2015年8月25日火曜日

食器の値段

先日、出掛けたついでに某デパートを徘徊した。

いつも催事場は大混雑しているのに、今回はなぜか人がちらほら。

どうしてだろう?と近くに寄って見ると、丁寧な暮らしや自然派を謳う雑貨が今回のテーマで、

遠目に見てもセンス良さそうな感じはあったけれども多分値段が全くかわいくない代物なんだろう

と思った。

気になる物を数点手に取って見てみたけれども、何が驚きかって値段が「0」一つ分間違っている

のではないかというところ。

1つだけじゃない、総体的に価格設定がびっくり仰天するもの揃いだった。

すごく素敵な、通常の茶碗よりも少し大きくした小丼型でふた付きのものを見つけた。

下方をひっくり返して値段を確認。

「¥16000」

えっ!?これ一万六千円ですか?と心の中で叫んだことは言うまでもない。

友達と瀬戸焼で有名な瀬戸の陶器店巡りをした時、あるお店の店員さんが、

「ふた付きのものは、上下で大きさを合わせないといけないから、それだけ技術が要る。

だからふた付きの食器は高いんだよ。」

と説明してくれたことがあった。

でも、そこでのふた付きの食器も、どんなに高くても数千円だった。

個人的にデパートの食器売場を見るのが好きで、よく一人で買いもせず見学だけすることがある

けれども、まず万単位の食器は置いていない。

デパート入りする位だから、良い品且つ中には作家さんのものもあるけれども、まず普段使いの

もので諭吉1枚出してもまだ足りないなんていうものは置かれていない。


とにかく「高い」という印象だけを持って帰ってきたけれども、なぜそれが高いと感じたのか、

それを一人でぐるぐると考えていた。

例えば、1泊2日の温泉旅行で同じ価格だったら、高いという風にはならない。

例えば、これが新潟‐東京間の往復新幹線代だったら、安いとさえなるだろう。

あの1人分の器が¥16000だと高いと感じる理由。

それは、そこに入れる食材の値段と関係していると思う。

1人の1食分、しかも家で作るごはんで、という条件で考えると、まずそれで¥16000分も材料費

がかかることはない。

そこに入れるためのものすごい高級食材を用意しても、1人分で16000円というのは難しい。

高級和牛買ってきて、ステーキ丼?

北海道の高級ウニといくらのせて、海鮮丼?

それ位しないと、食材が器負けする。

もっと言うと、値段を知らない人がその食器を見て、「16000」という数字が思い浮かぶかと

言えば難しい気がする。

失礼だけれど、1600円だったよ!と言っても、疑われない。

素人には値段の判別がつかない位、それが高級なのか大衆向けなのかがわかりにくい。


そんなこんなを考えているうちに、わたしが普段選ぶ時の基準というのが浮かび上がってきた。

まず、器に気を遣うことなく、がしがしと日々使えること。

陶器は扱いを誤れば当然割れる。

そういう自分のミスも計算に入れた上で、気を遣わなくていいというのはとっても大事。

もしわたしが年収1億円なんていう稼ぎを打ち出す身分になったとしても、そこは変わらない気が

する。

器を食器棚から出す、盛り付ける、テーブルへ運ぶ、食べる、洗い場へ運ぶ、洗う、乾いたら

片付ける、この一連の流れのどこか1点でも緊張が走るような器はわたしは好きじゃない。

そういう流れは毎日のことだから、それにはリラックスしながら臨みたいと常々思っている。

もうひとつは、日々のごはんの材料費に見合った器であること。

器だけ高級品でも、日々のごはんは高級品ではないからものすごいギャップが生じる。

器と料理とが仲良く手を取り合って、互いに美味しそうに見せ合える点が必ずある。

だから、どちらかが頑張りすぎていると、必ずどこかに歪みが生じる。

例えば高くて割れたらもったいないからあまり使わない、なんてことになったらもっともったいない。

自分が好きで家に連れて帰ってきた器たちは、できるだけたくさん活躍の場を与えたいと思う。

数年かけて食器を集めただけあって、食器は常に一期一会であることがわかる。

洋食器と違って、和食器は重版で同じものが繰り返し作られる方が少ないかと思う。

今家にある食器たちは、縁あってわたしの元にやってきた。

たんすの肥やしにするのではなくて、日々の生活の中でたくさん使って愛でたい。

それらの条件を満たしてくれる食器を、いつも無意識で選んでいたんだなぁと今回気付いた。

そして仮に今回見た¥16000が¥1600だったなら買っただろう・・・。

ということは、値段抜きにしてそこまで惹かれてもいなかったことがうかがえる。

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