2023年1月18日水曜日

夢の中で絶句、夢から覚めても絶句

この間仕事中に見つけたネット記事
宝くじを当てる難しさがよくわかる



真夜中の4時前、すごい夢を見て、夢の中で絶句していた私はその絶句して本当に言葉も出ない状態で目が覚めた。

夢の中の自分の感覚がリアルに本当に現実に起こったみたいな感覚になって、それを起きても持ち続けるなんてこんなこと人生で早々ない。


しかも「絶句する」って、言葉として私は時々使うけれども、あくまでも呆れてとか何かしらマイナス的な理由で言葉がないという意味では使っていても、体の感覚を伴って「絶句する」ことなんて過去に一度もない。


しかも「絶句ものだよねー」とか何とか言っちゃって実際は文句なんかをたらたら言っていて「絶句」はしていない。


だけど今回は正真正銘の「絶句」だった。







夢の中で私は知らない町にいた。


季節は冬でまさに今くらいな時期で、新潟の冬みたいな曇り空で少しは雪の残る道の上を女友達2人と私とで歩いていた。


もう1人の家に集まろうとなったのか、そこで集まって4人で居酒屋に移動して新年会をしようとなったのか、とにかくもう1人別の友達の住んでいる家に行ってそこから4人で何かをすることになっていた。


最初の2人も歩いている時は誰かわからなかったのと、家にいる女の人が誰なのかも絶句するその時まで気付かなかった。


ちなみに歩いている2人の1人は前にいた職場で一緒だった女性で、家にいる女の人は私の小中学の時の同級生の女の子で今地元で大繁盛のイタリアンレストランをやっている子だったのかその子に似ている人だったのかその辺りは絶句していて記憶が断絶されている。


歩いている時に、向かっている家の子は彼氏的な存在の人と一緒に住んでいて時々ごはんを外に食べに行きがてら飲むみたいな話をした。


そんな相手がいて羨ましいなどと思いながら、ベラベラとどうでもいい話をしてその家に向かった。


家に着いて、その子の部屋に私たち3人は入った。


一緒に住んでいる彼とはどうやら別の部屋で寝ているのか、床は木材っぽくて真ん中に1人用の小さなベッドと部屋のベッドと窓の間まで1メートルくらいあってその間になぜか下駄箱のような棚があってDr.Martinみたいなブーツがたくさん並んでいてそして部屋のどこかには部屋をアレンジして自分で作ったみたいな剥き出しのクローゼット的な、服が20着くらいかかってそうなところがあった。


玄関から入ったと思うけれど、半地下みたいな位置で、階段を数段降りたところに彼女の部屋があったのは覚えている。


そんなこんなで、彼女の部屋に入っても長居するつもりはなくて私たち3人はベッドの周りを囲むように立って彼女が支度を終えるのを待っていた。


だから本当に飲みに行こうとしていたんだと思う。


韓国料理的な店で焼き肉をするみたいな流れだったのかもしれない。


食べたことないけれど、チーズタッカルビと呼ばれる鶏肉にチーズをかけた料理みたいなものを夢の中の私は想像していたし、それを家に住む彼女と一緒に暮らす彼で食べに行っておいしかったからそこに行こうというような話になっていた。


私たちが彼女の支度が終わるのを待つ間、彼は部屋から出てこないようになっていた。


だけど、休みの日にズカズカと押しかけて何にも挨拶もしなくていいんだろうか?と夢の中の私は考えていて、そんなことを口にするかしないかのタイミングで彼が入ってきた。


上は色は薄いグレーの無地のパーカーで下は黒いスポーツ系のジャージみたいな格好で、そして黒縁眼鏡をかけていて無精ひげみたいに少しひげが生えていた、いかにも休日ルックな感じだった。


そして顔を見て私は絶句した。


話の途中から私は「もしかして」と思うことがあった。


そのもしかしての思考の部分は、最初はどうか勘違いでありますようにと願っていたりもして何を考えたのか曖昧だったけれど、その絶句シーンから起き上がるところの間で何を考えたのかはっきりと思い出した。


顔を見て絶句したのは、その一緒に住む彼氏というのがイケメン上司だったから。


彼女の方は当初彼は出てこないと思うからみたいな説明をしていて、にしてもこのままで良いんだろうか?みたいなことも数行前に書いた私の思考としてあって、だけど良いと言うからそうか、しかも休みの日に彼女の友達に挨拶とか面倒くさいかとか色々思った。


私がそこにやってくるというのはイケメン上司からしても想定外だったのかどうかはわからない。


私はもはやどこを見て良いのかもわからなくて床というか下を見て絶句、本気の絶句状態で、本当に色々どうしようかと思ってしまった。


夢の中のイケメン上司は軽口を叩くようなキャラで、一緒に歩いた女友達の1人が前の職場というかイケメン上司と趣味を通じて仲良しのSさんだった。


Sさんともう1人は家に住む彼女の相手がイケメン上司だと知っていた風で、面識もあるみたいになっていた。


私だけがそのメンバーとはお初みたいな関係で、だからまさか一緒に住む彼氏がイケメン上司だったというのは青天の霹靂だった。


Sさんに話しかけているイケメン上司の声を聞きながら、私には何と話しかけてくるつもりなんだろう?話しかけたりするのだろうか?というのが最初に思ったことで、その後猛烈に恥ずかしいというか冷や汗が出てきたのは「ブログ色々書きまくって読んでいるのに、どういう気持ちで今いるんだろう?」と思ったことだった。


少なくとも夢の中は今現在に時間軸はなっていて、5年近く色々書きまくったブログが存在していてそれをイケメン上司が読んでいることになっていた。


本気で絶句して言葉もなく、衝撃がすごすぎてもはや何がどうなっているのかわけがわからずに私はひたすら色んな思考を巡らせていて、そのタイミングでその絶句した体感覚のまま目が覚めた。


彼氏がイケメン上司かもと途中イケメン上司が登場してくるまで思うシーンがあって、それというのがその家の彼女もSさんとイケメン上司と同じ趣味の持ち主で趣味のイベントに一緒に出かけてその帰りに飲んだとかそんな話で、そう趣味を通じているところが「もしかしてイケメン上司だったりして」の思考に繋がっていった。


長い付き合いの2人みたいになっていて、私はそれを知らずにイケメン上司をごはんに誘ったりとか延々とブログに書いたりだとかしてたんだと思ったら、顔から火が出そうだったのともうそんな2人の仲を裂いてまで私が入る隙もなければ私は何を勘違いしてイケメン上司が魂繋がりの人だと思ったんだろう、色々間違い過ぎてるとかそんなこともあれこれ思った。


とにかく、本当に絶句して、言葉を失って、目の前の現実をどう受け止めていいのかもわからなければ、その場の数分の振る舞い方さえわからずに呆然として下ばかりを私は見ていた。


生活を共にしてお互いに色々さらけ出す相手がいるのに、私はどうしてそんな相手がいる人に向かってもしかして自分にもチャンスがあるんじゃ?と思えたのか、知らなかったにしても本当に痛々しいというか痛い人になっていた。


その彼女も特別に美人だとかスタイルが良いとかそんなことは全然なくて(失礼)、普通な感じと家の顔というかよそゆきの顔をしなくてもそこにいられる、さらには見慣れた彼氏の感じが逆にもう絶対に敵わないと思った。


その場にいることさえ居た堪(たま)れなくて、目が覚めて夢だとわかった後もその絶句したところからの強烈な感覚は消えないまま起きて、そうしてこのようにブログを書いた。







新年明けてから、イケメンズ3人と仕事をすることが続いている。


色々見慣れてきてわかったけれど、100人以上いるフロアの中で、仮に男性90人として年代も老若色々で、ちなみに私から見て「おじさん」部類に入る人たちはおじさんで特段カッコいいとかそんなことは思わない。


けれど、30歳前後からアラフォーくらいまでの人たちはイケメンが多くて、オタクっぽい人たちももちろんけっこうな人数でいるけれども、全体の1割近くはやっぱりイケメンズで構成されていると思う。


その数少ないイケメンたちと私は仕事で組むことが多いわけで、ある意味おいしいポジション?なのかもしれない。


で、1つ全員の共通項として、とにかくエリート、本当に賢い人たちの集団だということ。


若いイケメンたちとやりとりしていて、というかやりとりすればするほど、イケメン上司と私というのはあまりにも不釣り合いだと思う。


イケメン上司がいたのは田舎にある小さな事務所だったし、事務所の女性陣は田舎に住む人たちなわけで、田舎特有の慣れ親しさみたいな、言葉では上手く言えないけれどもエリートエリートみたいな風が吹くよりも先に別の空気が部屋を覆っているみたいな感じだった。


でもイケメン上司が本来所属している企業は大きな企業で、そしてこの1年くらいで色んなニュース記事を読んで理解したけれど、私の年代は「超氷河期」と呼ばれた時代でとにかく就職の内定をもらうことさえ難しい時代で、そんな中できちんとした大きな会社で内定を取れるというのは世代全体からしたらごく一部で、そういう本当にごく一部の層の中にイケメン上司はいる。


で、今の職場が事業内容は全く違うけれど理系な分野なのは共通項で、その理系男子たちとやりとりしていつも感じるのは、頭キレッキレだし基本的に理路整然としているし、仕事ができる人ほど本当に気さくなのに実はすごい実力を兼ね備えていて、そんな人たちとやりとりする度にイケメン上司もこんな風なのかもと思う。


仕事で関わることはいくらでもあっても、プライベートで仲良くなるなんてないなぁと自己卑下とかではなく本当にそのように思うわけで、当時は何も知らずにいたから色々と動けたけれど、普通に考えて住む世界も見ている世界も全く違う相手だったんだなとよく思う。


そんなところに今朝の絶句した夢で、そりゃ普通に趣味で合う人とかの方がどう考えてもいいよねと思うし、色々訳ありすぎる私のような個性(と言うと綺麗すぎる)ではそもそも土俵が違いますよという話。


いつかブログももう見ることがなくなるのも時間の問題だし、そもそも繋がること自体が無理すぎる、宝くじを当てるよりもあり得ない確率だったんじゃないかと冷静な判断をするとそのように思う。


いつかの未来は、私の存在そのものが忘却の彼方に葬られそうな勢いだなと思っている。


今日も朝からてんこ盛りの仕事が待ち受けているからとりあえず寝よう。


読み返さずにこのままアップしよう。


読み返さないけれど、あの絶句の感じは今も自分の中に残っている。

2023年1月15日日曜日

石と意思疎通

石たちと意思疎通している時の様子
カードやペンジュラム用のボードなんかの下に
敷かれている布製のシートは私が作ったもの

写真のアメジストは名前を希望して、
上の写真のペンジュラムボードのアルファベットを使って聞いたら
「NERUVA」をご希望で、
さらには漢字を付けて
「音流」(ネル)になった。

2023年正月以降出迎えた天然石たち
トップから時計回りに
トップ紫の石:アメジスト…ブラジル産
右、青い石:カイヤナイト…マダガスカル産
右下、白に水色の小さな石:
カバンサイト…インド産
左下、緑がかった透明の石:
ブルーフローライト…ドイツ産
左、青と白・黄の縞模様の石:
アジュライト…アメリカ産
 
ドミニカ共和国からの貝がらをご希望して
そこが所定位置になったカバンサイト

友情出演:長野県産水晶(右)
左のブラジル産アメジストとタイプが似ている




石と意思疎通』だなんてまるでダジャレか寒いおじさんギャグみたいと思いながらも言葉としてはピッタリだなと思っている。

ちなみにダジャレは漢字だと「駄洒落」になるらしく、漢字の方がより一層「駄洒落」感が出ている気がする。


新年早々5つの小さな天然石たちを迎えて、ふと置き場所はどうしたらいいんだろう?と思った。


普段寝る時にペンジュラムが休む場所として数センチ角の私が自分で作った毛糸のコースターがあってそこに置いているけれど、そして5つの新入り天然石たちもとりあえずそこに置いてはいるけれど、手狭になってきた。


そして新しい天然石たちの2つ3つは繊細な形で小さな衝撃に弱そうだったり、逆に尖っていて他の石に当たるともしかするとその衝撃が打撃になりそうだったりで、置き方を考えないといけないななんて思った。


それでペンジュラムを使って石たちにそれぞれ「どう扱われたいか」を聞いている。


2つはペンジュラムと一緒の毛糸のコースターを希望。


これはなんとなくそんな気がした。


ちなみにそのうちの1つは、石の効能として予知夢を見たりするらしく枕の下に置いて寝ると良いと元々紹介されていたから、それで枕の近くに置くだろうことは最初からなんとなく予想がついた。


一番繊細な作りのものは、「あ!もしかして!」と思って聞いたら即刻YESが出て、今はドミニカ共和国原産(原産って())の貝がらの中にピタリと収まっている。


貝がらも同じ大きさのものがいくつかあるから、どれがお好みかを聞いてYESが出て選ばれたものにした。


1つはイメージとして木の枝なんかで作られているかごとかリースみたいなのが出てきたから、そういうものを希望するのかを聞いたらとりあえずYESだった。


ただ名前がわからなくて色んなキーワードで探していくうちにすごいピッタリのものに行き当たることができた。


キーワードは「ミニチュア かご」。


シルバニアファミリーとかリカちゃん人形とかをはじめとする、いわゆる「ドールハウス」と呼ばれるものに使うミニチュアのかごやバスケットなんかを手作りでメルカリで売っているとわかって、それをこの半日ほどで何回かに分けて見てみて、あとは石に聞いてどれがお好みかを確認したら買うだろうと思う。

(手作りサイトでも色々出品されていたけれど、品物の値段と送料でバカ高になる。メルカリが意外にも一番良心的とわかった。こういう調べ物はいつもやる気で即やれる…( ̄∀ ̄;)


そして今回一番形が複雑だけれど一目見て惚れたアメジストの原石が今のところ宙ぶらりんというかどれがお好みか探索中。


とりあえず毛糸のコースターや他の石たちが置かれている場所でもなく、何になるのかかなり細かく聞かないとわからない。


本当は石たちに何で来てくれたのかや私の第一印象、私とどんな関係になるとかあれこれ聞きたいことがあって、そちらは途中で力尽きたから、順番に1つずつ聞いていこうと思う。


で、そのアメジストの石ともう1つ別の石は、石に名前を付けた。


1つ目は石の学術的名称を使って「カイト」という名がパンと出てきて、それで「カイト」が良いのかを石に尋ねたらそうだと言うからそれで採用。


それが1つ目の石のインタビューの時に起きたから、2つ目以降も聞いて、2つ目は名前は要らないとのことで(ちなみに貝がらの中に収まることを希望した石)、3つ目のアメジストが現在進行形でそれは名前を付けることを希望した。


それも面白くて、私はまた「アメジ」だの「アメリ」だの学術的名称を使う名前でいいのかと思ったら思いつくもの全てNOで、そこで作戦を変えた()←作戦って


サーフィンボードもといペンジュラム用のボードのアルファベット26文字を使って、石に直接何ていう名前が希望なのかを聞いていった。


そうしたら「NERUVA」と出てきて、ネルバ、ネルバね、などと思いつつ、私の中の見た目の印象と石とが希望する名前とがなんだかミスマッチで、それで英英辞典を見たけどそれらしき言葉はないのと、ネットで調べるとある時のローマ皇帝の名前と同じとわかったけれどそれもピンとこず。


その名前を希望する理由が知りたくて調べたものの収穫なしで、そこで調べた時に出てきたのが名前辞典なるサイトだった。


名前辞典のサイトを見て、本来なら生まれてくる子ども用の名前を付けるのに活用されるものだけれど、ここはそんなこと言ってる場合じゃないから、私はネルバをご所望の石の気持ちに応えるべく「ネル」と短くして漢字を見てみた。


ちなみに「ネル」と略すのは問題ないようだった。


ここ四半世紀くらいのキラキラネーム流行のおかげで「ネル」に対する漢字も実にたくさん候補があって驚いた。


大塚寧々さんのおかげなのか「寧」やあとは「心」という漢字がかなり使われていた。


スクロールしながら()見ていくと「音流」というのがあった。(スクロールするくらいに候補があって驚いた。)


音が流れる、あ!この子の名前にピッタリだと思って聞いたらそれだという。


本当に音が聞こえたりしてと思って石を耳に当てて音が聞こえるか本当に確かめたけれど、それはさすがに聞こえなかった。

発想自体は違和感なくやっていたけれど、これ他の人がしているところを私がもし目撃したら、「えっΣ( ;;;)))) 」ってなっただろうなと思う。)


音は聞こえなくても「ネルバ」から始まった「音流」はとてもピッタリな気がして、そしてご本人もOKを出してくれてそれで一安心した。


ちなみに音流は置き方も何か特別な形をお好みのようでまだ聞ききれてないのと(あれこれNOなのはわかったところ)、諸々のインタビューの答えもぶっ飛んでいてというか掴みどころがはっきりとはわからなくて、もっと丁寧に対話しないといけない感じがしている。


それよりも置き方の方は毎日のことだからとりあえず5つの石たちへの確認を先にして、そのミニチュアのかごをご所望の石とアメジストの音流さんの置き方を早々と聞き取ってなんとかしたいと思っている。







とまぁ相変わらず変わったことを休みの日、それも新年明けて2回目の週末にそんなことをしているけれど、とりあえずそうしたことたちを気の赴くままに1つ1つしていこうと思っている。


自分でもよくわからないけれど、とりあえず「ピンときたこと」を少しでも多く日常に入れたいとこの1週間くらいは思い始めている。


大元は仕事のことに端を発している。


仕事は相変わらず諸々やってきたものたちをやっているけれども、「何でこんなことしてるんだろう?」とか「何のためにこれをしてるんだろう?」とか「自分がやりたいことじゃないのにやるって、やってること自体何か違う」とか、そんな気持ちが相当フツフツと湧き上がっている。


自分が携わることで何かしら貢献できているのはわかるし、丸3年を経過したことから「派遣の人」ではなく「武士俣さん」という認識が浸透しつつあって色んな人たちに英語の諸々を頼っていただいたりもして非常にありがたいというかきちんと必要とされてる感がモチベーションになってくれるからその辺りはありがたみもあるけれども、やっぱり私の中でどうしてもしっくりといかない。


はっきり言って英訳は私じゃなくていいし、英訳以外のマニアックな部分、そのマニアックな部分は他の人が同じようにできるかと言うと難しいと思うけれどもそれは単に私のやり方やあり方の延長がそうなだけで、言うなればカレーを作るのに他の人たちが使わないスパイスを私は足してるくらいなものでそれは私以前には存在さえしていなかったスパイスだからあれば便利だったりカレー=仕事に深みが出ても無くても多分困らない。(実際のところはかなり困ることがたくさん出てくると思うけれど、そんなのは私の知ったことじゃない。ちなみに私が他の人たちがしないことでやってることの代表格が、関係者全員に個々にそして全体に向けて報連相をするから、それがなくなると知らぬ間に事が進んでいたり、知らない人たちは「聞いてません」といとも簡単に言って仕事放棄をして周りをイラつかせたりするから、そうしたところの弊害はかなり減ったと思う元々は自分がものすごく困ったから始めたことで、それでいつの間にか定着したし周りの認識もそのように変わってきた。そして私がおしゃべりするかのごとく個々の対応をやるから、それを買われて?衝突なり回避したいタイプの人と人同士のコミュニケーションを取り持つみたいなことも頼まれてよくする。ちなみに私はそういうのはたいてい苦にならないからしれっとやって終わらせる。)


色々書いたけれども、自分の中で何か違う感じは年を明けてから時々急激に浮上してくる。


生活のために仕事をする。


それは今はできているけれども、もうそんなに長くは自分を騙し騙しそこに従事させるのは無理だなと感じ始めている。


だから2段構えでいこうと思っているけれども、そうした「違和感」の熱を時間をかけて溜め込むこと(1段)と、そして熱が溜まれば「限界」となって「勢い」が出てくるだろう(2段)と踏んでいる。


熱を溜めて限界値に達するその時を自分なりに感じるその時までなんとかしようと思っている。


そのためにと言うのは可笑しい言い方だけれど、熱の集め方としてピンときたものを日々の中に入れ込むことが大事なんじゃないかと思っている。


石の声を聴くのは、世間一般では眉唾物だとしても私には自然なことだし、せっかく縁があって自分のところに来てくれた石たちだからなるべく石が好む環境を整えたいと思う。







5つの新しい石のうち、アメジストの音流以外は置き方が定まった。


2つは私お手製の毛糸のコースター。


1つはドミニカ共和国からやってきた貝がら。


1つはさっき日曜の朝早々に注文を終えた、手作りのミニチュアのかご。


メルカリで見つけてさらには売主であるかご作家さんに個人的にコンタクトを取ってそれとは別の物を入れるかごも一緒に注文して送ってもらうことにした。


物を入れるかごの方は、オラクルカード入れにする予定。


アメジストの音流は朝夜明け前に聞いたら(4時頃目が覚めてしまってそれからずっと起きている)、海のものではなく山のものをご希望で、そして今探していたら北海道の人で天然木の丸太をカットしたものを1枚単位で売っている人をこれまたメルカリで見つけたから、それを希望するかどうかを聞いてそうだとなれば注文するし違っていたらまた探そうと思う。


私は雑な人間ではあるけれど、物の声をペンジュラムに助けてもらいながら聴くことができるから、なるべくそれは叶えられることは叶えたいし、そして物たちが発する言葉というか意志は1つ1つユニークで面白いと思っている。


人間と同じで天然由来の石や植物たち含むものたちにもきちんと意志がある。


みんながみんな物の声を聴いたらいいとは思わないけれども、石や植物という自然のものたちは特段意志が存在しているように私は思うから、せっかくこんなマニアックな趣味関心を持っているからそれを使わない手はないと思う。

2023年1月9日月曜日

今年の目標ーYear 2023

左の石:マダガスカルより
カイヤナイト
右の石:インドより
カバンサイト

ドミニカ共和国から持ち帰ってきた貝殻と
浜辺に落ちていた波に洗われて丸くなった
ガラス瓶の破片や白い石
(2007年のものだと思う)

同じくドミニカ共和国から持ち帰った貝殻たち
(2008〜2009年のものだと思う)



今年は珍しく年頭所感(漢字やら言葉やら正しいのかわからなくて調べたら、全国銀行協会という名の団体が使っていたから多分大丈夫)的な、今年の目標を掲げることを今年のブログ第1号にしようと思う。@布団の中すでにツッコミどころ満載。

ちなみに超どうでもいい余談だけど、ゴロゴロ寝正月の延長みたいな昨日の3連休初日に目にしたとあるアラフォー女性の今の自分を悲観して将来も悲観しまくりなブログを読んで、私よりも色々お持ちなのに(彼氏とか潤沢な資金とか素敵なお住まいとかお洋服やアクセサリーなどのお召し物とか)そんなにも嘆かなければいけないのなら私など一体全体どうしたらいいのでしょう?嘆きがあまりにも足らないのか彼女が嘆き過ぎなのか、彼女が私の人生を生きることになったのなら今頃間違いなく自殺一択ですよー、などと思ったくらい( ̄∀ ̄;)


神経が図太いのか色々生きる力が強いのかもしれないと思った。


先日もヤフーニュースで私のような生活(働き方とか諸々)をしている30代女性が人生相談的なことをしてそれに対してカウンセラー的な人が回答するみたいな記事に対する一般人からのコメントを読んだら、この記事は作り話なのかだとか、こんな風なら生きていけないだとか、こんな人現実に本当に存在するのかだとか、もうボロクソなコメントの嵐で、私がもし自分のことを相談なんかしたのならこのような罵詈雑言的な言葉を言われたり思われたりするんだろうなと他人事のように思いながら読んだ。嫌になって少し読んですぐやめた。


という私が掲げる今年の目標。


今年の目標は、大晦日に立てて!!!大快挙、さらには新年何日目かには数年ぶりに自ら買った手帳にも書いて!!!大快挙、そして忘れることなくずっと頭の中にあってブログにまで書くという、私の人生にこんなにもその年の目標が自分の中にきちんとあってずっと残るだなんてあったことないだけに自分ではその時点で「すごー!!!」と思っている。


今年の3つ出てきた目標。


・自分が納得できる生き方

・物を愛でる

・愛について


出てきた順にツラツラと思いつくまま書こうと思う。







目標その1

『自分が納得できる生き方』


さかのぼること大晦日。


高校の時の部活の友達4人とランチした。


コロナ禍だったり夏は都合がつかなくて会わなかったりで多分2年か3年ぶりに会った。


細かいことは端折るけれど、その時に何をしているかを聞かれたから、これまでの派遣の仕事を続けていることと「3年経っても大丈夫なの?」と聞かれたから3年経過したタイミングのこの12月からは無期雇用に切り替わったことを言った。


その時の周りから返ってきた言葉たちが

「英語ができるって強いよね」

「手に職だから安定するね」

「それだけ英語ができるならどこでも使えるし、今は学校でも英語が必須でそれで人手不足だし学校関係も色々職があるからぶっしーいけるよ」

などなど、こうして言葉にすると何らおかしくない会話みたいだけど、その時の私はものすごく違和感を感じて仕方なかった。


友達に違和感なんじゃなくて自分の生き方というかこうして人に聞かれた時に違和感を感じる自分に気付いた。


高校3年の時の進路選択から今に至るまで、私はただの一度も「英語関連の仕事をしたい」とは思ったことがなくて、今たしかに英訳はしているけれどもそれ以外の謎の調整役とか業務には明記されないけれど確実にやらないと自分の仕事が回らないからする必要のある裏方的な仕事とかそういうのも色々あって英語にまつわる仕事をしている感覚がないのと、さらには今の仕事をしている最大の理由は自分の中の「保険」のためだったりするから、尚のこと「英語関連の仕事」をしている感覚がないしぶっちゃけ興味もない。


「保険」というのは、オカルト的なことを本当に仕事にしたとして、それがどうにもならず食べていけない時に社会復帰するには年齢も年齢でますます雇われるのが色んな意味で難しいから、その時に「英訳の職歴3年」とかあればしかも上場企業ならさらに箔がついて良き、とりあえず世の中の基準にある程度入れそうな経歴になってくれるわけで、そんなよこしまな気持ちの保険として積み重ねている。


それ以上に自分が「自分の生き方を全うしていない」という感覚がその会話中もその後も自分の中につきまとっていて、そちらの方が私的には納得いってないんだとわかった。


オカルト的なことを仕事にして周りから眉をひそめられる方が、英訳の仕事で社会的に受け入れられやすい聞きざわりの良いことをなんとなく言って違和感を感じまくるより良いと思った。


自分でその時答えながら「これが自分の今の人生なんだ」と思ったら本当にいたたまれなく、やっていることの中身と自分の心との不一致感が半端なく、その感覚がすごく気持ち悪いというか自分で自分に居心地悪く感じて仕方なかった。


オカルト的なことをしたいかどうかは正直な気持ちよくわからない。


興味はあるし謎に色々やれるところがあるしある意味自分を活かすという意味ではとても良い選択だとどこかで思っているけれども、やったらやったで自分が納得するかはわからないし、まだまだ色々と踏ん切りがつかない。


だけど、英訳の仕事は中身が濃くてたしかに企業に対してもしくはエンドユーザーのお客さんに対して貢献度は高いかもしれないけれど、自分の中でいつも他人事みたいな感じで全然自分のことに感じられていなくて、「ザ・生活の手段」がたまたまそれなだけという感じがある。


もちろんここに至るまで相当に色々なことを積み重ねなければいけなかったけれども、そしていい加減なものは絶対に出せないから手を抜かずにやり続けたけれども、どうしても「何か生き方として違う」感はこの3年一度も拭えたことがない。


そう、生き方として自分が納得できていないところがこの大晦日のおしゃべりの時に感じた全体の違和感だったのかなと思う。


ちなみにオカルト側のことも言えば、すごい自信があるわけでもなく、なんなら重たいものがテーマにぶら下がるから積極的にガンガンと入り込みたいわけでもなく、集客とかそういう感じのことはノープラン過ぎるし(この辺がさらに甘い)、仮にそうしたことをきちんとしたとしても道が違えば看板は畳むことになるだろうしとか、そんなことも諸々いっぱい思うことはある。


10月の東京旅、日帰り長野一人旅、11月の東京旅アゲイン、12月の大雪という非日常な色んなことが重なって、それら全部とここに書いている目標とが実は色々繋がっていて(だからここに挙げたものたちはきちんと書いて残しておきたい)、自分の中でも色々とああでもないこうでもない論争が巻き起こりまくっている。


とにかく何であったとしても、自分がそれを誰かに説明するような時に、自分が言っている(やっている)ことと自分の心とが極力一致していることが、要は自分が納得していることがとても大切なんだと気付いた2022年の最後の日だった。


その違和感を自分の中から少しでも減らすには、もう自分が納得できる生き方を自分でやっていく他なくて、だから今年1年は自分の生き方に対して自分なりのテコ入れをすることが大切だと思って目標にした。


ちなみに、違和感は本物らしく、かれこれ1週間も前のものだったにも関わらずその間忘れることもなくじわりじわりと自分の中に残るというかどんどん浸透していて、それがより一層自分の中で「なんとかする必要のあるもの」として今かなりきちんと存在している。


どういう選択肢に自分が最後行き着くにしても、今みたいな違和感が減ってくれるような、そんな選択肢を自分に捧げたいと思う。







目標その2

『物を愛でる』


年末に突如スイッチが入った天然石への興味。


パワーストーンも天然石も言葉的に近いと思うし私はその違いを説明できないからどちらも同等なのかもしれないけれど、私的には「天然石」の方が言葉としてしっくりくる。


で、その天然石を少しお出迎えするにあたって、諸々のこの1年、2年で出迎えたものたちが頭をよぎった。


・本数十冊

・布数枚

・手芸関連のボタンやリボンなど数点

・タロットカードなど数点

・服数枚

・ノート数冊

・便箋等数点

・シール数点

・観葉植物ひとつ


おおよそこんな風な新たなものたちを迎えた。


どれもこれも縁あって今生私と時間を共にする。


そう思った時に、どれを買ったとかどこにしまったとかわからなくなるような今の状態ではなく、何がどこにあるかわかっていたり、1つ1つ触ったり目を通したり眺めたりとそれぞれの用途を全うできるような物との付き合い方をしたいなと思った。


年末年始に妹が帰ってくるのに合わせて部屋の掃除をした時、時間が間に合わなくてとりあえず置き場所の決まっていない紙類やノート、その他の細々としたものたちを段ボールに入れてなんとかした。


いい加減、物の位置を決めなきゃだなと思いながらもとりあえずは布団を敷くスペース作りが最優先でせっせせっせと手を動かした。


3連休でそれに着手しようとしたものの手付かずでこれはスイッチが入るのを待とうと思っている。


どうでもいいことだけれど、私が仕事も生活も全てにおいて一番苦手なことは整理整頓だと思う。


余談が過ぎるけれど、20代の頃に見たテレビで片付けられる人と片付けられない人の差が何かという検証番組を見たことがあって、それは今でも強烈に記憶に残っているけれど、まさに私のことだと思った。


4段くらいの空の本棚と色んな大きさが混じった本や雑誌を片付け得意な人と不得意な人とにそれぞれ同じものを渡して、それぞれが本棚に収納してその2人を比較して何が違うのかを番組では解説していた。


圧倒的な差だったのが、不得意な人はとりあえず本棚に本たちを入れていくのに対して得意な人はまず本棚と本たちとを眺めて最終形を頭に思い描いて、その最終形に近付くように本を入れていくことだった。


得意な人は闇雲に本棚に入れることはせず、大きさごとにまとめて例えば大きなものを最下段に小さなものを中段になど、上段の上から順番に詰めるのではなく何かしらのルールを自分で作ってそれに従って並べていくというやり方だった。


最終形を思い描くなんてしたこともなければ、道理はわかったにしてもその最終形の思い描き方がさっぱりわからない。


それを見て私に欠けているものが何かはっきりとわかったし、でもだからと言って私にはそういう片付け方ができるかと問われたら壊滅的にその脳の回路が無さすぎて相当な訓練でも積まないと無理だから、とりあえず目指したいのは自分が困らない程度に物の場所を知っていたり居心地悪くならない程度に部屋を片付けられたらOKということにしている。


30代一人暮らしの時は、収納が最小限しかなかったことも手伝って、私は物を極力持たないことにして部屋を整える術を得た。


ちなみにこれはとっても私に合っていて、片付けられない整理整頓できない私には最適解だと思った。


けれど、43歳になった今は少し考え方が変わった。


物は増やしたいわけではないけれど、自分が手元に置いておくと気持ちが明るくなったり穏やかになれるもの、はたまた必要と感じるものは自分の手元に置いておきたいと思うようになった。


天然石を迎える時にそれはとても強く思ったことだけれど、石は本当に「縁」になる。


ドミニカにいた時に、Mちゃんというラリマール、日本ではラリマーと呼ばれる天然石を扱う女の子がいた。


たしか同い年で手芸話とかで盛り上がって当時すごく仲良くなれた子だった。


Mちゃんはラリマールのアクセサリーを作るフランス人の移住者から委託されて販売を手掛けていた。


そのMちゃんから何個かアクセサリーを買った時にMちゃんは「ラリマールの石とはご縁だからね」といつもみんなに言っていて、私にももちろん言ってくれていて、その言葉がとっても魅力的だった。


当時は石にも興味がなかったしスピリチュアル的なことにはもっと興味がなかったけれども、Mちゃんというすごく自然体で天真爛漫な女の子から発せられる空気がすごく好きで、そのMちゃんがラリマールだけは「ご縁」と言い切るところもとても好感を持っていて今でも私の中に残っている。


その言葉の意味だけじゃなく世界観がわかるようになったのは本当に今回の年末年始で、1つマダガスカルから直接取り寄せた日本人の方が出す石をメルカリで見つけて今私の枕元にあるけれど、その石が色んな人の手を介して私のところにやってきた時に初めて「この石と縁がある」と思った。


これまでだって手に入れた石たちがいくつかあるしペンジュラムに至っては妹が今回来た時に「あの名古屋の変な店で買ったやつだよね!?」と聞いてきたくらい、ペンジュラムが売ってるなんて思うこともないような駅併設の商業施設に入っているアジア雑貨店的な店で買ってきて、それにももちろん色んな思い出があるけれど、少なくともMちゃんが言っていた「石とはご縁」という言葉は当時私の頭の中をよぎらなかった。


その後もいくつかの天然石が私の元にやってきたしオルゴナイトと呼ばれるパワーストーンが入った御守りみたいなものも手にしたけれど、どの時も「ご縁」という言葉は自分の中になかった。


今回マダガスカルから遠路はるばるやってきた石を見て、これは本当に縁がないと繋がれないと思った。


石は私の小指の第一関節ほどの大きさで薄さは500円玉くらい。


それを送料込で500円で買ったけれど、マダガスカルで採取する人、その人が仮に他の行商を挟まずに直で日本の私が買った人へ送ったとしてもその郵送代や手間賃、さらに日本の売り手の方の買値があってその後の私に売る際の郵送代と手間賃、そうした諸々を考えると500円では安すぎるわけで、国際郵便でクリスマスカード1枚送るのに120円かかることを思えば破格値で、お金の話をしたいのとは違うけれども、手間暇がものすごくかかっていてようやく私の手元へ海を越えてやってきてくれて、こんなの縁がなければ結びつくことができない。


例えばもっと値段が高くて諭吉1枚じゃ足りないようなものだったのなら、「石を買った」という感覚だったかもしれないけれど、ワンコインでアフリカの島国からアジアの島国に辿り着いてさらには日本国内でいくつもの県をまたいで私のところにやってきてくれて、これはもうその石と私とが巡り合って繋がることが正解と言わんばかりだと私は思っている。


だから石は買ったという感じは全くなくて「巡り会えた」という感じ。


ペンジュラムもそんな感じがするなぁと書いてて思った。


ドミニカで一度だけラリマールの原石を買ってそこから研磨してラリマールの青い石を出すということを友達としに行った時があって、最初拳より少し小さな大きさの岩を機械で削って、青いところが出てきたら今度はひたすらやすりで磨いてという一連の作業を半日までいかなくても2〜3時間やってその大変さも少しは知っているから、天然石を扱う人たちがそれらの手間をみんなやっていると思うと頭が上がらない。


マダガスカルの人がどうやってその石に辿り着いたのかは知らないけれど、家の庭に落ちてたとかいうことじゃないだろうし、仮に磨かなくても石として完成形だったとしてもそれを浜辺とかで見つけるなんて至難の業なのは想像に難(かた)くない。


それこそドミニカの浜辺で変わった形の貝殻やビール瓶の破片だったガラスが波で磨かれて丸くなった石とかを探して集めたこともあったから、たとえマダガスカルの石がパッと見つかったにしてもやっぱりその地に赴いて探してその後パッキングして送る手間がある。


そんなことを色々感じたからこそ、メルカリという実に今どきのツールを使っての売買だったにしても、普通に近くのスーパーで売ってるわけじゃないから「ご縁」あっての巡り合いだと思っている。


そして、恒例の石にインタビューすることもやった。


石の性格や何で私のところに来てくれたのかとか私の第一印象とか私に伝えたいメッセージとかをペンジュラムを使って聞いていった。


その時にペンジュラムが石を代弁してカードをご指名しただけじゃなくとある占星術の本もご指名した。


得意のペンジュラムボード(私の中では友人ノムが命名してくれた「サーフィンボード」の方がしっくりくる)を出してきて、それで本のページをペンジュラムから出してもらって、言われたページを開いたらなんとそこは私の生まれた日の太陽の位置の解説ページで腰を抜かしそうになった。


ちなみに私のところに来てくれた理由として、示されたページで見つけたキーワードは「内面の癒し」と「意識の自由を確保していく」だった。

(参照:『直居サビアン占星学』直居アキラ)


その石へのインタビューをした時に、つくづく「良いものたちを私は時間とお金をかけて取り揃えてきたんだな」と思った。


直居サビアン本は絶版本で今ではもう手に入らないものをメルカリで毎日探してそれで手に入れたものだった。(2020年10月3日)


本そのものはほとんど読んでいないけれど、必要なメッセージがそこにあるとペンジュラムに言われれば開いて見ることはこれまでも数回あった。


占星術関係の本はほとんど読んでないけれど、こうして必要な時には絶対のものを私に届けてくれる。


そんな風に物たちを眺めてみると、天然石に限らず物たちはどれもこれもご縁のあるものだというのがわかる。


世の中には数えきれないくらいの物が溢れていて、その中で自分と縁あって自分の手元に来てくれて何かしらのお役目を果たしてくれるというのは、すごい確率で起こっていることだと私は思っている。


だからこそ、物たちを愛でる環境を整えたいと思うし、元々ガサツで整理整頓も苦手すぎる分野ではあるけれど、それでも自分と死ぬ時まで共にいる可能性が高いものたちはそうなれるように大切に扱いたいと思う。


服は有効期限もあるけれども、それでも着れる旬な年齢の時に着たいなと思う。(今はほぼワークマン制服と家でのパジャマも兼ねた部屋着が9割以上の生活のルーティンを占めているから、そうではないよそ行き用の服はたんすの肥やしにせずに着れる時に着たい。)


部屋の片付けとか段ボールに入れたまま放置している物とか色々あるけれども、この1年は物と向き合って対話してそして愛でることをいつの時もできるように環境を整えていきたいと思う。







目標その3

『愛について』


この目標、目標にすることなのかどうかさえも怪しすぎるけれども、その1生き方とその2物との付き合い方を考えた先にその3も普通に出てきた。


これはごちゃごちゃと書き出すと自分でもどうしていいのかよくわからなくなるから、なんなら書き始めの今でさえどう書いていいものかわかってないから、だからとりあえず思ったままを書こうと思う。


一言で言えば、「行動する」。


これは後付けで思ったことだけれど、物と付き合えるのも自分が残り生きた年数分だけになる。


それが50年くらいあるのか1年くらいなのかはわからない。


そう思った時に後悔しそうなこと、やり残し感が残りそうなこと、そして残り時間を思う時に必ず入れておきたいもの、ものと言うよりも「人」と「人との時間」、それらを踏まえた上で「じゃあ何ができる?」かと言えば、自分が思いついたことをやる以外にないわけで、まさか天から素敵な異性が降ってくるなんてことはなく(仕事やら私生活やらで色々降ってくるあの勢いをどうかこういう場面でも発揮してください、と思うけれども)、そういうこととも違うけれども、とにかく自分が本当に納得するための何かをするのは自分のためにしたいと思っている。


自分の人生や物と違って、この分野は誰か第三者も関係する。


それゆえに自分が何とかしたら何とかなるとは絶対に限らない、ある種宝くじを当てるみたいなことだなと思う。


だから行動すれば良いともならないどころかやり方を間違えると相手に大迷惑とかなりかねない。


望んだ結果が手に入るとは限らないどころか博打級に危うくて可能性が限りなく低いところの話になる。


なんだけど、今この時点から死ぬいつかの時までに「会いたい人」がいるのに会わない選択肢を自分に与え続けるのはなんだか違う気がするようになった。


私の意志だけではどうにもならないことであったとしても、私の意志の部分だけでも具現化したり行動に変えたりすることはできる。


そこに力を注ぐことを、これは11月の終わりの東京旅の時に思って以降ずっと頭の片隅どころかけっこうな表舞台側の思考の中にあるけれども、それを今年はしたいなと思う。


「自分の望みを叶えてあげる」ということを今年含めて残りの人生でやっていきたいと思っている。


例えば、行動しないための言い訳や弱気発言はいくらでもできる。


でもそれって裏を返すと、自分が確実に望んでいることがあるのにそこから目を背け続けてそしてわざと自分の望みが叶わないようにしていることだと思う。


やってみてダメなのは仕方ない。


でも望んでいることがあるのにそれを叶えてあげようともしないのは、自分で自分をいじめていることと同義なんじゃないかと最近は思っている。


自分の願いにまずは自分がきちんと寄り添うこと、そして寄り添いながら叶えるために自分が何ができるのかを自分なりに考えて考えたものを自分のために実行すること、そこまでは今年やりたいなぁと思っている。




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あけましておめでとうございます(*´`*)

今年もどうぞよろしくお願いします。

2023年