「武士俣さんすでにそれを始めてますね〜」
2月中旬、私は待ちに待ったマッサージを受けていた。
このマッサージを受けた理由はただ1つ。
自分の体を通じて、自分の潜在意識からのメッセージを伝えてもらえること、それを聞きたくて受けた。
今でこそホロスコープを独学で学び始めたり他にも興味のあるものにあれこれ手を出してるけれど、2月の中旬は全く違った。
3月末で辞めると言ったはいいけれど、どうするんだろう?と思ってた。
だから、自分の潜在意識から何かしらメッセージがもらえるなら、是が非でもお願いします、という感じで予約してた。
その時に4月以降含め今後の人生で何をするのかわかる範囲で私の体が何かを言ったら教えて欲しいとお願いしたら、冒頭の「それをすでに始めてる」というメッセージをもらった。
私はいまいちピンと来てなかった。
少しは思い当たることはあったけれど、「これ!」という明確なのがない。
何だろうと思った。
仕事を辞めて数日後、今年初めての桜を見た。
桜はむしろついでで、その時もまた別のマッサージを受けに行った。
それは筋反射と呼ばれる手法を採用していて、自分のYESNOを探るのに筋反射で答えを見てもらう。
筋反射は潜在意識を反映してるから、自分の本当の本音を知ることができる。
その時にもこれからの自分の方向性を見てもらった。
「すでに始めてる」は同じだった。
それで当時あれこれ思い付いたものを頭に描いてそれで筋反射を取ってもらったら、NOが出た。
ちなみに頭に描いたことは、思考の変換を図って心をほぐすみたいなプログラムだった。
それが一番自分の得意分野だと思っていたから。
NOが出て正直「…、他に思い当たらない、何をすると言うのだろう?」と思った。
その2日後には、ホロスコープの読み取りから「心の傷を癒すエキスパート」と出た。
これはかなり良かった。
自分の中の大ヒットした言葉だった。
やることの輪郭もある程度ある。
ただし、その時はまだ何か自分に不足してるところを見ていた。
ホロスコープの学びが始まったばかりとあって、まだまだ先は色々長いなぁと思ったことも覚えてる。
実際に頭の中に色々あったものの、私はなかなか動き出さなかった。
何でかなぁと思ってた。
気持ちがないわけでもない。
やることは頭の中にある。
あとは形にすればいいのに、何してんだ?と思った。
そうこうしてるうちに、ホロスコープの読み解きにどハマりして、その心の傷を癒す云々は放置に近い形になった。
実は5月の中旬に、これからの仕事用のブログを一新しようと、新しくブログを開設した。
したはした。
2つほど書いたまま、それ以降書いていない。
これも正直、このブログはこんなにも書くくせして、本来する必要のあるものが延び延びでどうかと思った。
開設してしばらくした後、私は2人の人たちから今の自分に向けてのメッセージを下ろしてもらった。
5月20日前後の話で、ホロスコープの講座のキャンセル待ちは取れるわ、そのメッセージの人たちの受付も取れるわで、一気に3件も欲しいものが取れてどうなってるのかと思った。
1人は私が最後の1枠ゲットだったし、もう1人も全く知らない人でたまたまホロスコープの調べ物してたらヒットした方で、何と遠隔リーディングと呼ばれるもののモニターを募集されてた。
色んな種類があるけれど、この方のされる遠隔リーディングは、名前と生年月日を伝えて、あとは聞きたいこと1つを書いて、そしてそこからその方が読み取る情報をバックしてもらう。
その方が繋がるのは、基本的に相手の魂の部分。
対面ではしてるけれど、遠隔でしたことがないからそのモニター募集だった。
いくつか記事を読んで絶対にこの人なら大丈夫!というのがわかって(←文から相手の感じを読み取る嗅覚は相当優れてると思う)、それで速攻申し込んだ。
その後24時間もしないうちに締め切られた。
メッセージは今度いつかここで紹介したいと思うけれど、本当に的確なことをそれぞれの方は言われていた。
1人は、今の私の状態を、自分の人生そのものを心の深い部分から見つめて歩き出してる、と教えてもらった。
もう1人は、「心の傷を癒す」ことに関してその道を歩くと決めたことに対しての祝福&後押しと、ただそれに対しての「これ」という方法が定まっていないようだと教えてくれた。
そこには「具体的なことが実は自分の中にあっても、『これでやります!』と高らかに宣言する自信に至ってないのかもしれない」ぐらいなことが書かれていた。
これは大いに思い当たることがあった。
でもかと言ってその時もまだ「これ!」と明言できるものはなかった。
しかも思い当たるというのは、自分の心理状態であって、具体的な手法の方ではなかった。
そこはまだぼんやりしてて、多分好きなことやできることをいくつか組み合わせて何かしらをするのはわかっても、じゃあそれが何かと言われるとわからない。
その時もまだ私の中では明確な方法は「これ!」というのがなかった。
そうこうしてるうちに、今度は4月にちょっとした新しい試みをさせてもらった人が、私の伝えたメッセージによりなんと健康回復したと教えてもらった。
これはめちゃくちゃ嬉しかった。
そしてそれは1つ私に小さな自信をプレゼントしてくれた。
そして数日前のこと。
絶不調4日目。
熱もないのに合計で5日も寝込んだのは初めてだった。
これ本当に風邪なの?と思うぐらいの満身創痍型の風邪だった。
もちろん根底には心の不具合が爆発して起こってることはわかったけれど、それにしても酷すぎた。
人生でベスト3に入る具合の悪さだった。
そんな最中、私はある1人の人からメールを受信した。
その人には元々私のする癒しのプロセスのモニターをお願いしていた。
本人のタイミングでお願いしてもらう予定でいたけれど、その時にもらったメールを読んだら、具合悪いくせして即座に色んなことが思い浮かんで、それら全部を書いて1時間もしないうちに返信をした。
私としては特別なことをした感じは全くなく、フライングだけどこれがモニター代わりの本人向けのメッセージだと伝えた。
メッセージと言うより、実際は実に超現実的な「今自分のために何ができるか」リストだった。
具合の悪さも手伝って、私はその時に相手からもらった返信をだいぶ読み飛ばしてた。
もちろん大切に返信は読ませてもらった。
だけど、言葉を1つ1つきちんと拾えるほどの体力がなくて、当初読んだ時はその内容の10分の1も頭に残らない感じだった。
すごく大切なことをたくさん伝えてもらってるのに、あまりのだるさに読んでても肝心なところは響いてこず、他の部分にばかり目を向けてた。
そしたら日曜日の夜遅くにもう一度今回のあれこれの感想メールをもらって、そこで初めて私は事の重大さに気付いた。
そこには具体的に私がしたことを、その人の言葉で最大限に書かれていた。
その人いわく、私がまるでその状況をずっと横で張り付いて見てるかのごとく色んなことを言い当ててたこと、当時の状況を見て判断できることを的確に表してるだけじゃなく、それらに対しての超具体的でわかりやすいアドバイス、それらを1時間もしないうちに返信してきて、人のなせる技とはとても思えなかった、それを読むだけであまりに驚いて辛い気持ちも一気に半分は吹っ飛んだ、とあった。
あれ、そんなすごいことしてた私⁉︎と思って、もう一度最初にもらったメールとそれに最初返信した私のメールの両方を読んだ。
確かにたった数行の情報から紐解いて出してきた発言にしては、あまりにも多岐に渡っていて、しかも知らないことまでまるで知ってるかのごとく書いていて、その本来知らないことに対しても普通に対応策を具体的に明記してた。
数行の現状を伝える内容から19個もの超具体的な心理的アプローチ&体へのアプローチを私は黙々と書いてた。
しかも具合悪くて布団の中でもぞもぞしながら…苦笑。
もっと言うと、その後さらにもっと長いアドバイス的なものを8個書いて追加で送ってる。
だけど、私は一切疲れなかった。
単に出てきたものを書けば良かったから、思考もセラピー的な手法も何も使わなかった。
色々振り返って、ようやく今全部が繋がった。
確かにかなり精度が上がったのは本当だけれど、元々私はこれを普通に素でずっとやってきた。
「ずっと」というのがいつからかわからないけれど、30代はそうだったと思う。
相手の状況を直接口頭でも、反対にメールとかの文面でも伝えてもらう。
そうすると私は即座にその状況が理解できて、見えはしないけど想像も簡単にできて、そしてそれに関して何かしらのことが脳裏に思い浮かぶ。
感じたまま、相手にその内容を伝える。
私はその行為を特別視したことは一度もなかった。
時々「何でわかったの?」と言われなくもなかった気がするけれど、私からすると別に特別でも何でもないから、気にも留めたことがなかった。
「今日ビール飲みたい。つまみは、レンコンの素焼きと、キムチと、チーズと、あとマカロニサラダも食べたい!帰りにコープ寄って割引のメンチがあるといいな」
ぐらいの食欲に任せた晩酌への妄想と何ら変わらないから、それが特別だなんて考えたこともなかった。
これは特技だと思うけれど、私は冷蔵庫を見てすぐにパッとメニューを組み立てられる。
だから献立を考えるのに、余程好き嫌いの多い人向けのものも含めた献立を立てないといけないなんてことがなければさっと思い付く。
献立が特技と思っても、同じぐらいにパッと思い付く相手の状況やそこからパッと思い浮かぶメッセージ的なものに関しては特技とは思わなかった。
むしろ、それについても「私お節介ババアみたいで嫌だな…」とは時々思ってた。
相手から非難めいた返事が返ってこようものなら、本気で「やらかしたな…言わなきゃ良かったな…」なんて思うこともしばしばあったから、余計と特別に思うこともなかった。
でも今回第三者から指摘されて、よく考えたらちょっと普通じゃないかもと思った。
そして今回初めて「隣りでずっと見てたのかと思ったぐらいに当たってる」と言われて、初めて「もしやこれ、私の考えとか想像ではないのかも…」と思った。
4月以降、そうした何かしら個人的なメッセージを伝える時、私は伝える前にその情報の出所だけはペンジュラムで確認している。
ある時、明確に私の意思ではない形でメッセージがもたらされて、それ以降は自分の関心も手伝って確認してた。
だから今回のメッセージも、相手に出す前に相手の潜在意識からのものだというのは確認してた。
でもそんなの絶対とは限らないし、ましてやそうだとしてもどの程度の正確さや情報量に該当するのかなんてさっぱりわからなかったから、あくまでも私なりの目安程度の話だった。
だけど、今回のモニターの人の話で、どうやら私は瞬時に相手の潜在意識かや来てるものをダイレクトにキャッチして、そしてそれをそのまま伝えてる、その正確さや情報量が半端ないことが判明した。
言われてみて確かにおかしいとわかった。
だってたかが数行の情報から私はその解決法のようなものを一気に19個書いていて。
相手がそれが1時間以内に来てビックリしたと言ったから、私はあまりの具合の悪さにそれすらも読み流して、実際は読んですぐに思いついたからこんな風に返信してた。
「打ち込むのには時間が3次元らしくそこそこかかるけれど、思いついた時間としては、書いたものの大半は一瞬で、だから時間にしたら1、2分で全部出てきて、書いてるうちに他も思いつくからそれも付け足しで書いて…」
19個の大半のメッセージは一気に頭に浮かんだもので、「寝たら忘れる」と思って、布団の中で横になりながらひたすら書いてた。
だから相手からさらに指摘されて、状況を見てもなければ解決法を考えてもないのに、あれだけの情報をそんな短時間で持ってくるのは、もう人のなせる技じゃないと言われた。
あまりにこれまで当たり前にあり過ぎて、全く気付かなかった。
イメージとしては。
その人自身が何かしら個人的なことで困る・悩む
↓
自分では解決策を顕在意識上では思い付けない
↓
とりあえず目の前の人(=私)に情報を伝えよう
↓
目の前の人が潜在意識の通訳をするだろう
↓
(私は知らずに)通訳&伝達
なんてことになってたんだと思う。
書いてて「あー‼︎」となったことがある。
多分同じ原理だったと思うけれど、私はコールセンターの仕事の時にも似たようなことが起こってた。
4つのコールセンターの仕事をして、そのうちの2つは個人客相手の対応だった。
法人相手の時にはこれは起こらない。
多分それは個人の感情とか状況はその場合掻き消されてしまうから。
でも個人相手の時には、私は時々相手の超個人的な話を聞いて、その時に思いついたことをさらりと電話の向こうの人に伝えることをしてた。
仕事には関係ない。
1つはエアコンの修理受付だったし、1つはクレジットカードの不正利用の被害に遭った時の対応部署だった。
そこから個人の人生の話が出てくるなんて私も想像してなかったけれど、なぜかそういう流れが電話口で生まれて、それで思い付くことを言った。
何人かのお客さんには「仕事としてではなく今お話を聞いて個人で感じたことで申し訳ないのですが…」と前置きして言ったことも覚えてる。
エアコンの方はアットホーム主義なところで全く怒られないどころかそれでいいと言われてたけれど、カードの不正利用の方は教育係からしょっちゅう怒られてたし、一緒に入った女性からも「武士俣さんの話を隣りで聞いていると、どうしたらそんな個人的なお話になるのか不思議で仕方ない」と言われたことがある。
ちなみに教育係の人は、単に私のやること為すことが全て気に食わなかったようで、ことごとくダメ出しを食らってた。
だから個人対応に怒られたと言うより、もっと他の部分であれこれ言われてた。
当たり前だけど、私は仕事だから絶対に自分からそんな話を引き出すような前振りは一切しない。
だから私からすると、自然にそんな話の流れになったとしか言いようがなかった。
これは私の予想とコーチングの時に学んだこと。
何か大切な話をする時、個人の悩みや相談というレベルの話の時。
人は無意識のうちに相手に話していいかどうかを判断している。
この無意識の部分というのは私たちが認識してるよりずっとすごい感度で、私はこの例が一番ビックリしたという話を1つ紹介したい。
コーチングのスクールの授業で習ったこと。
先生が私たちに質問した。
「これからみんなにとって初めて会う人がこの場所に来るとします。その人がどんな人かをどのタイミングで察するでしょうか?」
私たちは色んなことを言い合った。
入ってきた瞬間とか、自己紹介されたらとか、実際に一緒に授業を受けたらとか。
先生いわく、私たちは初対面の人を実際に会った時にその人が安全な人かどうかを判断してると思っているけれど、実際は違うよという話だった。
実際は、その相手が部屋に入ってくる数メートル前にその人が発してる雰囲気を空気でキャッチしてるらしい。
スクールの場所としては、エレベーターを降りて3軒ほどの店舗を過ぎたその階の一番奥で、具体的には距離で考えると大体2軒手前あたりで察知してるかな…と説明した。
だから入ってくる前にはすでにその人が安全かどうかというのを判断できる能力が人間にはあるということだった。
講師の先生たちが男性だったおかげで、必ずそうした話を裏付ける心理学者とかの実験データや理論が添えられてたから、空想や妄想の話ではなく本当にそうらしい。
だから、電話の時も同じようなことが起こってたんじゃないかと思う。
電話越しに目には見えないけれど、相手の感じを察知して、それでお客さんたちは私に話をしてきたんじゃないかなと。
そしてこれは個人的なカウンセリングでもセラピーでも言われてることで、「無意識の合意」というものがある。
相手に話してもいい、開示してもいい、その人のセラピーを受けてもいい、というような心理的な面での合意というのが必ずあるとのこと。
これは無意識にやってるから、当人同士はほとんど気付かない。
言葉を変えれば、カウンセリングでもセラピーでも思ったような結果にならない時は、多かれ少なかれ「この人には話せない」とか「この人には安心して身を預けられない」というのがある。
私は数多く色々やって、その辺りはよくわかる。
話がだいぶそれたけれど(←いつものこと)、私が特にがんばらなくても自然にできるのが、この相手の潜在意識から伝わってくるものをそのまま言葉にして返すこと。
今回指摘されたことでわかった。
あの私がメニューが思い浮かぶのと同じぐらい瞬時に思い浮かんでしまう時は、多分大方相手の潜在意識から来てる。
私の思考とかは入らない。
言われてみればいきなりボンと出てくるから、わかる。
だからその人にピッタリのメッセージがいくし、ピッタリ過ぎて怒る人もいるのは何となく頷ける。
だから2月に潜在意識から「もうすでにやってます」と言われた意味も、先日「自信を持ってこれだ!と宣言できてない」と言われた意味も納得した。
多分このことを指してる気がする。
だいぶ長くなって、本当は
・アドバイスされたくないと言われたこと
・「人の人生に踏み込んではいけない」と思っていること
にも触れたかったけれど、これはまた今度。
2018年6月6日水曜日
2018年6月5日火曜日
第1回占星術初級講座
ホロスコープの講座は色んな意味で行って良かった。
基礎云々よりも、行ってみて自分の道ではないとはっきりとわかったから、それが何よりも良かった。
ホロスコープの講座は、これまでのどんな講座ともタイプが違ってた。
「占星学」という名前が付くぐらい、ホロスコープそのものは学問なんだとわかった。
本気で勉強だった。
しかもホロスコープは感覚で読むというのは上級者の話で、初心者はまず基礎基本を学ぶからそれは「感覚」じゃなくて「理論」で読むことになる。
この理論が実に多種多様で頭の中は大パニックだった。
参加者もこれまで身を置いたことのないタイプのグループの人たちで構成されてた。
とにかく周りにはいなかったタイプ。
私はどうしていいかわからず、借りてきた猫のように大人しくしてた。
あと全体的に女性らしさを出してる方が多かった。
みんなスカートやワンピース着ちゃうようなそんな感じ。
夏場になると体型隠しのためにロングスカートなんていう感じではなく(←私)、本当に綺麗なとか可愛いとかおしゃれな女性という感じだった。
格好はさておいても、これまでと全く違うところは他にもあった。
きちんと話してないからわからないけれど、多分その中の人で占い師目指してる人誰もいない気がする。
少なくとも数人の人たちはみんながみんな「私のホロスコープは…」という下りで話し始めてたから、ホロスコープを読めるようになって他の人たちのものも読みたい!と言うより、自分自身のホロスコープを読めるようになりたい!自分を知りたい!という気持ちで学んでるのではと思う。
だから6回通っても誰とも仲良くならずに終わりそう←これは残念。
心理系のワークショップや読書中心の朝活に慣れてた私としては物足りなさを覚えて帰ってきた。
そうしたワークショップは自分の考えや気持ちをお互いにシェアすることが多いから、それで打ち解けたり仲良くなる流れになりやすい。
反対にホロスコープは「学び」だけあって、そんな打ち解けてる場合じゃなく、私も他の人も講義についていくのに必死だった。
多分大人になってから一番必死で先生の話を聞いたと思う。
それはそうと、ホロスコープは順番を間違えなくて本当に良かったと思った。
学んでみて思ったことは、感情の癒しや自分の内面を見ることをある程度徹底的にしてからホロスコープを知って本当に良かったということ。
もし逆にホロスコープが先でその後に自分の内面を見てたら今ほどに私は自分を見れなかったと思う。
私はこの数年に渡って、自分の中のわけのわからない感情や相反する気持ちや、どうしてそんなことが起こるのかを、とにかく色々自分の中で検証してきた。
感情の癒しもトラウマの癒しもたくさん経験できて、それらは一生の財産と呼んでもいいぐらい。
でもそこまで純粋にできていたのは、何も知らなかったから。
ホロスコープの読み解きを初めて5日目の夕方、あの時に出てきた気持ちや感覚は今でも忘れられない。
あの時に「心の傷を癒すエキスパート」と出てきた。
私の人生の中で、やたらと傷になる体験が多い。
それは自分が引き寄せてると言うより、勝手に起こってくるという感じだった。
だからどう気をつけていいのかもわからなければ、都度都度起きると起きてから自分のケアを始めるという無限ループがずっと続いてた。
大人になる前に自分のことを主張することを覚えた私は、それまでのような自分が色々巻き込まれるところからは離れたけれど、それでもやっぱりどうにもできないことは相変わらず起きてた。
30代はさらにヒートアップして、その混沌たる人生にもはやどう向き合っていいのかもわからず、私は真面目に明日が来て欲しくないとこの10年の中でトータル何年思ったかわからない。
それは自分の内面をケアしたことで相当緩和されたし、今はその1つ1つのプロセスがとっても大事だったと思っている。
私は傷の体験も多かった代わりに癒しの体験もそれに相当するぐらい多かった。
お金を払って人に癒してもらったこともあれば、自分で自分を癒したこともある。
どちらもユニークで、そしてその癒しのプロセスにおいては数をたくさん積んだだけあってバリエーションも半端なくたくさん持っている。
私の場合、効果さえあれば何でも良かったから、手法にもこだわらなかったし、してもらう人もこだわらなかった。
すべてのことを通して言えることは、ここに来るまでに必要な体験は全部もたらされてた。
そしてそれこそが私の人生のテーマだと浮かんで来た。
「心の傷を癒すエキスパート」と出てきたけれども、私が癒すんじゃない。
1人1人が自分の傷を癒す、そのための情報提供や個人対応をするだけ、と思っている。
そしてそのための知恵も専門的な手法も知識も全て手に入った(もちろんまだまだ学びは続くにしても)。
まるでそうすることが約束されてたかのように、人生は組み立てられてた。
ここまでの流れを汲み取るには、絶対的に
①自分の内面を見る・癒す
②ホロスコープでそもそもそういう設定だったことを知る
の順番でないとダメだった。
万が一、ホロスコープを先にやってたら「だから私の人生しんどいんだね」で終わって、それ以上自分の内面をケアすることはしなかったと思う。
さんざんやって、嫌になるほどやって、もう答えも出ないからいいかなとあきらめてた矢先、突如やってきたホロスコープだった。
だから、ここで初めて私は答えをもらえた感じになった。
それは新しい答えを知ると言うよりも、すでに知ってることに対しての答え合わせ的な感じの答えになってる。
ホロスコープを習ってみて、もう1つ気付いたこと。
自分の進む道にホロスコープはないということ。
一部の手法は使わせてもらうかもしれないけれど、ガチではやらない。
ホロスコープははっきりと思考を使うのが自分でもわかる。
感覚的に「思考力がないと理解できない」レベルなのがよくわかる。
例えばペンジュラムはどうかと言うと、思考は使わない。
周りの人たちにどうやってペンジュラムを使って答えを出すのかを聞かれるから、毎回決まって「質問する」と答える。
本当に「質問する」からそうとしか答えられない。
さらに突っ込んでくる人だと「その質問をどうやって考えてるの?」と聞かれる。
実は私はこの手の質問に答えを持っていない。
答えるとするなら「思いついたまま質問する」と言う。
「どうやって思いつくの?」と聞かれたこともある。
どうやっても何も、単なる自分の興味関心で浮かんだ質問を聞くだけだから、全く思考が入らない。
綺麗に言えば「直観」だし、だけど私の場合は「勘」とか「思いつき」の方がより近い気がする 苦笑。
だけど、その勘で間違いなく必要な答えをキャッチしてるわけだから、私はそのプロセスについて全く興味がない。
私が欲しいのは答えだけだから、そして質問が悪いとペンジュラムも混乱するだろうから、ペンジュラムが絶対にYESNOで答えられるよう、そこだけは注意して質問してる。
なんていう感覚からしたら、ホロスコープは脳みそをフルで回転させないと答えられないレベル。
しかも脳みそだけでは現時点で全く足りないから、ノートや本を広げないとさっぱり答えられない。
明らかに自分の能力外だとわかる。
だから私は自分がホロスコープをガチではやらないってすぐにわかった。
ちなみに今回の先生は本当の本当にプロ中のプロだった。
まず最初講座に入る前に「大切なこと」として話してくれたこと。
《占星術における心がまえ》
・常にフラットでいること
(世俗的なもしくは個人的な感情で相手の人生をジャッジしないこと)
・自己誇示してはならないこと
・(ホロスコープから得た情報を使って)予言・忠告をしないこと
・占い師はそのホロスコープから読み取れることを伝えるだけ
(私的な感情や考えを乗せないという意味で)
・ホロスコープを読めるようになっても慢心しない
・先入観を持たない
そういうことをいの一番に教えてくれる先生に当たって本当に良かった。
具体例も出して話してくれて、より一層わかりやすかった。
世間的に善良な人と悪党な人とをそれぞれ見た時の話をしてくれた。
寓話なのか本当の話かは知らないけれど、赤ちゃんの取り違いが起きたことで、全く別の境遇を歩むことになった2人の話。
1人はそれこそ境遇こそ恵まれない方の家に行くんだけど、善良な人として、器の大きな人間になる。
もう1人は、本来境遇は恵まれない方の生まれが間違えられて恵まれた境遇の家に引き取られる。
そこで好きざんまいワガママし放題に育ち、悪党のようになり、全て何でもかんでも自分のものにしてしまう、そんな人生になった。
先生は、その2人を比べたら、前者の人に憐れみや親しみを感じて、後者には何てひどい人と一般的には判断されやすいと前置きした上で、ホロスコープではそういう読み方をしないとはっきりと仰った。
ホロスコープでは、前者は前者の人生の設定があって、後者には後者の人生の設定がある、ただその設定の部分を読むに過ぎないと説明してくれた。
だから、個人的な感情に基づいて、どちらかに罰するような気持ちを抱いたり、反対に崇めたりするような、そういうことをするものではないことを教えてもらった。
これは福祉やコーチングの時も同じことを再三再四習った。
特に福祉は、人間の問題の寄せ集めでカオスな感じだから(←こんな言い方したら怒られそう)、余計とそういう個人の価値観で人を判断しないようにというのは、相当徹底的に教え込まれた。
罪を罰して人を罰さず、みたいな宗教の教えじゃないけど、そういうレベルの精神論みたいなのは私の場合、大学の4年間で徹底された。
自分の髪の毛を全部抜いてしまう思春期に入る前の女の子に会ったけれど(本当に抗がん剤治療受けた人みたいな頭になってた)、その行為を責めたりとか、反対にそうなるだけの背景があるわけでそれに同情したりとか、要はそういうことをしても何の解決にもならないから、そういう個人的な感情や価値観は脇に置いて、その子と今一緒にできることを考えてそして一緒にする、そういう姿勢や在り方を教えられた。
ホロスコープの先生が大切にしているところもまさにそんな感じで、私はすごく共感を持てた。
今月もまた通う。
前回のように1日単独で行くかは決めかねてるけれど、また新しいことを学んでくる(今月は27日)。
ちなみに1週間以上前に、ようやくホロスコープの講座の振り返りをしたけれど、たかが最初の2ページのテキストを読み返してノートにまとめるだけで3時間近くかかった。
講座はその5倍ほどの量の知識を同じ時間でされてた。
それだけすごい難しい内容であることを初めて知った。
私のように好きな部分とか気になる部分ばかりを読んでいてはいつまでも基礎は身に付かないはずだとよーーくわかった。
先生と多分大先生的な存在感の2人の先生がいたけれど、2人とも口を揃えて「ホロスコープは何よりも基礎が大事です」と仰ってた。
ホロスコープに関して言えば、中級の方が簡単らしい。
いくつもあるわけではなく、中級はあるパターンたちを覚えたらそこそこ行けるらしい(あくまで先生談)。
でも初級は本当に多岐に渡っているし、こここそその後のホロスコープ読み取りのセンス的な基礎となるから、相当難しいらしい。
先生たちも個人鑑定は、もちろん色んな視点から眺めて読み解くらしいけれど、「最後は基本に帰ります。それが一番確実で一番大切なその人自身の情報を伝えてくれるから」と仰ってた。
関係ないけれど、今回行ってみて、3時間では本当に足りないことがわかった時、私はとてつもなくラッキーな先生&初級講座に当たったことがよくわかった。
受けてその濃密さや難易度がわかってから、他の方たちが提供している講座の内容や時間、価格をいくつか調べた。
見たものはどれも内容はもっと詰め込み型で時間はトータルだと半分、下手すると半分以下、値段は最低でも単価で比べたら倍以上した。
ということは、内容は薄くて値段だけ高いということになる。
たまたま見つけたにしてもとてもラッキーだったことがものすごくよくわかった。
本当に丁寧で基礎の基礎、そして本やネットにもないようなマニアックな基礎のことまで教えてくれるとても良い先生に当たってる。
今調べ物がいくつも並行してる状態だから(ホロスコープ3種類、ヒーリング、自分のオリジナルメソッドの振り返りと分析)、また時間をしっかり作って授業の復習と宿題をしたいと思う。
宿題もたっぷりと出た(汗)。
そして次回もミニテストという名のガチの記憶力テストがあるから、それもアラフォーの人生後半を迎えようとしてる脳みそをフル回転させて頑張りたいと思う…。
ホロスコープのテストは、学生の頃と違って、身になるものを覚えられるから、それだけが唯一救いだと思ってる。
覚えられるられないは別にして、興味はものすごくあるから、そこそこテスト勉強も楽しめる。
と言いながら、これから今日得たばかりの新しいホロスコープの手法で過去の読み解きをする♪
基礎云々よりも、行ってみて自分の道ではないとはっきりとわかったから、それが何よりも良かった。
ホロスコープの講座は、これまでのどんな講座ともタイプが違ってた。
「占星学」という名前が付くぐらい、ホロスコープそのものは学問なんだとわかった。
本気で勉強だった。
しかもホロスコープは感覚で読むというのは上級者の話で、初心者はまず基礎基本を学ぶからそれは「感覚」じゃなくて「理論」で読むことになる。
この理論が実に多種多様で頭の中は大パニックだった。
参加者もこれまで身を置いたことのないタイプのグループの人たちで構成されてた。
とにかく周りにはいなかったタイプ。
私はどうしていいかわからず、借りてきた猫のように大人しくしてた。
あと全体的に女性らしさを出してる方が多かった。
みんなスカートやワンピース着ちゃうようなそんな感じ。
夏場になると体型隠しのためにロングスカートなんていう感じではなく(←私)、本当に綺麗なとか可愛いとかおしゃれな女性という感じだった。
格好はさておいても、これまでと全く違うところは他にもあった。
きちんと話してないからわからないけれど、多分その中の人で占い師目指してる人誰もいない気がする。
少なくとも数人の人たちはみんながみんな「私のホロスコープは…」という下りで話し始めてたから、ホロスコープを読めるようになって他の人たちのものも読みたい!と言うより、自分自身のホロスコープを読めるようになりたい!自分を知りたい!という気持ちで学んでるのではと思う。
だから6回通っても誰とも仲良くならずに終わりそう←これは残念。
心理系のワークショップや読書中心の朝活に慣れてた私としては物足りなさを覚えて帰ってきた。
そうしたワークショップは自分の考えや気持ちをお互いにシェアすることが多いから、それで打ち解けたり仲良くなる流れになりやすい。
反対にホロスコープは「学び」だけあって、そんな打ち解けてる場合じゃなく、私も他の人も講義についていくのに必死だった。
多分大人になってから一番必死で先生の話を聞いたと思う。
それはそうと、ホロスコープは順番を間違えなくて本当に良かったと思った。
学んでみて思ったことは、感情の癒しや自分の内面を見ることをある程度徹底的にしてからホロスコープを知って本当に良かったということ。
もし逆にホロスコープが先でその後に自分の内面を見てたら今ほどに私は自分を見れなかったと思う。
私はこの数年に渡って、自分の中のわけのわからない感情や相反する気持ちや、どうしてそんなことが起こるのかを、とにかく色々自分の中で検証してきた。
感情の癒しもトラウマの癒しもたくさん経験できて、それらは一生の財産と呼んでもいいぐらい。
でもそこまで純粋にできていたのは、何も知らなかったから。
ホロスコープの読み解きを初めて5日目の夕方、あの時に出てきた気持ちや感覚は今でも忘れられない。
あの時に「心の傷を癒すエキスパート」と出てきた。
私の人生の中で、やたらと傷になる体験が多い。
それは自分が引き寄せてると言うより、勝手に起こってくるという感じだった。
だからどう気をつけていいのかもわからなければ、都度都度起きると起きてから自分のケアを始めるという無限ループがずっと続いてた。
大人になる前に自分のことを主張することを覚えた私は、それまでのような自分が色々巻き込まれるところからは離れたけれど、それでもやっぱりどうにもできないことは相変わらず起きてた。
30代はさらにヒートアップして、その混沌たる人生にもはやどう向き合っていいのかもわからず、私は真面目に明日が来て欲しくないとこの10年の中でトータル何年思ったかわからない。
それは自分の内面をケアしたことで相当緩和されたし、今はその1つ1つのプロセスがとっても大事だったと思っている。
私は傷の体験も多かった代わりに癒しの体験もそれに相当するぐらい多かった。
お金を払って人に癒してもらったこともあれば、自分で自分を癒したこともある。
どちらもユニークで、そしてその癒しのプロセスにおいては数をたくさん積んだだけあってバリエーションも半端なくたくさん持っている。
私の場合、効果さえあれば何でも良かったから、手法にもこだわらなかったし、してもらう人もこだわらなかった。
すべてのことを通して言えることは、ここに来るまでに必要な体験は全部もたらされてた。
そしてそれこそが私の人生のテーマだと浮かんで来た。
「心の傷を癒すエキスパート」と出てきたけれども、私が癒すんじゃない。
1人1人が自分の傷を癒す、そのための情報提供や個人対応をするだけ、と思っている。
そしてそのための知恵も専門的な手法も知識も全て手に入った(もちろんまだまだ学びは続くにしても)。
まるでそうすることが約束されてたかのように、人生は組み立てられてた。
ここまでの流れを汲み取るには、絶対的に
①自分の内面を見る・癒す
②ホロスコープでそもそもそういう設定だったことを知る
の順番でないとダメだった。
万が一、ホロスコープを先にやってたら「だから私の人生しんどいんだね」で終わって、それ以上自分の内面をケアすることはしなかったと思う。
さんざんやって、嫌になるほどやって、もう答えも出ないからいいかなとあきらめてた矢先、突如やってきたホロスコープだった。
だから、ここで初めて私は答えをもらえた感じになった。
それは新しい答えを知ると言うよりも、すでに知ってることに対しての答え合わせ的な感じの答えになってる。
ホロスコープを習ってみて、もう1つ気付いたこと。
自分の進む道にホロスコープはないということ。
一部の手法は使わせてもらうかもしれないけれど、ガチではやらない。
ホロスコープははっきりと思考を使うのが自分でもわかる。
感覚的に「思考力がないと理解できない」レベルなのがよくわかる。
例えばペンジュラムはどうかと言うと、思考は使わない。
周りの人たちにどうやってペンジュラムを使って答えを出すのかを聞かれるから、毎回決まって「質問する」と答える。
本当に「質問する」からそうとしか答えられない。
さらに突っ込んでくる人だと「その質問をどうやって考えてるの?」と聞かれる。
実は私はこの手の質問に答えを持っていない。
答えるとするなら「思いついたまま質問する」と言う。
「どうやって思いつくの?」と聞かれたこともある。
どうやっても何も、単なる自分の興味関心で浮かんだ質問を聞くだけだから、全く思考が入らない。
綺麗に言えば「直観」だし、だけど私の場合は「勘」とか「思いつき」の方がより近い気がする 苦笑。
だけど、その勘で間違いなく必要な答えをキャッチしてるわけだから、私はそのプロセスについて全く興味がない。
私が欲しいのは答えだけだから、そして質問が悪いとペンジュラムも混乱するだろうから、ペンジュラムが絶対にYESNOで答えられるよう、そこだけは注意して質問してる。
なんていう感覚からしたら、ホロスコープは脳みそをフルで回転させないと答えられないレベル。
しかも脳みそだけでは現時点で全く足りないから、ノートや本を広げないとさっぱり答えられない。
明らかに自分の能力外だとわかる。
だから私は自分がホロスコープをガチではやらないってすぐにわかった。
ちなみに今回の先生は本当の本当にプロ中のプロだった。
まず最初講座に入る前に「大切なこと」として話してくれたこと。
《占星術における心がまえ》
・常にフラットでいること
(世俗的なもしくは個人的な感情で相手の人生をジャッジしないこと)
・自己誇示してはならないこと
・(ホロスコープから得た情報を使って)予言・忠告をしないこと
・占い師はそのホロスコープから読み取れることを伝えるだけ
(私的な感情や考えを乗せないという意味で)
・ホロスコープを読めるようになっても慢心しない
・先入観を持たない
そういうことをいの一番に教えてくれる先生に当たって本当に良かった。
具体例も出して話してくれて、より一層わかりやすかった。
世間的に善良な人と悪党な人とをそれぞれ見た時の話をしてくれた。
寓話なのか本当の話かは知らないけれど、赤ちゃんの取り違いが起きたことで、全く別の境遇を歩むことになった2人の話。
1人はそれこそ境遇こそ恵まれない方の家に行くんだけど、善良な人として、器の大きな人間になる。
もう1人は、本来境遇は恵まれない方の生まれが間違えられて恵まれた境遇の家に引き取られる。
そこで好きざんまいワガママし放題に育ち、悪党のようになり、全て何でもかんでも自分のものにしてしまう、そんな人生になった。
先生は、その2人を比べたら、前者の人に憐れみや親しみを感じて、後者には何てひどい人と一般的には判断されやすいと前置きした上で、ホロスコープではそういう読み方をしないとはっきりと仰った。
ホロスコープでは、前者は前者の人生の設定があって、後者には後者の人生の設定がある、ただその設定の部分を読むに過ぎないと説明してくれた。
だから、個人的な感情に基づいて、どちらかに罰するような気持ちを抱いたり、反対に崇めたりするような、そういうことをするものではないことを教えてもらった。
これは福祉やコーチングの時も同じことを再三再四習った。
特に福祉は、人間の問題の寄せ集めでカオスな感じだから(←こんな言い方したら怒られそう)、余計とそういう個人の価値観で人を判断しないようにというのは、相当徹底的に教え込まれた。
罪を罰して人を罰さず、みたいな宗教の教えじゃないけど、そういうレベルの精神論みたいなのは私の場合、大学の4年間で徹底された。
自分の髪の毛を全部抜いてしまう思春期に入る前の女の子に会ったけれど(本当に抗がん剤治療受けた人みたいな頭になってた)、その行為を責めたりとか、反対にそうなるだけの背景があるわけでそれに同情したりとか、要はそういうことをしても何の解決にもならないから、そういう個人的な感情や価値観は脇に置いて、その子と今一緒にできることを考えてそして一緒にする、そういう姿勢や在り方を教えられた。
ホロスコープの先生が大切にしているところもまさにそんな感じで、私はすごく共感を持てた。
今月もまた通う。
前回のように1日単独で行くかは決めかねてるけれど、また新しいことを学んでくる(今月は27日)。
ちなみに1週間以上前に、ようやくホロスコープの講座の振り返りをしたけれど、たかが最初の2ページのテキストを読み返してノートにまとめるだけで3時間近くかかった。
講座はその5倍ほどの量の知識を同じ時間でされてた。
それだけすごい難しい内容であることを初めて知った。
私のように好きな部分とか気になる部分ばかりを読んでいてはいつまでも基礎は身に付かないはずだとよーーくわかった。
先生と多分大先生的な存在感の2人の先生がいたけれど、2人とも口を揃えて「ホロスコープは何よりも基礎が大事です」と仰ってた。
ホロスコープに関して言えば、中級の方が簡単らしい。
いくつもあるわけではなく、中級はあるパターンたちを覚えたらそこそこ行けるらしい(あくまで先生談)。
でも初級は本当に多岐に渡っているし、こここそその後のホロスコープ読み取りのセンス的な基礎となるから、相当難しいらしい。
先生たちも個人鑑定は、もちろん色んな視点から眺めて読み解くらしいけれど、「最後は基本に帰ります。それが一番確実で一番大切なその人自身の情報を伝えてくれるから」と仰ってた。
関係ないけれど、今回行ってみて、3時間では本当に足りないことがわかった時、私はとてつもなくラッキーな先生&初級講座に当たったことがよくわかった。
受けてその濃密さや難易度がわかってから、他の方たちが提供している講座の内容や時間、価格をいくつか調べた。
見たものはどれも内容はもっと詰め込み型で時間はトータルだと半分、下手すると半分以下、値段は最低でも単価で比べたら倍以上した。
ということは、内容は薄くて値段だけ高いということになる。
たまたま見つけたにしてもとてもラッキーだったことがものすごくよくわかった。
本当に丁寧で基礎の基礎、そして本やネットにもないようなマニアックな基礎のことまで教えてくれるとても良い先生に当たってる。
今調べ物がいくつも並行してる状態だから(ホロスコープ3種類、ヒーリング、自分のオリジナルメソッドの振り返りと分析)、また時間をしっかり作って授業の復習と宿題をしたいと思う。
宿題もたっぷりと出た(汗)。
そして次回もミニテストという名のガチの記憶力テストがあるから、それもアラフォーの人生後半を迎えようとしてる脳みそをフル回転させて頑張りたいと思う…。
ホロスコープのテストは、学生の頃と違って、身になるものを覚えられるから、それだけが唯一救いだと思ってる。
覚えられるられないは別にして、興味はものすごくあるから、そこそこテスト勉強も楽しめる。
と言いながら、これから今日得たばかりの新しいホロスコープの手法で過去の読み解きをする♪
2018年6月4日月曜日
長い目で見て選び抜く力
たまたま人気記事とやらが出てきて読んだ。
3歳になる前の子どもを持つお母さんだった。
小児科を受診したら、体のことではなく発達障害を疑われて保健所とか地域の子育てセンター的なところに行ってみてはと勧められ、調べた末実際に行くんだけど、結果的にもう少し様子見ましょうとセンターに言われたという話だった。
色々こだわりがあって生きにくいと思うけれど、我が子のペースで育てる!みたいな意思表明になってた。
発達障害を疑われてすごくビックリしたけど、まだ様子見でいいみたいで、旦那も重く受け止めずその子のペースでいいんじゃないか、みたいな見解に終わった模様。
私、それ読んで
「もっときちんと見てもらった方がいいですけど‼︎‼︎」
と思った。
どの親だって我が子に障害があるかもなんて思いたくないのはわかる。
でも論点そこじゃないから、とも思う。
一時的に親が安心感を手に入れてどうするの?と思う。
その子ども、これから何十年と生きていかなきゃなんだから、そこを踏まえてそれが本当にいいのか考えてみたら…と。
記事読んで私なんかは「小児科の先生、良くぞ言ってくれました!」という感じだった。
先生もいきなり指摘したのではなく、色んな様子を見て、さらには「これまで健診で何か言われてませんか?」と聞いた上で、そういう機関を勧めてる。
相手はプロ。
これまで何百人何千人の子どもたちを見てるかはわからないけれど、そのプロが見て明らかに「あれ?」ってなるのは、そしてそれをわざわざ指摘までするのは、もう本気できちんと向き合った方がいいレベル。
だって、小さい子どもなんてみんな基本騒がしいし、落ち着きがないし、思い通りでなければ叫ぶし。
でも、プロから見て、それが許容範囲ではないから指摘されるんであって、そしてそれは子どもの成長のために言っている。
しかも残念なのがセンター的なところの対応。
このお母さん、調べたり市のセンターに直接出向いたようだけど、担当が外れたんだろうなと思った。
どの程度の確率か知らないけれど、そういう機関の担当も当たり外れがある。
みんな資格があるからと言って知識をきちんと持ってるかどうかはまた別の話。
そして最近の発達障害はさらに分類が進んでるのはいいけれど、きちんと勉強しないとわからないことが多い。
ひと昔前なら「個性」(又は「問題行動」)的なものも、今はある種の診断名がつくものもある。
さらに障害児支援は市町村で全くサービス内容が異なるから、どこまで対応できるかできないかの差も大きいらしい。
お母さんになった友達からも、そうした現場の人たちからも、両方話を聞いたことがあるから、担当の当たり外れがあることは知ってる(一部の国家資格有資格者は真面目に酷いレベル)。
だから、様子を見ましょうと言った人は、何を見てそう判断したのか聞きたいぐらいだった。
明らかに障害とわかる子たちは、すぐに療育と呼ばれる幼少期から特別な支援を受けるところに繋げてもらえる(もちろん申請とか色々あると思うけれど)。
難しいのは、一見普通なんだけど、なんか違うかも?まだ成長の段階だから様子見でいけるかな?のグレーゾーンの子たち。
本当にグレーゾーンなだけで、後にいわゆる「普通学級」で大丈夫な子もいる。
だけど、グレーゾーンではなく年齢が上がってきちんと診断が付く子もいるから、そこは私個人としては転ばぬ先の杖じゃないけれど、その子に合わせた療育が受けれるのであれば、長い目で見た時は絶対にそっちの方がいい。
療育も混み合ってるから、誰でも彼でも受けれるわけじゃない。
だから反対に入れてもらえるというのは、ある程度のレベルをクリアしないといけないかと思う(この辺りは詳しくないからわからない)。
冒頭の親子がその対象かどうかなんてわからないけれど、もし対象になるなら、今申請の手続きに入れたものが「様子見」のたった一言でその手続きの時期は遅れる=受けれるサービスの開始も遅れる。
私は詳しくないからわからないけれど、障害児を持つお母さんたちのブログなんかを読んでいると、全国どの市町村でも手続きは煩雑そうだしとにかく時間がかかるのがわかる。
下手すると、検査を受けるまで数ヶ月待ちなんてのもざららしい。
たしかに施設の子どもたちが児童相談所で何かしらの検査を受ける時も、今日言って明日じゃなくて、数ヶ月前から予約をしてた気がする。
これは障害児教育に携わっている友達が言ってたこと。
この友達は数年前から普通学級と支援学級の境目にいる子たちを主に見ている。
だから、障害児と言っても相当レベルの高い子たちだし、一般企業に障害者枠で採用してもらえるレベルの子たち。
見た目は普通。
話してくうちに「あれ?」となる子もいれば、話してても気付かれない場合の子もいる。
そういう子たちを相手にしている友達の言葉。
幼少期に療育を受けたかどうかは本当に後々のその子自身の能力=社会で生きていく力に大きく関わってくるらしい。
知的な能力は上でもそれを受けなかったばかりにできないことが多い子もいれば、能力はそんなに上じゃないのに療育で積み重ねてできることがものすごく多い子もいる。
それはいかに幼少期に適切な支援を受けたかどうかだから、それが年齢が上がることで一目瞭然になると言ってた。
さらにタチの悪いのは、普通学級である程度まで上がってきて、途中で支援級に移動してくる子のケース。
親もわかっていて、普通級を希望して普通級である程度過ごすのはこのケースに含まれなくて、本当に親も気付かずきてもしくは薄々気付いていたけれど相談することを避けてきて、ある時から普通級では無理になって移行してくるケース。
2次障害が出るケースもあるらしく、本来知的障害・発達障害だけだったものが、適切な支援を受けずにきて本人もわけわからなくて自暴自棄みたくなって精神障害も発症するケース。
これは本当にかわいそうだと言ってた。
親の変なこだわりで支援を受けず、でも結局ダメで、本人も分別がつく年齢になって、いきなり自分は普通ではないってなるわけだから、本人の精神的な葛藤は相当なものになるって言ってた。
人気記事の子どもも大丈夫かな…と思った。
たかが数行しか子どもの様子は書かれてなかったけれど、私から見ても「これ、様子見じゃやばいでしょ」のレベルだった。
だから小児科の先生、素晴らしい!と思った。
幼稚園も控えていて、ということは入園が許可されるレベルだから、余計とタチが悪い。
見る人が見たらわかるレベルであると同時に健常児と同じレベルのものも併せ持っている。
そうした子は、往々にして社会や集団生活に入った時、ちょっとした場面で不適応が起きたりしやすい。
ちなみに記事の中の子どもは、その中でもすでにこだわりが強めなのがわかる。
自閉症に近いものを性質として持っているんじゃないかな…と思った。
ただ普通に話せるし、意思疎通ができないわけじゃなさそうだから、余計とその子の場合わかりにくいんだろうなと思った。
ただ座って話をするだけ、もしくは1人でおもちゃで遊ぶだけの時は、多分他の子らとそんなに大差ない子かもしれない。
だけど、それ以外の行為、しかも普段はあまりしない行為(=新しい場面)で、尚且つ本人の五感を刺激するものがあると、その子は一種のパニックを起こす(というのが文からわかる)。
入園試験の時は多分そこが出る場面がなかっただけかなとも思えなくもない。
だからその差のところを小児科の先生が最初の受診で見抜いてくれたことは、はっきり言って超ラッキーだったと思う。
(転勤族かなと思われるから、今の土地で初めてかかった小児科医だったらしい。ちなみに小児科医は近所でも評判が良いと前置きされてた)
少なくとも幼稚園の入園許可が下りたということは面談なりちょっとした入園試験があったと思うけれど、そこでは気付かれなかった可能性もある。
普通枠では多分とてつもなく生きづらくなるタイプの子。
その特性が今はっきりと出ているし、普通の幼稚園、普通の学校と上がるうちにますます子ども自身が自分のことで悩まなきゃいけなくなると思う。
そんなにおいがプンプンしている内容だった。
知能はあの感じだと普通。
知能が普通だと余計と辛い。
わかっちゃうから。
自分はみんなと違うことがわかるから。
その子どもにはその子どもの世界があって、それで本当に大丈夫で、それに合った成長の仕方、自分との付き合い方がある。
でもそれはちょっとだけ特別な手が必要で、その子の個性を本気で大事にしたかったら、その手の専門家の知恵を借りるのが早道だと思う。
障害だと決めつけるのではない。
ただ、その子に合った特別な教育のプログラム、しかも相手はみんなプロの先生たちから見てもらえて、そして能力を引き出してもらえる。
もしくは適応力が上がる。
親が「うちの子に限ってそんなことない」と頑なに思い、とりあえずきちんと見てないと思われる人の安易な言葉に飛びつき、何もなかったことにする。
それは、本人が本来抱えなくていいストレスを抱えたりすることになるだけなのになと思う。
しかもそういう子たちは、敏感なことが多くて、余計と変なストレスにさらされやすい。
私は敏感なことが悪いとは思わない。
なぜなら敏感な分、他の人たちにはない感性を持ち合わせてるってことだから。
ただ敏感なところは、本人が多少でも生きやすさを獲得するためには、付き合うのにちょっとしたコツは必要だと思う。
それは素人と玄人では見方が違うから、そこはせっかくチャンスがあるなら利用した方が早いのにと思ってしまう。
親の気持ちは親の気持ちでケアが必要だろうけれど、親が受け入れられるのを待ってるうちにも子どもは日に日に成長するわけだから、そんなの悠長に待ってる場合じゃなくなる。
それとこれとは別のものとして取り扱わないと、ある意味取り返しのつかないことになり兼ねない。
塾に勤めてた時も何人かそういう子に当たった。
保護者にそれまでの成育歴聞いて、健診や学校で何か指摘されなかったかをそれとなく探ったこともある。
1人は本当にあまりにも凄かったから、普通の進学とは違うもの、支援学校への進学の道について情報提供したこともある。
私がやり過ぎに見えるかもだけど、上司二人とさんざん話して、放っておいたらダメだということになった。
自営の家でもないから、将来的に家の手伝いという選択肢はない。
一般企業に就職する可能性があるとするなら、本人に相当な負荷がかかる。
ちなみにどの程度だったかと言うと、中学でも1桁+1桁以外の足し算引き算ができないレベルだった。
字は書けても、見本がないと書けない。
その子だけじゃなく、似たような学力の子は何人か見た。
だけど、そこまで踏み込んで話したのはそこの家だけだった。
なぜなら、他の家庭は、親の方がそれを受け入れてて、その中でできることや進路の選択肢も見据えてたから、同じ学力レベルでも多分何とかいけるかなという感じだった。
その子の身の丈に合った道を親子で同じ視点に立って見て、それで歩んでいけるかな…というのが見えるから、そういう意味で何とかいけるかなと思った。
さらに言うと、人間関係を築けてるかどうかも大事なポイントだった。
学力がどんなに落ちこぼれてても、人と関わるという点においては他の子たちよりも明らかに上で、人間関係を作るのがものすごく上手い子たちもいた。
自分で本物の人間関係が築けて生きていける子は全く心配もしなかった。
自分の学力のなさを公にできるぐらいで、その自分で周りと人間関係を作るから、色んなタイプの友達に恵まれてるようだった。
私が進言した家庭の子は、学力的なことのみならず、人間関係がものすごく荒れてた。
とても幼稚なこと(嫌がらせ)をして、周りから総スカン食らってもそれは自分のせいじゃなくて相手のせい…みたいにしちゃう子で、社会でやっていけるかな…と真面目に想像のつかない子だった。
だから普通枠でずっとずっと進み続けるのが本当に本人のためなのかどうか私には判断がつかなかった。
それで上司二人とそれぞれ何回か相談して、これは黙ったままにするのではなく、伝えるだけ伝えて、あとその後どう選択するかは本人や家族だから、ということになった。
さすがに知ってるのに見過ごすのはどうかということになった。
ちなみに初めてそれを伝えた日、保護者から本気で怒られた。
感情をぶつけられ凄かった。
それも予想してたから、でも言わなきゃいけないことは伝えた。
塾を辞めるかと思ったら辞めることはなく、その次の保護者懇談では家庭内の事情について初めて具体的な説明をしてくれた。
色んな理由から普通に見えるように育てないといけない事情があるのはわかったから、その時からその保護者とは方向性を1つきちんと決めて、消去法で残りはここしかないみたいな感じで、そのための学習に切り替えた。
(支援学校ではなく、手厚く見てもらえる私立の高校に入った)
私が見た時にはすでにそんな状況で、これまで親でも学校の先生でも何かしら気付かなかったのかな…というのは思った。
「普通」にこだわるのが悪いとは言わない。
だけど、本当にそれがその子どものためなのかどうかは感情や気持ちだけじゃなく、その子の一生という視点でそれが本当にいいのかは考えないといけないと思う。
子どもが生活してる施設で働いてた頃、尊敬する上司が常々言っていた。
目の前のことも大切だけど、必ずその子が生きていく、一生生きていく上で何が必要かを見極めるその目は常に必要なこと、そしてそのために何ができるかを考えて実践していくこと。
いずれは社会の中で揉まれながら生きていくわけだから、そこを見据えて子どもと関わることが必要だと事あるごとに言われた。
冒頭の小さな子どもが親の目の前のエゴや不安解消ではなく、本当に必要なことが必要なタイミングでもたらされるといいなと思わずにはいられない。
3歳になる前の子どもを持つお母さんだった。
小児科を受診したら、体のことではなく発達障害を疑われて保健所とか地域の子育てセンター的なところに行ってみてはと勧められ、調べた末実際に行くんだけど、結果的にもう少し様子見ましょうとセンターに言われたという話だった。
色々こだわりがあって生きにくいと思うけれど、我が子のペースで育てる!みたいな意思表明になってた。
発達障害を疑われてすごくビックリしたけど、まだ様子見でいいみたいで、旦那も重く受け止めずその子のペースでいいんじゃないか、みたいな見解に終わった模様。
私、それ読んで
「もっときちんと見てもらった方がいいですけど‼︎‼︎」
と思った。
どの親だって我が子に障害があるかもなんて思いたくないのはわかる。
でも論点そこじゃないから、とも思う。
一時的に親が安心感を手に入れてどうするの?と思う。
その子ども、これから何十年と生きていかなきゃなんだから、そこを踏まえてそれが本当にいいのか考えてみたら…と。
記事読んで私なんかは「小児科の先生、良くぞ言ってくれました!」という感じだった。
先生もいきなり指摘したのではなく、色んな様子を見て、さらには「これまで健診で何か言われてませんか?」と聞いた上で、そういう機関を勧めてる。
相手はプロ。
これまで何百人何千人の子どもたちを見てるかはわからないけれど、そのプロが見て明らかに「あれ?」ってなるのは、そしてそれをわざわざ指摘までするのは、もう本気できちんと向き合った方がいいレベル。
だって、小さい子どもなんてみんな基本騒がしいし、落ち着きがないし、思い通りでなければ叫ぶし。
でも、プロから見て、それが許容範囲ではないから指摘されるんであって、そしてそれは子どもの成長のために言っている。
しかも残念なのがセンター的なところの対応。
このお母さん、調べたり市のセンターに直接出向いたようだけど、担当が外れたんだろうなと思った。
どの程度の確率か知らないけれど、そういう機関の担当も当たり外れがある。
みんな資格があるからと言って知識をきちんと持ってるかどうかはまた別の話。
そして最近の発達障害はさらに分類が進んでるのはいいけれど、きちんと勉強しないとわからないことが多い。
ひと昔前なら「個性」(又は「問題行動」)的なものも、今はある種の診断名がつくものもある。
さらに障害児支援は市町村で全くサービス内容が異なるから、どこまで対応できるかできないかの差も大きいらしい。
お母さんになった友達からも、そうした現場の人たちからも、両方話を聞いたことがあるから、担当の当たり外れがあることは知ってる(一部の国家資格有資格者は真面目に酷いレベル)。
だから、様子を見ましょうと言った人は、何を見てそう判断したのか聞きたいぐらいだった。
明らかに障害とわかる子たちは、すぐに療育と呼ばれる幼少期から特別な支援を受けるところに繋げてもらえる(もちろん申請とか色々あると思うけれど)。
難しいのは、一見普通なんだけど、なんか違うかも?まだ成長の段階だから様子見でいけるかな?のグレーゾーンの子たち。
本当にグレーゾーンなだけで、後にいわゆる「普通学級」で大丈夫な子もいる。
だけど、グレーゾーンではなく年齢が上がってきちんと診断が付く子もいるから、そこは私個人としては転ばぬ先の杖じゃないけれど、その子に合わせた療育が受けれるのであれば、長い目で見た時は絶対にそっちの方がいい。
療育も混み合ってるから、誰でも彼でも受けれるわけじゃない。
だから反対に入れてもらえるというのは、ある程度のレベルをクリアしないといけないかと思う(この辺りは詳しくないからわからない)。
冒頭の親子がその対象かどうかなんてわからないけれど、もし対象になるなら、今申請の手続きに入れたものが「様子見」のたった一言でその手続きの時期は遅れる=受けれるサービスの開始も遅れる。
私は詳しくないからわからないけれど、障害児を持つお母さんたちのブログなんかを読んでいると、全国どの市町村でも手続きは煩雑そうだしとにかく時間がかかるのがわかる。
下手すると、検査を受けるまで数ヶ月待ちなんてのもざららしい。
たしかに施設の子どもたちが児童相談所で何かしらの検査を受ける時も、今日言って明日じゃなくて、数ヶ月前から予約をしてた気がする。
これは障害児教育に携わっている友達が言ってたこと。
この友達は数年前から普通学級と支援学級の境目にいる子たちを主に見ている。
だから、障害児と言っても相当レベルの高い子たちだし、一般企業に障害者枠で採用してもらえるレベルの子たち。
見た目は普通。
話してくうちに「あれ?」となる子もいれば、話してても気付かれない場合の子もいる。
そういう子たちを相手にしている友達の言葉。
幼少期に療育を受けたかどうかは本当に後々のその子自身の能力=社会で生きていく力に大きく関わってくるらしい。
知的な能力は上でもそれを受けなかったばかりにできないことが多い子もいれば、能力はそんなに上じゃないのに療育で積み重ねてできることがものすごく多い子もいる。
それはいかに幼少期に適切な支援を受けたかどうかだから、それが年齢が上がることで一目瞭然になると言ってた。
さらにタチの悪いのは、普通学級である程度まで上がってきて、途中で支援級に移動してくる子のケース。
親もわかっていて、普通級を希望して普通級である程度過ごすのはこのケースに含まれなくて、本当に親も気付かずきてもしくは薄々気付いていたけれど相談することを避けてきて、ある時から普通級では無理になって移行してくるケース。
2次障害が出るケースもあるらしく、本来知的障害・発達障害だけだったものが、適切な支援を受けずにきて本人もわけわからなくて自暴自棄みたくなって精神障害も発症するケース。
これは本当にかわいそうだと言ってた。
親の変なこだわりで支援を受けず、でも結局ダメで、本人も分別がつく年齢になって、いきなり自分は普通ではないってなるわけだから、本人の精神的な葛藤は相当なものになるって言ってた。
人気記事の子どもも大丈夫かな…と思った。
たかが数行しか子どもの様子は書かれてなかったけれど、私から見ても「これ、様子見じゃやばいでしょ」のレベルだった。
だから小児科の先生、素晴らしい!と思った。
幼稚園も控えていて、ということは入園が許可されるレベルだから、余計とタチが悪い。
見る人が見たらわかるレベルであると同時に健常児と同じレベルのものも併せ持っている。
そうした子は、往々にして社会や集団生活に入った時、ちょっとした場面で不適応が起きたりしやすい。
ちなみに記事の中の子どもは、その中でもすでにこだわりが強めなのがわかる。
自閉症に近いものを性質として持っているんじゃないかな…と思った。
ただ普通に話せるし、意思疎通ができないわけじゃなさそうだから、余計とその子の場合わかりにくいんだろうなと思った。
ただ座って話をするだけ、もしくは1人でおもちゃで遊ぶだけの時は、多分他の子らとそんなに大差ない子かもしれない。
だけど、それ以外の行為、しかも普段はあまりしない行為(=新しい場面)で、尚且つ本人の五感を刺激するものがあると、その子は一種のパニックを起こす(というのが文からわかる)。
入園試験の時は多分そこが出る場面がなかっただけかなとも思えなくもない。
だからその差のところを小児科の先生が最初の受診で見抜いてくれたことは、はっきり言って超ラッキーだったと思う。
(転勤族かなと思われるから、今の土地で初めてかかった小児科医だったらしい。ちなみに小児科医は近所でも評判が良いと前置きされてた)
少なくとも幼稚園の入園許可が下りたということは面談なりちょっとした入園試験があったと思うけれど、そこでは気付かれなかった可能性もある。
普通枠では多分とてつもなく生きづらくなるタイプの子。
その特性が今はっきりと出ているし、普通の幼稚園、普通の学校と上がるうちにますます子ども自身が自分のことで悩まなきゃいけなくなると思う。
そんなにおいがプンプンしている内容だった。
知能はあの感じだと普通。
知能が普通だと余計と辛い。
わかっちゃうから。
自分はみんなと違うことがわかるから。
その子どもにはその子どもの世界があって、それで本当に大丈夫で、それに合った成長の仕方、自分との付き合い方がある。
でもそれはちょっとだけ特別な手が必要で、その子の個性を本気で大事にしたかったら、その手の専門家の知恵を借りるのが早道だと思う。
障害だと決めつけるのではない。
ただ、その子に合った特別な教育のプログラム、しかも相手はみんなプロの先生たちから見てもらえて、そして能力を引き出してもらえる。
もしくは適応力が上がる。
親が「うちの子に限ってそんなことない」と頑なに思い、とりあえずきちんと見てないと思われる人の安易な言葉に飛びつき、何もなかったことにする。
それは、本人が本来抱えなくていいストレスを抱えたりすることになるだけなのになと思う。
しかもそういう子たちは、敏感なことが多くて、余計と変なストレスにさらされやすい。
私は敏感なことが悪いとは思わない。
なぜなら敏感な分、他の人たちにはない感性を持ち合わせてるってことだから。
ただ敏感なところは、本人が多少でも生きやすさを獲得するためには、付き合うのにちょっとしたコツは必要だと思う。
それは素人と玄人では見方が違うから、そこはせっかくチャンスがあるなら利用した方が早いのにと思ってしまう。
親の気持ちは親の気持ちでケアが必要だろうけれど、親が受け入れられるのを待ってるうちにも子どもは日に日に成長するわけだから、そんなの悠長に待ってる場合じゃなくなる。
それとこれとは別のものとして取り扱わないと、ある意味取り返しのつかないことになり兼ねない。
塾に勤めてた時も何人かそういう子に当たった。
保護者にそれまでの成育歴聞いて、健診や学校で何か指摘されなかったかをそれとなく探ったこともある。
1人は本当にあまりにも凄かったから、普通の進学とは違うもの、支援学校への進学の道について情報提供したこともある。
私がやり過ぎに見えるかもだけど、上司二人とさんざん話して、放っておいたらダメだということになった。
自営の家でもないから、将来的に家の手伝いという選択肢はない。
一般企業に就職する可能性があるとするなら、本人に相当な負荷がかかる。
ちなみにどの程度だったかと言うと、中学でも1桁+1桁以外の足し算引き算ができないレベルだった。
字は書けても、見本がないと書けない。
その子だけじゃなく、似たような学力の子は何人か見た。
だけど、そこまで踏み込んで話したのはそこの家だけだった。
なぜなら、他の家庭は、親の方がそれを受け入れてて、その中でできることや進路の選択肢も見据えてたから、同じ学力レベルでも多分何とかいけるかなという感じだった。
その子の身の丈に合った道を親子で同じ視点に立って見て、それで歩んでいけるかな…というのが見えるから、そういう意味で何とかいけるかなと思った。
さらに言うと、人間関係を築けてるかどうかも大事なポイントだった。
学力がどんなに落ちこぼれてても、人と関わるという点においては他の子たちよりも明らかに上で、人間関係を作るのがものすごく上手い子たちもいた。
自分で本物の人間関係が築けて生きていける子は全く心配もしなかった。
自分の学力のなさを公にできるぐらいで、その自分で周りと人間関係を作るから、色んなタイプの友達に恵まれてるようだった。
私が進言した家庭の子は、学力的なことのみならず、人間関係がものすごく荒れてた。
とても幼稚なこと(嫌がらせ)をして、周りから総スカン食らってもそれは自分のせいじゃなくて相手のせい…みたいにしちゃう子で、社会でやっていけるかな…と真面目に想像のつかない子だった。
だから普通枠でずっとずっと進み続けるのが本当に本人のためなのかどうか私には判断がつかなかった。
それで上司二人とそれぞれ何回か相談して、これは黙ったままにするのではなく、伝えるだけ伝えて、あとその後どう選択するかは本人や家族だから、ということになった。
さすがに知ってるのに見過ごすのはどうかということになった。
ちなみに初めてそれを伝えた日、保護者から本気で怒られた。
感情をぶつけられ凄かった。
それも予想してたから、でも言わなきゃいけないことは伝えた。
塾を辞めるかと思ったら辞めることはなく、その次の保護者懇談では家庭内の事情について初めて具体的な説明をしてくれた。
色んな理由から普通に見えるように育てないといけない事情があるのはわかったから、その時からその保護者とは方向性を1つきちんと決めて、消去法で残りはここしかないみたいな感じで、そのための学習に切り替えた。
(支援学校ではなく、手厚く見てもらえる私立の高校に入った)
私が見た時にはすでにそんな状況で、これまで親でも学校の先生でも何かしら気付かなかったのかな…というのは思った。
「普通」にこだわるのが悪いとは言わない。
だけど、本当にそれがその子どものためなのかどうかは感情や気持ちだけじゃなく、その子の一生という視点でそれが本当にいいのかは考えないといけないと思う。
子どもが生活してる施設で働いてた頃、尊敬する上司が常々言っていた。
目の前のことも大切だけど、必ずその子が生きていく、一生生きていく上で何が必要かを見極めるその目は常に必要なこと、そしてそのために何ができるかを考えて実践していくこと。
いずれは社会の中で揉まれながら生きていくわけだから、そこを見据えて子どもと関わることが必要だと事あるごとに言われた。
冒頭の小さな子どもが親の目の前のエゴや不安解消ではなく、本当に必要なことが必要なタイミングでもたらされるといいなと思わずにはいられない。
2018年6月3日日曜日
体からのメッセージ
多分7割以上の毒は抜けた。
明日月曜日からは、溜まりに溜まった色んなことに着手できる気がする。
その前に、火曜日から始まったこの体の絶不調中に気付いた五感をはじめとする体の感覚の備忘録。
【味覚】
とうとう味覚がなくなった。
父が買ってくれたセブンイレブンの幕の内弁当は全部が全部味がなかった。
だけど面白いもので、塩分強めのものだけはわかった。
しょっぱい感じがかすかに感じられたから。
味はないけれど、しょっぱいということは、本当はめちゃくちゃしょっぱいんだろうなと思った。
ちなみにしょっぱいと感じたのは、サバの塩焼きとつくねみたいなやつの餡がそうだった。
【体の音】
それがどこで鳴ってるのかはわからない。
土曜日から鼻の後ろあたりから喉のあたりまでのどこかで奇妙な音がする。
これまで一度も聞いたことない音で、何の不具合なのかもわからない。
痛いわけではなく、何か調節してるみたいな音。
【三重】
私の目は一重ないし奥二重。
今ネットで調べた。
私はどっちがどっちなのかわからなくて、とりあえずどちらかということにしていた。
ある意味正しくて、左目が奥二重、右目が一重だと思う。
(だから人によって言うことがまちまちだったことも頷けた)
そんな目が、咳のし過ぎなのか、体全体の不調のせいなのかわからないけれど、二重を通り越して三重になった。
ひどいむくみ?原因はわからないけれど、これ外出れないねという感じ。
【涙】
風邪のおかげであちこちの感覚がおかしい中、これだけは別格だった。
「咳は命の音」
そう書いた時、書いて打ち終わる前に、ツーと涙がこぼれた。
その後もツーツー、ツーツーと続けてこぼれた。
目は単なる涙を作る機械みたいだった。
それを書いていた時、心の一番奥の方に何かが到達したんだと思う。
普段は触らない、そういうような場所だった。
咳も鼻水も全て待ったなし予告なしでいつもやってきた。
咳は突然気管をせり上がってくるし、鼻水は突然垂れて間に合わず何回も床に落下した。
それぐらい制御不能な水が鼻から出ていた。
普段なら「鼻水出そうだな」と感じて、ティッシュを用意して、鼻をかむ。
今回鼻が末期症状だった時は、鼻水出そうだな、なんて感覚の前に鼻水というより本当に水滴がダラダラっと勢いよく出てきた。
書いた時の涙はもっと速かった。
ちなみに咳は時速200〜300㎞級の速度の負荷が瞬時に体にかかるらしい。
あの時の涙は、その咳よりも上の鼻水、そしてその鼻水よりも上の速さだった。
マッハ何秒の世界だった。
風邪の色んな症状で体はある意味鈍感になっていて、ある意味敏感になっていた。
考える力もなく、理性は多分普段の半分以下。
無意識の領域にかなり近い状態にあったと思う。
耳も風邪特有の空気が詰まった感じで、聞こえるけれどいつもとは違う。
自分の唾を飲み込む音が脳内に響き渡る、そんな感じ。
色んな感覚がやたらと自分の体の中で響いていて、そういう意味ではいつもより敏感だった。
「咳は命の音」
文字にしたら、当時の情景が一気に迫ってきた。
涙は出るわ、心の深い部分をタッチするわ、情景は思い浮かぶわでやたらと大忙しだった。
風邪でしんどいはずなのに、その部分だけは際立ってた。
しんどくなくて、ちょっとノスタルジックでいっぱい胸の中に何かが溢れてキラキラするみたいな感じだった。
大切な大切な時間を思い出してた。
私は聞いた。
「またあの咳の音を聞けますか?」
目はかすんでも、私はその動きをじっと見た。
信じよう。
今目の前で見せてもらってるメッセージを信じよう。
また具合が良くなると、大人の私が「そんなことあるわけない」とかぶつくさと言い出すに決まってる。
そういうの得意だし、否定もお家芸かと言わんばかりに上手い。
だけど、知ってる。
私がどうして否定するのか。
信じたいくせして、その前に否定してしまうのか。
信じて違っていてそれで最後傷付くのが怖いから。
傷付くぐらいなら先に否定してしまおう、そうやって傷を先に避けようとする。
でも今回の風邪で痛いほど学んだ。
今回の風邪は、自分にとって本音をないがしろにして、相手も自分も余計に傷付かなくていいと思う方法を選び続けたことによる不具合から来ていた。
本音ではないものを選ぶ。
それは傷を受けなくて済むものだと思ってた。
ところが違ってた。
本音との食い違いが止まらなくて、そして本音の部分は私に全力で大切なものを伝えようとしてくれてた。
それでも私は逃げの道を選ぶようにしたら、とうとう体がパンクした。
自己最悪の、歴史に残る酷い風邪を体験した。
本気でビックリした。
本音が伝えてくれてたことは、私の価値観の中でもトップ5に入るようなものだった。
それがわかりつつも、それを半ば否定するように別の道を探ろうとした。
だけど本当に私が自分のために選ばなきゃいけなかったのは、自分が大切に思ってる方だった。
それでたとえ他の誰かや自分の他の何かが傷付く結果を招いても、それでも選ぶのは自分の真からの芯からの心からの大切に思ってることの方だった。
それの方が何十倍も大事だよと体から教えられた。
体の絶不調という形を示してもらいながら(涙)。
咳の音を聞く。
最低限「咳の音を聞きたい」と思っている気持ちだけは大事にしよう。
そして見せてもらったメッセージ、信じよう。
信じたい、だから信じる。
それぐらいシンプルに行こう。
このことも否定なんかしようものなら、いつかまた体から警告がくる気がする。
さすがにそれは怖い(苦笑)。
今回の一件で本気で懲りたから。
結果なんてのは二次的な産物の話であって、問われてるのは「私は何を信じますか?」「私は何を信じたいですか?」「私にとって大事なのは何ですか?」の部分。
書いた時の涙が教えてくれた。
大切に思う気持ちも再会したい気持ちもきちんとある。
その気持ちが届くかどうかとか、再会できるかどうかとか、そこじゃない。
まずは自分の中にあるものを素直に認める。
受け止める。
そこからなんだとわかった。
そしてそれだけは自分の中で大切にしよう。
大切に守ろう。
そう思った。
明日月曜日からは、溜まりに溜まった色んなことに着手できる気がする。
その前に、火曜日から始まったこの体の絶不調中に気付いた五感をはじめとする体の感覚の備忘録。
【味覚】
とうとう味覚がなくなった。
父が買ってくれたセブンイレブンの幕の内弁当は全部が全部味がなかった。
だけど面白いもので、塩分強めのものだけはわかった。
しょっぱい感じがかすかに感じられたから。
味はないけれど、しょっぱいということは、本当はめちゃくちゃしょっぱいんだろうなと思った。
ちなみにしょっぱいと感じたのは、サバの塩焼きとつくねみたいなやつの餡がそうだった。
【体の音】
それがどこで鳴ってるのかはわからない。
土曜日から鼻の後ろあたりから喉のあたりまでのどこかで奇妙な音がする。
これまで一度も聞いたことない音で、何の不具合なのかもわからない。
痛いわけではなく、何か調節してるみたいな音。
【三重】
私の目は一重ないし奥二重。
今ネットで調べた。
私はどっちがどっちなのかわからなくて、とりあえずどちらかということにしていた。
ある意味正しくて、左目が奥二重、右目が一重だと思う。
(だから人によって言うことがまちまちだったことも頷けた)
そんな目が、咳のし過ぎなのか、体全体の不調のせいなのかわからないけれど、二重を通り越して三重になった。
ひどいむくみ?原因はわからないけれど、これ外出れないねという感じ。
【涙】
風邪のおかげであちこちの感覚がおかしい中、これだけは別格だった。
「咳は命の音」
そう書いた時、書いて打ち終わる前に、ツーと涙がこぼれた。
その後もツーツー、ツーツーと続けてこぼれた。
目は単なる涙を作る機械みたいだった。
それを書いていた時、心の一番奥の方に何かが到達したんだと思う。
普段は触らない、そういうような場所だった。
咳も鼻水も全て待ったなし予告なしでいつもやってきた。
咳は突然気管をせり上がってくるし、鼻水は突然垂れて間に合わず何回も床に落下した。
それぐらい制御不能な水が鼻から出ていた。
普段なら「鼻水出そうだな」と感じて、ティッシュを用意して、鼻をかむ。
今回鼻が末期症状だった時は、鼻水出そうだな、なんて感覚の前に鼻水というより本当に水滴がダラダラっと勢いよく出てきた。
書いた時の涙はもっと速かった。
ちなみに咳は時速200〜300㎞級の速度の負荷が瞬時に体にかかるらしい。
あの時の涙は、その咳よりも上の鼻水、そしてその鼻水よりも上の速さだった。
マッハ何秒の世界だった。
風邪の色んな症状で体はある意味鈍感になっていて、ある意味敏感になっていた。
考える力もなく、理性は多分普段の半分以下。
無意識の領域にかなり近い状態にあったと思う。
耳も風邪特有の空気が詰まった感じで、聞こえるけれどいつもとは違う。
自分の唾を飲み込む音が脳内に響き渡る、そんな感じ。
色んな感覚がやたらと自分の体の中で響いていて、そういう意味ではいつもより敏感だった。
「咳は命の音」
文字にしたら、当時の情景が一気に迫ってきた。
涙は出るわ、心の深い部分をタッチするわ、情景は思い浮かぶわでやたらと大忙しだった。
風邪でしんどいはずなのに、その部分だけは際立ってた。
しんどくなくて、ちょっとノスタルジックでいっぱい胸の中に何かが溢れてキラキラするみたいな感じだった。
大切な大切な時間を思い出してた。
私は聞いた。
「またあの咳の音を聞けますか?」
目はかすんでも、私はその動きをじっと見た。
信じよう。
今目の前で見せてもらってるメッセージを信じよう。
また具合が良くなると、大人の私が「そんなことあるわけない」とかぶつくさと言い出すに決まってる。
そういうの得意だし、否定もお家芸かと言わんばかりに上手い。
だけど、知ってる。
私がどうして否定するのか。
信じたいくせして、その前に否定してしまうのか。
信じて違っていてそれで最後傷付くのが怖いから。
傷付くぐらいなら先に否定してしまおう、そうやって傷を先に避けようとする。
でも今回の風邪で痛いほど学んだ。
今回の風邪は、自分にとって本音をないがしろにして、相手も自分も余計に傷付かなくていいと思う方法を選び続けたことによる不具合から来ていた。
本音ではないものを選ぶ。
それは傷を受けなくて済むものだと思ってた。
ところが違ってた。
本音との食い違いが止まらなくて、そして本音の部分は私に全力で大切なものを伝えようとしてくれてた。
それでも私は逃げの道を選ぶようにしたら、とうとう体がパンクした。
自己最悪の、歴史に残る酷い風邪を体験した。
本気でビックリした。
本音が伝えてくれてたことは、私の価値観の中でもトップ5に入るようなものだった。
それがわかりつつも、それを半ば否定するように別の道を探ろうとした。
だけど本当に私が自分のために選ばなきゃいけなかったのは、自分が大切に思ってる方だった。
それでたとえ他の誰かや自分の他の何かが傷付く結果を招いても、それでも選ぶのは自分の真からの芯からの心からの大切に思ってることの方だった。
それの方が何十倍も大事だよと体から教えられた。
体の絶不調という形を示してもらいながら(涙)。
咳の音を聞く。
最低限「咳の音を聞きたい」と思っている気持ちだけは大事にしよう。
そして見せてもらったメッセージ、信じよう。
信じたい、だから信じる。
それぐらいシンプルに行こう。
このことも否定なんかしようものなら、いつかまた体から警告がくる気がする。
さすがにそれは怖い(苦笑)。
今回の一件で本気で懲りたから。
結果なんてのは二次的な産物の話であって、問われてるのは「私は何を信じますか?」「私は何を信じたいですか?」「私にとって大事なのは何ですか?」の部分。
書いた時の涙が教えてくれた。
大切に思う気持ちも再会したい気持ちもきちんとある。
その気持ちが届くかどうかとか、再会できるかどうかとか、そこじゃない。
まずは自分の中にあるものを素直に認める。
受け止める。
そこからなんだとわかった。
そしてそれだけは自分の中で大切にしよう。
大切に守ろう。
そう思った。
体が欲するもの
風邪的絶不調6日目。
5日目の昨日、母親は会社の旅行に出かけた。
普段は私もご飯を作るし何てことない。
だけど、昨日は具合が悪い。
ご飯を作るなんてそんな負担の大きいことするなら休みたい。
父は昔気質な人で、料理は男のすることではないと思ってる。
今の時代なら生き残れないタイプの男。
野球の王監督の再婚話を、今日の昼ご飯を食べてる時アッコにおまかせで見てた(←作り手はもちろん私)。
父は何を言うかと思えば「そりゃそうだ。自分じゃ何もできない男は、相手に先立たれてはその部分をしてくれる人がいなきゃ生きていけない」と。
ちなみに私はそんな男の人無理。
自分のことぐらい自分でしてくれ!と思う。
で、そんなことを大真面目に感想として言う料理のできない父と料理はできても絶不調の私とが昨日家にいた。
絶対にご飯をしたくなくて、というか何もしたくなくて、私は朝早々と父には「具合が悪いから、お昼は適当に自分で食べて」と言った。
そうしたら「2人分弁当買ってくる」と言って、それはありがたくいただいた。
夜も作るのは厳しいと言うと、何が食べたいかと聞かれ、何食べても味がわからないから刺身とかは避けて欲しいとお願いした。
刺身は元気な時に美味しく食べたいから。
何を買うのかは父に任せたら、夜は昼とは違うバージョンのお弁当だった。
もちろんありがたくいただいた。
だけど、2食連続の弁当は辛かった。
体が弱ってるから、こういう時は人の手を介して作られたものじゃないと元気が出ないのは知ってる。
それで翌日の今日、昼はうどんを作ることにした。
父にもそれは伝えた。
作る時になって、父は私に言ってきた。
「俺、素うどんがいい」と。
心の声は心にとどまらず口に出た。
「えーっ」
この期に及んで何をリクエストしてくれる?と思った。
素うどん自体は確かに手間暇かからない。
だけど問題は、私は素うどんを食べるつもりはない。
2食弁当で、とにかく作ったものが食べたかった私は、なにかしら具を入れたおつゆを作って食べる気でいた。
冷凍のうどんを使う関係で、私はおつゆを作ったらその中でうどんを煮るつもりでいた。
だから素うどん用のつゆを多めに作ってその後具入りにしたらいいともいかず、結局二度手間のうどんを2回別々に作るという、何とも面倒くさいことをすることになった。
もう1つ言うと、洗い物を極力減らすためのメニューでもあって、だから一気に1つの鍋で2人分を作る当初の予定が代わり、だから心の声がダダ漏れた。
料理する人はその手間がわかるからこういう意味不明なことは言わない。
料理しない父は気遣いのつもりだったのかもしれないけれど、かえって手間が増えるという全くありがたくない事態が発生した。
でも私はもう絶対にきちんと食べたかったから、素うどんだけ先に作って、その後自分のものを作った。
ちなみにつゆも自分で作ったけれど、舌が麻痺してるからそれが濃いのか薄いのか美味しいのかそうでないのかもさっぱりわからなかった。
勘違いされると悪いから書くと、私のうどんとかの手作り麺つゆは「しょうゆ、砂糖、顆粒だし、水」で作る。
気が向けば、酒とみりんも入れる。
だしを一から採るなんていうそんな主婦の鑑みたいなことはできない。
当然常に適当だから分量なんて計ったことなく、今回みたいな味覚障害的な時に作るのは至難の技だった。
味見してあとは足りなければ足りないものを足して終わり。
でも今回は味見したところで全くわからないから、もうそのままにした。
父にも出す時に「しょっぱいかもだからあとは自分でお湯で調整して」とお願いした。
父は一口飲んで「うまいから大丈夫だ」と言い、本当に全部飲んでた。
その素うどんを作った後今度は、しめじとこんにゃく(という名の2日前のあまりものの青のり入り刺身こんにゃく)、薄揚げ、豚肉のコマ切れをつゆに入れて、あとはレンジで温泉卵を作った。
汁が煮たらそこに冷凍うどんを投入。
汗が出たし、味は相変わらずボケていたけれど食べてて体が喜んでるのはわかった。
金曜日の夕方発熱した際、私は静養に入る前に、その前の日に作ったビーフシチューもどきをご飯にかけてチンして食べた。
ビーフシチューもどきと言ったのは、ルーはホテル仕様の高級シチュールー(なのに100円!)だけど、我が家にビーフの買い置きなんぞなく、それで肉は代わりにベーコンとひき肉を使った。
ちなみにその高級ルーは、直近の仕事じゃなく、その1つ前の仕事の時に、同じ建物の1階に小さなスーパーみたいな店があってそこで買ったもの。
そこは卸なのかやたらと安くて有名で、そのルーもなぜか100円(通常店頭に並ぶのは500円くらいする)で売られてて、料理上手な人たちが絶賛してたから私もつられて買った。
けど、度重なる引越しで忘れ去られ、この間やっと見つけたら賞味期限1年前みたいな…。
密封されてるから大丈夫でしょうと、木曜日に作ったビーフシチューもどき。
ものすごく美味しくできて(←ルーのおかげ)、ご飯に食べてかけても美味しかったけれど、体はもっと別のものを欲してた。
だけど具合が悪くてそれどころじゃなく、とりあえず寝るための準備をした。
それが最後に食べた手の入った料理で、そこからは既製品しか食べてなかったから、体はどうしても元気が出なかった。
これはひとり暮らしの時もそうだった。
自分で本当にちょっとでいいから手間をかけてあげたらそれでいい。
味噌汁1杯とかで十分。
そういうことをせずに外食や買って食べるものばかりが続くと本当に変になる。
別にそういうものが体に悪いわけじゃない。
外食なら外食で、人が作ってる場合が多いから、必ずしも人の手を介していないとは言わない。
だけど、何かが確実に違う。
本当に少しの手間でいい。
それが自分で感じるレベルのものがないと、私の場合は体にくる。
だから、弁当を用意してもらえる方が断然楽は楽だけど、体は楽にならない。
それが分かっていたから、昼間はうどんを煮た。
うどんを食べて汗をかく、当たり前のことみたいだけれど、それが実はずっとできていなかった体の生理反応だったと気付く。
今回、具合が悪くなってからきちんと汗をかいていなかった。
だからいつまでも体の中に菌が滞在してるみたいな気もした。
他にも体が喜んだのはフレッシュな手作りスムージー。
母の昔からの知り合い(お互いまりちゃんさっちゃんなどと呼び合う仲)の人が木曜の夕方手作りの摘んだばかりのいちごを届けに来てくれた。
傷んでだめになりそうだったから、それと冷凍バナナと牛乳でミキサーにかけてスムージーを作った。
これまで冷凍いちごでしか作ったことなかったけれど、生のいちごで作るスムージーはびっくりするぐらいに新鮮で美味しかった!
こういうのも体が弱ってる時は美味しいんだなとわかった。
多分そろそろ終わる。
無理はしないけど、そろそろ快方に向かってる雰囲気を感じる。
あのわけのわからないダルさがだいぶ薄れた。
書いていて思った。
私が他人の咳一つであんなにもびびったのは、多分自分のこういう体質があったからじゃないかと思う。
風邪の症状が出る時、私はいつもさりげなくごはんにだけは気を使う。
塩を喉に巻いたり、水分をこまめに摂ったり、場合によっては薬も服用するけれど、多分一番はごはんだと思う。
おかゆでも雑炊でも、なんならお茶漬けの素を使ったお茶漬けでもいい。
ちょっとした手間の入ったものがないと、既製品だけでは体が弱るばかりで良くなっていかない。
記憶がないけれど、多分途中から仕事そっちのけでのど飴のことだけを考えてた時間、恐らくそこも頭の中にあったんじゃないかと思う。
栄養というより、人の手から作られたものを口にしてる感じがあまり想像できなくて、だから体の不調のサインを見て、色んな意味で大丈夫かな…と思ったんじゃないかと思う。
最後の方、疲れが重なったのかなんなのか、具合悪そうにしてたのも見た。
机の上に風邪薬と思しき黄色い箱がのっていたのも見た。
色々気付いても何もできることはなかった。
できることは黙って何もしないことだというのがわかったから。
もし何かをしたらもっと負担にしかならないとわかった後だったから、だから黙って見てるしかなかった。
代わりに私はある時から始めた墓参りで、その人の健康も一緒にお願いした。
そんなことして何になるのかはわからなくても、他にできることがない以上、あとは神頼み的な、祈りを捧げるぐらいしかなかった。
いなくなった後もそのままそれは習慣として残って、今も墓参りの時は同じように同じことを祈る。
究極のところ、その人が元気だったらいい。
だから、それを祈る。
祈って何になるかなんて突っ込まれたら元も子もないけれど、それでも祈りたい限りはそうしようと思う。
5日目の昨日、母親は会社の旅行に出かけた。
普段は私もご飯を作るし何てことない。
だけど、昨日は具合が悪い。
ご飯を作るなんてそんな負担の大きいことするなら休みたい。
父は昔気質な人で、料理は男のすることではないと思ってる。
今の時代なら生き残れないタイプの男。
野球の王監督の再婚話を、今日の昼ご飯を食べてる時アッコにおまかせで見てた(←作り手はもちろん私)。
父は何を言うかと思えば「そりゃそうだ。自分じゃ何もできない男は、相手に先立たれてはその部分をしてくれる人がいなきゃ生きていけない」と。
ちなみに私はそんな男の人無理。
自分のことぐらい自分でしてくれ!と思う。
で、そんなことを大真面目に感想として言う料理のできない父と料理はできても絶不調の私とが昨日家にいた。
絶対にご飯をしたくなくて、というか何もしたくなくて、私は朝早々と父には「具合が悪いから、お昼は適当に自分で食べて」と言った。
そうしたら「2人分弁当買ってくる」と言って、それはありがたくいただいた。
夜も作るのは厳しいと言うと、何が食べたいかと聞かれ、何食べても味がわからないから刺身とかは避けて欲しいとお願いした。
刺身は元気な時に美味しく食べたいから。
何を買うのかは父に任せたら、夜は昼とは違うバージョンのお弁当だった。
もちろんありがたくいただいた。
だけど、2食連続の弁当は辛かった。
体が弱ってるから、こういう時は人の手を介して作られたものじゃないと元気が出ないのは知ってる。
それで翌日の今日、昼はうどんを作ることにした。
父にもそれは伝えた。
作る時になって、父は私に言ってきた。
「俺、素うどんがいい」と。
心の声は心にとどまらず口に出た。
「えーっ」
この期に及んで何をリクエストしてくれる?と思った。
素うどん自体は確かに手間暇かからない。
だけど問題は、私は素うどんを食べるつもりはない。
2食弁当で、とにかく作ったものが食べたかった私は、なにかしら具を入れたおつゆを作って食べる気でいた。
冷凍のうどんを使う関係で、私はおつゆを作ったらその中でうどんを煮るつもりでいた。
だから素うどん用のつゆを多めに作ってその後具入りにしたらいいともいかず、結局二度手間のうどんを2回別々に作るという、何とも面倒くさいことをすることになった。
もう1つ言うと、洗い物を極力減らすためのメニューでもあって、だから一気に1つの鍋で2人分を作る当初の予定が代わり、だから心の声がダダ漏れた。
料理する人はその手間がわかるからこういう意味不明なことは言わない。
料理しない父は気遣いのつもりだったのかもしれないけれど、かえって手間が増えるという全くありがたくない事態が発生した。
でも私はもう絶対にきちんと食べたかったから、素うどんだけ先に作って、その後自分のものを作った。
ちなみにつゆも自分で作ったけれど、舌が麻痺してるからそれが濃いのか薄いのか美味しいのかそうでないのかもさっぱりわからなかった。
勘違いされると悪いから書くと、私のうどんとかの手作り麺つゆは「しょうゆ、砂糖、顆粒だし、水」で作る。
気が向けば、酒とみりんも入れる。
だしを一から採るなんていうそんな主婦の鑑みたいなことはできない。
当然常に適当だから分量なんて計ったことなく、今回みたいな味覚障害的な時に作るのは至難の技だった。
味見してあとは足りなければ足りないものを足して終わり。
でも今回は味見したところで全くわからないから、もうそのままにした。
父にも出す時に「しょっぱいかもだからあとは自分でお湯で調整して」とお願いした。
父は一口飲んで「うまいから大丈夫だ」と言い、本当に全部飲んでた。
その素うどんを作った後今度は、しめじとこんにゃく(という名の2日前のあまりものの青のり入り刺身こんにゃく)、薄揚げ、豚肉のコマ切れをつゆに入れて、あとはレンジで温泉卵を作った。
汁が煮たらそこに冷凍うどんを投入。
汗が出たし、味は相変わらずボケていたけれど食べてて体が喜んでるのはわかった。
金曜日の夕方発熱した際、私は静養に入る前に、その前の日に作ったビーフシチューもどきをご飯にかけてチンして食べた。
ビーフシチューもどきと言ったのは、ルーはホテル仕様の高級シチュールー(なのに100円!)だけど、我が家にビーフの買い置きなんぞなく、それで肉は代わりにベーコンとひき肉を使った。
ちなみにその高級ルーは、直近の仕事じゃなく、その1つ前の仕事の時に、同じ建物の1階に小さなスーパーみたいな店があってそこで買ったもの。
そこは卸なのかやたらと安くて有名で、そのルーもなぜか100円(通常店頭に並ぶのは500円くらいする)で売られてて、料理上手な人たちが絶賛してたから私もつられて買った。
けど、度重なる引越しで忘れ去られ、この間やっと見つけたら賞味期限1年前みたいな…。
密封されてるから大丈夫でしょうと、木曜日に作ったビーフシチューもどき。
ものすごく美味しくできて(←ルーのおかげ)、ご飯に食べてかけても美味しかったけれど、体はもっと別のものを欲してた。
だけど具合が悪くてそれどころじゃなく、とりあえず寝るための準備をした。
それが最後に食べた手の入った料理で、そこからは既製品しか食べてなかったから、体はどうしても元気が出なかった。
これはひとり暮らしの時もそうだった。
自分で本当にちょっとでいいから手間をかけてあげたらそれでいい。
味噌汁1杯とかで十分。
そういうことをせずに外食や買って食べるものばかりが続くと本当に変になる。
別にそういうものが体に悪いわけじゃない。
外食なら外食で、人が作ってる場合が多いから、必ずしも人の手を介していないとは言わない。
だけど、何かが確実に違う。
本当に少しの手間でいい。
それが自分で感じるレベルのものがないと、私の場合は体にくる。
だから、弁当を用意してもらえる方が断然楽は楽だけど、体は楽にならない。
それが分かっていたから、昼間はうどんを煮た。
うどんを食べて汗をかく、当たり前のことみたいだけれど、それが実はずっとできていなかった体の生理反応だったと気付く。
今回、具合が悪くなってからきちんと汗をかいていなかった。
だからいつまでも体の中に菌が滞在してるみたいな気もした。
他にも体が喜んだのはフレッシュな手作りスムージー。
母の昔からの知り合い(お互いまりちゃんさっちゃんなどと呼び合う仲)の人が木曜の夕方手作りの摘んだばかりのいちごを届けに来てくれた。
傷んでだめになりそうだったから、それと冷凍バナナと牛乳でミキサーにかけてスムージーを作った。
これまで冷凍いちごでしか作ったことなかったけれど、生のいちごで作るスムージーはびっくりするぐらいに新鮮で美味しかった!
こういうのも体が弱ってる時は美味しいんだなとわかった。
多分そろそろ終わる。
無理はしないけど、そろそろ快方に向かってる雰囲気を感じる。
あのわけのわからないダルさがだいぶ薄れた。
書いていて思った。
私が他人の咳一つであんなにもびびったのは、多分自分のこういう体質があったからじゃないかと思う。
風邪の症状が出る時、私はいつもさりげなくごはんにだけは気を使う。
塩を喉に巻いたり、水分をこまめに摂ったり、場合によっては薬も服用するけれど、多分一番はごはんだと思う。
おかゆでも雑炊でも、なんならお茶漬けの素を使ったお茶漬けでもいい。
ちょっとした手間の入ったものがないと、既製品だけでは体が弱るばかりで良くなっていかない。
記憶がないけれど、多分途中から仕事そっちのけでのど飴のことだけを考えてた時間、恐らくそこも頭の中にあったんじゃないかと思う。
栄養というより、人の手から作られたものを口にしてる感じがあまり想像できなくて、だから体の不調のサインを見て、色んな意味で大丈夫かな…と思ったんじゃないかと思う。
最後の方、疲れが重なったのかなんなのか、具合悪そうにしてたのも見た。
机の上に風邪薬と思しき黄色い箱がのっていたのも見た。
色々気付いても何もできることはなかった。
できることは黙って何もしないことだというのがわかったから。
もし何かをしたらもっと負担にしかならないとわかった後だったから、だから黙って見てるしかなかった。
代わりに私はある時から始めた墓参りで、その人の健康も一緒にお願いした。
そんなことして何になるのかはわからなくても、他にできることがない以上、あとは神頼み的な、祈りを捧げるぐらいしかなかった。
いなくなった後もそのままそれは習慣として残って、今も墓参りの時は同じように同じことを祈る。
究極のところ、その人が元気だったらいい。
だから、それを祈る。
祈って何になるかなんて突っ込まれたら元も子もないけれど、それでも祈りたい限りはそうしようと思う。
2018年6月2日土曜日
咳からの贈り物
それは突然届いた。
しつこい咳からの贈り物だった。
咳が時間を追うごとに酷くなってきてる私は、そうだ!と思いついて、自分オリジナルのヒーリングを自分自身に初めてしてみた。
それは『チャクラ・ヒーリング』という本を使って、自分の今弱ってる場所を特定し、そしてそこから必要なケア方法を見つけていく(実際はもっと別のステップありだけど、自分だからとりあえず最低限で)。
本は特定されるまでは読まず、ひたすらペンジュラムに必要な箇所を選定してもらって、選定が終わったら読んでいく。
ペンジュラムを使うようになって、ますます自分の思考は頼りないものに見えてくるようになった。
思考も大切だけれど、見えない部分の意識なんて自分じゃわからないから、そういう私の思考とは関係ない感覚で情報をキャッチできるペンジュラムの方がこういう時は確実になる。
特に今回の咳は、明らかに風邪と言うより自分で自分に与えた菌のような様相になってきてるから、通常の体だけの対処では大幅な回復は見込めない。
心の部分にも働きかけないとだから、その部分をより詳細に知るために、本やペンジュラムが大活躍してくれてる。
ということで本から情報をペンジュラムで読み込んで、該当ページを見て行ったら…。
咳についての欲しい情報ももちろんあったけれど、それ以上に私が興味を持った情報はもっと別のところにあった。
2月に買ったオルゴナイトについて、一番しっくりくる情報がそこにはあった。
40個近いオルゴナイトたちが私を経由してそれぞれの持ち主の元へ旅立った、1つを除いて。
そのまだ旅立っていないオルゴナイトは、他のものとは全く異なっている。
選び方も他とは違った。
自分のオルゴナイト同様、そのオルゴナイトだけは見てピンときたという、それだけの理由で選んだ。
正しくは、見た瞬間、その持ち主の顔が思い浮かんだから、それなんだと思った。
ペンジュラムもそうだと言うから、間違いないだろうと判断した。
1つ1つのオルゴナイトは、異なったパワーストーンが内蔵されている。
私のはルチルクォーツと呼ばれるものだし、他にも黒水晶やタイガーアイ、アクアマリン、ラリマーなどなど、少なくとも20近い種類の石たちのオルゴナイトを見てきた。
そのオルゴナイトに関しては、見た目はピンときたものの、意味は読んでもあまりよくわからなかった。
本人が読んだらわかるのかもしれないけれど、私が読んでもさっぱりだった。
まぁいいかとそのままにずっとしていた。
友達の1人に同じタイプのものが行っていて、彼女には実にピッタリの意味合いのものが行ったと思う。
本人もどうピッタリなのかこと詳細に説明してくれたけれど、それを聞いたらますますわからなくなった。
その人にも同じ意味合いのものがいく予定だけれどどこかしっくりこない、そんな風だった。
あれから約3ヶ月、そんなことをすっかり忘れた今、そのしっくりこない部分に対してのとても明確なメッセージが本から来た。
咳によって開くことになった本の中に答えがあった。
そして数行の説明で、「あぁ(手元のオルゴナイトは)その人専用のお守りだ」と確信した。
友達に渡す前、店で見た効能とネットで調べた効能とを紙に書いた。
その効能はまさに友達へのメッセージで、当たってるなと思った。
ってことはその人の分も当然そうなるわけだけど、店で見た時同様「何でこれいくんだろう?」と思った。
そうしたら、誕生日プレゼントとして買った本の中に答えが書かれてた。
今回私も咳が出なかったら開かなかったページだった。
読んで納得した。
それは友達に書いた効能とは似ても似つかない別のものだった。
そしてその人にはピッタリのメッセージだと私は思った。
その本を開く数時間前のこと。
私はアメリカの有名なパワーストーンヒーリングをされてる方の動画を見ていた。
その動画の中で、たとえ同じパワーストーンであっても、人によってその効能は違うと説明されてた。
例えば、佐藤さんと鈴木さんに水晶が渡ったとしても、佐藤さんは浄化や解毒をする意味で持って、鈴木さんは進む道をクリアにしてもっとスムーズに歩むという意味で持つ、なんてことが往々にしてあるらしい。
それを聞いていたから、友達の分と最後の1人の分とが同じパワーストーンを内蔵していても、意味としてはそれぞれ別の強化ポイントを持ってることにも納得した。
これもよくできた話で、そもそも私がここまで咳をこじらせることをしなければしばらく開く予定のない本だった。
今回最初はあまりにも原因不明の風邪?と咳?で、しかも咳は日に日に悪化するから、それで何をしたらいいかを調べようと考えた。
しかも、本自体は140ページほどある。
その中でピンポイントでその情報のページにたどり着くんだからすごい(もちろんすごいのは、ペンジュラム)。
2、3ページしか読んでないのに、そこに必要な情報があった。
本人に渡るかどうかは知らないけれど、本当に渡るとするなら今回見つけたメッセージを効能としてきちんと紙に書いて渡せる。
私の症状が「咳」なのも良かった。
実はその人、冬でもないのに咳を毎日のようにしてた。
私は風邪じゃない何か別の咳なんだろうなと思って見ていた。
過去の仕事で病人もやたらと見てたから、風邪の咳とそれ以外の咳とが違うことが感覚的にわかる。
その人は何回も咳をして咳き込むわけじゃなく、2、3回咳払いする風にして、それが1日の中で数回ある、そしてほぼ毎日という感じだった。
最初こそ風邪なのかと思ったけれど、ずっと毎日のように観察してたら、言いたいことを飲み込んで喉が詰まるのかな…⁉︎と、思って見てた。
こんなこと本人は知らぬままだから良かったけれど、私はある日の仕事帰り、大型のスーパーとホームセンターがくっついたような店に立ち寄った。
すごい咳してたから、のど飴でも机の上にボンと置いておこうかと考えた。
今思うとすごい思考回路だけど、その日の私は仕事の途中からのど飴のことしか頭になかった。
大人だから死にはしないと思ったけれど、普段の様子を見てる限りじゃきちんと食べてるのかどうかも怪しければ、特保のお茶とかに手を出すあたり栄養状態が素晴らしく良いとは思えなかった。
のど飴置いたところで「これ誰が置いたの?」なんて周りに聞く感じじゃなさそうだから、しれっと置けるかなと思った。
で、大型のスーパーに行った。
あんなに真剣にのど飴を見たこともなかった。
本当に隅から隅まで何回見たかわからない。
何十種類とあって、未だかつてないぐらいに目を凝らして見た。
平日の夕方、そんな売り場は閑散としてたから、途中からペンジュラムまで出して聞いた。
結局オーソドックスなキンカンのど飴を買った。
それなら苦すぎず甘すぎず舐めれるかなと思った。
家に帰ってからは、看護師の友達から教えてもらった喉のケアについてメモの下書きをした。
(歯には良くないけれど、夜寝る時に飴舐めながら寝ると、喉の粘膜が守られて良いとのこと)
何回も書き直した。
ようやくできて翌日カバンに入れて持って行った。
けど、一晩寝たら、自分があまりにもおかしなことをしてることに気付いて、私は結局渡さなかった。
メモは速攻捨てて、のど飴は買ってしまったから私の仕事机の引き出しに移した。
あの時の衝動も半端なくすごかった。
今振り返るとすごくぶっ飛んでることがわかるけれど、当時は変だと思う前になんか勝手に体が動くかのごとくそんなことをしてた。
私はその人の具合が悪くなるのがすごく嫌だった。
休める立場じゃないから具合悪くても体押して仕事に来そうなタイプではあったけれど、とにかく「元気でいてくれないと困る」と私は一体どこの誰だ?というようなことをいつも無意識に思ってた。
しかもその飴を用意した時はまだ私の名前知ってますか?ぐらいな勢いだったのに、私は突然そんなことをしていた。
当たり前だけど、私も自分の気持ちなんてわかってなかったから、そんな行動に容易く移れたけれど、本当に我に返ってビックリした。
私この人の彼女でも友達でも仲の良い同僚でも、せめてせめて気軽に挨拶できる間柄でもないのに、私は何をそんなすごいことしようとしてるんだろう…と自分を見て理解できなかった。
バカじゃないの?とは思わなかったけれど、「どうしたの?」と思った。
自分の不可解な行動が理解できたのはそれからまたさらにたくさんの時間が過ぎ去ってからだった。
今の朝の連ドラ『半分、青い。』で、豊川悦司が売れっ子の癖のある漫画家で、その癖のある秘書を井川遥が演じてる。
豊川悦司は5年前にガンを患った設定になっていて、その再発が疑われるような行動を匂わせて、秘書の井川遥に何度も詰問されてた。
「先生、もしかして再発されたんですか?」と。
いつかの回の時、井川遥が豊川悦司に言う。
「先生、5分でいいですから私より長生きしてください!
私先生のいない世界を生きる勇気がありません」
咳で死ぬなんて思ってないし、ましてやまだエネルギッシュな世代で死を感じるような年齢ではないのに、私はあの時井川遥のセリフみたいなことを思ってた。
いつもとは違う咳を聞いた時、元気でいてくれなきゃ困るよ、って。
私が何に困るかなんて全然わからなかったし、自分でも何考えてんだ⁇と思ったけれど、時々妙に相手の命そのものがとてつもなくデカくて、私この人いないと本当に困ると思った。
のど飴を差し入れて何となく近づくみたいな魂胆もなかったとは言えない。
だけど近付くきっかけなんて他の何かでもいいのに、私はやたらとその人の健康状態が気になって気になって仕方なかった。
世話を焼くというより、「長く生きてね」という、自分が死ぬわけでも相手が死ぬわけでもないのに、そんなことをよく思った。
そんなことを思い出しつつ、そうだそうだ、喉というかよく咳をしてたなと思い出した。
そして本で意味を知って、より一層、相手が出してたシグナルみたいなのがあの時伝わったのかなと思った。
あの時というのはオルゴナイトを買いに行った日。
石の知識皆無の私が、ペンジュラムに一切頼らず、あんな風にピンポイントで選べるなんてその時一度きりだった。
しかも生きてるうちに相手の手に渡るなんてどんな確率ですか?っていうところなのに、それでも私は見に行って手に入れた。
そのオルゴナイトは物と対話することをはじめ、色んなことを私に教えてくれたけれど、今もずっと変わらず何回聞いてもNOと言う。
「ねぇ私のために動いてる?」
だから私のオルゴナイトじゃない。
持ち主を知ってる。
私のオルゴナイトはきちんと私が持ち主だから、普通に同じ質問をするとYESが出る(出なきゃ困る)。
そのもう1つのオルゴナイトはいつも近くにちょこんといるけれど、別にそこにいるだけでまだ持ち主のためには発動していない。
今日は書かないけれど、オルゴナイトはあの後も驚異のスピードで色んなストーリーを紡いでる(他の人たちに渡ったオルゴナイト)。
私の手を経由して30個ほどは郵便で旅立って、都度都度出発前に「もう発動してる?」と聞いた。
もちろんどの子もNOだった。
そして持ち主の元に届くと、ペンジュラムはきちんとYESに回る。
これは1人の例外もなくそうなってる。
得意の願掛けで、最後の1つも無事持ち主の元へ渡りますようにと祈ってる。
咳の産物から話がまたどんどんそれた。
本(『チャクラヒーリング』リズ・シンプソン 著)の中にこんな一節があった。
「言葉のない沈黙」ではなく、「真実が語られない沈黙」
深いため息が出そうだった。
直感的に、後者なんだろうなと思った。
言葉を持たない沈黙とは違う風だった。
言葉はあっても何も言わない、言わないに徹する、そんな風に見えた。
私は今でも真実が知りたい。
毛嫌いされてたって構わないから、私は真実を知りたい。
真実が何かなんてわからないけれど、こんな数年ぶりの体調不良の時でも、思わぬ形でその人にまつわる何かを知ってやさしい気持ちになる。
今回は私が独断で買ったオルゴナイトや沈黙についての情報だけれど、それでも私はやさしい気持ちになる。
本を読んだだけでは全然癒しなんか起きやしなかった。
よく他の人たちには癒しが起きたなと感心したぐらい。
でもその人の何かに繋がる情報を見て、私はそれだけで嬉しくなって、それまで溜め込んでた怒りも行き場のない他の気持ちも我慢しすぎたところも、あっという間に癒された。
なんなら、ひどい咳よありがとうー!ぐらいな気持ちにまでなった。
沈黙についても何にもわからなかったし、最後まで悶々どころか私は今もまだ悶々としている。
普段は忘れたフリして日々生活してるけれど、本当は忘れたことなんかない。
熱が出たり咳込んだりと体が休まらない時も忘れない。
同じ空間にいたことが奇跡だったんだと知る。
咳はその人の命の音だった。
私はその命の音をいつも耳を澄ませて聞いていた。
咳の音がすると、キョロキョロして、他の人がしてないかを確認した。
その人だとわかっていても、確認せずにはいられなかった。
咳で生存確認するなんておかしいけれど、それぐらいに大切な音だった。
咳が命の音だなんて、そんな風に思える人、多分最初で最後だ。
しつこい咳からの贈り物だった。
咳が時間を追うごとに酷くなってきてる私は、そうだ!と思いついて、自分オリジナルのヒーリングを自分自身に初めてしてみた。
それは『チャクラ・ヒーリング』という本を使って、自分の今弱ってる場所を特定し、そしてそこから必要なケア方法を見つけていく(実際はもっと別のステップありだけど、自分だからとりあえず最低限で)。
本は特定されるまでは読まず、ひたすらペンジュラムに必要な箇所を選定してもらって、選定が終わったら読んでいく。
ペンジュラムを使うようになって、ますます自分の思考は頼りないものに見えてくるようになった。
思考も大切だけれど、見えない部分の意識なんて自分じゃわからないから、そういう私の思考とは関係ない感覚で情報をキャッチできるペンジュラムの方がこういう時は確実になる。
特に今回の咳は、明らかに風邪と言うより自分で自分に与えた菌のような様相になってきてるから、通常の体だけの対処では大幅な回復は見込めない。
心の部分にも働きかけないとだから、その部分をより詳細に知るために、本やペンジュラムが大活躍してくれてる。
ということで本から情報をペンジュラムで読み込んで、該当ページを見て行ったら…。
咳についての欲しい情報ももちろんあったけれど、それ以上に私が興味を持った情報はもっと別のところにあった。
2月に買ったオルゴナイトについて、一番しっくりくる情報がそこにはあった。
40個近いオルゴナイトたちが私を経由してそれぞれの持ち主の元へ旅立った、1つを除いて。
そのまだ旅立っていないオルゴナイトは、他のものとは全く異なっている。
選び方も他とは違った。
自分のオルゴナイト同様、そのオルゴナイトだけは見てピンときたという、それだけの理由で選んだ。
正しくは、見た瞬間、その持ち主の顔が思い浮かんだから、それなんだと思った。
ペンジュラムもそうだと言うから、間違いないだろうと判断した。
1つ1つのオルゴナイトは、異なったパワーストーンが内蔵されている。
私のはルチルクォーツと呼ばれるものだし、他にも黒水晶やタイガーアイ、アクアマリン、ラリマーなどなど、少なくとも20近い種類の石たちのオルゴナイトを見てきた。
そのオルゴナイトに関しては、見た目はピンときたものの、意味は読んでもあまりよくわからなかった。
本人が読んだらわかるのかもしれないけれど、私が読んでもさっぱりだった。
まぁいいかとそのままにずっとしていた。
友達の1人に同じタイプのものが行っていて、彼女には実にピッタリの意味合いのものが行ったと思う。
本人もどうピッタリなのかこと詳細に説明してくれたけれど、それを聞いたらますますわからなくなった。
その人にも同じ意味合いのものがいく予定だけれどどこかしっくりこない、そんな風だった。
あれから約3ヶ月、そんなことをすっかり忘れた今、そのしっくりこない部分に対してのとても明確なメッセージが本から来た。
咳によって開くことになった本の中に答えがあった。
そして数行の説明で、「あぁ(手元のオルゴナイトは)その人専用のお守りだ」と確信した。
友達に渡す前、店で見た効能とネットで調べた効能とを紙に書いた。
その効能はまさに友達へのメッセージで、当たってるなと思った。
ってことはその人の分も当然そうなるわけだけど、店で見た時同様「何でこれいくんだろう?」と思った。
そうしたら、誕生日プレゼントとして買った本の中に答えが書かれてた。
今回私も咳が出なかったら開かなかったページだった。
読んで納得した。
それは友達に書いた効能とは似ても似つかない別のものだった。
そしてその人にはピッタリのメッセージだと私は思った。
その本を開く数時間前のこと。
私はアメリカの有名なパワーストーンヒーリングをされてる方の動画を見ていた。
その動画の中で、たとえ同じパワーストーンであっても、人によってその効能は違うと説明されてた。
例えば、佐藤さんと鈴木さんに水晶が渡ったとしても、佐藤さんは浄化や解毒をする意味で持って、鈴木さんは進む道をクリアにしてもっとスムーズに歩むという意味で持つ、なんてことが往々にしてあるらしい。
それを聞いていたから、友達の分と最後の1人の分とが同じパワーストーンを内蔵していても、意味としてはそれぞれ別の強化ポイントを持ってることにも納得した。
これもよくできた話で、そもそも私がここまで咳をこじらせることをしなければしばらく開く予定のない本だった。
今回最初はあまりにも原因不明の風邪?と咳?で、しかも咳は日に日に悪化するから、それで何をしたらいいかを調べようと考えた。
しかも、本自体は140ページほどある。
その中でピンポイントでその情報のページにたどり着くんだからすごい(もちろんすごいのは、ペンジュラム)。
2、3ページしか読んでないのに、そこに必要な情報があった。
本人に渡るかどうかは知らないけれど、本当に渡るとするなら今回見つけたメッセージを効能としてきちんと紙に書いて渡せる。
私の症状が「咳」なのも良かった。
実はその人、冬でもないのに咳を毎日のようにしてた。
私は風邪じゃない何か別の咳なんだろうなと思って見ていた。
過去の仕事で病人もやたらと見てたから、風邪の咳とそれ以外の咳とが違うことが感覚的にわかる。
その人は何回も咳をして咳き込むわけじゃなく、2、3回咳払いする風にして、それが1日の中で数回ある、そしてほぼ毎日という感じだった。
最初こそ風邪なのかと思ったけれど、ずっと毎日のように観察してたら、言いたいことを飲み込んで喉が詰まるのかな…⁉︎と、思って見てた。
こんなこと本人は知らぬままだから良かったけれど、私はある日の仕事帰り、大型のスーパーとホームセンターがくっついたような店に立ち寄った。
すごい咳してたから、のど飴でも机の上にボンと置いておこうかと考えた。
今思うとすごい思考回路だけど、その日の私は仕事の途中からのど飴のことしか頭になかった。
大人だから死にはしないと思ったけれど、普段の様子を見てる限りじゃきちんと食べてるのかどうかも怪しければ、特保のお茶とかに手を出すあたり栄養状態が素晴らしく良いとは思えなかった。
のど飴置いたところで「これ誰が置いたの?」なんて周りに聞く感じじゃなさそうだから、しれっと置けるかなと思った。
で、大型のスーパーに行った。
あんなに真剣にのど飴を見たこともなかった。
本当に隅から隅まで何回見たかわからない。
何十種類とあって、未だかつてないぐらいに目を凝らして見た。
平日の夕方、そんな売り場は閑散としてたから、途中からペンジュラムまで出して聞いた。
結局オーソドックスなキンカンのど飴を買った。
それなら苦すぎず甘すぎず舐めれるかなと思った。
家に帰ってからは、看護師の友達から教えてもらった喉のケアについてメモの下書きをした。
(歯には良くないけれど、夜寝る時に飴舐めながら寝ると、喉の粘膜が守られて良いとのこと)
何回も書き直した。
ようやくできて翌日カバンに入れて持って行った。
けど、一晩寝たら、自分があまりにもおかしなことをしてることに気付いて、私は結局渡さなかった。
メモは速攻捨てて、のど飴は買ってしまったから私の仕事机の引き出しに移した。
あの時の衝動も半端なくすごかった。
今振り返るとすごくぶっ飛んでることがわかるけれど、当時は変だと思う前になんか勝手に体が動くかのごとくそんなことをしてた。
私はその人の具合が悪くなるのがすごく嫌だった。
休める立場じゃないから具合悪くても体押して仕事に来そうなタイプではあったけれど、とにかく「元気でいてくれないと困る」と私は一体どこの誰だ?というようなことをいつも無意識に思ってた。
しかもその飴を用意した時はまだ私の名前知ってますか?ぐらいな勢いだったのに、私は突然そんなことをしていた。
当たり前だけど、私も自分の気持ちなんてわかってなかったから、そんな行動に容易く移れたけれど、本当に我に返ってビックリした。
私この人の彼女でも友達でも仲の良い同僚でも、せめてせめて気軽に挨拶できる間柄でもないのに、私は何をそんなすごいことしようとしてるんだろう…と自分を見て理解できなかった。
バカじゃないの?とは思わなかったけれど、「どうしたの?」と思った。
自分の不可解な行動が理解できたのはそれからまたさらにたくさんの時間が過ぎ去ってからだった。
今の朝の連ドラ『半分、青い。』で、豊川悦司が売れっ子の癖のある漫画家で、その癖のある秘書を井川遥が演じてる。
豊川悦司は5年前にガンを患った設定になっていて、その再発が疑われるような行動を匂わせて、秘書の井川遥に何度も詰問されてた。
「先生、もしかして再発されたんですか?」と。
いつかの回の時、井川遥が豊川悦司に言う。
「先生、5分でいいですから私より長生きしてください!
私先生のいない世界を生きる勇気がありません」
咳で死ぬなんて思ってないし、ましてやまだエネルギッシュな世代で死を感じるような年齢ではないのに、私はあの時井川遥のセリフみたいなことを思ってた。
いつもとは違う咳を聞いた時、元気でいてくれなきゃ困るよ、って。
私が何に困るかなんて全然わからなかったし、自分でも何考えてんだ⁇と思ったけれど、時々妙に相手の命そのものがとてつもなくデカくて、私この人いないと本当に困ると思った。
のど飴を差し入れて何となく近づくみたいな魂胆もなかったとは言えない。
だけど近付くきっかけなんて他の何かでもいいのに、私はやたらとその人の健康状態が気になって気になって仕方なかった。
世話を焼くというより、「長く生きてね」という、自分が死ぬわけでも相手が死ぬわけでもないのに、そんなことをよく思った。
そんなことを思い出しつつ、そうだそうだ、喉というかよく咳をしてたなと思い出した。
そして本で意味を知って、より一層、相手が出してたシグナルみたいなのがあの時伝わったのかなと思った。
あの時というのはオルゴナイトを買いに行った日。
石の知識皆無の私が、ペンジュラムに一切頼らず、あんな風にピンポイントで選べるなんてその時一度きりだった。
しかも生きてるうちに相手の手に渡るなんてどんな確率ですか?っていうところなのに、それでも私は見に行って手に入れた。
そのオルゴナイトは物と対話することをはじめ、色んなことを私に教えてくれたけれど、今もずっと変わらず何回聞いてもNOと言う。
「ねぇ私のために動いてる?」
だから私のオルゴナイトじゃない。
持ち主を知ってる。
私のオルゴナイトはきちんと私が持ち主だから、普通に同じ質問をするとYESが出る(出なきゃ困る)。
そのもう1つのオルゴナイトはいつも近くにちょこんといるけれど、別にそこにいるだけでまだ持ち主のためには発動していない。
今日は書かないけれど、オルゴナイトはあの後も驚異のスピードで色んなストーリーを紡いでる(他の人たちに渡ったオルゴナイト)。
私の手を経由して30個ほどは郵便で旅立って、都度都度出発前に「もう発動してる?」と聞いた。
もちろんどの子もNOだった。
そして持ち主の元に届くと、ペンジュラムはきちんとYESに回る。
これは1人の例外もなくそうなってる。
得意の願掛けで、最後の1つも無事持ち主の元へ渡りますようにと祈ってる。
咳の産物から話がまたどんどんそれた。
本(『チャクラヒーリング』リズ・シンプソン 著)の中にこんな一節があった。
「言葉のない沈黙」ではなく、「真実が語られない沈黙」
深いため息が出そうだった。
直感的に、後者なんだろうなと思った。
言葉を持たない沈黙とは違う風だった。
言葉はあっても何も言わない、言わないに徹する、そんな風に見えた。
私は今でも真実が知りたい。
毛嫌いされてたって構わないから、私は真実を知りたい。
真実が何かなんてわからないけれど、こんな数年ぶりの体調不良の時でも、思わぬ形でその人にまつわる何かを知ってやさしい気持ちになる。
今回は私が独断で買ったオルゴナイトや沈黙についての情報だけれど、それでも私はやさしい気持ちになる。
本を読んだだけでは全然癒しなんか起きやしなかった。
よく他の人たちには癒しが起きたなと感心したぐらい。
でもその人の何かに繋がる情報を見て、私はそれだけで嬉しくなって、それまで溜め込んでた怒りも行き場のない他の気持ちも我慢しすぎたところも、あっという間に癒された。
なんなら、ひどい咳よありがとうー!ぐらいな気持ちにまでなった。
沈黙についても何にもわからなかったし、最後まで悶々どころか私は今もまだ悶々としている。
普段は忘れたフリして日々生活してるけれど、本当は忘れたことなんかない。
熱が出たり咳込んだりと体が休まらない時も忘れない。
同じ空間にいたことが奇跡だったんだと知る。
咳はその人の命の音だった。
私はその命の音をいつも耳を澄ませて聞いていた。
咳の音がすると、キョロキョロして、他の人がしてないかを確認した。
その人だとわかっていても、確認せずにはいられなかった。
咳で生存確認するなんておかしいけれど、それぐらいに大切な音だった。
咳が命の音だなんて、そんな風に思える人、多分最初で最後だ。
2018年6月1日金曜日
とげのある言葉
【はじめに】
今回は2日に分けて書いてます。
31日の時は相当怒り狂ってたので、自分が書いたこと読み返してません。
今日1日の分は、気持ちは落ち着いたけれど今度はまた熱が出たから、頭が若干緩んだ感じで書いてます。
変なことは書いてないと思いますが、読んでて不快になられたら申し訳ないので先に謝っておきます。
ごめんなさい。
良かったら読んでください。
私はこれを自分の備忘録として書いてます。
多分誤字脱字もあるかと…。
2018年5月31日 23時過ぎ
火曜日の朝の喉の痛みは、その後発熱と咳に変わった。
新パターンで、自分でも驚いている。
私は基本的に発熱すれば他の症状はほぼ出ないまま回復する。
だけど今回は熱が先にきて、その後咳が日に日に悪化するという、若干タチが悪い風邪になっている。
自分なりに仮説を立ててみた。
「風邪」と一括りにすると、熱も咳も同じ位置にあるけれど、何となく今回は熱と咳はそれぞれ別の原因から来ているような気がする。
熱の理由は不調に関係していると言うよりも、意識をクリアにするために起きたことだと予測している(これはまだ見守り中)。
一方の咳は、それとは関係ないところで起きていると思った。
私の勝手な予想だけど、数年ぶりに出た熱は、実はその直前にひらめいたことがあって、それに合わせて起きたような気がした。
だから長引きもせず翌日には快方に向かうという素晴らしい回復力を見せている。
一方の咳は、日に日に酷さが増して、一体どこからもらった咳なのかさえもわからず、昨日今日と何が原因だろうと思ってた。
こういう時ペンジュラムに聞いたりもするけれど、自分のことだから若干ブレが出る。
特定が難しいから、質問は伏せたまま、ペンジュラムを持ってる友達にYESNOを調べて欲しいとお願いして返事待ちをしている。
目に見えるほどの不調はあまりならないから、ここぞとばかりに自分の体調と心の中の観察にいそしんでる(←私にとっては趣味の領域)。
で、色々考えてたことと、咳とを合わせて、今日本屋でひらいた本にヒントがあった。
「とげのある言葉」
このヒントを見てすぐにわかった。
私は自分の備忘録としてこの先は綴る。
第三者に話すつもりで書く方が若干主観から外れてくれるかなという期待も込めて。
さっき数えたらすでに今日で6日目になってた。
怒りが爆発したのが土曜日、そして今もまだくすぶっていてそれでトータル6日。
別に毎瞬毎瞬考えてるわけじゃない。
だけど、日曜日は友達と会ってて気が紛れてたものの、また月曜以降ぶり返し。
火曜から水曜にかけては発熱で弱ってたにしても、今日はすでに木曜日。
そして今日木曜日にたどり着いて、1つ自分の中で決めたことがあった。
説明の仕方は考えるけれど、怒りのスイッチとなった相手とは関係を断とうと思ってる。
ここまで感情が収まらないほどの負の方へのエネルギーが半端ないのは、私の生活に支障をきたす。
今はいいけれど、これが自分の今後やろうとしてることを考えると、エネルギーロスが半端ないし、そこまでして付き合うメリットがゼロだから、もうここは心を鬼にして断ち切ろうと。
相手が嫌いになったわけじゃない。
人としては好きな人。
だけど、これが人の心やエネルギーに関わる分野になると、私には許せないことだらけで、どうにもならない。
実は昨日別件で、開示しないとは思うけれど、ある情報の開示は避けて欲しいと情報の大元から依頼があって、それのお願いの連絡をその子にした。
その時のやり取りを経て、私には最後の通告がやって来た。
「伝わらない」ということがわかった。
伝わらないというのは、何も情報の内容ではなく、そこに含まれてる意図が全くわかっていないことがものすごくハッキリした。
今回ばかりは明言に近い補足も書いた。
それでも的外れな返事で、私は相手が洗脳でも受けてるのかと本気で思ったほどだった。
実は別の子にもその情報を伝えていた関係で、そちらにも開示不可のお願いの連絡をした。
こちらはそういう職業に就いていないという意味では素人。
(実際はすごい感性が高い)
その子からの返事は、全く違うタイプの返事だった。
基本をきちんと抑えてくれてるだけじゃなく、細かいところにまで目を配っていて感動さえ覚えた。
同じ情報が渡ったことでより一層はっきりとした。
私はその返事で元気をもらえた。
ちなみに私の開示不可のお願いの中にはそれだけじゃなくある種の希望も含まれてる内容だった。
全く同じ情報を流したから、それはどちらにも渡ってる。
だけど、最初の子にはそこが全く伝わっておらず、2番目の子にはそこがしっかりと伝わっていた。
何の差かは私にはすぐにわかった。
明らかに私が大事にしなきゃいけない流れは2番目の子が見せてくれたもので、最初の子の方は今後断っていかないといけない。
その辺りが明確になったと思ったら、咳も酷さを増してきた。
だから咳はこちらなのかな…と思っていたら、「とげのある言葉」というヒントが今日の夕方本からやって来た。
とげのある言葉は、私の方が持っている。
自然なフェイドアウトを狙える相手ではないが故に、私はいつかの近い未来に説明をしないといけないと思う。
ただその説明は、現時点では私の怒りともくっ付いているから、だから表現が「とげのある言葉」になり得るのは安易に想像ができる。
記憶にある限り、私は誰かに心を扱う分野のことで個人的な注意なんかしたことがない。
そもそも自分がそんな立場の人間ではないし、「この人ヤバイ」と思ったら即刻逃げてたから、そういう機会に一度も当たらずに済んでた。
しかも多少の「うん?」という疑問が湧いたことも過去にはもちろんあったけれど、とりあえず看過できるぐらいの範疇で、差し支えたことはなかった。
こういう時の逃げ方は私は上手で、私も相手も不快にならないようそぉーっと逃げ出す。
とりあえず面倒だから余計なことは言わないし、言ったところでもっと面倒くさいのが想像できるから上手く避けてた。
ところが今回は、本気でガチで説明しなきゃいけないところにまで来ていて、逃げれそうにもない。
自分の言葉を考えるだけで辛辣すぎて、できるなら言いたくない。
だけど言わなきゃいけないような内容だから、それはそれは心の中で葛藤を生む。
私が今回ここまでブチ切れて言わなきゃダメだと思った理由は、単にその人自身のことではないから。
その先の被害に遭わなくてもいい人たちまで巻き込む可能性のあることに本人が全く気付いてないから、だから私は言わなきゃいけないと思ってる。
その子だけのことであれば本人が取り組めばいいし、取り組まなくても何ら関係ない。
私の知ったこっちゃない。
だけど今回過去の数々のやり取りに最後のトドメがきて、私はもう黙り通すことは止めようと思った。
これまでも私は、ずれてる基本に対して、都度都度自分が習ってきたことをそのまま伝えてきた。
私が習ったのは複数の全く違う個人や団体で、それでもみんな同じ基礎基本の原理を伝えてくるから、こういう心を扱う業界では鉄板の話だと思う。
今回ホロスコープの講座でさえも言われたことで、だから本気でその業界では超当たり前のことなんだと思って私は毎回聞いてる。
ちなみにそれは福祉の勉強の時も10数人の先生に同じことを言われてきたから間違いない。
そしてそこを守ってる限りは、その面でのクレームは受けたことがない。
職業倫理に近いものだと思う。
私が今回本気で怒り狂ったのは、その部分を何回説明してもはぐらかされたり「知ってる」と言って適当に流したり(知ってるのと実践するのとにこんなに乖離してる人も見たことがない)、とにかくあり得ないことだらけでそれで怒り爆発となっている。
私はその子との関係云々より、まずは自分の心の健康を最大限守りたいと思った。
あまりにも負の方へのエネルギーロスが酷すぎて、これまでも薄々気付いてたくせして楽しい瞬間ももちろんたくさんあったから適当に流してきたけれど、もう流せないところにまで来てしまった。
これは自分が蒔いた種だから仕方ない。
だけど、事はより一層おかしな方へと傾きだしてるだなんて、そんなの聞いてないよーと言いたい。
しかも超絶厄介なのが、そちらには私から見たら完全に何かを間違えてる師匠がいて、その人の口車に乗せられていること。
自分の儲けのために第三者を使う根性丸出しな発言をしてる風にしか私には映らない、そんなことを平気で言う人のようだ。
安易なことを伝授して、肝心な部分が全く伝えられてないようで、その部分が毎回おかしなことになっている。
軽視されてるか無視の大体どちらか。
絶対的におかしいからあれこれ指摘してみたけれど、暖簾に腕押し状態だった。
人の人生だから私が口出しをすることでは絶対にない。
だけど、目の前で他の人たちが巻き添え食らって余計な傷や負の体験をするだろうことがありありとわかっていて、それを知ってるくせして黙ってるのは気持ち悪い。
スピリチュアルな世界で言われてる三大大罪がある。
・殺人
・自殺
・人の人生を狂わすこと
最初の2つはさておいて、最後の1つはスピリチュアルな世界では常に表裏一体のことだと思う。
人の人生におかしな風に関わってるのは、その子の口から何人か語られたから(本人は気付いていない)、都度都度ありったけの情報は伝えてみた。
何だったら、その三大大罪についても、特に3番目なんかはその子の実症例に合わせて具体例を出して伝えてたけれど、まぁ見事に私の独り言だったんだと思う。
これまではそこまでじゃなかったし、もう少し本人の判断力も見えてたからそのうち良くなるのかと勝手に予想してた。
しかもそんなの私が言う立場にないのはわかってたから、それを言うのもどうかと思ってた。
それがここに来て、技術をアップさせたことで、そのおかしかった部分にますます拍車がかかった。
そして実際にそれヤバイんじゃないかな…というところが見え隠れしてる。
アメフトと違って、倫理委員会みたいなのが存在しないのがこの世界。
人の人生を狂わせようとしてるものを持ってる人に、そのまま黙って無視するのは、私もその大罪に加担してるのと同じだと思う。
伝えて伝わらないなら、もうそこから先はどうすることもできない。
だけど今ギリギリのラインで警告は渡せる。
今度の警告は、間違いなく相手の生き様を真っ向から否定する発言も含まれるわけで、私は正直したくない。
もちろん私は生き様を否定するのではない。
あくまでもやり方がとてつもなくヤバイから、その指摘をするに過ぎない。
だけど、本人にしたら、そう捉えかねない話だと思う。
自分が学んだ(と言うか学んでない)ことが間違ってると指摘されるのは、私だったら嫌だと思う。
だけど、本気で間違えてたら逆に伝えてくれてありがとうとも思う。
だって火事だからと言って、油に水を注いだらもっと危険なことになる。
そういうものをその子は疑わずにやろうとしてる。
当たり前だけど、危険が他者に及ぶ。
火事の話にしたらわかった。
危険が見えてて、だから違う方法もあるんだよということを伝える。
それだ。
2018/06/01 18時過ぎ
上に書いたことは読み返さずにアップ。
今絶賛毒出し中。
さっき決められたこと。
私は自分の体を最優先するためには、自分が不具合を起こすとわかる原因からは離れること。
そしてそれをどう伝えるかの言葉もさっき出てきた。
(今すぐじゃなくて、今後連絡がきた場合)
・私はどうしてもその師匠の人のやり方や在り方が受け付けられないこと
・これまでは他人の教えを、ましてや自分の仲の良い人が良いと思ってる教えを否定するようなことはしてはいけないと思っていたこと
・他人の人生を否定するようなことはしてはいけないと思っていたこと
・ただ、今回そんなことをしたらとうとう自分の具合がものすごく悪くなったこと(数年ぶりの大型体調不良が発生)
・自分の気持ちを封じ込めてまで相手を優先させようとしたら、とてつもなく具合が悪くなるとわかったから、このやり方を私は自分のために変更する必要が出てきたこと
・新しいやり方は自分最優先型
・原因がはっきりした以上、私には二択に1つ。
1.具合悪くなるのを覚悟で友達に会う。但し、その後1週間ぐらい具合がものすごく悪くなる可能性あり。
2.友達と会えばその話題は避けられない2人の共通の趣味や嗜好ゆえ、体調不良回避のためにもう会わない。
→私は今回の体調不良で本気で懲りたから、今後は会わない。
・友達が信じてるものはそのままで良くて、でもそれは私にとってものすごい有害な考え方や在り方だから、それを否定するようなことは基本的にしたくないから会わないということ
・合わない部分をこれまでも説明したけれど平行線で、説明すればするほど疲れてたから、そもそもが間違えていたこと
・それは友達が嫌いになったとかではないこと。友達の良いところもたくさん知っているし、色々楽しかったことは今も変わらない。
・今後癒しの方向にシフトしていくにあたり、自分の体調管理は必須で、今回のようなことは絶対に自分のために避けたいこと
・これは相手ではなく私側の事情で、でも私も自分の体を壊してまで無理をするのはできないから、自分最優先でいくための今回の決断であること
具合が悪くなる前に、アメリカで著名人なんかも相手にヒーリングをする人の動画を見た。
それを見て、はっきりと心が決まった。
実は同じ1つの体で、今日は1日体調不良の経験と、ある人専用の心の癒しの具体的なメッセージ&方法を作成する経験をした。
作成の方は、相手に差し迫ったものがあったから、私が具合が良くなってから返事ではまずいと思って、それですぐに思いついたまま出てきたことを書いてメールした。
具合が悪いくせして、それは義務感でも正義感でもなく、単に思いついたから書いて出して(じゃないとすぐに忘れるから)、そしてやっていて具合の悪さは完全に忘れた。
何だろうこれ?と思っていたら、動画の中でまさに知りたいことが説明されてた。
私の場合、こういうことを意識して始めたのはここ1年ぐらいだけど、それまでも実は普通にやってて、でもそれが何かなんて考えたこともなかったから本当にやり出したのがいつかはわからない。
そして自分でも知ってるけれど、私はそれをする時全く疲れない。
32歳ぐらいの時、コーチングの練習も兼ねて色んな人の話を聞かせてもらってた時期があった。
仕事をしてたから、どうしても週末にまとめてみたいな感じで、1日12時間以上ひたすら人の話を聞くこと×(かける)の4人という時があって、みんなに「疲れないの?」と聞かれたけれど全くだった。
何なら4人目の時が一番元気だった。
私は自分が鈍感なのか何かネジが狂ってるのかと思ったけれど、今日の動画を見てわかった。
たしかに私が話を聞いたりその人専用のメッセージを作成したりするんだけど、私自身の活力や体力を使ってるのとはちょっと違ってた。
だから疲れない。
むしろ相手も良くなるから、私もそこからまた元気をもらえる。
だからうまいことエネルギーが循環してた。
力も要らないし、とにかく任せておけばいい。
本当に話を聞いておけばいい。
私の特技の1つ、どんな話を聞いても基本平気だから、悲惨なことや超ダークな話も私は普通にいける。
本人話してる前で普通に飲み物飲むぐらいの余裕がある。
だから、自然の流れに任せてやっていて、こういう言い方は極力避けたいけれど、他にどう表現していいかわからないから言うと、3次元ではない高次元のところの感覚に合わせて話を聞いたり何か相手に向けてのメッセージを作ったりしてるんじゃないかと思う(今日の動画の説明を聞いてて一番しっくり来た)。
これまでそれがよくわからなかった理由もはっきりとわかった。
私の場合、話を聞くことに関しては、あまりにも数を多くこなし過ぎてて、だから体が慣れてるとばかり思ってた(もちろんこれも一理ある)。
メッセージについては、思い浮かぶことが超現実的だったから、まさかそれが自分の通常の意識から来ていないとは思ってもみなかった。
変性意識にもならなければ、私が口にすることや書くことは、基本的にこのブログで使う言葉と変わらない。
「天使が」とか「神が」などとは言わない。
あくまでも目の前の人の話を聞いて思いついたことを伝えるだけ。
そう言えば時々「それどうやって考えてるの?」と聞かれたことがある。
私は考えてるのかもしれないけれど、私がキャッチする時にはもう言葉として頭に浮かんでいるから、思いついたまま言ってるだけ。
だから考えてる感覚がない。
「思いついた」としか言いようがない。
それがずっとずっとそうだったから、まさかそれが基本的なヒーリングの流れのようにやってたなんて今日の今日まで知らなかった。
私は見えるわけでも何かを察知するわけでも聞こえるわけでもないから、本当に何1つ状態が変わらなくて余計とわからなかった。
でも今回1つの体で2つの状態を交互に体験したからわかった。
体調不良の原因となったと思しき最初のことは、めちゃくちゃエネルギーを使ってた。
私は実は少し前から「エネルギーが吸われてる気がする」と思ったりしてた。
とにかく疲れる。
何に疲れてるのか知らないけれど、会って元気にならずしばらく数日は悶々とすることが続いてた。
楽しかったりもしたから余計とボヤけてた。
だから自分の思考や感覚の問題として深くは見ず、そのまま放置した。
今回そのツケがやって来て、具合まで悪くなってようやく気付いた。
病は気からって本当にこのことだと思った。
自分の抑圧してたところが限界を達して、だから「あなた自身が変わりなさい」と言わんばかりに体が悲鳴を上げた。
また3日ぶりに発熱。
咳もひどく、でも痰がようやく絡むようになった。
咳のし過ぎで横隔膜や肋骨、頭蓋骨が痛い。
鼻水は止まらない。
今日1日でティッシュ半箱使った。
でもあと少しだと思う。
やっと自分の中の悪しきパターンがわかったのと、何を優先しなきゃいけないのか明確になったから、あとはひたすら解毒するしかない。
これ変な文章のような気がするけれど、このままアップしよう。
最後までお付き合いいただきありがとうございました(^^)
今回は2日に分けて書いてます。
31日の時は相当怒り狂ってたので、自分が書いたこと読み返してません。
今日1日の分は、気持ちは落ち着いたけれど今度はまた熱が出たから、頭が若干緩んだ感じで書いてます。
変なことは書いてないと思いますが、読んでて不快になられたら申し訳ないので先に謝っておきます。
ごめんなさい。
良かったら読んでください。
私はこれを自分の備忘録として書いてます。
多分誤字脱字もあるかと…。
2018年5月31日 23時過ぎ
火曜日の朝の喉の痛みは、その後発熱と咳に変わった。
新パターンで、自分でも驚いている。
私は基本的に発熱すれば他の症状はほぼ出ないまま回復する。
だけど今回は熱が先にきて、その後咳が日に日に悪化するという、若干タチが悪い風邪になっている。
自分なりに仮説を立ててみた。
「風邪」と一括りにすると、熱も咳も同じ位置にあるけれど、何となく今回は熱と咳はそれぞれ別の原因から来ているような気がする。
熱の理由は不調に関係していると言うよりも、意識をクリアにするために起きたことだと予測している(これはまだ見守り中)。
一方の咳は、それとは関係ないところで起きていると思った。
私の勝手な予想だけど、数年ぶりに出た熱は、実はその直前にひらめいたことがあって、それに合わせて起きたような気がした。
だから長引きもせず翌日には快方に向かうという素晴らしい回復力を見せている。
一方の咳は、日に日に酷さが増して、一体どこからもらった咳なのかさえもわからず、昨日今日と何が原因だろうと思ってた。
こういう時ペンジュラムに聞いたりもするけれど、自分のことだから若干ブレが出る。
特定が難しいから、質問は伏せたまま、ペンジュラムを持ってる友達にYESNOを調べて欲しいとお願いして返事待ちをしている。
目に見えるほどの不調はあまりならないから、ここぞとばかりに自分の体調と心の中の観察にいそしんでる(←私にとっては趣味の領域)。
で、色々考えてたことと、咳とを合わせて、今日本屋でひらいた本にヒントがあった。
「とげのある言葉」
このヒントを見てすぐにわかった。
私は自分の備忘録としてこの先は綴る。
第三者に話すつもりで書く方が若干主観から外れてくれるかなという期待も込めて。
さっき数えたらすでに今日で6日目になってた。
怒りが爆発したのが土曜日、そして今もまだくすぶっていてそれでトータル6日。
別に毎瞬毎瞬考えてるわけじゃない。
だけど、日曜日は友達と会ってて気が紛れてたものの、また月曜以降ぶり返し。
火曜から水曜にかけては発熱で弱ってたにしても、今日はすでに木曜日。
そして今日木曜日にたどり着いて、1つ自分の中で決めたことがあった。
説明の仕方は考えるけれど、怒りのスイッチとなった相手とは関係を断とうと思ってる。
ここまで感情が収まらないほどの負の方へのエネルギーが半端ないのは、私の生活に支障をきたす。
今はいいけれど、これが自分の今後やろうとしてることを考えると、エネルギーロスが半端ないし、そこまでして付き合うメリットがゼロだから、もうここは心を鬼にして断ち切ろうと。
相手が嫌いになったわけじゃない。
人としては好きな人。
だけど、これが人の心やエネルギーに関わる分野になると、私には許せないことだらけで、どうにもならない。
実は昨日別件で、開示しないとは思うけれど、ある情報の開示は避けて欲しいと情報の大元から依頼があって、それのお願いの連絡をその子にした。
その時のやり取りを経て、私には最後の通告がやって来た。
「伝わらない」ということがわかった。
伝わらないというのは、何も情報の内容ではなく、そこに含まれてる意図が全くわかっていないことがものすごくハッキリした。
今回ばかりは明言に近い補足も書いた。
それでも的外れな返事で、私は相手が洗脳でも受けてるのかと本気で思ったほどだった。
実は別の子にもその情報を伝えていた関係で、そちらにも開示不可のお願いの連絡をした。
こちらはそういう職業に就いていないという意味では素人。
(実際はすごい感性が高い)
その子からの返事は、全く違うタイプの返事だった。
基本をきちんと抑えてくれてるだけじゃなく、細かいところにまで目を配っていて感動さえ覚えた。
同じ情報が渡ったことでより一層はっきりとした。
私はその返事で元気をもらえた。
ちなみに私の開示不可のお願いの中にはそれだけじゃなくある種の希望も含まれてる内容だった。
全く同じ情報を流したから、それはどちらにも渡ってる。
だけど、最初の子にはそこが全く伝わっておらず、2番目の子にはそこがしっかりと伝わっていた。
何の差かは私にはすぐにわかった。
明らかに私が大事にしなきゃいけない流れは2番目の子が見せてくれたもので、最初の子の方は今後断っていかないといけない。
その辺りが明確になったと思ったら、咳も酷さを増してきた。
だから咳はこちらなのかな…と思っていたら、「とげのある言葉」というヒントが今日の夕方本からやって来た。
とげのある言葉は、私の方が持っている。
自然なフェイドアウトを狙える相手ではないが故に、私はいつかの近い未来に説明をしないといけないと思う。
ただその説明は、現時点では私の怒りともくっ付いているから、だから表現が「とげのある言葉」になり得るのは安易に想像ができる。
記憶にある限り、私は誰かに心を扱う分野のことで個人的な注意なんかしたことがない。
そもそも自分がそんな立場の人間ではないし、「この人ヤバイ」と思ったら即刻逃げてたから、そういう機会に一度も当たらずに済んでた。
しかも多少の「うん?」という疑問が湧いたことも過去にはもちろんあったけれど、とりあえず看過できるぐらいの範疇で、差し支えたことはなかった。
こういう時の逃げ方は私は上手で、私も相手も不快にならないようそぉーっと逃げ出す。
とりあえず面倒だから余計なことは言わないし、言ったところでもっと面倒くさいのが想像できるから上手く避けてた。
ところが今回は、本気でガチで説明しなきゃいけないところにまで来ていて、逃げれそうにもない。
自分の言葉を考えるだけで辛辣すぎて、できるなら言いたくない。
だけど言わなきゃいけないような内容だから、それはそれは心の中で葛藤を生む。
私が今回ここまでブチ切れて言わなきゃダメだと思った理由は、単にその人自身のことではないから。
その先の被害に遭わなくてもいい人たちまで巻き込む可能性のあることに本人が全く気付いてないから、だから私は言わなきゃいけないと思ってる。
その子だけのことであれば本人が取り組めばいいし、取り組まなくても何ら関係ない。
私の知ったこっちゃない。
だけど今回過去の数々のやり取りに最後のトドメがきて、私はもう黙り通すことは止めようと思った。
これまでも私は、ずれてる基本に対して、都度都度自分が習ってきたことをそのまま伝えてきた。
私が習ったのは複数の全く違う個人や団体で、それでもみんな同じ基礎基本の原理を伝えてくるから、こういう心を扱う業界では鉄板の話だと思う。
今回ホロスコープの講座でさえも言われたことで、だから本気でその業界では超当たり前のことなんだと思って私は毎回聞いてる。
ちなみにそれは福祉の勉強の時も10数人の先生に同じことを言われてきたから間違いない。
そしてそこを守ってる限りは、その面でのクレームは受けたことがない。
職業倫理に近いものだと思う。
私が今回本気で怒り狂ったのは、その部分を何回説明してもはぐらかされたり「知ってる」と言って適当に流したり(知ってるのと実践するのとにこんなに乖離してる人も見たことがない)、とにかくあり得ないことだらけでそれで怒り爆発となっている。
私はその子との関係云々より、まずは自分の心の健康を最大限守りたいと思った。
あまりにも負の方へのエネルギーロスが酷すぎて、これまでも薄々気付いてたくせして楽しい瞬間ももちろんたくさんあったから適当に流してきたけれど、もう流せないところにまで来てしまった。
これは自分が蒔いた種だから仕方ない。
だけど、事はより一層おかしな方へと傾きだしてるだなんて、そんなの聞いてないよーと言いたい。
しかも超絶厄介なのが、そちらには私から見たら完全に何かを間違えてる師匠がいて、その人の口車に乗せられていること。
自分の儲けのために第三者を使う根性丸出しな発言をしてる風にしか私には映らない、そんなことを平気で言う人のようだ。
安易なことを伝授して、肝心な部分が全く伝えられてないようで、その部分が毎回おかしなことになっている。
軽視されてるか無視の大体どちらか。
絶対的におかしいからあれこれ指摘してみたけれど、暖簾に腕押し状態だった。
人の人生だから私が口出しをすることでは絶対にない。
だけど、目の前で他の人たちが巻き添え食らって余計な傷や負の体験をするだろうことがありありとわかっていて、それを知ってるくせして黙ってるのは気持ち悪い。
スピリチュアルな世界で言われてる三大大罪がある。
・殺人
・自殺
・人の人生を狂わすこと
最初の2つはさておいて、最後の1つはスピリチュアルな世界では常に表裏一体のことだと思う。
人の人生におかしな風に関わってるのは、その子の口から何人か語られたから(本人は気付いていない)、都度都度ありったけの情報は伝えてみた。
何だったら、その三大大罪についても、特に3番目なんかはその子の実症例に合わせて具体例を出して伝えてたけれど、まぁ見事に私の独り言だったんだと思う。
これまではそこまでじゃなかったし、もう少し本人の判断力も見えてたからそのうち良くなるのかと勝手に予想してた。
しかもそんなの私が言う立場にないのはわかってたから、それを言うのもどうかと思ってた。
それがここに来て、技術をアップさせたことで、そのおかしかった部分にますます拍車がかかった。
そして実際にそれヤバイんじゃないかな…というところが見え隠れしてる。
アメフトと違って、倫理委員会みたいなのが存在しないのがこの世界。
人の人生を狂わせようとしてるものを持ってる人に、そのまま黙って無視するのは、私もその大罪に加担してるのと同じだと思う。
伝えて伝わらないなら、もうそこから先はどうすることもできない。
だけど今ギリギリのラインで警告は渡せる。
今度の警告は、間違いなく相手の生き様を真っ向から否定する発言も含まれるわけで、私は正直したくない。
もちろん私は生き様を否定するのではない。
あくまでもやり方がとてつもなくヤバイから、その指摘をするに過ぎない。
だけど、本人にしたら、そう捉えかねない話だと思う。
自分が学んだ(と言うか学んでない)ことが間違ってると指摘されるのは、私だったら嫌だと思う。
だけど、本気で間違えてたら逆に伝えてくれてありがとうとも思う。
だって火事だからと言って、油に水を注いだらもっと危険なことになる。
そういうものをその子は疑わずにやろうとしてる。
当たり前だけど、危険が他者に及ぶ。
火事の話にしたらわかった。
危険が見えてて、だから違う方法もあるんだよということを伝える。
それだ。
2018/06/01 18時過ぎ
上に書いたことは読み返さずにアップ。
今絶賛毒出し中。
さっき決められたこと。
私は自分の体を最優先するためには、自分が不具合を起こすとわかる原因からは離れること。
そしてそれをどう伝えるかの言葉もさっき出てきた。
(今すぐじゃなくて、今後連絡がきた場合)
・私はどうしてもその師匠の人のやり方や在り方が受け付けられないこと
・これまでは他人の教えを、ましてや自分の仲の良い人が良いと思ってる教えを否定するようなことはしてはいけないと思っていたこと
・他人の人生を否定するようなことはしてはいけないと思っていたこと
・ただ、今回そんなことをしたらとうとう自分の具合がものすごく悪くなったこと(数年ぶりの大型体調不良が発生)
・自分の気持ちを封じ込めてまで相手を優先させようとしたら、とてつもなく具合が悪くなるとわかったから、このやり方を私は自分のために変更する必要が出てきたこと
・新しいやり方は自分最優先型
・原因がはっきりした以上、私には二択に1つ。
1.具合悪くなるのを覚悟で友達に会う。但し、その後1週間ぐらい具合がものすごく悪くなる可能性あり。
2.友達と会えばその話題は避けられない2人の共通の趣味や嗜好ゆえ、体調不良回避のためにもう会わない。
→私は今回の体調不良で本気で懲りたから、今後は会わない。
・友達が信じてるものはそのままで良くて、でもそれは私にとってものすごい有害な考え方や在り方だから、それを否定するようなことは基本的にしたくないから会わないということ
・合わない部分をこれまでも説明したけれど平行線で、説明すればするほど疲れてたから、そもそもが間違えていたこと
・それは友達が嫌いになったとかではないこと。友達の良いところもたくさん知っているし、色々楽しかったことは今も変わらない。
・今後癒しの方向にシフトしていくにあたり、自分の体調管理は必須で、今回のようなことは絶対に自分のために避けたいこと
・これは相手ではなく私側の事情で、でも私も自分の体を壊してまで無理をするのはできないから、自分最優先でいくための今回の決断であること
具合が悪くなる前に、アメリカで著名人なんかも相手にヒーリングをする人の動画を見た。
それを見て、はっきりと心が決まった。
実は同じ1つの体で、今日は1日体調不良の経験と、ある人専用の心の癒しの具体的なメッセージ&方法を作成する経験をした。
作成の方は、相手に差し迫ったものがあったから、私が具合が良くなってから返事ではまずいと思って、それですぐに思いついたまま出てきたことを書いてメールした。
具合が悪いくせして、それは義務感でも正義感でもなく、単に思いついたから書いて出して(じゃないとすぐに忘れるから)、そしてやっていて具合の悪さは完全に忘れた。
何だろうこれ?と思っていたら、動画の中でまさに知りたいことが説明されてた。
私の場合、こういうことを意識して始めたのはここ1年ぐらいだけど、それまでも実は普通にやってて、でもそれが何かなんて考えたこともなかったから本当にやり出したのがいつかはわからない。
そして自分でも知ってるけれど、私はそれをする時全く疲れない。
32歳ぐらいの時、コーチングの練習も兼ねて色んな人の話を聞かせてもらってた時期があった。
仕事をしてたから、どうしても週末にまとめてみたいな感じで、1日12時間以上ひたすら人の話を聞くこと×(かける)の4人という時があって、みんなに「疲れないの?」と聞かれたけれど全くだった。
何なら4人目の時が一番元気だった。
私は自分が鈍感なのか何かネジが狂ってるのかと思ったけれど、今日の動画を見てわかった。
たしかに私が話を聞いたりその人専用のメッセージを作成したりするんだけど、私自身の活力や体力を使ってるのとはちょっと違ってた。
だから疲れない。
むしろ相手も良くなるから、私もそこからまた元気をもらえる。
だからうまいことエネルギーが循環してた。
力も要らないし、とにかく任せておけばいい。
本当に話を聞いておけばいい。
私の特技の1つ、どんな話を聞いても基本平気だから、悲惨なことや超ダークな話も私は普通にいける。
本人話してる前で普通に飲み物飲むぐらいの余裕がある。
だから、自然の流れに任せてやっていて、こういう言い方は極力避けたいけれど、他にどう表現していいかわからないから言うと、3次元ではない高次元のところの感覚に合わせて話を聞いたり何か相手に向けてのメッセージを作ったりしてるんじゃないかと思う(今日の動画の説明を聞いてて一番しっくり来た)。
これまでそれがよくわからなかった理由もはっきりとわかった。
私の場合、話を聞くことに関しては、あまりにも数を多くこなし過ぎてて、だから体が慣れてるとばかり思ってた(もちろんこれも一理ある)。
メッセージについては、思い浮かぶことが超現実的だったから、まさかそれが自分の通常の意識から来ていないとは思ってもみなかった。
変性意識にもならなければ、私が口にすることや書くことは、基本的にこのブログで使う言葉と変わらない。
「天使が」とか「神が」などとは言わない。
あくまでも目の前の人の話を聞いて思いついたことを伝えるだけ。
そう言えば時々「それどうやって考えてるの?」と聞かれたことがある。
私は考えてるのかもしれないけれど、私がキャッチする時にはもう言葉として頭に浮かんでいるから、思いついたまま言ってるだけ。
だから考えてる感覚がない。
「思いついた」としか言いようがない。
それがずっとずっとそうだったから、まさかそれが基本的なヒーリングの流れのようにやってたなんて今日の今日まで知らなかった。
私は見えるわけでも何かを察知するわけでも聞こえるわけでもないから、本当に何1つ状態が変わらなくて余計とわからなかった。
でも今回1つの体で2つの状態を交互に体験したからわかった。
体調不良の原因となったと思しき最初のことは、めちゃくちゃエネルギーを使ってた。
私は実は少し前から「エネルギーが吸われてる気がする」と思ったりしてた。
とにかく疲れる。
何に疲れてるのか知らないけれど、会って元気にならずしばらく数日は悶々とすることが続いてた。
楽しかったりもしたから余計とボヤけてた。
だから自分の思考や感覚の問題として深くは見ず、そのまま放置した。
今回そのツケがやって来て、具合まで悪くなってようやく気付いた。
病は気からって本当にこのことだと思った。
自分の抑圧してたところが限界を達して、だから「あなた自身が変わりなさい」と言わんばかりに体が悲鳴を上げた。
また3日ぶりに発熱。
咳もひどく、でも痰がようやく絡むようになった。
咳のし過ぎで横隔膜や肋骨、頭蓋骨が痛い。
鼻水は止まらない。
今日1日でティッシュ半箱使った。
でもあと少しだと思う。
やっと自分の中の悪しきパターンがわかったのと、何を優先しなきゃいけないのか明確になったから、あとはひたすら解毒するしかない。
これ変な文章のような気がするけれど、このままアップしよう。
最後までお付き合いいただきありがとうございました(^^)
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