目覚めたら3時半前でネットサーフィンなんかしなくていいのに少ししたら目が覚めてしまって、直近でアクセスのあった自分のブログを開いて読んでみたら色々思い出して、その思い出したことをサクサクっと書きたいと思う。
引き算したら7年前。
7年前の夏の暑い日のとある場面を鮮明に思い出した。
ブログにもしかしたら書いたかもだし書いた気でいて書いてないかもだしその辺は全くもって記憶がないけれど、あの時の自分の中の猛烈な葛藤を瞬時にそして鮮明に思い出した。
イケメン上司から手渡されたものは私側の作業終了と同時に不要になった。
不要になったし汚れまくったし基本的に使い捨てていいものだったから、普通に考えたら捨てる一択しかない。
普段の私なら何も考えずに速攻で捨てる。
でもあの時の私は、持ち帰ろうかと本気で考えた。
気持ちとしては、言葉にすると「持ち帰りたい」だった。
色々動揺しすぎていたし、頭の中はテンパりまくりで気持ちの動きに対して思考はついていかないし、自分の思っていることを自分の中で言語化するような余裕もなくて、だから今あの時の感覚に言葉を付けるとするなら「持ち帰りたい」に尽きる。
とっさに思いついたこととして、これが他の事務さんに見られたら「あ、それ捨てていいよ」と間違いなく言われるだろうこと、「持って帰って再利用します」なんて言ったらどう考えても変な人でしかないだろうこと、いやいやまだまだしばらく勤める場所ならそんな風に思われたら大変だからそれは避けたいこと、でもでも本当はすっごく持ち帰りたいこと、いつかはどうでもよくなって捨てるにしても今はとにかく持っておきたいこと、たかが1分くらいの中でものすごい葛藤と自問自答というか自分へのツッコミをしまくった。
最終的に後ろ髪引かれる思いで手渡された用済みのものを、その時臨時で置かれた大きなゴミ袋の中に入れた。
持ち帰りたい、持ち帰りたい、持ち帰りたい…と呪文のように心の中でぶつぶつと唱えながら、今ならまだ持ち帰れるよという囁きも自分の中で行き来しながら、でも聞かれたりつっこまれたりしたら説明に困るからという頭で理性で考えたことを優先させて最後はゴミ袋に入れたこと、なんなら丸めてというか普段家で保管する時みたいに丸めてゴミ袋に投げると言うよりもそっと入れる、スローモーションみたいにその瞬間を迎えたその感じや光景が今でもはっきりと覚えている。
2024年の今日は11月27日だと思うけれど、外は雨が降っていて毛布と羽毛布団をかけるくらいに冷んやりとしていて、もう7年以上経過したし季節も全く違うしその7年の中で色んなことがあってもそのほとんどは忘却の彼方なのに、その夏の暑い日に自分の手元にやってきてくれた奇跡の瞬間を表すものを捨てる捨てないで迷いまくって、いや捨てる捨てないじゃなくて持ち帰ることにしたいのにどうしようの迷いの方が言葉としてより当時の状態に近い、そんなことを迷ってでも最終的にゴミ袋に入れたあの瞬間までものすごく鮮明に記憶に残っている。
時間が経てば経つほどによくわかる。
普通に考えて、山で行方不明になったおじいちゃんをペンジュラムで探して欲しいなどということの一連の流れの方がよほどインパクトがありそうなものの、もちろんそちらも部分部分は覚えているけれども、そのことよりも私の中では断然にそして圧倒的にイケメン上司がいた全ての瞬間や特段インパクトのある瞬間の方が圧倒的な強さと濃さで記憶に残っている。
ゴミ袋に向かうまでの1分くらいがこんな風に記憶から呼び覚まされてこれだけの分量で文章に書き起こせてしまうくらいに今でもずっとずっと自分の中に残っている。
山形のひとり旅や最近タロットとかカードをいくつか買ってちょっとオカルトモード復活みたいなことやその他にも日常の色んなことをあれこれ書きたいけれども、気付いたら真夜中に目が覚めて思い出して書いたことはこんな風にイケメン上司にまつわる小さな些末なことで、しかも本人はもはやそこにいないのにイケメン上司にまつわるものがとてつもなく存在感を増してずっと自分の中に残るという、いつも以上にエピソードのキャラ濃いめになっている。
すごいなと思う。
記憶は多少薄れてもその時その時にあったことや自分の感覚はずっと残る。
別に記憶しようと意図的に頑張って覚えているとかじゃない。
色んなこと、それこそ7年分の色んなことが積み重なっても色濃く残るのはそういうイケメン上司にまつわる何かなんだと改めて再確認するような記憶のフラッシュバックだった。
*
ブログの中にはもう1つ、当時の上司に会いに行った話が書いてあった。
そこでもう一度頭の中で整理した。
もしあの時、当時の上司が「ぶっしーを残したい。ぶっしーに終わるまでやり続けて欲しい」というものを最優先して私が仮に残ることになったとするなら、次の契約は基本3ヶ月だから6・7・8月の3ヶ月になる。
ちなみに当時の上司は私のことを普通に仕事中もぶっしーと呼んでいた。
仮に8月まで前の仕事をしたとするなら、現実の時間と擦り合わせると、私の入ったポジションは他の人が勤めることになっただろうし、仮に誰も見つからなくてずっと空いたままで私が9月から行きますとなってももうその頃にはイケメン上司の転勤が確定していて2週間ちょっとしか重なる時がなくて互いに存在などほとんど気付かずに終わっただろうことが容易に想像できた。
そして今だから冷静に見れるようになって予想できたのは、多分私が行った時からもうイケメン上司の転勤は確定していたんだろうなと思う。
後輩くんが配属されたということは、それはもう引き継ぎのために配属されたわけで、いつ転勤が確定したのかはわからないけれど、少なくとも私があの職場に足を踏み入れた最初の頃から遅かれ早かれ異動するのは確定したことだったんだろうなと思う。
知らないって本当に最強で、もし最初の頃に事務さんから「◯◯長(=イケメン上司)はもうすぐ異動になると思うので」的な説明があったとするなら、何一つ起こらなかっただろうなと思う。
事務さんは私にイケメン上司も後輩くんも転勤する人たちだというのは説明してくれたけれど(今となればその説明はなぜかイケメン上司と後輩くんだけで、こちらは全く仕事に絡まないのに、反対に仕事に絡みまくりな人たちも転勤族なのにその説明は1つもなかったことに今さら気付いた)、近々転勤するようなことは1つとして説明がなくて、しかも社内の構成や人事異動なんか気にかけてる余裕もなければきちんとした説明もなかったから、私は何も考えずにイケメン上司は普通にこの後も数ヶ月どころか1年とかそれ以上いる人だと勝手に思い込んでいた。
知らぬが仏とは本当にその通りで、もし知らされていたり社内の組織図みたいなのを説明されてたり、そういう類いの情報が1つでもやってきていたのなら今は全く別の現実を生きただろうと断言できる。
知らないが故に感覚や気持ちだけで突き動かされるように動けていたんだろうなと今になって思う。
*
2024/11/28
ゲイの友人ノムが新潟の佐渡に知人と行くというので、前泊して新潟に来てくれることになったのが9月の終わりだった。
ノムと相談して、ビジネスホテルお泊まり会を決行することになった。
朝の到着時間に合わせて長岡駅まで迎えに行って、その後小さな新潟観光をしながら最終目的地のホテル方面に向かった。
その時、ちょうどイケメン上司と一緒だった職場のすぐ近くを通ることになって、ノムにこのすぐ近くだったんだよなどと話したら、たしかノムからだったと思う、見に行きたいと言われたのは。
時間の縛りがあるわけじゃないから、当時と同じ通勤路を右手に曲がって小路と言うには大きいけれど普通にトラック2台がすれ違えるくらいの道を入って当時の職場の前に着いた。
数ヶ月ぶりなのか1年以上ぶりなのか、いや思い出した、6月に今の車になる前となった後に記念にと思って行ったんだった、だから3ヶ月4ヶ月ぶりに行った。
なんとこのたかが数ヶ月の間に建物は様変わりしていた。
建物自体は何も変わってないけれど、別の会社がすでに入っていて、入口の壁には社名の入った看板が貼られてあったし、パッと見て入口はとても小綺麗になっていて花が飾ってあったと思う。
どんな荷物も受け取れるように入口には何も置かれていなかったあの殺風景な感じはなくなっていた。
どんな風に使っているのかわからなかったけれども、少なくとも他の会社がオフィスとして使っていたのは一目瞭然だった。
イケメン上司と私とが通っていたあの場所はもう幻の場所のように自分の記憶の中にしか存在しないんだなと思った。
ノムがいてくれたおかげで感傷に浸る暇もなく見るだけ見たら次の目的地へと向かったけれども、今思い返してもとても不思議な感覚だった。
言葉にできないというか。
もうイケメン上司と一緒に再訪して中に入るとか叶わないんだなと思ったし、時間が経ったなというのも思ったし、胸が痛むわけじゃないけれど確実に穴があいたみたいな感覚はあったし、もう二度と戻れない場所と時間だというのも思ったし、他にも色々思ったり感じたりしたけれど、とにかくそれらが渾然一体となって自分の中に広がった。
今こうして言葉に起こしてみても、こんな感覚に他の時にならないから上手く説明できない。
本当にそもそもの言葉を紡げないけれど、わかることはオフィスが消失してあの場所には新しい見知らぬ会社が入ってイケメン上司ももう当然いないし二度と新潟の土など踏むことはなくてもイコールもう二度と会えなくても、イケメン上司は当時と変わらずに私の中にいるんだなということ。
最近もっぱら男性のタロットやルノルマンカードを使った占いをされる方のYouTubeを通勤や帰宅の時とかあと部屋の中で何か作業をしている時に聞いているけれど、その中で忘れるとかそういうレベルのものじゃなくてずっと在り続けるみたいな感覚の説明があったけれど、まさにそれだなと思う。
覚悟と言うような大袈裟なものじゃないけれど、もう死ぬまでイケメン上司のことを忘れることはないし、日々というよりも常にある感じはこの先もずっと続いてしまうだろうことはあきらめているというかまぁそれも仕方ないよねという感じになりつつある。
別に本人に迷惑かけるわけじゃないし私も困ってないし、むしろ掻き消す努力とかの方がしんどいからこのままでいいかなと謎の境地に到達しつつある。
だから物理的にオフィスが無くなったからと言って自分の中でも何か変化があるわけじゃなく、自分は自分のままだなと感じている。
生き方を間違えているわけじゃないなら今は今でこれでいいと思っている。
今書いたみたいな状態が常に心の中に広がっているから、時々自分がどこにいるのかわからなくなる。
仕事も行けば家事もするし、時々楽しいことしたり、1つ1つ今の日常を通過しているけれども、とにかく今私ってどこにいるんだろう?とこれはまどろんでいる時に限らず普通に日中活動している時でもその感覚に陥る。
時系列とかがわからなくなるし、例えば淡々と仕事をしていてもイケメン上司がふわりと出てくるのは日常茶飯事だし、それが私の日常だからそういうものなんだなと勝手に適応している。
オチがない話だしだから何だという話ではあるけれど、もう物理的なものは何も無くなったよの報告的な、えっ?
*
半分寝ぼけながら書いているから時々わかりにくい表現もあるけれど、書いたことに嘘偽りはない本当のことだからこのままにしようと思う。
今日の仕事中、いつものように集中力が切れてネットに上がってるニュースを適当に開いて読んだ時、この言葉いいなと思ってその場で携帯メモというかこのブログの下書きに入力して入れた。
【自分が否定されない優しい世界】
イケメン上司の存在を無意識でも意識してでも感じている私の中だけにある場所は、まさに自分が否定されない優しい世界なんだと思った。
言葉としてピッタリだなと思った。
私だけがアクセスできてそこは誰からももちろん私自身からも否定されない、そういう場所になっている。
頭の中がお花畑みたく第三者からは見えるかもわからないけれど、その世界はとてもやさしい空気をまとっている。
何がやさしいのか少しの間考えてみた。
生きる理由とかモチベーションの源とかそういうものを私はイケメン上司の存在そのものから得ていて、それは何がどうであろうと変わらずにずっとそうで、それらとやさしいを結びつけるのは少し難しいけれども、そうしたこともやさしさに繋がる何かだと思う。
これは考えて書いたこと。
合ってるは合ってる。
でももっと最初に出てきたのは、「やさしい世界」の私が感じるやさしさだった。
言葉で並べてどうだこうだと説明してもそんなの不可能に実は近くて、言葉からパッと受けた印象が私の中にあるイケメン上司が存在する世界観と重なる、そんな風だった。
だからこれこれこんなところがやさしいんです、みたいな説明はできなくて、イケメン上司がこの世に存在していること、その時空間に自分も生きていられたこと、そしてその時間を思い返す毎瞬、そういうものたちに名前を付けるとするなら「自分が否定されないやさしい世界」なんだと感じる。
目の前にイケメン上司はもういなくて私の記憶の中にしか存在しなくても、やっぱりそこはいつの時もやさしい。
だから、「自分が否定されないやさしい世界」という言葉を見た時に真っ先にイケメン上司のことやイケメン上司にまつわる色んなことが自分の中に駆け巡った。
*
読み返した時に思った。
もし1つでもボタンの掛け違い的にタイミングがズレたとするならこのブログは今のようにはなっていなかっただろうこと。
例えば私がイケメン上司がいる場所には行かず前の仕事を継続していたとするなら、ブログは絶対に書かなかった。
例えば仮にイケメン上司異動月に私も仕事を始めたとしても、もはや誰が誰さんなんてわからぬうちにイケメン上司がいなくなって、ただでさえ少ない実際の関わりよりも格段に少なく、イケメン上司向けにブログを発信することなんて絶対になかった。
例えば仕事始めの初期の段階で事務さんからイケメン上司は近々異動しますなどとアナウンスがあれば、「いなくなる人」だし「職場の人」だし「イケメン」だしで近付く理由など1つもなく、現実に私が動いたようには動くはずもなく、そうなるとブログも絶対に書かなかったことがわかる。
寸分の狂いもなくこれ以上ないタイミングで全てが起こっていて、イケメン上司との関係が発展しなかった現実はさておいて、私の人生に対する信頼度が爆上がりした。
物事はこれ以上ないベストなタイミングで全ては起こってくる、ということを私の人生の中でイケメン上司がいたあの夏の日々のおかげで本当の本当にそのことがわかった。
時には自分にとって苦しいものや辛いものもやってくる。
到底受け入れられない現実もある。
それでも生きている限り、「奇跡」と呼べる何かとっても特別なものはやってくると知れたし体験できたし、全ては報われなくても報われるものも必ずあると私は全身全霊で感じる機会に恵まれたから、だから人生は本当に必要な場所に必要な人に出会わせてくれるようになっているんだと私は大真面目に信じている。
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