノムからメールが来た。

【ぶっしーがeat LOVE邸での時間を超人的に記事にしているのは、
それほどの言葉になるくらいに感じることが多かったのだろうと思うのだけど、
それは、頭ではわかっていたけれど、
タイムラグを経て、ぶっしーが何にそこまで感動したのかがようやく腑に落ちた。】

多分、ノムもミッチーもレイさんも3人共そこが日常だからわかりにくいと思うけれど、そこから離れて他人の話みたくここに書かれてあることを読むと、3人で作っている世界の凄さに気付いてもらえると思う。

私も当初3話ないし4話ぐらいのつもりで書いてたら、結局13話までいく予定になった。

21時間の滞在にして、本当に溢れんばかりの情報量で、そして私はそれをどうしても言葉にしておきたい。

私は9割は自分のために書いているけれど、ほんの少しだけ野望めいたことがあって、私が実際に体験したこと、見てきたこと、聞いてきたこと、それらから感じたことを発信して、全然関係のない第三者の誰かにもこの空気を届けたいと思っている。

人間同士誰しもが人間関係に傷付く。

傷付かない人なんてこの世に誰もいないと思う。

そして、何がキッカケであっても、その傷が痛すぎて誰かに深入りするのが怖くなって人と上手く付き合えなかったり自分から距離を置いてしまったりする人なんか、私以外にもものすごくたくさんいると思う。

さらに、社会的に迎合されない何かを自分が持っていたら、それは隠すように生きることの方が多いと思う。

それは最大限自分のための防御で悪いことだとは思わないけれど、生きづらさはあるよねと思う。

大人になった私は、子どもの頃とは違う生きづらさを感じるようになった。

子どもの時は単純に対人関係の中の居場所のなさや、いじめとかによる自分の自己価値の低さなんかが絡んでいた。

大人になって、人間関係は大幅に改善されて自己価値の捉え方もずいぶんと柔らかい方向に向いてきたけれど、今度はそうではないところに生きづらさを感じている自分がいる。

そして、過去の本当に打ち解けられた素晴らしい人間関係は、今も継続されていてももはや地理的に近くにはなくて、今後も生涯を通じて日常の単位で顔を合わせて時間をゆっくりと過ごすなんていうのは期待できない。

そうした人間関係とは別に新しい人間関係も生まれつつあったけれど、私は自分の一存でぶった切った。

一緒にいると傷付くとわかったからで、そしてそれを口にもしてみたけれども(要は本人に直接言う)、合わないことってどうやったって合わないんだなと思った。

それはそうとわかって付き合い続けるか、我慢と言ってもいい、どこか我慢して本音を隠して付き合うか、さもなければ離れるか…、どちらも痛みを伴うし、気持ちの良いものではなかった。

そして、私は切った人間関係に対しては「これ以上良くならない」と感じ取った。

なぜなら、素の部分に違和感があるから。

それは相手の在り方が悪いのでもないし、私の感じ方が悪いのでもない。

「合わない」というのと、その合わない部分に私側が痛みを覚えるから、いるのがしんどくなって、そうまでして関係を続けたいと思えなくなった。

そうやってあきらめまくりなプロセスに入っていった。

それはますます人から離れて孤独を自ら深めることでもあった。

だけど、私は傷付くのももう嫌で、傷と孤独とを天秤にかけて、とりあえず傷からは遠ざかることにした。

それで生まれてしまう孤独は仕方のないことだった。

ただ、ますます人間関係に臆病になっている自分にも気付いて、あちゃー……とは思っていた。

そんな折に3人に出会ったから、もう私は驚く以外の何物でもなかった。

最初から「合う人」というのに私は初めて出会えたと思う。

これまでだって素晴らしい人たちには恵まれてきたけれど、それは最初からそうではなくて、時間の経過と共にお互いに居心地良くなっていったパターンだった。

3人はそうではなくて、お互いに仲良くなる努力なしでいきなりカチッとはまる感覚があった。

いきなり最初から自分の足にピッタリな靴に当たったみたいな感じ。

これまでは履いて慣らすみたいなのが、今回は履いてすぐにピッタリとハマる、そういう感じだった。

そんな人間関係が、それも恋人とかではなく全くの他人同士でそういう関係が持てるなんて夢のようだった。

これは私にものすごい希望と可能性を与えてくれた。

学校で今道徳の授業が評価される教科へと変わった。

私は馬鹿じゃないの?とかなり毒付いているけれど、もうそこまでしないとまずいぐらいに日本そのものが超絶病んでいるんだと思う。

他人を思いやったり自分と他の誰かとの人間関係を見つめたり社会の中で守る必要のあるルールを教科として学ぶことが、普通に法案として通過してしまう時代になった。

物質的な豊かさが増えれば増えるほど、心の闇の部分がどこまでも拡大されていく感じがしてしまう。

そうした中で、社会もだし個人的な体験もだけど、いかにトラブル少なく気持ちが楽になれるか…の方ではなく、もう一度自分の心の望みをどこまでも追究するタイプの人間関係を1から作ってみたいと思えた、3人と出会えたことで。

40も過ぎて理想を掲げるなんて、しかも人間関係での理想を掲げるなんて考えてもいなかった。

でも私はここに来て、「理想を見つめたまま、3人と新しく関係を作れるかも」とまじめに思った。

そして、こんな言い方がいいかわからないけれど、3人と色々関わってみてダメになっても、傷付くことが出てきても、それでもいいって思える自分がいる。

自然体で、それは人間関係おっかなびっくりな自分のままでも、もう一度きちんと誰かと関われるかもしれない。

そういう可能性と希望を3人は見せてくれた。




ノムのメールの後、今度はレイさんから写真とLINEが来た。

レイさんが実家の荷物整理で昔むかしお姉さんが持っていたアメジストのアクセサリーを見つけて、それをペンジュラムにすることにしたと何日か前に教えてくれてた。

ちなみにレイさんは私と会ったすぐ後から、五円玉でペンジュラムを作って色々試し始めたことももっと早い時期に教えてくれた。

私はレイさんにペンジュラムの写真が見たいと言った。

それがさっきやってきた。

レイさんがアメジストのペンジュラムの方はまだ動きがイマイチだと言った。

それを見てすぐに、ペンジュラムに挨拶するようにして日々ペンジュラムに話しかけたり触ったりする様子がイメージのようにパッと湧いた。

ペンジュラム云々の前に、レイさんもペンジュラムもお互いがお互いに慣れていくみたいなことを先にするのがいいだろうことがすぐに思い浮かんだ。

あまりごちゃごちゃ考えずにそのまま伝えた。

念のため、自分のペンジュラムにも聞いて、どうもそれはレイさんとレイさんのペンジュラムから伝えられた内容だとわかったから、それも一緒に伝えた。

レイさんから、早速今夜からやってみる!と返信がきた。

これすっごいサラッと書いたけれど、実は今回初めてのことで、私は自分の資質がパワーアップしたことに気付いた。

私はこれまで言葉として色んな情報をキャッチすることはあっても、映像的なイメージで何かをキャッチすることは一度もなかった。

今回初めてそんなことが身の上に起こって、そして深く考えずにレイさんにさっと伝えられた。

私は何でこんなことが起こったのかよくわかる。

普通なら、石に毎日挨拶するなんて、何とも滑稽な話だし、大人が大人に対して真顔で言うような内容じゃない。

こういうことを考えたり頭の中に入れておくのはこれまではそれで良かったし色んな社会的シーンで役立ったけれど、本当に私が自分の資質と向き合う気なら、そうした常識的な考えはかなり邪魔になる。

他人の目も気になっていたし、相手の反応もあれこれ心配が絶えなかったし、自分が変だと思われるのも不毛だったし…と、そういう余計すぎる思考があまりにもたくさんあった。

でも、レイさんにはそういう心配をしなくていいから、とりあえず出たものをそのまま伝えられた。

内容云々より、そうしたことを自然にやれている自分に気付いた。

そして、ハッとなった。

色んな覚悟を最初から決められたこともあったし、その前には言葉で到底説明できない安心感をもらっていたこともあって、そうなると私は安心して自分が出せて、さらにはその「自分が出せる」という中には「自分の資質」ももっとそのまま出せるということがわかった。

これはノムとのやりとりでも同じことが言えて、私はこの『eat LOVE』シリーズに関しては、過去最高に自由気ままに書いている。

読んでの通り、私は色んなことを瞬時にキャッチしてしまうし、他の人からしたらどうでもいいことがいつまでも気になったり、それをとことん言葉にしないと気が済まなかったり、だから何?みたいなこともたくさん持ってる。

記憶も縦横無尽に飛んでいくし、勝手に色んな記憶が甦(よみがえ)ってきてそれも書かずにはいられない。

そして細かすぎて色々面倒なのもわかる。

これまでは周りに合わせたり周りの状況を見て表現する量や内容を調整していた。

していない時ももちろんあったけれど、圧倒的に調整している回数や場面の方が多い。

それがノムと2ヶ月ぐらい深くやりとりしてみて、そして今回はこのブログもあって、そういう細かいことをノムはこれ以上ない言葉で貴重がってくれてありがたがってくれた。

私はそこで勇気や安心感をもらって、(ますます調子に乗って)もっと自由に表現できるようになった。

なんなら、長文をほとんど読まないミッチーさえも読んでくれてると教えてもらって、私は昇天するかと思った。

そう、3人はそのままの私を引き出してくれるだけじゃなくて、私が持っているものを自然ともっと力が発揮できるように、その部分をものすごくサポートしてくれる人たちだった!

レイさんもノムもミッチーも私をサポートすることを意図していないはず。

ただただ、レイさんはレイさん、ノムはノム、ミッチーはミッチーでいるだけでしかない。

「いるだけでしかない」って超絶難しいことだと思うけれど、それぞれがそれぞれであることってこんなにもパワフルなんだと気付かされる。

しかもそのままでいいわけだから、私も遠慮することなく、そのまま見えたまま感じたままを発信すればいい。

これは想像もしていなかったことで、ものすごく嬉しい誤算だった。

こういう可能性や希望が、日本という超がつく闇を隠蔽体質する国で、枠から外れると叩かれやすい社会的風潮の中で、存在できるなんて凄すぎる!

こんなにもあるがままでいることができるなんて、それってものすごい可能性だと感じる。

そして、私が書く残りの1割の理由は、こうした可能性が誰にでも起こりうると伝えたいことにある。

私もノムもミッチーもレイさんも、最初からこれができたわけじゃない。

むしろ人生の前半は、自分を押し殺すようにして生きてきた過去をそれぞれが持っている。(ミッチーにはっきりと聞いてないけれど、ミッチーも絶対にそうなはず!)

生き上手とは言い難い。

4人それぞれ超がつく不器用な大人だと思う。

それでもこうした体験を手にしている。

多分、3人も人間関係に対して怖さや痛みを持っている。

なんだけど、こういう関係を作れて、そして私なんかは自分の能力まで引き上げてもらっている。

3人を前にすると、私は今まで誰に何に遠慮していたんだろうと思う。

いきなり全部を取っ払って違う風に生きるなんてできなくても、徐々にその自然体なスタイルをもっと日常の至るところに増やしていきたいと思っている。

そう思わせてくれるだけの人たちに出会えたから、私は超人的な長さの文章をひたすら書いている。




2019/07/17

残すところ、このこれとあと最終話だけになった。

1つ前の第11話『愛になる。』を読んだノムから、多分読んですぐに感想を書いたものをもらった。

ノムはそれを読んでこんな風に書いてくれた。

【すばらしい記事をありがとう! コラムでもエッセイでも日記でも小説でも論文でもないぶっしーの記事をなんと言ったらいいのかわからないので、記事っていっているけど、いったい何と呼べばいいのだろうね?  うん。やはり、鑑定書かなあ。魂のおりなす時空間の鑑定書。】

ノムのこの言葉に私は癒されまくった。

実はあの記事1つで、二重の浄化が起きている。

元々ノムとミッチーのことは書く予定でいたし、そもそもそれ見たさに行ったようなところもあるからそこは想定内なんだけど、まさかそれを書くことがノムにとって自分のこれまで積み重ねてきたものが何かを確認してそれが癒しになるというのは想定外だった。

なぜならあそこに書かれたものは、すべて実際に起こったこととあと少しだけ私の感想や視点を入れたくらいで、話を盛ったり作ったりしたのとは違う。

あるがままのある個人たちの日常が描かれただけで、癒しを目的としたのとは違う。

私は実際にeat LOVE聖地に行って3人に会ってめちゃくちゃ癒されたから、その癒されたことを書く。

そこまではわかるけれど、その書いたものによって、話を提供してくれた側(3人)にも何かしらプラスの作用が働くというのは、それを意図したわけでは一切ないから、そうと聞けてとても嬉しかった。




最終話があまりにモリモリ過ぎるから(情報過多ということ)、ここではどうして最終話にはeat LOVE聖地における星トリオ中心の話になるのかの私側の意図を書きたい。

私はこのシリーズの最初から、最終話に関しては3人を必ず登場させようと決めていた。

なぜなら、私がeat LOVE聖地に実際に足を運んでみて、何よりもインパクトがあったのは3人の関係と3人から出ている絶妙すぎるバランス感・空気感だったから。

行く前の私は、ノムがメインで、ミッチーは気持ちが向いた時間やごはんの時間は一緒で、レイさんは夕ごはんに来てくれるんだろう…と想像していた。

だけど結果的に、ノムからアトリエとeat LOVE邸を案内された時間、レイさんと2人きりの短い限られた時間以外は、ずっと4人一緒だった。

そして、その4人でいることこそが私には本当に大事なものをたくさん感じるための時間で、そして多分4人の時間がなければ、1つ前の第11話のノムとミッチーの話もあそこまで書けなかったと思う。

もしあの日、ミッチーが銀座に呼ばれてのノムとの3人とか、もしくはレイさん家庭の都合で不在でeat LOVE邸で3人とかなら、私はまた違った感触を感じただろうし、ノムとミッチーというのが実際に書いたみたいにあそこまでは見えなかったと思う。

ノムとミッチーというカップルにレイさんと私というこれまた全く別の個人があそこに一堂集うことで、それぞれの関係性や私を外した時の3人の空気感があそこまで伝わってきた、そんな気がする。

3人の「絶妙すぎるバランス感」についてもう少し触れておきたい。

「絶妙すぎるバランス」なんて言うと、すごくバランスが取れた関係だと解釈されるだろうから、私から見た3人をありのまま描写したい。

3人のバランスのすごいところは、和音的なハーモニーももちろんあるんだけど、ちょっとずつ音程がずれてしまって不協和音になりそうなところもそのまま持っていることだった。

年齢的なものや家主と借り主という書面上の関係も3人の中には含まれている。

それとは別に、誕生日をお祝いしたり一緒にごはんを食べるという家族的なコミュニケーションもある。

男女の差とか、カップル対個人みたいな差もどうしても生まれてくると思う。

それが良い悪いでもないし、そこを差別的に見るとかいうのも違う。

なんだけど、じゃあ超個人の付き合いが密になるなら、家主と借り主の関係は無くなるかと言ったら、現時点で絶対にそんなことはないわけで、そこの線はどうしても消えない。

消えないけれど、そうしたものを超えた個人の関係が3人にはある。

とにかく、「ない」ことにはできない要素がどうしてもある。

そのないことにはできない要素を持ちつつの関係が、3人とも超人的なレベルで、なぜか不思議なバランスの中で行われている。

バランスを崩すこともどこかほころびが出ることも、3人は三人三様に受け止めながら、それでも「何を大切にしたいか」をその時その時で答えを出しながら今に至ったんだろうなぁというのをものすごく感じた。

私が3人を見て惹かれたのは、上手くいってるところではなく、「どうしよう…」ってなってる方だったかな…と今振り返っても思う。

上手くいく部分は誰でも受け取れる。

3人は見ていると逆で、上手くいかないというか難しくて積極的に向き合いたいようなものではないところから目を逸らさない。

そこが3人の最大の強みだと思ったし、だからこそ今ここまでの関係になれたんだな…なんて全く何の事情も知らない私は感じた。

私にはギリギリのラインで3人が3人とも気を使っているのはいた時に気付いたし、でもなぜか関係がやたらと密なのにも気付いた。

3人共、今の関係を目指して今に至ったというよりも、お互いに試行錯誤する中で今みたいになったという感じだと思う。

本当に全くもって普通ではない3人の関係は、お手本となる関係もないし、正解もない。

正解がもしあるとするなら、3人が一番心地よくいられるポイントだと思う。

それ以外の正解なんて考えられない。

そして三人三様でありながら、3人の共通ポイントがある。

3人はお互いを本当に思いやっている。

これ少し荒い感じの部分を持ち合わせている人がその関係の中にいたとするなら、普通にその関係もバランスもあっという間に崩れる。

それが崩れずに少しずつ少しずつ独特の距離感と空気感で繋がり続けているのは、3人共が互いを思いやりながらその中でベストなバランスを見つけようとしているからだと思う。




3人は気付いたのかどうかわからないけれど、そして私もその辺りが若干いい加減だからごちゃ混ぜ状態だと思うけれど、実はeat LOVEの後に続く言葉には「邸」と「聖地」の主に2つがある。

行く前は、それこそノムとミッチーの家に行くもんだと思って、そして頭の中ではeat LOVE敷地内一帯分ぐらいの大きな屋敷を想像していたから、eat LOVE「邸」で良かった。(実際に敷地は、都会の標準的なコンビニ4店舗分以上の大きさがあると思う。)

でも行ってみたら、同一敷地内にアトリエと母屋とeat LOVE邸がそれぞれ独立した平屋として建っていて(他にももう2軒、別の個人宅がある)、そしてeat LOVE邸は2人の住まいなのは間違いないけれど、私がそこで過ごしたのは2日目の講座に行く少し前の話で、それも10分15分程度で、あとの時間の大半はレイさん所有の母屋で、あと2時間3時間ぐらいがノムとミッチーのアトリエという内訳だった。

そうなってくると、eat LOVE「邸」という言葉がニュアンスというか実際と違ってきて、それでさぁどうしようかとなった時に「聖地」という言葉が出てきて、さらに母屋やアトリエで済むところはそうやって書いた。

「邸」と「聖地」に分けたのにはきちんと理由があって、「邸」は2人の住まいしか含まれないけれど、「聖地」は邸の住まい含めてあそこ全体を指す。

聖地になると、母屋もアトリエも含まれて、より一層大きな枠組みができあがる。

そして、その「差」をとりあえず言葉で分類して良かったと今は思う。

分類したことでそれぞれのカラーや立ち位置がはっきりした。

第11話はeat LOVE邸のまとめだとするなら、第13話(次回最終話になる予定)はeat LOVE聖地のまとめになる。

だから、それぞれが渾然一体となって1つのストーリーが展開する。

情報が多すぎてどう並べてどう展開するかわからないから、今はちょっとゆっくり1つ1つの断片を拾い集めてる。

あと、「eat LOVE」の言葉を外さなかったのにもワケがある。

例えば、「レイさんの母屋」とか「ノムとミッチーの家」という言い方だって当然できた。

だけど、私はあえて「eat LOVE」を残した。

なぜなら、この話の全ての原点に「eat LOVE」の軸があって、全ての話の中に「eat LOVE」の精神が根付いているから。

だから、レイさんの母屋とかノムとミッチーの家とかいう表現にすると、物体の名称としては合っているけれど、今度は性質部分に欠落が出てきてしまう。

あくまでも、どの話の中にも「eat LOVE」はあって、それが直接「食べる」行為が入っていなくても、心はeat LOVEしてる。

そういう私なりのこだわりがあって、それでeat LOVE聖地という言葉を多用していた。

eat LOVEの基礎はノムとミッチーが作った。

第11話を読んだノムからこんな風に感想が来た。

【eat LOVEの中身は、ぼくとミッチーの10数年間の歴史や、運命共同体カップルによる現在進行形の「愛になる」実践記録なんだろうね。2人がコツコツ積み重ねた愛になる記録、記憶。それは知識とか概念とかじゃなくて、実践というか体験】

ノムの書いたものがeat LOVEそのものだと思うし、そして私が見たものもまさにそれだった。

じゃあ何で私が『eat LOVE聖地』を『eat LOVE邸』とは分けて使ったのか。

それは、ノムとミッチーが作り上げたものを軸に、今度はその運命共同体が他の人たちとも繋がり始めているから。

当初は2人だけの世界のものが、2人だけにとどまらず、そこと縁ある人たちがレイさん然り私然りで繋がり出したから。

3人を並べた時に、現時点でたしかに私からして1年以上ご縁のあるノムと一番繋がりが強い。

そして今回、ノムがレイさんと私を繋げてくれたことでそちらも新しく関係がスタートしている。

なんだけど、eat LOVEの世界に足を踏み入れる時は、ノムとミッチーとレイさんがいないと私の場合は成り立たない。

よくよく考えたら、ノムとミッチーと私の3人という時間が10分15分ぐらいあった。

(本来の目的の 笑)占星術講座に行くために、ミッチー運転の車に3人で乗っていた時間。

これもまた特殊な状況だから比べることはできないけれど、これがもし3人でアトリエなりeat LOVE邸なりにいたのならまた違った気がする。

でも、私はその時は決してeat LOVE聖地という呼び方をしなかったんじゃないかなと思う。

カップルの元へ遊びに行ったみたいな認識で、それこそ「eat LOVEな2人との時間」みたいな、そういう言い回しになったかもしれない。

時間の認識はあっても、空間の認識は多分なかったんじゃないかなと思う。

レイさんが加わる、私が加わる、母屋が加わる、そうしたプラスアルファの要素が増えれば増えるほど、ノムとミッチーのeat LOVEカップルの形がより一層際立って、そしてその運命共同体に人や空間が加わることでeat LOVEの精神がもっとわかりやすい形で見えて具現化する。

eat LOVEの発祥者は2人だしその全体の空気も2人が発信しているけれど、そこに居合わせる個人や空間は2人の影響を静かに受け取ってまた新しいものが生まれてくる。

それが【eat LOVE聖地】だった。

本当におかしな言い方だけど、eat LOVEはノムとミッチーが作り出した世界で精神だけど、そこに「聖地」と一言加わるとまた全く別の性質が加わって、これまでに見たことのない人間模様や空間を私は見ていた。

で、星トリオの3人のバランスとアンバランスを両方兼ね備えた状態こそ、eat LOVEの精神を引き継いだeat LOVE聖地という感じだった。

どこかに書いたけれど、光だけでは絶対に成立しなくて闇があってこその光というのと似ていて、きれいでキラキラした側面だけを星トリオの3人が作ろうとしていたらそれはまたちょっと違うものだったと思う。

私が新潟に戻って2週間ぐらいの頃、ノムから私が郵送した3人分の占星術の資料を渡したという連絡が来た。

【今日は3人ともなんか疲れてて、久しぶりにチェーン店のしゃぶしゃぶ食べ放題にいってきたよー。時間いっぱい食べた。笑  で、最後のコーヒータイムでサビアンの渡したら、よろこんでました!!  今日は家に帰らなきゃならないらしく、それで解散したので、中身についてはきっと明日以降にじっくり読むと思われる。
でね、さっきれいさんにぶっしーの(LINEの)IDをメールしたー。】

「今日は3人ともなんか疲れてて」というくだりが良かった。

3人共が「疲れた」けだるい雰囲気を自然と出せるんだなと思った。

もしここで「ミッチーとレイさんでおいしいごはん作ってくれて、コロッケをまたレイさんが僕のために作ってくれて…」なんてくだりがあるなら、私はメラメラと嫉妬したかもしれない(笑)。

別の意味で、お互いの疲れた感がお互いに出せる羨ましさはあったかな…。

いずれにしても、星トリオは星トリオにしか出せない独特の雰囲気がある。

そして、星トリオが成立できる一番の根っこにはノムとミッチーがまずは強固な絆を作っていて、それは愛がいっぱい詰まっていて常に進化していて、それがあるから多分レイさんも安心して2人に会えると思うし、私も3人といてその安心感は絶大だなと思った。

危機の色を隠し持っているカップルと会うと、その辺りがよくわかる。

周りがそれを察知して、その貴重な時間を楽しむとか味わうどころじゃなくなる。

でも、ノムとミッチーは見ていると、本気の運命共同体で、何の拘束力も持たないはずの関係なのに、2人といる第三者は2人の関係を心配なんて一切しなくて良くて、ただただ2人との時間を大切に愛おしんで過ごすことに専念できる。

eat LOVEの2人からレイさんが加わって星トリオになると、eat LOVEは形を変える。

それは2人だけの愛が他の人にも浸透している感じで、その浸透したところに私はどうぞと呼んでもらった。

だから、結果として私は、eat LOVEな2人でもeat LOVE邸でも星トリオの3人でもなく、eat LOVE聖地にいる3人に会いに行ったというのが感覚として一番ピッタリとくる。

【eat LOVE聖地】と呼ぶことで、ノムとミッチーのeat LOVE創始者の2人も、eat LOVEな2人が日常を織りなすeat LOVE邸も、2人のアトリエも、レイさんが加わっての星トリオも、レイさん所有の築100年越えの母屋も、空の星も外の木も2人が飼う猫ちゃんたちも、全部がそこに組み込まれている、そんな印象を私は持っている。




今回の写真のために、eat LOVEの冊子を撮影したら、表紙に折り目が付いて大ショック(T ^ T)。

絶対に汚さないように、折り目も付かないように、取扱注意していたのに…チーン。

最終話の中に自分の細かさについて書いた部分があるけれど、天は二物も三物も与えないようで、こういう物を扱う時のきめ細かさは皆無で、こうした不測の事態は毎度のこと(涙)。

私にはないきめ細かさがふんだんに表れている表紙の『eat LOVE』の刺繍は、ミッチー作だし、製本もミッチー。

不足の事態の中で私が何とか写真に収めた『eat LOVE』の冊子の中のノムの言葉が、私がeat LOVE聖地で感じていたものそのものだと思う。


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いったいどうしてすべては過ぎてゆくのになにかをつくるんだろうね。
食べたら消えてなくなるものを何時間もかけてつくったりさ、
たのしい会話も瞬間的にこの世の果て、宇宙の彼方に消え去っていく。
でも、だから、こんなにも愛しくかんじるんだろうな。
ぜんぶ終わっちゃう、ぜんぶ思い出になってしまう、なんてはかなく贅沢な毎日なんだろう、生きるって。

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