2022年8月15日月曜日

未来写経

2016年8月10日
まるで未来予測したように、とある文章を
自分の手で書き写していた。



未来写経

2022/08/14


片付けをしていたら出てきた引用文


「切手を貼って出す。便りを届ける。きっとそれは温かい息。吹き込めば吹き込むほど、自分も温まる。届けた想いは僕を運んでくれる。温かく、静かで、幸せな場所へ。」


『世界から猫が消えたなら』川村元気(著)


妹たちが帰省するのに合わせて部屋の片付けをしていた時に、写真にあげた紙たちが出てきた。


少しだけ読んで、「まるで未来写経だな」と思った。


「吹き込めば吹き込むほど、自分も温まる。届けた想いは僕を運んでくれる。温かく、静かで、幸せな場所へ。」


このブログのことみたいだと思った。


同じようなことをグルグルと飽きもせずに書いているように見えてるかもわからない。


でも私はいつの時も毎回新鮮さとあたたかさとしあわせ感を感じながら書いている。


そして引用文にあるように、「静かな場所」へと自然と入っていく。


時々仕事の昼休み中にもブログの下書きをする。


景色は自分が使うパソコンや各種資料が目の前にあって、暗い中でもそこが職場だというのはわかる。(昼休みは全フロア消灯するルール)


けれども、書いている10分20分の時間は私は確実に別の場所にいる。


身体はたしかに自分のカオスな席に着いているけれども、書いていると静かなところに自分がいるのがわかる。


ひっそりとしている静かじゃない。


静けさというか、静謐な感じがある。


心に鍵をかけられるとするなら、書いている時というのはその鍵が開けられて、その先の自分しか知らない場所に入っていく感じ。


見たり聞いたりはしないけれども、感じることはできる。


そしてその「感じる」は、静かで何も遮るものがなくて自分がどこまでも真っ直ぐで素になれる、そういう感覚を感じ取る場所。


ちょっとした中毒性もありそうだけれど(笑)、セラピーなんかを受けたことがある人ならわかってもらえそうだけれど、本題に入るために体をリラックスさせて意識が必要な場所へと運ばれる、そういう穏やかな状態みたいなところがある。


少なくともここ何十回と書いているイケメン上司にまつわる話の時は、この感覚を毎回味わう。


書いている内容とかはあまり関係ないみたいで、とにかく心はそういう感覚を味わう。


だから、いつかの写経もどきで書いておいた文章がまるで今の自分の日常の中の感覚や体験と通ずるところがあるなんて、読んで驚いた。


だからこの文章を書くとするなら「未来写経」だなと思った。


未来を予測して選び取った言葉ではなかったけれども、結果的に小説の中に出てきた言葉とまるで同じような体験を私もするようになっていた。


書いていた当時はそんなこと知らなかったわけで、本当に驚いた。


あと、毎回新鮮なのは本当で、私自身は全く飽きないし(元々何かハマると何回でもリピートできる性格)、毎回違う感覚や回想が出てくるから真面目に新鮮。


イケメン上司も含めて読む側の人からすると、「また同じこと書いてる」と見えてるかもわからない。


でも私側は毎回少しずつ違うし、たとえ同じような感覚が出てきてもそれもそれで新鮮だし、ある意味とても上手く機能していると思う。


もはやどんな領域に自分がぶっ飛んでいるのかもわからないけれども、ブログを書いている時はとても心穏やかで楽しい時間だから、それは日常の中では他にない感覚で、だからこそ新鮮に感じるのかもわからない。




*




気になって、その文章を書き写したのがいつなのか、紙をめくって確認した。


当時は日付印を押すことを毎回楽しみの1つとしてしていたから、上手くいけば残っているはず!、そう思ってめくった。


2016 08 10となっていた。


そんな時期に書いた記憶がないけれど、2016年8月10日といえば、名古屋から新潟に戻ってきて引きこもり3ヶ月目の頃、そして新潟で初めて仕事をする3週間ほど前の頃になる。


家も両親が建て替える前の古い家の頃で、今と同じ2階の東側の部屋で名古屋から持ち帰ってきた木のテーブルの上で書いたんだろうなと思う。


名古屋にいた頃、何がきっかけで本格的に始めたのか忘れたけれど、読んだ本や雑誌で気に入った言葉を見つけると、とりあえず付箋を貼っておいて、あとからそのページをルーズリーフに書き写すことをしていた。


それは20代の頃小さなメモ帳から始めて、ドミニカにいた時もして、30歳以降名古屋にいた時はメモ帳じゃ間に合わなくてルーズリーフに切り替えた。


小さなサイズのルーズリーフではあるけれど、それで数百枚、1000枚までいかなくてもそれに近い枚数の書き写しをした。


元々は20代の前半とかに読んだエッセイの中でそれをされている人のエピソードが紹介されていて、それいいなと自分も真似した。


30歳以降は、それだけじゃなくて自分の心を癒すことも目的としてやっていた。


あと、当時は打算も働いて、そういう言葉を書き溜めておけば、いつか何かに使えるかもしれないというのもあった。


特に深い意味もなければ、未来を予想したのとも違う。


何か深く心に残って、それで当時はルーズリーフに転写したに過ぎなかったと思う。


それを書いた1年後、本当に自分も手紙を書くことになるだなんて思ってもいなかった。




*




私が手紙を書いたのは、下書きが2017年の9月9日、本チャンが翌日の10日だった。


届けたい一心だった。


届かないのはわかってた。


負け試合と言うのは変だけれど、勝算は全くなく、超行き当たりばったり、自分でも何をしているのかと思った。


今振り返ってみても、人生の中で一番意味不明な行動と一番ずば抜けた行動力だった。


受け付けてもらえないんじゃないかというのは、あまりに無我夢中で今でも断言はできないけれど、一番心配したことじゃなかったかなと思う。


届くかどうかはわからない。


でもとりあえず、「届ける」ための形が必要で、その形として私は咄嗟(とっさ)に手紙を選んだ。


もし当時社内メールが与えられたとしたらどうしたかはわからない。


当時の私は社内メールさえなかったから、書く手段としては手書きの手紙しかなかった。


形は何であれ何かこう、「これだけは今しか届けられない」とだけははっきりと思った。


魂からの発令だったと今でも思っている。


内容が伝わるかどうかも心配する余裕がなかった。


とにかく受け取ってもらえること、そこが第一関門だった。


【吹き込めば吹き込むほど、自分も温まる。】←冒頭の小説の言葉。


「無」から生み出すものは、基本的に私はどんなものでも素晴らしいと思っている。


だって「無」と「有」には大きな差があって、無はどこを切り取っても存在していなくて、でも一度「有」になったらそれはこの世のどこかに存在している。


自分の書いた手紙は今も自分で読み返せるような代物ではないけれど、でも息を吹き込んだ結果「形」を持てることになって、そしてその形はイケメン上司の元に届けられることになった。


内容や形態やらはさておいて、存在できたことが私の中では素晴らしくそして尊い。


自分の中で偉業ということではなくて、イケメン上司の元へ形を伴っていくことができた、というところが素晴らしい。


この記憶力が他に活かせたら本当に良いと思うけれど、私はイケメン上司に合計で4つの有形物を渡した。


最初は、滅多に電話を取らない私が取って、出たらイケメン上司宛ての電話で折り返しを希望されて、それでその相手の連絡先の電話番号をメモした紙。


どう考えても捨てられたと思うけれど、その日の昼休み明けだったか、まだイケメン上司の机の上にメモ用紙が無造作にポンと置かれていたのを見て、なんだかとっても嬉しくなったのを覚えている。


今考えると、あの日、イケメン上司の机の上は綺麗だった!


普段はすごいことになっていたけれど(雪崩が起きそうな具合。そしてこんな風に他人のことなど言えないくらい、今の私の机の上もスーパーカオス。雪崩も時々起きている…)、その時は机の上が綺麗で、とにかくメモ用紙だけがやたらと際立って見えるくらいにはっきりと見て取れた。


何であの日あの時、机の上が整然としていたのかはわからない。


でもまるで私にメモ用紙が「きちんと置かれているよ」とアピールするために、机の上が整っていたんじゃないかと思うほど。


この記憶力、凄すぎる(笑)!


2つ目は電話越しに伝言を頼まれたメモ。


今考えたら後にも先にも、当時の職場で電話で伝言を、それもやたらと長い伝言を受けたのはその時だけで、これで私はイケメン上司の名前も呼べるしメモ用紙も手渡しできるー!!!と超ハイテンションになったのに、事務さんから「私が渡しておくね」と預かられてガックシきた、というもの。


ところがそれを事務さんがイケメン上司に本当に手渡すという段になって、たまたま私はそのシーンを横目でガン見できるおいしい瞬間に立ち合えて、これは実際がどうだったのかわからないけれど、イケメン上司は少なくともそのメモ用紙をガン見していたように私には見えた。


数秒で読み終わるような内容だったと思うけれど、とにかくイケメン上司はじっとメモに目を落としている風だった。


隣りで事務さんが説明している間も、イケメン上司は事務さんのことは見ずにずっとメモ用紙を見たままだった。


というのは私から見た状態だったけれど、魂マジックでやたらとスローモーションみたくなって長くその状態が続いたように見えていただけかもしれない。


それもどう考えても用件さえわかれば要らないメモだから、イケメン上司が私に超気があってどうしてもそれを記念に取っておきたいみたいな強い意志でも働かなければ、今この世に存在などしていないと断言できる。


3つ目はごはんに行きませんかと誘うメモ←自爆テロの元になったもの。


これは想像するのが恐ろしいから、どうなったのかはあまり考えたことがない。


そして4つ目の札束だったら悶絶しそうなくらいに嬉しい厚さの重たい手紙。


もちろん札束じゃなくアラフォー女が押し付けてきた手書きの手紙で重いったらこの上ないシロモノだったと思う。


これはなんとなくイケメン上司は今も持っているんじゃないかなと思う。


名刺も持ってないし他に何も手渡せるようなものがなかった私にとって、たとえ押し付けたものでも(そう、あれは渡したと言わず押し付けたがとても正しい)何かしら有形物を生きているイケメン上司にバトンを渡すように渡せた(正しくは押し付けた)ことは本当に良かった。


今みたいにもはやどこに住んでいるのかもわからず、当然日常生活の中で手を伸ばせば届くみたいな場所にいない今、もうそれをしたくてもできない。


当時は色々余裕がなかったけれど、この事実は私をあたためてくれる。


息を吹き込んだものが形となってイケメン上司の元に届いた(押し付けた)という、自分が自らの手で作った現実に自分が今あたためられている。


そしてこれはたられば話でしかないけれども、もし手紙を渡さずにずっと黙ったままだったのなら、最後は円満に挨拶ができたかもわからないけれど、代わりに今みたいにブログを見つけてもらって見てもらう現実はなかったんじゃないのかと思う。


円満な挨拶も欲しかったけれども、それよりも今の現実の方が何十倍も私にとっては良い。


全くしゃべらない仕事だったから、自分の内面をこのブログでベラベラと書くように話すことなんか絶対になかったから、私は自分が好きこのんで書いているだけでもこうして見てもらえることで自分が何を考えたり思ったりしているかを知ってもらえて本当に良かったと思っている。


色々と私が強烈だったんだと思うけれど(こちらも必死で、強烈だったのかどうかを振り返ったのはイケメン上司がいなくなったうんと後から)、もし大人しく静かに粛々と日々仕事をしているだけだったら、そもそもイケメン上司から見える世界に私はいたんだろうか?とさえ疑問に思う。


仕事の絡みもなければ接点もない、私は置き物のように黙って仕事をするだけで存在感など無いに等しかったと思うけれど、その私の声に耳を傾けてもらえるきっかけは、あの厚さだけではなく中身も色々重たい、ゲッΣ(꒪◊꒪; )))) となる手紙だったんじゃないのかなと思う。


そして、もし手紙を書かずにいたとするなら、ブログも書かなかった気がする。


手紙である程度の道筋を作って(当時はもちろんそんな気などさらさらなかった。あまりにも目の前のことに必死で、先々のことなんか何にも考えられなかった)、手紙の後1ヶ月するあたりからこのブログが稼働されて、そしてそこから足掛け5年、今ある現実に至っている。


そして、手紙はそれっきりでもその後を引き継ぐかのようにこのブログがあって、そこに『吹き込めば吹き込むほど、自分も温まる。』(引用:冒頭の川村元気さん)ことを私は自分の身を持って体験している。


そう、ブログに自分の意志を吹き込めば吹き込むほど、自分があたたまっている。


イケメン上司がどうなっているのかは未知数でも、少なくとも私側はあたたまっている。


とかいう現実をまるで予想したかのように、私は小説の一節をルーズリーフに書き記した。


もちろん、そんなことは一切想像なんかしなかった。


そして書いたことも忘れていたし、そんなフレーズが心に留まったことも覚えていない。


まさかそれを書いてから6年後に言葉と再会して、その言葉通りの現実を自分が体験するだなんて、本当に凄すぎる。


色々消せない過去だらけだけれど、イケメン上司側にもせめて何かしらあたたかいものが届いているといい。


インパクトだけがすごすぎて何にもあたたかさなどないかもしれない。


それでもどこかしら1箇所だけでもあたたかい風がイケメン上司に向かって吹いてくれたのなら御の字だなと思っている。

2022年8月13日土曜日

会話・回想・想念

20センチがどの程度かを見るために
定規を出してみた。
@職場の私の席
あと、席の感じを写真に残すのもいいなと思って
パチリ。
ちなみに実際の席の全容はあまりのカオス具合に
とてもじゃないけれど、
機密情報保護の観点とは別に
写真に収める勇気が出なかった。



>昨日2022/08/10

「武士俣さん、ちょっと適当なメモ用紙貸してもらっていいですか?」


はにかみ屋さんは私からA4サイズのメモ用紙を受け取ると、それに自分の左手を開いてのせて、そして指の輪郭をサラサラっとボールペンでなぞった。


その後、指と指の間に数字を1から3まで書き込んで、プラス別の部位も簡単に描いて、そして私に向き直って説明を始めた。


途中で「武士俣さん、どれでもいいのでペンを1本貸してもらってもいいですか?」と言われて、適当に1本差し出した。


はにかみ屋さんはそのペンと自分のボールペンを指の間に挟んで、そして直前に紙に書いたメモ用紙の手の図と合わせて、何がどうなっているのか、機械の動きの説明をしてくれた。


ちなみに一番わかりやすい説明だったのは、「佐藤さんは佐藤さんの家に帰るでしょ!鈴木さんの家には帰らないですよね?それはこういうことです」

だった。


とかいう説明を、私のすぐ隣りに横並びに並んでしてくれた。


はにかみ屋さんは、最初こそ人見知り全開の人だったけれど、慣れてくると基本的に距離感近く並んだり話したりする人だとわかった。


近さとしては間20センチくらいな感じ。




>今日2022/08/13


上の出来事を書いてから3日も経った。


だから「昨日」と「今日」がズレているけれど、上のことを書いたのは11日だから11日からしてみると「昨日」になるから、とりあえずそれはそのままにしておこう。


はにかみ屋さんとのやりとりをしながら、私はまたしても違うところに意識が飛んでいた。


はにかみ屋さんが手を紙の上にのせて輪郭をなぞったり、私にペンを借りたり、はたまたやたらと近い距離で隣りに横並びになったり…。


説明する時も紙を見つつ、私の目を見て私が理解しているかどうかを確認しつつ。


なんていう一連の行為を眺めて、これがイケメン上司とだったらどんなに楽しかったかな…なんて考えた。


手の輪郭とか、ペンを貸すとか、目を見て確認とか、鼻血ぶーだなと思った(笑)。


イケメン上司と最高に身体的距離が近くなれたのは、私が複合機を占領してコピーを取るとかしていた時に、不意にイケメン上司が何かを印刷して取りに来る、その超一瞬が何回かあった時になる。


だけどそんなのは私は背中を向けているし、不意打ちすぎるし(仕事でいるからイケメン上司だって好きこのんで私が占領していたところに来たわけじゃないと思う)、私もすみませんなどと言いながらやってくるイケメン上司に「えっ、あっ、すみません」みたいな、アワアワしながら受け答えにもならない反応しかしなかったと思う。


そうそう。


まずは、はにかみ屋さんの席に私が質問があるから席に戻ったら連絡ください、内線もらったら席に伺いますとメモ書きを置いて(しかも前の日に使おうと思って席に行ったらいたから使わなかったメモを、日付のところを手書きで直して使い回したメモ)、そうしたらはにかみ屋さんはわざわざ私の席にやってきてくれた。


体育館のバスケットコート2つ分くらい席が離れているから、来てもらうだけで申し訳なかった。


それも全く楽しいやりとりとは違うけれども、どうしてこうも接点のある仕事を今頃になってして、どうしてイケメン上司の時にはそれがなかったんだろう?と悔やまれてならない。


メモ書きも楽しくやれたし、手の輪郭を書いたメモは永久保存版とか、色々楽しかっただろうなぁと、説明を聞きながらも頭の中は別の思考に飛んでいた。


11日の山の日に休日出勤した時のこと。


その日、イケメンエンジニア硬派さんも休日出勤していて、どうしてもわからない説明は担当でもない硬派さんに質問して仕事の邪魔をしつつも硬派さんはいつも通り嫌な顔1つせず答えてくれた。


終業時間になると、普段ならいの一番に帰る私が、盆休み明け以降休む関係上諸々の引継ぎの準備をしないとでそれが終わらなくてモタモタしていると、帰る前に硬派さんが私のところにわざわざ寄ってくれて数分おしゃべりを楽しんだ。


他愛ない話で「してもしなくても良い」ものには変わりなかったけれども、それができる関係性っていいなと思った。


少し前に硬派さんから「武士俣さんと話せると、リフレッシュできます^ - ^(笑顔)!」と直接言われて相当舞い上がったけれど、それはもちろんとても嬉しいことではあったけれども、どうしてこうもイケメン上司の時とは違うんだろうと思う。


本当に周りの人たちに恵まれた今ではあるけれども、そのうちの10分の1とは言わない、100分の1、なんなら1000分の1でもイケメン上司がいた当時の時間にそういう接点が流れてくれなかったんだろう…と思う。


ご飯要員、飲み会要員、そういう立ち位置くらいにまでなれたのならどんなに良かったかと思うし、それが望みすぎならばせめてはにかみ屋さんや硬派さんとするような仕事の確認話とか、そういうの欲しかったな。


はにかみ屋さんも硬派さんもベラベラおしゃべりするタイプじゃない。


イケメン上司の人見知りほどじゃなくても、確実に人見知り派。


イケメン上司とも何か仕事で接点があったのならそのくらいまでの関係性になれたかもしれない。


それこそ与太話や仕事の愚痴、そういう何にもならない話をしたかった。


憧れて止まない関係は今も叶えてもらえるならいつの時もウェルカムなのになぁと思っている。




*




回想シーンやら比較やらが止まらない昨今。


本当にただただ連絡が欲しい。


ダラダラと書き続けたらいつかは反応してくれないだろうかと、まるで宝くじを買い続ければいつか一等が当たらないだろうかと同じような心理状態になっている。


でも、日常の何てことない些細な場面で、男の人たちから何かをしてもらうとイケメン上司の姿と重ね合わせてしまう。


圧倒的に関わる機会が少なかった私にとっては、コピー取りでもデータ入力でも何でもいいからイケメン上司と関わりたかった。


当時の職場内で荷物受けとそれの整理の仕事があって、それは私は当たらなくてしなかったけれども、それならイケメン上司とも多少の接点がある業務だったから、その仕事が個人的には羨ましかった。


今の仕事は否が応でもやらないといけなくて色々聞きに行ったり逆に聞かれたり頼まれたりするけれども、本当にどうして今の仕事みたいな感じのことが当時にはなかったのかと思う。


はにかみ屋さんも硬派さんも他の人たちも、とにかく個々に感じが違うところが私にはとても楽しいエンターテイメントで、そういう差は実際に話してみないとわからない。


イケメン上司がしゃべっているところも見たけれども今ほどのような感じからは程遠く、もし私が個人的に仕事の連絡でもくだらないおしゃべりでもできていたとするなら、イケメン上司はどんな風だったのかなと思う。


2回以上関わりのある人たちなら、その人たちそれぞれの癖とか話し方の特徴とか言葉の選び方とか、そんなことを私は無意識に注目していて、そんなこと知ってどうするのかレベルだけれど知っている。


そういうことをイケメン上司の件でも知りたかったなと思う。


こんなこと書いてどうするんだろう?と思わなくもないけれど、こんなことが頭の大半をグルグルしてるわけだから仕方ない。←すごい開き直り方( ̄∀ ̄;)


本当に何か特効薬とか付ける薬があるわけじゃないから、自分の中で「こんなことしてても意味がない」と心の底から腑に落ちたり、もうどうでもいいという心境に至るなどするその時まで自分と付き合うしかないかなと思っている。


誰か特定の人と話ができて話が弾んだりその人と自分との間で生まれるリズムがあるなんていうのは、本当に奇跡だなと思う。


その奇跡を私はイケメン上司と持ってみたかったと、決して今も過去形にならないまま、そんな願いを持っている。


この後、日が暮れる前に墓参りに父と母と行ってくる。


会ったこともないご先祖様の墓に手を合わせる。


今年の冬に亡くなった武士俣の本家の最後の当主、父のいとこの墓にも花を添える予定になっている。


生きる時代が重なって互いを知っていることは何にも当たり前じゃない、それだってミラクルなんだと感じる。


生きているうちにイケメン上司ともう一度言葉を交わす、顔を合わせる、そんな機会が巡ってきて欲しい。


あの世ではなくてこの世でそれを是非とも実現したいと、心から願っている。


↑圧が凄すぎて、反対に嫌がられるでしょ、と思っているけれども、とりあえずこのままアップすることに。

2022年8月10日水曜日

コミュニケーションの形

8月の最初の土曜日の夕暮れ
洗濯洗剤を買うのに迷走したドラッグストアの近くから
雲が大きいところが夏空だなと思う

2022/08/10
今朝の夜明け前 4:35

太陽が顔を出してきた 5:21

ブログをアップする直前、
太陽がしっかりと昇ってきた 5:30




書きたい熱が続くから、今回もまた最近の思ったままを綴ってみよう。


とにかく1つ書き終わらないうちに次の書きたいことが浮上してきて、浮上するとまたそれにくっつく形で色々思い出したり見聞きしたりする。


今回もそんな風だから、また書いてみよう。




*




「コミュニケーションの形」


突然、雷に打たれたようにハッと気付いてそして言葉と言葉が自分の中で繋がってきた。


なんとなく感じていたことが言葉にできそう、そういう感じが少し前から出てきた。


これまでは知覚できなかったけれど、どういうわけか知覚できて、今なら言葉に書けそうだと思う。


イケメン上司というのは本当に不可解な、私にはどうしても何をどう思っているとかこんな風に考えているとかいうことが相変わらずわからない。


それは言葉としてのリアクションや回答がないからで、それを私が求め続けている限り何も見えてこないのは当たり前で、これまではそこだけに私はやたらとこだわっていた。


でもそうじゃないかも…と、突然のように何か気付いて、言うなれば別の側面が初めて見えたみたいな感じ。


これまでも一度だけなんとなく言葉にして書いた気がするけれど、今ほどの実感があったわけじゃない。


だけど一度気付いたらこれまで見えなかったものが見えるように今は感じている。


子どもとかくれんぼすると、子どもは隠れているつもりでもおしりが見えてるとか体のどこかが見えてるとか、はたまたカーテンの中に息を潜めて隠れていてもカーテンがぽこっと盛り上がってカーテンの向こう側からはそこにいるのがはっきりと見えてるとか。


その子どもとのかくれんぼでこれまでは自分が子ども側で子ども側の景色しか見えなかったのが、反対の探す側の方の景色が見えてきた、そんな感じに似ている。


これまでもイケメン上司がブログを見てくれてるだろうことは相当数書いてきた。


それについては本当にたくさんの数を書いた。


イケメン上司が、私に気付かれているのなら連絡しようという気になってくれたらいいなという下心ももちろんあるし(全く叶わないけれども)、私側が言いまくることで連絡することのハードルが下がってくれたらいいとか、まぁ実に自分の都合の良いことをあれこれ考えたしもはやそれは自分の中の日常と化してそんなことはしょっちゅう考えている。


常に自分側しか見えないから自分の希望やら意識やらがどうしても全面に出てくるけれど、この間憑き物が取れたように今まで見えなかったものがはたと見えた。


その時にパッとメモしたのがこちら↓


>黙って何も言わないけれど、「見てるよ」アピール?行動の可視化


>こうして書いたらもう見なくなるんじゃないかと思ったけれど見続けてくれている


↑このメモたちのことをもう少し説明。


とにかくイケメン上司は何にも言わないし何ひとつ言葉にして伝えるということはしない。


本当に何も言わないけれど、でもブログは見てくれてる。


このブログもだしイケメン上司がずっと見続けてくれてることもだけれど、時の流れとか長さとかがとにかく麻痺する。


つい2、3日前に友人ノムと電話で話した時に、ノムの絵を気に入って買ってくれた外国人の人がいて、当時本当に数分だけ私が電話越しに通訳にもならない英語での会話をしたことがあって、今回その外国人の人からまた別件で連絡が来たという話をしていた時に、「もうあの時から3年だねー!3年も経つんだー」とノムが言って、私も首を縦にぶんぶんと激しく振るくらいに同意した。


そう、それは確実に時間の流れと3年なら3年の重みを感じるけれど、こういう感覚がイケメン上司との間に流れている時間には全く感じることがない。


そういう時間の流れと重みみたいなのがすっぽりと抜ける。


なんだけれど、何かしらを積み重ねたと思うものについては、きちんと時の重みを、刻まれた分だけ感じることができる。


「もう5年も経つんだー」という気持ちにはならないけれど、「5年分何かしらは積み重ねられたんだ」という気持ちはある。


この微妙なニュアンスの差は私特有のものかもしれないけれど、本当に言葉にするとそんな感じ。


【黙って何も言わないけれど、「見てるよ」】とイケメン上司はアピールはしてないかもしれないけれど、見てることは私に伝わるようになった。


最初に見てるかもと思ったのは、今みたいなブログの統計データという揺るぎないものによるんじゃなくて、私個人の体感覚とペンジュラムが見てることにYESを出したことだった。


これは5年前の秋にブログを再開してわりかしすぐに出てきた感覚だった。


体感覚というのは、これは今でも本当にそうなのかどうかはわからないけれども、とにかくブログをアップしてしばらくすると体の一部が痛くなったり独特の感覚が確実に自分側ではないところからやってくる感じとか、そういうザ・オカルト体質的なものなのかは知らないけれども、とにかくそういうことが続いた。


ちなみに痛みはいつも心臓とかみぞおちの辺りで、それはイケメン上司の心の傷みみたいなのが飛んでくるのかなと思っていた。


これこそ頭のおかしい人みたいだけれど、いかんせん私側はどこも不調がないのにブログをアップして数時間以内にやってくるもので、それで何か自分とは違うところから来るというのはその時にしかないからそんな風に感じていた。


それが最初で、途中からはブログの統計データのページの存在に気付いて、そこからは体感覚よりも見えるデータを見てのデジタル的な情報に頼れるようになったけれど、体の痛みは今も時々ある。


何の話してたんだっけ?と思って、またまた話が飛び過ぎているけれど、本題の方に戻ると、黙って何も言わなくてもイケメン上司の行為は私にも届いている。


デジタルデータであっても、とにかくそれを信じるだけのデータ量が蓄積されて、今は疑うことなく「見てくれてる」とわかるようになった。


ちなみにどこにも「ブログアップしました」とかいう情報を拡散してないから、本当に今は誰も見てないに等しいくらいにひっそりとしたブログになっているから、だからこそどの記事が読まれたとかまでかなり明確にわかる状態になっている。


有名なブロガーの人が1日何万人とアクセスがあるなんていうことを何かの分析と共に言っているのを読んだことがあって、もし私がその手のブロガーならイケメン上司の行為は知れなかったけれども、何せゼロの日もあるくらいに私のブログはひっそりこっそりとしているから、ものすごく良く言えば隠れ家チックで、だからこそ小さな統計で十分に伝わるところまで今までやってこれた。


そして、そのイケメン上司の意図はわからないけれどもとにかくブログにアクセスしてくれる行動そのものは、私に1つ「見ている」アピール?行動?を示すというか、私も疑わずに見てくれてるんだと知れて安心するみたいな、なかなかに良い流れになってくれている。


言葉を100個並べても伝えることができないことも世の中にはたくさんある。


そして言葉などなくても、無言なのにものすごく強く伝わるものもあると知った。


そう、無言なのに伝わる。


その凄さに私もようやく気付いた。


コミュニケーションと言うと、とりあえず2人以上の人が「言葉」を交わすことで成り立つと思いがちだけれど、言葉が一切無くてもそれ以外の方法で何かしら強いものが伝わることもある。


それがこのブログの先にあるイケメン上司の行動で、ようやく私もそれを本当に知れる、受け取れるところにまでやってこれた。


コミュニケーションの形は1つじゃない。


言葉を使わずに伝えることもできるんだと知った。


イケメン上司側はそんな意図ではないかもしれないけれど、とにかく「これも1つのコミュニケーションの形」だと今の私は思えるようになった。


そんなこんなを思っていた時に、自分が過去に関わった子どものことを思い出した。


Jとしよう。


Jは注意されたりしてヘソを曲げると、基本無言になって、さらにタチが悪いことに頭を壁にぶつけたりとかして自傷的なことをする子だった。


ちなみに頭を壁にぶつけたりはするけれど、それが本気でそうしているというよりも、私の気を引いたり、こちらとしても放ってどこかに行くわけにはいかないから私を繋ぎ止めるための行為という感じでもあった。


だから何十回とするわけじゃなくて、やっても数回、そして私が危険を察してとりあえずそこに居残るとわかるとそれはしなくなる。


代わりにダンマリになってずっと沈黙を続ける。


それはたんすと壁の間だったり、2段ベッドのベッドの下と床の間の小さなスペースだったり、そういうところに自分自ら入って沈黙を保つということをする。


それを1時間とか2時間とかやって、とにかく機嫌が直って話ができるところまで待つということを何回かした。


Jもその辺りの計算高さはあって、絶対に私が勤務から外れた時間にやっていた。


勤務中だとそんなことをしているJに付き合えないから(他の子どもたちも見ないといけないからJとだけ1時間も2時間もマンツーマンではいられない)、それをされるのはいつも勤務外だったなと今頃だけれど思い出した。


Jとイケメン上司は全然違うけれども、とにかく沈黙を保って存在アピールするところは少し似ている感じがある。


Jがダンマリになっている時、音声はなくて、最初の数分は私も話しかけるけれども、途中から無駄だとわかると私もダンマリになって、機嫌が悪くなるとかそういうことはなかったけれど(面倒くさいとは思ったとは思う)、とにかく時が過ぎて気持ちのスイッチが切り替わるのを待つしかない。


で、狭い和室の中でひたすら黙ってお互いに1メートルくらい離れたところにそれぞれいるわけだけれど、黙っていてもお互いにお互いがいることはわかるし、気配はどうやっても感じる。


むしろ普段ベラベラと話してる時よりもダンマリ合戦の時の方がお互いに「いる」とわかる感じさえする。


Jとは対面で同じ空間にいるからそのいる感覚はもちろんあって当然のものだけれど、イケメン上司と私のこのブログという1つの小さな世界で流れているものもそれに少し近い感じがする。


少なくともイケメン上司からすると私が書いてることだけははっきりとわかっているわけだし、私の方も直近でアップしたのを見てくれているのはイケメン上司だけとは限らなくても過去にさかのぼっての相当マニアックな記事たちは確実にイケメン上司しか見ないだろうと思う。


このブログに来さえすれば、私もイケメン上司が見てくれたのかどうかわかるし、イケメン上司も私がどこかのタイミングでアップしていたことがわかる。


イケメン上司側は言葉は何にもないけれど、「いる」と互いの存在がわかる。


そう、言葉がなくてもそれ以上のものが伝わる。


そういうコミュニケーションがこの世にあるんだと知る。


それはとっても特殊な形かもしれないけれど、それだって1つの立派なコミュニケーションだと私は思っている。


そして、その特殊な形のコミュニケーションに私は自分が癒されている。




*




土曜日の休日出勤の後、大型書店に立ち寄ってから帰った。


気になる本があって、その本の中身を見てみたかったけれども、マニアックなだけあって本は置かれていなかった。


疲れたからさっさと帰ろうと思って、数日前の夜に母を助手席に乗せて長岡花火フェニックスを見た時と同じ橋を渡っている時だった。


「あーーー\((◎_◎))/」


突然気付いた。


Jの名前。


Jとイケメン上司とは1文字違いだということ。


JがA◯◯だとすると、イケメン上司はB◯◯になる。


漢字も違うしお互いの印象も違うから全然気付かなかったけれども、2人とも1文字違いの名前なのは間違いない。


なんならJも「カッコいい!キャー!」と学校の女の子たちからは言われていたようだった。


どうでもいいことだけれど、小学生のくせに1学年上の美少女から熱烈なアタックを受けて小さなプレゼントやら手紙やらももらっていて、相手の女の子が勘違いしないようにどういう態度や言動が良いかと、けっこう真面目にJと話したこともある。


仲良くするのは構わないけれども、流れに任せて体の関係などを持ってしまうみたいなことになっては大変だから、どう話したのかは覚えてないけれども、とにかく好きでもないのに相手を勘違いさせるのは良くないことに軸を置いて話した記憶はある。


Jは私が個別の担当者となった子で(だからJの学校の面談とかにも行けば買物に出たりと、そういう個別の対応が必要なところは私が動く)、そういう特別に関係性が強い子と、それから10年くらいした時に職場で出逢う上司の名前とが一字違いだなんて、すっごく嬉しいシンクロだった。


Jのそのダンマリ合戦も他の人の時にしたのかどうかはわからない。


多分他の人の時は1時間2時間も付き合ってなどもらえないからしなかったかもしれない。


いずれにしても、そんなことするのはJだけで、もし私がJの担当でなければダンマリ合戦を体験しなかったようにも思う。


そしてまさかのJとのダンマリ合戦の時のお互いに「いる」とわかる感覚と、このブログを通じてイケメン上司とのバーチャルダンマリ合戦の時の「いる」とわかる感覚とがどこか似通っているだなんて、20代の私には当然想像もできなかった。


そんなことを思いながらようやく解放された休日勤務を終えてホッとしたところ、ふと反対車線の車のナンバーが目に入った。


何台もすれ違ったのに、本当に突然その黒い車のナンバープレートが目に飛び込んできて、そのナンバーがイケメン上司の誕生日と同じ数字で驚いた。


一瞬過ぎたにも関わらず、吸い寄せられるようにそのナンバープレートだけが見えた。


何か感じ取る力でも芽生えたのかと思うくらい、エスパー史子になった気分だった。


Jとイケメン上司の名前のシンクロ具合に気付いた10分後くらいの話で、なんだかすっごく嬉しくなってしまった。




*




家に帰ると、母がちょうど外に出ていて、これからドラッグストアに買い物に行くと言うからそのまま車を出して2人でドラッグストアに行った。


お目当ての1つに洗濯洗剤があった。


母にどれが良いかを聞かれて、決して大きくないドラッグストアの洗濯洗剤のコーナーで大混乱に陥った。


一人暮らしだった数年前と今とでは比べ物にならないくらい洗濯洗剤の種類が格段に増えていて(家の日用品関係は母が大体買ってくる)、私には何が良くてとかどれがお買得かもわからないくらいたくさんの種類があった。


そして某メーカーの洗剤3種類が特売のようになっていて横に1列に並んでいた。


母にどれが良いかを聞かれたもののその3種類が何がどう違うのかパッケージを見てもわからなかった。


どれも部屋干し用で抗菌?除菌?もバッチリで、「で?」と私は真面目になったくらいに、本当に最後まで差がわからなかった。


謳い文句も本当に同じで、何を比べると違いがわかるのか本気でわからなくて、そしてあまりの種類の多さにもはや全てがどうでも良くなり、最終的に一番お得用なものを買うことに落ち着いた。


それを見て、ドミニカ共和国から2年ぶりに日本に戻って、新宿駅の西口?小田急とか京王線とかがある方の出口から出て、ビル街に向かって歩こうとした時にビルというビルの建物の角に縦一列に並ぶ電飾掲示板や店の看板を見てクラクラした時のことを思い出した。


過去には新宿駅を毎日経由していた3ヶ月の期間とか、それまでだってたくさん東京の大きな駅や駅近のビル街を行き来したことがあるから慣れた風景のはずなのに、何かすごい情報の渦で圧倒されてしまった。


ドミニカにいた時は首都に住んでいて、そこだってそこそこな都会なわけで広告や電飾掲示板だってあったけれども、あの新宿駅の周りのようなごちゃごちゃした感じはない。


今からだと13年も前になるけれど、その時に私は「こんなに情報、いらない」と大真面目に思った。


自分が処理できる情報量を圧倒的に上回る情報を与えられたところで、それを上手く処理したり分類したりする余力が私の中にない。


当時はまだ全くオカルト体質にはなっていなくて、今よりも見えない情報をキャッチする力は弱かったと思うけれど、それでもあまりの情報量にうっとなった。


洗剤もよくわからないまま終わったし、新宿のあの無限に広がる看板たちもどれ1つとして印象に残らなかったな…なんて思った時、1つだけ突然ものすごくはっきりと輪郭を持って私の中に浮かんだ。


イケメン上司がブログを見た見ないというのは、とてもシンプルでわかりやすいことだということ。


いつの時も二択で、見たら見たとわかるし、見ない時は見ないで終わり。


その潔いくらいにわかる形が私にはちょうど良い感じなんだと思った。


もちろん、色々と意味不明なことはある。


知りたいことをいくつか挙げると、何でイケメン上司はこのブログを見るのか、見ている時にどんな気持ちになるのか、過去のことをほじくり返して私が綴っているものをどういう気持ちで読むのか、言い出したらキリがないくらいに色々知りたいことはある。


そして知りたい=今現在知ることができない、という意味で超絶謎めいている。


その辺りの迷宮具合は、ドラッグストアの洗剤コーナーよりも、新宿駅近くのごちゃごちゃした感じよりもさらに上回っているけれども、それでも物事はとてもシンプルで、ブログを見たか見ないか、その2つのどちらかであることに私の方もそこは迷走せずに済んでいる。


本当に面白いブログでもなければ、ツラツラと書かれていて「だから何!?」みたいな内容だし、読んでもらうことさえ多少申し訳ない気持ちも湧くくらいで、そんなブログに時間を割いてもらえるのはとてもありがたくとてもうれしい。


シンプル・イズ・ザ・ベスト

って本当にこういう時こそすごい強いなと思う。


よくわからないことだらけでも、一貫とした行為を見せてもらえることがどれだけ力となってくれるだろうと思う。


イケメン上司は小説を読んだりもするらしいけれど(もちろん本人から教えてもらったわけじゃなく、イケメン上司と仲良しのSさんから何年も前に教えてもらった)、果たして何かを読む習慣のある人からしてこのブログなどどのような印象として映るのか想像さえできない。


ただ1つだけ言えることは、嫌ではないんだろうなということ。


好かれているとか肯定されているとかいう風に問いかけると答えもかなり怪しい感じになってくるけれど、嫌ではないとか否定されていないという風に問いかけると、多分嫌じゃないんだろうし否定もされてないと思う。


このブログを舞台にしたダンマリ合戦は、少なくとも私が嫌がられてるとか嫌われてるとか迷惑を生み出す人だとか、そういうことをずっとずっと思っていたことに対して、実はそうじゃないんだよ、と教えてもらえるものに発展しつつある。


真面目に本当に嫌なら、このブログは見ないって断言してもいい。


転勤直後なら好奇心とかで見ることも可能性としては十分に考えられたけれど、5年もするとさすがに好奇心とか興味関心だけで見るというのはないように思う。


イケメン上司の普段の生活には私はもう全く関与できないし、イケメン上司の目が届く景色の中に存在することさえできない。


5年前に流行っていた歌だとか食べ物だとかトレンドだとか、そんなのはもう何があったかさえも私も含めて多くの人は覚えていない。


それくらい、時間というものが経った。


どうやってもイケメン上司の日常にはいられない私が、このブログが唯一接点となってなんとなく交わえる、意思疎通は図れなくても接点・交点だけは手にできる。


それは5年という時間を経たからこそより一層色濃くなって私にもわかるようになった。


だからこそ変わらずにブログを見てくれているというのは、どんな理由にせよとっても稀有で特別なことだと今はますます思うようになった。


こんなコミュニケーションの形もありだと思う。


とっても不思議だし言葉もないけれども、そのコミュニケーションによって私は救われているし力をもらえている。


シンプル・イズ・ザ・ベストなこのコミュニケーションは、イケメン上司の心の中とかは解き明かしてくれないけれども、少なくとも私側の心の中にはあたたかいものを運んでくれるから、それでOK!なんて今の私は思っている。