2023年9月4日月曜日

9月のはじまり-2023

地元の花火
2023/08/27


夏最後の日の朝空
2023/08/31

夏最後の日の夕空
2023/08/31

秋最初の朝空
2023/09/01

上の写真と同じに見えるけれど、次の日の朝

2023/09/02

またその次の日の朝
同じ風景なのに毎日景色や色が変わる空たち
2023/09/03


2つ3つ下書き途中のものがあるけれど(アップするかどうかは疑わしい要は書き終えるのかどうかということ)、とりあえず9月になったから9月の話を。

9月の最初の日、ダルダルな中やる気ナッシングな仕事をしてるフリをしつつ(ネットニュースとかかなり読みまくってた記憶)、卓上カレンダーをめくって8月から9月にセットした。


ふと気付いて、もしかしてこの曜日並びは2017年と同じなんじゃ!?と思って、瞬足で「2017年 カレンダー」と検索に入れてEnterキーを押した。


後から気付いたけれど、6月にも同じことして曜日が一回りしたと確認したのに、なぜか頭の中でそれは6月だけと勘違いして9月も同じだという認識がなかった。


とにかく頭の中がとっ散らかったまま即画面が切り替わって、先頭の画像にちょうど2017年の9月のカレンダーが出てきた。


カレンダーを見た瞬間、私はこの日に何があって、そうそうこの週のこの曜日がこれこれこの日でみたいなことがインターネット検索して検索結果に切り替わるのと同じぐらいの速さで頭の中を駆け巡って、うって言葉に詰まった。


胸に迫るものがあって、これもしかしてと思って手前の机の引き出しを開けて手鏡を出した。


おしゃれ用に手鏡を随時保管してるのじゃなく、目にまつげやゴミが入ったりして痛い時、即確認できるようにするための手鏡。


やっぱり当たってた。


うってなって胸に迫る色んなものがあった時、時間にして1秒2秒だったと思う、鏡の中に映る私の目は赤くなっていた。


それも泣いたとわかるくらいの目の赤さだった。


一応仕事中だから、カレンダーは閉じて、目の前のやりたくない仕事に戻って気持ちもゆっくりとだけど切り替えて、そして残りの金曜日の午後をやり過ごした。


すごい記憶力だなぁと何度も感心しながらも、もう9月なんだなとそれは何度も思った。







カレンダーを見た時はこんな風だった。


真ん中の週のあたりの金曜日、それが何日なのかまでは見てないけれど、この日がたしかイケメン上司の送別会だったはず、というのが最初に思ったことだった。


最後の水曜日27日の位置を確認して、その2つ前の週末がこの金曜日だから飲み会はそこだったはずと、私は行かなかったから全く関係のない予定ではあったけれど、なぜかそれが先に頭の中に浮かんだ。


27日の水曜日を見て、2017年と今年2023年とが曜日丸かぶりとわかって、次に2週目の部分を見た。


水曜日が掃除の日で事務さんからお知らせされたのもその日。


次の日に話しかけて、さらに週末手紙を書いて、翌月曜日は手紙を渡したというか押し付けた日。


そこまで思い出してというのが1秒2秒くらいの話。


そしてうってなった感触と目の感触が「普通じゃない」と感じて手鏡を取ってそこで一旦はカレンダーを見るのをやめた。







当時の場面や風景が同時にパッと出てきた。


時間の長さからすると、これまでの人生全体の中で0.5%でしかない。(電卓叩いて計算した)


もっと長い時間を過ごした場所も人もあったのに、その0.5%でしかないその時間の風景が自分の中に色濃く残っている。


それもちょっとだけ残っているのじゃない。


とても強く、時には鮮明に、ずっとずっと残っている。


カレンダーを見た時の自分の感情や気持ちはもはや言葉にできない。


私は基本的に何でもかんでも言葉にしようとする癖があるけれど、あの感情や気持ちはこの世のどんな言葉を使っても表しきれない、そういうものにいつの時もなっている。


例えばわかりやすく、悲しいとか切ないとか懐かしいとか愛おしいとか、そういうものたちを100個並べてみてもどれも違う、少しずつその要素があっても全部じゃないし、他に類を見ない感情や気持ちだから言葉になんてできっこない。


今書きながら金曜日って何してたんだっけ?(2日前のこと)と思い返しても相当考えないと思い出せないけれど、あのカレンダーを見た時の感覚や脳裏に浮かんだ風景はすぐに思い出せる。


それも意図的にあの感覚に自分をさせることはできない。


自分でその感覚になりたいと思ってなれるものじゃない。


無為自然に沸き起こって、自分の内からすごく強いエネルギーが一瞬で放たれるのが自分でもわかる。


6年しても健在な感覚で、そして6年分熟成したかのように今回みたいな新しい感覚も生まれている。


本人の知らないところで私は今も影響受けまくりなんだとわかる。







家の2階に向かう階段を上っていた時、手紙を今の家で書かずに済んで良かったとそんなことを初めて思った。


ちょうど家を建て替えていて、イケメン上司がいた当時の全ての時間は一時的に借り上げていたアパートに住んでいた。


だから手紙は下書きも本番も両方外のチェーン店のカフェで書いた。


自分1人になれる部屋が当時はなくて、だからどうしても1人になりたかったらどこかに出かける他なかった。


今年14年目を迎えた木のテーブルも使わなかったというか使えなかった。


そのことが今となっては本当に良い選択だったと思う。


今の家の部屋で書いても良かったし木のテーブルで書いても良かった。


けれど、部屋やテーブルと手紙とが一体化していたのなら、私はこの6年の間に何回も苦しくなっただろうし、部屋の風景なんかは9月になると毎年もっと悲しい感じが漂ってやるせなさが今以上に募った気がする。


どちらのカフェも今も健在ではあるけれど、良かったことはどちらも頻繁に行く場所ではないのと、例えば桜が咲く花見の時期によく使ったり他の人と立ち寄ったり別の思い出もあるから若干薄ぼけてくれてる。


手紙以外の記憶もあるからそれに救われている。


もちろん家で書いたとするならそれはそれで別の思い出が積み重なったとは思うけれど、もしこの先ずっとこの地で生きていくことになるとするなら、手紙の送り相手はいないまま常に自分と机だけとが取り残されている、そんな状況にならなくて良かったなと思う。


そうじゃなくてもすごい色の濃さを残した時間だったから、それだけあれば十分と思えるくらいの濃さで、そして毎日目にする木のテーブルがその悲しさを象徴するものにならなくて良かった、と変な感想だけれどそんなことを真夏日のような秋の初めての週末に家の階段を上りながら思った。







これはいつか書こう、書こうと思って書けずにいることを1つ。


なんか今回書いた内容とセットにしてもいいなと思ったから、とりあえず書いてみる。


50代の自分を想像したいつかの春か初夏の日、ふと「隣りにいて欲しい」と思ったことがあった。


あまりに静かに出てきたもので、しばらくその希望が何なのかわからず、モヤモヤはしなかったけれどもどこかすっきりしない自分がいた。


そうこう考えているうちに、「隣りにいたい」と何が違うのかを考え始めた。


「隣りにいて欲しい」と「隣りにいたい」は何かが違う。


言葉尻もだけど何か根本的な意味が違う感じがして、それが何なのか考えるのがその後しばらく2日3日ほどのメイン考え事になっていた。


ある朝の通勤の車の中だったと思う。


その日は確実に晴れてたことが今パッと出てきた。


「隣りにいたい」というのは、そこには私の意向のみが反映された言葉になる。


対して「隣りにいて欲しい」は、本当に隣りにいてくれたとするならそこにはイケメン上司自らの意志があって、私の隣りにいようという気持ち無くしては成立しないことになる。


だから「隣りにいたい」ではなくてとっさに出てきたのが「隣りにいて欲しい」だったんだなと、妙に納得した。


想像するのは個人の自由だから、別にイケメン上司に強要したりしてないからいいよね、と自分なりの言い訳なんかも思い浮かべながら、これはブログに書こう、書こうと思って早数ヶ月経過した今。


夢のそのまた夢みたいな想像というか願望、悲願みたくなっているけれど、あの時パッと出てきた頃から今に至るまで一貫してそこは自分の中で変わらないんだなとわかる。


少し話が逸れるけれど(出てきたのがこれ)、6年も経過すると自分の中でも少しばかり変化があって、期待する未来と現実との乖離があまりにも激しくて未来を想像することも難しくなってきた。


それとは相反して、イケメン上司からしても私というのは特異というか特殊な立ち位置にいるんだと思うようになった。


私の中に色濃く残っている色んなことを思えば、そのインパクトの度合いの大小はあるにしてもイケメン上司にとっても何かしらインパクトがあっただろうし、そのインパクトがどんなものにせよそれが消えないのかもしれないなと思った。


イケメン上司ももう観念して私とコミュニケーションでも取ってみよう、ってなってくれないかな?と最近は思ったりする。


そんなことないと思うけれど、この文章たちを読んで自分の意志がないのに私の隣りにいなきゃいけないなんて思わなくてもいいわけで、だけどコミュニケーションを取るのはしてみたいかもならそこだけを形にするのは私は全然ありだと思っている。


特異というか特殊なものだろうから、そしてもはや何もかも普通とか一般的なものから外れているから、それゆえに気になったりするのかなと思う。


この6年で私がどの程度イケメン上司の内側の思考の中を行ったり来たりしたのかはわからないけれど、けっこうな頻度と濃度で行き来してたんじゃないのかなと思う。


全く気にならないわけじゃないけれど、色々普通じゃないし、好みから外れている人なのに気になるみたいなのは色々やりづらいんじゃないかと思ったりもする。


ましてや私側はこんなにはっきりと希望を好き勝手に述べているわけで、そんなの余計とやりにくいし距離を置くのが一番って思うのが普通なのかもしれない。


そういうこと言い出したらキリがないから止めるけれど、とにかく観念して連絡の1つでも取ってコミュニケーションを取ってみようかな?と思ってくれたらいいのに、とこれまた勝手なことを思っている。


2017年の9月を1とカウントすると今年は7回目の9月になる。


7回目の9月はこんな風に始まったよ、という話。

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