2023年4月22日土曜日

「り」が9こ、から始まる話

2021年10月10日

「り」が9こ、これはなんでしょう?


年長の姪っ子にこの間出したなぞなぞ。


答えはきゅうりだけれど、姪っ子は電話越しに

「りー、りー、りー、りー……

「わかった!すずむしだ!」

と言った。


なんともかわいらしい答えを言っていた。


今窓を開けて布団にひっくり返りながら書いているところ、外からは鈴虫のりーりーりーの鳴き声が聞こえる。


季節は秋本番になって、カレンダーは気付けば10月になった。







この数ヶ月のブログのアップ頻度を見ると、このまま年内はイケメン上司にまつわる何かを書いてそうと思ったのは、夏頃じゃなかったかなと思う。


あまりにも書きすぎたせいなのか、それとも単に忙しいのか、はたまたもう興味が失せたのか、そのうちこのブログは見られなくなるかもしれないとこの1ヶ月くらいブログ訪問統計ページを見て思うようになった。


そこで今回は、ずっと書き途中でアップできなかったものを最後まで書き終わらせてとりあえず1つ目のずっと長らく保存されていたものの方からアップしたいと思っている。


イケメン上司にまつわるブログの下書きは2つだけだから、これはきちんと有言実行できそう。(これまでの色んな下書きは色々合わせると100を超えると思う。だからそのうちの2つだけというのは、確実にアップできそうと自分で思える。)


他の下書きたちは私の中でアップしてもしなくても気にならないけれども、イケメン上司にまつわるあれこれはアップしなければ永久にお蔵入りになるから、それだけは避けたい、伝えられるものは伝えたい、そう思っている。







2021年6月23日


「逢いたい」と思うことが何よりも大切だよ♪


米米クラブの石井竜也が自分の歌を熱唱しているのがテレビに映った。


『浪漫飛行』の冒頭の歌詞を聞いて瞬時に思ったことがある。


「会いたい」って毎日毎日思えたことって本当に凄かったんだな、と。


そして、それが何よりも大切と歌われて、自分がものすごく肯定、受け止めてもらえたように感じた。


そんな風に考えたこと、これまで一度もなかった。


自分の感じていることは受け止められるようになっても、それが大切なんだと思えたことはただの一度もなかった。


自分の気持ちに自信がなかったし、相手と全く釣り合わない自分がそんなことを思っていいのかと思わなくもなかったし、相手側の気持ちを想像すると迷惑とか負担とかいう言葉がかなりはっきりと思い浮かぶ状態だった。


自分の中で時間をかけて「それで良かったんだよ」と思えるようにはなったけれども、それは自分にそう思い込ませるように暗示をかける風で、心の底から自然にそう思えたのとは全くもって違っていた。


歌を聴いて、「会いたいってたしかに一番大切かも」と思った。


私は物心ついた頃から、外に出ることに抵抗があって、学校はただの一度も行きたいなんて思ったことがなかったし、社会人になって仕事に行くようになってからは学校よりも抵抗がなくて普通に朝起きて仕事に行ける自分にある時感動したくらい、そもそも外に出る自分がいつの時も大なり小なり無理をするみたいなところがある。


過去の2つの仕事では、仕事に行くことさえ嫌で、朝を迎えるとその瞬間に「今日も生きてる」ことに絶望して、また始まってしまう今日に対してどんよりとしていた。


常々そんな風だったから、誰かに会いたいと思って毎朝起きた瞬間から超ご機嫌でルンルンで支度して仕事に行っていたなんて、そんなのは生涯を通じてその時だけになる可能性がものすごく高い。


最近よく思い出す言葉とそれについての自分なりの分析がある。


何かしらの芸をする著名人の人の言葉だったと思うけれど、その辺に咲いている花を見て「きれい」と思う気持ちはどこから湧いてくるんだろう、というもの。


それは誰に教えられたものでもなく、自然に湧いてくるもので、そういうものを自分の中でどうやって生み出しているのかを想像すると、それは生まれた時から自分の中に組み込まれた、自分にだけ与えられた唯一無二のものじゃないかと私は特に最近思うようになった。


例えば当時ルンルンで朝を迎えてルンルンで仕事に行っていた気持ちは、がんばってはもちろんいなかったし、何か理論付けてそうしてるものでも当然なかった。


そしてそういう気持ちになるのは、誰でも彼でもそうなるわけじゃない。


特定の人にしかそうならないわけで、じゃあその特定の人というのはどう自分が選んでいるのかというと、私の場合は選んではない、気付けばそうなっていた。


相手がイケメンで背が高くて体型がカッコよくて声が良くてきちんと働いていてみたいな条件ありきで反応しているのではなく、自分でもどうしようもないくらいに気になって仕方ない、むしろ反応する自分にとことん抵抗したりして、そんな風でも自分の中の何かスイッチが勝手に入って「会いたいセンサー」が過剰なほどに反応していた。


そういう反応は計算でできることじゃない。


しかも自分だってなんでその人に反応して、なんで他の誰かには反応しないのかわからなかった。


理由なんて本当にわからない。


もちろん仕組みもわからない。


そのように反応する何かが自分に元々組み込まれていた、としか説明できない。


私なりに解釈すると、魂繋がりの相手だとそうだとわかるようなセンサーがきちんと体内に生まれた時から埋め込まれていて、そして然るべきタイミングでそのセンサーが発動するようになっているんじゃないかと思う。


そう考える方が私にはしっくりとくる。







「会いたい」という衝動は本当に凄まじかった。


今なんかはなんとなく仕事に行って、やる気は万年無し子でもとりあえず自らの身体を職場に運んで目の前のことをやってるに過ぎない。


当時は全然違っていた。


当時の私はとにかく朝起きた瞬間から元気だった。


仕事には何の興味もなくても、イケメン上司に会えると思うと、それが私がその場に行く唯一無二の目的と言っても良かった。


短くはない通勤距離も全く苦ではなかったし、ある所からは同じ道を運転するだろうから、同じ景色を見てるんだろうかと想像して嬉しくなったり、いつも何時頃ここを通ったり家に帰ったりするんだろう?と考えたり、まぁ本当に自由に自分の中の思考を動かして、何をしていても楽しいという完全に頭の中がお花畑な毎日を送っていた。


「会いたい」という気持ちはありとあらゆるパワーを引き出した。


普通に何にもない1日に対して、今日という日が楽しみというのは、自分の人生においても初めてのことだった。


「逢いたい」と思うことが何よりも大切だよ♪


という歌詞にどういう意味が込められているかは知らない。


でも私が実際に体験したことに沿って考えると、「会いたい」って思うことはすなわち「生きる力」を引き出す。


生きる力の源、と言ってもいいかもしれない。


会いたいの大前提には、自分も相手も今日も命あって生きてないといけない。


戦時中じゃあるまいし何を大袈裟なことをと思うけれど、イケメン上司がいた時はいつもそう思っていた。


自分の命があること、イケメン上司の命があること、それを本当に大真面目に毎日意識していた。


そして会えた時は「今日もお互いに命があって生きて会えて嬉しいです」という気持ちだった。


余談だけれど、そしてこのブログに何回も書いたけれども、その大袈裟なくらいな感覚というのが過去世での生き方に繋がっていたと知った時は、ものすごく合点がいった。


イケメン上司側はわからないけれども、少なくともある時の過去世の私は病弱か何かで長生きできず10歳前後で早死にした模様。


その時の自分がペンジュラムを自分の友達、体の一部のようにして持っていて(その家のおじいさんおばあさんが日常的に使っていたらしい、そしてそれを見て自分も使い方を覚えた模様)、そしてその時に一緒に住んでいたのか又は多くの時間を同じ屋根の下で過ごしたとされるのがイケメン上司側の魂を持つ子どもだったとのこと。


食べ物も豊富で日常の安全度も非常に高い現代日本という中で「命があって嬉しい」なんて考えることはとても異様な感じがするけれど、早死にした魂の生き様を考えたら、そんな風に自然といつも思っていた私自身というのもものすごく納得できる。


明日も会いたくても、命がそれを許さなかった。


早々に寿命がやってきてしまった、とするなら、とにかく命があってお互いに元気に今日も会えるなんていうのはものすごい奇跡なわけで、そうやって考えると当時の私がそのように日々感じていたことは過去世の魂の想いを引き継いだんだろうなぁと思う。


それはそうとして、とにかく会えること、会いたいと思うことは、私にとってすなわち生きる力そのものだった。







2021年10月10日()


上のところが6月の当時に書いた下書きの全部。


「そんな自分が好き」


これもいつかのブログに書いたから、また書くのかと思われるかもわからないけれども、改めてリピートで書きたいと思う。


大人になればなるほど、自分が好きかどうかなんて考えなくなるし(思春期から20代あたりは、自分嫌いをなんとかしたいとよく思っていた)、そんなの普段考えなくても何の不自由や不便もないけれど、イケメン上司がいた頃の自分自身を私はものすごく好いていた。


過去最高に生きる力にみなぎっていて、毎日が楽しくて、生きるって素晴らしいと思えて、女子力底辺みたいな自分が身だしなみに気をつけて、とにかくありとあらゆる潜在的な力や感覚が色々出まくりで、一生のやる気をここで使い果たしたんじゃないかと思うほどのやる気やら生きる力やらがとどまることを知らないくらいに湧き出ていた。


ちなみに女子力に関しては、当時の感じを今引き出せないものかと真面目にいつも思っている。


いい加減、化粧品を買いに行かないといけないのにそれも気が向かず延び延びになることの数ヶ月目、今の仕事して6キロ前後太って自分でも見たことのない体型にビックリしながらもダイエットのスイッチは入らず


真面目に想像する。


これイケメン上司に会えるとなったら、速攻で買物も行くし、ダイエットも即日開始する。


そういうことから全くもって違っていた。


どうでもいい後日談だけど、化粧品はとうとう買わないと本当にまずくなって、先日ペンジュラムのボード用の布を買いに行った時についでに(と言うよりももはや義務として)買ってきた。


(ここからは10月最後の日に書いている。)


イケメン上司が新潟にいた時の自分のことは、自分で言うのもなんだけどとても好きだった。


これもいつかのブログに使ったものだけど、また再掲載。



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(「ヒャダインこと前山田健一」さんのツイッター)

山ちゃんと蒼井優が結婚発表した後にたまたま見つけたツイッター。


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このツイート()の「友人」は蒼井優でした。いい話だなー。


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「『誰を好きか』より『誰といるときの自分が好きか』が重要らしいよ」

と友達が教えてくれて、その通りだなあと思ったので書いておきます。


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自分の中のありとあらゆるものを肯定できていたような当時、自分自身といることが全く苦にはならなかった。


人生バラ色じゃないけれど、頭の中は完全にお花畑でいつの時もとってもおめでたいことになっていた。


本当に生きていることが日々楽しいなんて、生まれてこの方経験したことがなかったから、とにかく毎日がキラキラしていて、どこに眠っていたのかと思うほどの生きることへの感動や感謝に溢れ返っていた。


もちろんそれまでの人生の中でも楽しい時間や充実した時間はあった。


だけどそれは継続するタイプのものではなく一過性だったり、ましてやイケメン上司が新潟にいた頃の私の日々は単調な日常とやる気のかけらもない仕事とその他雑務に覆われていて、楽しい要素なんかどこにもない中で、私の生きることへの喜びは爆発していて、そんなの今振り返っても異常だったとわかる。


生きること全てにおいて底上げが為されて、自分自身の生き方にもとても爽やかで気持ち良い風が吹いてくれて、本当に魔法がかったみたいな時間だった。


それがまだ、一緒にいられてとか仲良くなれてとかならわかるけれど、そんなことは何にもなくてただただ同じ空間にいられただけ、自分の自由にイケメン上司の姿を見ていられただけという、アラフォーの女が大丈夫ですか?と真面目につっこまれるような事態なのに、私1人だけが舞い上がりまくってたという状態だった。


たった1人の人が人生に現れてくれただけでこんなにも自分の人生が自分自身が上向きになるって本気で凄いことだと今でも思っている。


今の職場で私は何人か苦手な人たちがいるけれども、そういう人たちと対峙している時の自分には毎回どっと疲れる。


中には生理的にアウトな人とかもいて、当然そんな人たちとやりとりせざるを得ない時は極力変な不協和音な空気が流れないように気を使って、大人な対応をたかが数分するためにものすごい労力を割いてやっている。


そんな風だから、イケメン上司の時にはそういうことは一切なければ、とにかく何もかもが湧き出てくる感じで、自分でも自分の感覚にビックリしていた。


そしてその未知の自分というのは、いつの時も自分であることに疑問も抱かなければ、自分の人生にも迷うこともなく、全てが明朗で雲行きの怪しいものは何もなかった。


私がごはんに誘った後の恐ろしいくらいのイケメン上司の冷たさや無視の具合には本当に心の具合が悪くなったけれども、その時だって自分のことが嫌だとか自分に耐えられないとかいうことはなかった。


『誰といるときの自分が好きか』が重要、という蒼井優の名言はまさに!だった。


あの当時の自分は、史上最高に自分のことが好きだったと断言できる。







2021年10月31日


前回の記事『サーフィンボード用の布と小川山の水晶の毛糸』を書いた時に、はっと気付いたことがあった。


淡々と綴ってはいたけれども、あの中にはオカルト体質の自分がけっこう色濃く書かれている。


あれを書きながら、自分の中でオカルト体質はもう切っても切れないものだということと、気付いたら自分でもその自分を受け入れてるだけじゃなくて少しずつ好意的に見ている自分もいることに気付いた。


積極的に受け入れたいものとは違うけれども、この2ヶ月3ヶ月くらいで「今の仕事もあとやっても1年だな」くらいに思った頃から、この自分に授けられているものを残りの人生で使うのと使わないのとどちらがより後悔が少なくいられるか、ということを考えるようになった。


「やりたい」「やりたくない」の2択で考えようとすると「やりたくない」が濃厚すぎて「やらない」になってしまうけれども、自分を使うことをしなかった場合、「後悔する」「後悔しない」の観点で見るとまた違う感覚が出てくるから、とりあえずその観点から考えるようになった。


このオカルト体質に関して、私がここまで好意的に見れているのは、これは相当な部分でイケメン上司の存在が大きい。


そもそも私のこのオカルト体質が私にもわかるように発芽したのはイケメン上司がいなくなって半年くらいしてからだった。


そしてそこに至るまでにペンジュラムを色んな形で使うことをしたわけだけど、それはイケメン上司がいなくなって3ヶ月後の年末年始にペンジュラムがカーナビデビューして、その後間を開けずにオルゴナイトと呼ばれるお守り的なものと引き合って色んな人たちのオルゴナイト選びに協力して、さらにペンジュラムを使う機会が増えたことに関係している。


イケメン上司は全く近くにもいなければ、直接的に関与もしていない。


なんだけど、私のオカルト体質はその辺りから確実に爆上げとなって、そしてある時(多分その辺り)から自分のそうしたこともこのブログを皮切りに公にするようになった。


今でこそ普通に隠さずに書いているけれども、最初はここに書くことさえものすごく怖かった。


記憶が曖昧だけど、私の中で多分一番怖かったのは、こうした自分をカミングアウトすることでイケメン上司が離れていくことだった。


私の中ではある種の賭けだった。


イケメン上司の経歴的なものとそしてほんの少しばかりのイケメン上司の子ども時代の情報(イケメン上司と仲良しのSさんから聞いたこと)とを合わせると、どこをどうひねってもイケメン上司の人生の中にオカルト的なものもスピリチュアル的な教示も、とにかく目には見えないありとあらゆるものが一切無さそうだった。


仕事はバリバリ理系で、それはもう学生時代から常に白黒はっきりとした世界にいたと思う。


イケメン上司がいる世界が1+1=2というものだとするなら、私のいる世界はAさんにとっての生き方とBさんにとっての生き方とそれぞれの生きる道で大切なものはなんでしょう?みたいなことを大真面目に考える世界になる。(冗談抜きで仕事の1つとして、そのような計画を言語化して年間計画や行動計画など書いてた。)


元々は自分自身を楽にするために色んな心の学びを私は始めたけれど、それを始めた30代までは私はスピチュアル的なもの全般が苦手で、あんなのは全て超絶怪しいものだと思って近寄りもしなかった。


自分のそうした経緯も手伝って、そんなこととはさらに無縁そうなイケメン上司には私のそうしたところはさらなる敬遠材料になっても決してプラスの評価に転じてくれるものじゃないことは、たとえ言葉をまともに交わしてなくても明らかだった。


もし万が一にもイケメン上司とごはんに行けることになったのなら、そういうことは早々とカミングアウトしようとは勝手に決めていたけれども、そういうことにもならず、今のように一方的なブログ発信を始めてからは、言わずにおこうみたいな気持ちが長らく続いた。


言わなくても差し支えがなかったし、仮に書いてカミングアウトするにしても文字だけの説明で果たしてどこまでどう伝わるのか未知数すぎて、そんな危険を自ら犯したくはなかった。


そしてやっとやっと接点となってくれた風のこのブログなのに、またそうした不穏な空気を流してイケメン上司が遠ざかるのは本当に嫌だった。


最後はもうこれで離れられても仕方ないと腹を括ったけれど、とにかくイケメン上司が離れていくことが一番怖かった。


しかも当時はイケメン上司が見てくれてるかどうかも今ほどにはっきりとは全くしてなくて、全てが手探り状態だった。


そんな中で打った博打だった。


理解して欲しいなんてことは望みすぎなのもいいところだからそこまでは願わなかったけれども、なんとかギリギリ「ブログ読むくらいなら構わない」ところで踏ん張ってくれないかなとは思った。


だから自分のオカルト体質をカミングアウトすることは、たとえブログの中でも最初はものすごく勇気が要った。


実際のところ、イケメン上司がどのように感じているのかは全くわからないけれど、少なくとも生理的に受け付けられないとかいうわけではなさそうで、それはとても助けられた。


私にはもうどうにもならない自分の一部であって、その一部を打ち出しても、言い続けても、それでも今も引き続き長いことブログを見てくれてるわけで、それに私がすごく救われている。







2021年11月1日


今日から同じ部署の別係のところに派遣の人が入った。


この子がもう本当に美人で気前も良さそうで、とりあえず上司たちのおじさんたちが対応しながらもデレデレしていた。


最初聞いたことのない声が聞こえて誰かと思えば上司たちで、おじさんたちも声が高くなるくらいにテンションが上がっていた。


同性の私から見たって綺麗な人。


あの笑顔で挨拶なんかされちゃったら、一発でハート撃ち抜かれそう。


とかいう感じの本当に綺麗な子が入ってきた。


それを客観的に観察して、イケメン上司が最初に私を見た時はこんなテンションには決してならなかっただろうと想像すると共に、イケメン上司も自分好みの綺麗なお姉さんが職場にいたらウキウキするんだろうななんて考えなくてもいい想像を広げて、ドンと暗くなった(苦笑)


これまでもイケメン上司を高嶺の花だなぁなんて思ってはいたけれど、こういう綺麗な同性の人たちを見ると、そういう人がイケメン上司をごはんに誘ったのならテンションも上がるだろうに、私が誘ってもそれは無理ゲーを罰ゲームのように手渡されたようなもんだなと思った。


卑屈になりそうアラートが出ていたから適当に切り上げた。


で、思った。


イケメン上司の残りの人生には、きちんと別の誰かがいるんだろうなと。


それは残念ながら私ではないから、私はもう「魂の強烈な意志によってもたらされているオカルト系体験の中だけにおける最高のお守り」くらいにイケメン上司のことを思ってないと自分の身が持たないなと思った。


いつかイケメン上司と私とが今とは違う関係性に進展するよりも、誰か別の人がイケメン上司の隣りにいる可能性の方が断然高くて、これを書きながら「割り切ること」を自分にこれからは課していく、そう思っている。


またフラリと書きたくなったら書くかもしれないけれど、次の途中まで下書きしていたものを書き終えたら、私はまた通常の自分のブログに戻る。


だから本当に次を書いたらある程度「書く」「伝える」ことにおいて、終わりになるだろうと自分で決めてるというか、そうするのが1つの区切りとして相応しいように感じている。


もう書くだけのことは次の内容を書いたら100%書い切ったと言ってもいい。


しかももう回想シーンや自分の心境の変化は書けても、何も変わらない現実を淡々と見つめてそうした空想的なもしくは心情的なことだけを書く勇気がない。


自分がそれで満たされているかどうかと言えばそうではないけれども、もう十分すぎるほどに向き合って言葉にしたよね、もうこれでいいよ、という自分を次に送り出すみたいな気持ちがある。







2021年11月2日


オカルト体質の部分を少しずつ受け入れられていって自分でも受け止められるようになっているそのことは、イケメン上司の存在が大きい。


今回この文章を書くにあたって色んなことを思い出していた。




2021年11月8日


上の続きを書こう。


何思い出してたんだっけ?と一瞬忘れたけれど、しっかりと思い出せた。


ペンジュラムの件で何か能力的なものがパワーアップというかバージョンアップする時は、いつの時もイケメン上司の存在を示すサインがくる。


・ペンジュラムにYESNO以外の第3のサイン(SUPER NO)が出現した時

・ペンジュラムがカーナビデビューした時

・山で行方不明になったおじいちゃんの居場所を探して欲しいとお願いされて、実際にペンジュラムを使って探した時

・ペンジュラム用のボードと国産の水晶・小川山水晶を手に入れた時


他にももっとたくさんあったと思うけれど、とりあえず思いつくところで書くとこんな風で、このブログを書きながらそうしたシーンがいくつも蘇(よみがえ)ってきた。


実際にはどういうカラクリでこんなことを体験できているのかはわからない。


だけれど、ペンジュラムの能力が上がる時はいつもイケメン上司の存在がある。


ペンジュラムは自分が興味持って持ち始めたものだし、普段使いなら楽しく使えてはいるけれども、これが誰か第三者にまつわる内容に触れるとなると、いつもいつもものすごく緊張する。


そしてヘビーなのが来てしまうこともわかってきたからこそ、自分以外の誰かのために使うことは実際にとても怖い。


畏れ多いという感じ。


そんな心細さ満載の時にイケメン上司の存在が私にわかるように現れるというのは、筆舌に尽くし難いほどの強力なサポートで、本当の本当に心強い。


イケメン上司はそんな気はないだろうし、仮にあるにしてもそれはイケメン上司の魂の意図だと思う方がとてもスムーズで引っかかりがないけれど、それが何でもいい、私が救われていることには変わりないから。


自分のオカルト体質が開花するタイミングの時にイケメン上司にまつわる何かが毎回現れる、というのは本当にすごいことで、そのおかげで私は本気で色んなものに向き合えてきたし、そうした瞬間はそう何度も訪れるのとは違うけれども、いつの時もそれを忘れることはない。


これから先どれくらい生きてさらにペンジュラムの力もアップしたとしても、それで色々な難局を迎えることになったとしても、それでも私はこのペンジュラムとそれにまつわる色んなことに対して真摯でいられると信じられるのは、これこそがイケメン上司と私とを今回の人生でも引き合わせてくれたものだと今は一点の曇りもなく信じていられるから。


時空を超えて魂は色んな目的を持って今回の人生を選んでいると思う。


私なんかは本当に魂の意図と人間として普通に生きる時の希望や願望とがあまりにかけ離れ過ぎていて、それで受け入れ難いことも多々あるけれども、それでもペンジュラムをはじめとするオカルト体質が今のようになってそれでも受け入れられているのは、イケメン上司の存在があるからに他ならない。


表面が何も繋がらないのは仕方ない。


オカルト全開みたいな世界でも繋がっている証拠なんか出せない。


けれども、それらを通じて見えているものは、イケメン上司の存在だということ。


そして過去にたくさんのイケメン上司サインをペンジュラムを通して手にできたから、それはこれからもずっと私の記憶と感覚に残る。


それを持てているから、私は自分のこのオカルト体質もそれとなく受け入れているし、さらには好きでいられる由縁はそうしたイケメン上司との繋がりが大きい。


そうしたことをもたらしてくれている存在がイケメン上司で、自分であることをここまで受け入れられているのはイケメン上司に出逢うことがなければ難しかっただろうなと思う。







2021年11月9日


ここ最近わりと頻繁に読まれる記事の1つに、オルゴナイトが割れた話がある。


ちなみに一度は検索ワードも知れて、「オルゴナイトが割れた」で、それを入れるとたしかに私の記事がわりと上位に上がることを知って、そんなにも世の中の人たちのオルゴナイトが割れちゃったんだと妙に感心した。


(続き2022年2月6日)


3ヶ月前に書き途中になっていたことの続きを、なんとか脳内の記憶を引っ張り出して書きたい。


オルゴナイトが割れた話は、私は当初本当に世の中のオルゴナイトラバーたちが割れてしまって困ってどうしよう?と慌てて調べた先に私の記事があるのかと思っていた。


そんなマニアックな内容、あんまり実体験と共に書いているサイトもないから、それで希少性が高まって検索でヒットするのかな、と。


でもある時に私はその記事を開いて読んでみて、もしかしてそれを見てくれているのはイケメン上司なんじゃないかと思った。


イケメン上司について触れてはいないけれども、内容の一部にイケメン上司にまつわるようなエピソードが入っている。


「まつわるような」という言い回しもくどいしわかりにくいけれども、そうとしか言いようがなく、でももし本当にそうだとするならばその記事は何回見ても何かしら良いものなり力になるものなり、何かしらプラスの方に働く作用があるんじゃないかなと思った。スーパーポジティブすぎ( ̄∀ ̄;)


もし私のスーパーポジティブな妄想が当たりだとしたのなら、それは嬉しいなと思う。


ほんの少しだけでも、何かしらプラスのものを私が手渡せるのだとしたのなら、それはとっても誇らしいし素敵なお役目だなと感じる。


私は数えられないくらいに色々と心を守ってくれるお守り的なものやここぞという時の強さや支えのようなものをもらいまくりで(多分供給元は神々の審議会[宗教とかじゃなくて、とある本の中に出てきて単に私が気に入って使っている言葉]とかイケメン上司や私の魂とか、人間側が感知できないところからだと思うけれど)、でもそれに比例する何かをイケメン上司も享受できているのかと考えるとそんなわけもなく、だから何でもいいから私の書くブログの何かがイケメン上司側にヒットするならそれほど嬉しいことはない。


なんなら、私側の自己評価も上がる()


存在意義あり、みたいな。







2023年4月22日


この下書きはまだアップしてないはずで(武士俣記憶によると、だからアップした可能性も否めない( ̄∀ ̄;))、今アップしたくなったから時を超えてアップ。


これをアップするにあたってまたごちゃごちゃと色々書き始めているからそれも近いうちにアップしたいと思っている。


(有言実行をひたすら願う( ̄∀ ̄;)


先月3月の終わりに書こうとしていたメッセージももちろん書く気ではいる。


いつまでもぐずぐずと延ばしてアップしないと、こうしていざアップする時に時間が経ちすぎて逆にアップしにくい気持ちになるってわかったから、こういうのはたとえ途中でもアップしたいとなれた時に早々とアップするに限るなと今回思った。


自分でも3分の2から4分の3くらいまでは読み進めてあとは流し読みして、なんだか中途半端な感じも否めないけれど、とりあえずこのままアップして残りはその色々書いている方に書けたらいいなと思っている。

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