2013年11月12日火曜日

言葉のフシギ

~~「あんたなんか死ねばいい」
その言葉を他人から言われたのは生まれてはじめてだった。~~


『さきちゃんたちの夜』(よしもとばなな)に収められている、短編集のひとつの出だしがそんな風に始まっている。



わたしはしばし本を脇に置いて、その言葉から引き出された数々の出来事を思い出していた。



「死ね」「殺す」という言葉たちをわたしはどれだけの数で20代浴びまくったのか
もはや半端ない数すぎて憶えていない。


お茶碗に盛られた米粒を数えるくらい数限りなかったため、そんな数を数えたこともない。


ただ、不思議と、当時のわたしはそれらを言われても嫌ではなかった。


20代のうちの5年半、わたしは「児童養護施設」と呼ばれる2~18歳の子どもで家庭では生活できなくなった子たちが生活する施設で働いた。


「養護」というと、障害児を思い浮かべる人が多かったけれど、
基本的には心身共々健康な子どもたちだ。


そして、その心身共々健康な子どもたちの口から
「死ね」「殺す」「うざい」「くそばばあ」「大嫌い」
などという言葉がわたしに向けて発射された。
30人もいれば、誰かがそういうことを言うわけで、
なので、言われない日の方が少なかったような気がする。


小さな子たちも「ありがとう」の前に「ばか」や「死ね」を覚えるから、
大人側の希望なんかこれっぽちも汲みとってもらえないことは、体で理解した。


言葉だけを取ったら、人格否定、存在そのものを全否定並みの強さがあるけれど、
わたしにはそんな風には感じられず、
「おはよう」「今日どうだった?」と同じくらいに受け取る感じだった。


言葉本来の汚さは、全部の日本語をかき集めても「汚い日本語トップ10」くらいに入るとは思うけど、
わたしはその汚さを聞いていたのではなくて、
そこにのっているエネルギーを聞き取っていたんだと思う。


子どもたちは、無意識のうちにそれらの言葉でコミュニケーションを図っていたし、
そしてそれらの言葉でわたしをテストしていたと思う。


わたしをテストしていたというのは、
わたしが信用できる人間かどうか、
それを見極める手段のひとつに汚い言葉たちが存在していたと思う。


SMの世界の話をしているわけじゃない。


どんな子も、あの手この手で大人を試していた。
汚い言葉を言うこともあれば、無視を通したり、
通常されて嫌なことをあえてやっていた感じがする。


へんてこなコミュニケーションだけど、
数限りないものを積み重ねると、ある時臨界点が訪れる。
関係性が気付くと変わっていたりする。


わたしが勤めている間、いちばん長く近くで見た子がいる。
その子がダントツでわたしに「くそばばあ」と「死ね」を吐きまくった子だった。


ある時、その子が大事件を起こした。
そして、いちばん長く近くで見ているにも関わらずわたしには何にも本人から情報をもらえなかった。


他の大人たちが本人から情報を得ているのに、
わたしには何一つ話そうとしなかった。
なので、わたしは他の職員の人たちから情報をもらうという、
とても変な構図になっていた。


ある夜、ふたりで事件の話をすることになった。


わたしは正直になぜわたしには何も言わないのかと聞いた。


彼女から返ってきた言葉は一言。


「だって、本気で心配して本気で泣くでしょ。
他の人たちはそうじゃないから…」


「くそばばあ」と「死ね」を発しながら
ずっと別のものをその先に乗せていたんだろうなぁと思った。



話はうんと変わって今。


34歳にして、わたしは今「正しい日本語」を教わっている。
わたしの数々の言葉使いに問題があるから、
隣りで訂正される。


「よろしいでしょうか」
「かしこまりました」
「申し訳ございません」
 を目下意識的に練習中だ。


気を抜くと、
「よろしかったでしょうか」
「わかりました」
「申し訳ないです」
とわたしは言っている。


それは仕事だから仕方ないと思う。


だけど、必ずしも丁寧な正しい日本語が良いエネルギーを
持っているわけではないし、
反対に響きはお下劣なのに血の通ったコミュニケーションが成立したりする。



真逆のものが今人生に流れ込んでいる。


真逆のきれいなものたちに囲まれて、
わたしは逆に窮屈になっている自分を感じている。


たしかに良い勉強の機会ではあるけれど、
表面だけを取り繕うような、そういうやりとりをわたしは全く好まないことがよくわかる。



3 件のコメント:

  1. 汚い言葉 と 丁寧な「正しい日本語」・・・
    言葉のフシギ、とてもとても興味深く読みました。

    「死ね」「殺す」とゆう言葉どおりの意味ではなくて、

    >そこにのっているエネルギーを聞き取る

    って、なんとゆう高度な聞き方・・・!!
    自分のことを「本気で心配して本気で泣く」、そんな大人に
    出会えて本当に良かったね、とその子に言いたいよ。
    うーん、さすがぶっしー!! と思わず唸りました。

    普段、つい言葉の表面だけでコミュニケーションを
    しがちなんだけれど、その言葉が出てくる背景 や
    言葉の奥にある相手のニーズ のようなものを
    感じ取る聞き方が、もう少し私にもできたなら、
    会話はもちろん、人との関係もより深まっていくのかなぁ 
    と思った(とはいえ、自分に余裕がないとなかなかできない~;;)。

    コミュニケーションは生もの。 時と場所と相手によって、
    「最善な対応」は変化するよね。 
    使う言葉はマニュアル化できても、言葉に込める
    「心遣い」みたいなものは、きっと簡単にマニュアル化できない。
      ↑ この力が、「伝わるカギ」になる時もあるよね。

    「さきちゃんたちの夜」面白い??
    エッセイの新刊「すばらしい日々」は買ったのだけれど、
    「スナックちどり」は気になりつつ、文庫化をちょっと待ってる(笑)。

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  2. さんごさんへ。
    そこにのっているエネルギーを聞き取る・・・
    さんごさんも普段してると思うよ(笑)。
    お世辞ではなく、本気でそう思う。
    自分に余裕がないときはお互い様だけど、
    基本的に、さんごさんは自分で思ってるよりうんと言葉以外の部分をきちんと聞き取ったりしてる、とわたしは思う。
    思うというより、さんごさんと一緒にいてそんな風に感じてる。

    『さきちゃんたちの夜』はそこそこ面白かった!
    ちょっと作風が変わったかなぁ・・・という感じもあった。
    中央図書館なら品揃え良さそうだから、図書館にありそうだよね!
    ちなみに、わたしも近所の図書館で借りてきたよ。
    なぜか、名古屋市内の中でも近所の図書館はよしもとばななのラインナップがかなり充実してる♪

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    1. いやぁ、普段は全くできてないよ・・・人の話、よくうわの空で
      聞いてるし(笑)。
      ぶっしーと話してる時は、なんか全身が「貪欲」になるのよ。
      もっと聞きたい、知りたい、吸収したいって向かっていくような感じ。

      中央図書館なら、たしかに置いてそうだね!久しぶりに
      行ってみようかな♪

      よしもとばなな公式サイトの10月の日記の中に、
      「住むところを変えて、新しい時代が始まった。
      自分のところに自分が戻ってきたら、信じられないほどの
      パワーが湧いてきた。今まで一体何をしていたのだ?
      なんで自分のパワーを薄めていたのだ?40年間も
      自分を見失っていたのはもったいないが、その間積んだ
      経験が今後ものをいうし、とにかく間に合って良かった。
      おいおい小説ではっきり書いていくが、私は近年、
      やっと人生の秘密とその回答にアクセスしたと確信している」
      ( ↑ ものすごくざっくりと要約してます)
      と、書かれていたよ。 
      ひえ~「人生の秘密」、知りたいような、知るのが怖いような・・・!
      そして、私の取り戻すべき「私」は今どこをさまよっているのやら・・・(笑);;

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