2014年10月14日火曜日

怒り尽くした、その後の自分

2ヶ月以上前に書いた『腹が異常に立った日の処方箋』
http://viva-vivir.blogspot.jp/2014/08/blog-post_10.html

概要は、仕事でAさんなる人物に腹を立てまくり、その後どうやって4時間も続いた怒りが治まったのか、という話。

今日は、その「怒り尽くした」後に実際に自分の身の上に生じたことを話そうと思う。

最初に断っておくと、あの後わたしは一度もAさんに怒り再発とはならず、

実に平和に過ごせたと思う。

今さらこれを書くのは、ずっと書こう書こうと思っていたけど、

それを行動に移したのが今日というだけのこと。

では、はじまりはじまり~。


4時間通しで怒りまくった翌日。

Aさんも出勤、わたしも出勤、周りの人たちもたしか全員出勤。

4時間続いた怒りは治まったものの、また顔を合わせたらムキー(怒)となるのではないかとか、

平常心で顔を合わせられるものだろうかとか、

昨日のことは水に流して新たな気分でAさんと付き合えるだろうかとか、

まぁ色々考えて仕事に臨んだわけだけど、

2人だけではないことも手伝って、特にあたりさわりない感じで仕事開始となった。

あたりさわりないとわかり、わたしは今度は【Aさん 対 他の人たち】とのやりとりを

ひたすら観察した。

もしうまく交わす方法があれば知りたかったし、

他の人たちが怒らないのであればどうして怒らずに済むのかとか、

淡い期待を抱いて観察していた。

観察していくうちに、わたしはAさんが憐(あわ)れになってきた。

かわいそうとか、気の毒とか、まさに憐れがぴったりの感情として出てきた。

何が憐れだったのかというと。

わたしだけではない、他の人全員がAさんに変な気を遣っている。

Aさんから、わたしの一挙手一投足すべてが注意されたように、

そしてそれは非常に不愉快だと全員暗黙の了解で分かっていて、

そんな不愉快さを少しでも減らすために、皆がAさんに極力巻き込まれないようにしている。

当時、ある一つの仕事のマニュアルにおいて、

大きく改変されるされないの瀬戸際にある事項があった。

Aさんは、詳細に渡ってきちんと把握したいタイプの人。

だけど、それが周りには、いちいち細かい人という風に捉えられ、

であれば、穏便に事を進ませるためにも、

Aさんには極力相談しない、報告しない、という流れに自然になっていた。

内容は、けっこう大切なことであるのに、

Aさんの普段の言動や思考が災いして、みんなAさんに情報共有を避けている。

それをはっきりと認識した時に、わたしはAさんが憐れになった。

いくら、やいのやいのとAさんから怒られはしたわたしでも、

そうした業務上の大切な情報はきちんともたらされたし、

わたしに気を遣って話してる風の人たちも誰もいないようだった。

だから、わたしは業務上のコミュニケーションを取る上で、

変な気遣いとか、無用な先回りとか、そういうものは基本的に必要とせず、

疑問に思えばそのまま質問したし、反対に相手方もそのままわたしに情報提供や

現状確認をスムーズに行っていた。

Aさん本人に悪気はなくても、Aさんの行動や言動により、大切な情報が共有されない。

そんな光景を冷静に観察していたら、

あれだけ怒り狂っていた前日の怒りパワーはどこ吹く風状態で、

もう、憐れ、憐れ、憐れ・・・という感情が湧いて出てきた。


さらに、その後期間終了を迎えるまで(3週間位)、

時々あれ??っと思うことはAさんに対してあっても、

「適当に流す」ことがなんだかできるようになったし、

あんなに4時間も怒り続けるなんてことはもうなかった。


勤務最終日。

その日は、別の方(Bさん)と一緒に仕事をした。

その時に、わたしはBさんから衝撃の事実を聞いた。

なんと、Aさん、わたしが居ないところでBさんに

「武士俣さん、今月で終わりだけど、何かみんなでしてあげないの??」

と聞いていたらしい。

実際に送別会にプレゼントに色々してもらったのだけど、

それを聞いて本当にびっくりした。

そして、初めてAさんとの間に起こった怒りの原因とAさんの人柄そのものは、

全く別物として理解できるようになった。

話を聞いたことで、Aさんとの間のものがきれいにリセットされたし、

最終的にわたしが受けた数々の受難は、

後に笑い話に転換されたし(実際にみんなで笑い飛ばした)、

最高にむかついたけど、まぁ後々もたらされたものも大きかったなぁと。


最後にまとめ。

今回、わたしは「怒り尽くした」ことが本当に良かったと思ってる。

4時間も怒り続ける、しかも自宅に戻って一人になっても怒り続ける、

なんていうのは普通に考えてみると異常なわけで、

でもあの時はもう怒る以外に手段がないかのように一人で噴火していた。

怒り続けたかったわけではないけれど、

怒りを止めることはもはや不可能で、いつか鎮静してくれるのを待つより仕方なかった。

もうこれ以上ないという位に怒って、

怒りのエネルギーを100%放出しきって、

怒り尽くした後に出てきた新たな感情(今回の場合は、憐れみ)。

そして、勤務最終日に知ることになった、Aさんの人柄。

もしかしたら、怒り尽くさなければ、Aさんの最後の話すらも、受け取れなかったかもしれない。

すべてが終わった今、もうAさんとのことは笑いのネタになっても、

怒りのネタにはなれない。

今、当時と同じエネルギーで怒れと言われても、わたしは怒れない。

目の前にAさんもいなければ、

すべては過ぎ去ったこと、なんだか可笑しかったことで片付いているから、

今さら怒れないのだ。

でも、もし、あの時怒るのを途中で止めていたら、その怒りはどこに蓄積されたんだろう・・・

また何かの拍子にひょいと顔を出して、わたしにさらに怒りをもたらしたのではなかろうか。


これは持論だけど、

怒り尽くすと

①怒りとは別の新しい感情が湧いてくる
(湧いてくる感情はその時々で違うだろうから、何が出てくるかはそうなってみないとわからない)

②未来において、そのことで怒りを再現することはない=心の平和

よって、怒りを全開に外に放出することは、とても大切だと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿