初めて足を踏み入れる場所、例えば誰かの家だったりオフィスだったり、そういうところに行くと妙に目につくものがある。
誰かが作り上げた空間には、その人やそのグループ・組織特有の色がある。
そういうものの中でひときわ目を引くものがある。
それがのちの何かと結びついていると気付くのは、ずっと後の祭り。
その場所に初めて足を踏み入れてようやく周りを見渡すぐらいの余裕が自分にできた頃のこと。
部屋のすみっこにあるにも関わらずすごい主張をしているものがあった。
時は6月。
1枚のダウンジャケットだった。
最初その存在に気付いた時。
「今6月だよね?梅雨っていうか夏だよね?季節は夏。もう季節は春が終わって夏。百歩譲って春先まで着てたとして、なんで今もダウンがあるの?」
とそれはそれは批判的な目でそのダウンを眺めていた。
場所からいって、持ち主は一人しかいない。
私が初めて足を踏み入れた時からあったもので、もうそれが一体いつから放置されてるものか真偽のほどは定かではなかった。
当たり前だけれど、何でダウンをそこに置いてるんですか?なんて聞ける相手でもなかったから、気にはなったけれど大人の礼儀として口をつぐんでいた。
なぜかそのダウンだけはいつもいつも自然と目が行っていた。
そこだけ異彩を放っていたから。
当然日に日に薄着になっていくわけだけれど、季節の進み具合とは逆行するかのようにそのダウンはそこにずっと居座り続けた。
その空間の他の景色はあっという間に自分の目に馴染んだけれど、どういうわけかそのダウンだけは毎度毎度ものすごく奥にあるし常に目につくものでもないのに、いつまでも見慣れることがなかった。
掃除をする時なんて、思わず「ダウン…」と見なくてもいいのにそちらにわざわざ目の向きを変えて注視するぐらいだった。
今振り返ってみても、他にももっと注目を引きそうなものが至る所にあるのに、私はなぜか最初からそのダウンだけが気になって気になって仕方なかった。
そして今となっては、もうそのダウン以外に風景で気になったものは他に思い出せない。
ある時から私はその場所の掃除を避けるようになった。
結局そこを掃除したのはたぶん3回ぐらいだと思う。
しなくなったのには理由がある。
ダウンを中心としたその一角は、私にとってものすごく気になる場所で、掃除をすればそこを自由に眺めることができるのは知っていた。
だけど、色んな思いが自分の中で渦巻きだしてからは、どうにも近寄りがたくなってしまった。
近寄りたいのに近寄りがたいという矛盾した思いが常にあって、最初の頃何も気にせずに掃除をしていた時と同じような態度でそこには立てなくなった。
なんだか勝手に見てはいけないような、そんな気持ちもあった。
だから他のみんなが多分やりたがらない掃除の係を積極的に務めて、代わりにそこの掃除を避けるようになった。
もうひとつは、いつかは終わりがくることを無意識で感じていたんだと思う。
そこの景色が変わる様を見たくなかった。
これまでだって色んな終わりを経験している。
それまで当たり前のようにいた人たちが、卒業・異動・引っ越し・退職・人間関係の解消、それぞれの理由で終わりを迎える。
別に誰かとの終わりを迎えるのは初めての経験じゃない。
だけど、今回だけはこれまでと勝手が違っていた。
この文章を書くにあたり、私は自分の過去のことを色々振り返ってみた。
思い出せる限り、私は自分がそこに残り相手が去っていく姿を見届けるという経験をほとんどしていない。
仕事でとってもお世話になった方々をお見送りしたことはあったけれど、そういう方たちとはその後も人間関係は続いてプライベートでも時々会っていたから、本当のおしまいを経験していなかった。
付き合った人たちは、理由は何であれ、最後の瞬間はいつも私がその場を立ち去っていた。
だから相手はそのままその場に残っていて、物理的に言えば相手が見送る方で私が見送られる方だった。
一人だけ連絡がつかなくなった人がいたけれど、それはそれで特殊な感じで「去る」のとは違っていた。
9割以上、私は自分がその場所を去る、見送られることがなぜか多かったから、だから相手が去る姿を見届けるというのは、ほぼほぼ初体験と言ってもいいぐらいだった。
そんなことつい昨日ぐらいまで知らない事実だったけれど、立ち去る誰かを見届ける経験がほぼほぼない自分にとって、その終わりは並々ならぬ心の準備が必要だと感じ取っていたんだと思う。
だからいつかすべてがなくなる日までの移り変わりを見届けたくなかった。
定期的に掃除をすればそこがどんな風に変わったか瞬時にわかってしまう。
そんなのは見たくなかったし知りたくなかった。
だからそこの掃除だけはものすごく意図的に避けていた。
具体的な終わりの時期を知ってからは、私はその近辺を見ることさえ避けるようになった。
それぐらい目にしていたくなかった。
そんなことを言ったところで、当然物は1つまた1つとなくなっていったし、今ではそこに存在していた物たちは一つ残らずなくなってしまった。
ただそのすべての流れの中で、一番大きな衝撃だったのは、ある朝そこに行ったらそのダウンがなくなっていた日のことだった。
たった1枚のダウン。
空間全体の中でそのダウンが占める面積なんて1000分の1にも満たないと思う。
ましてやあってもなくても困らない。
そんなところに私が注目してたのなんて私以外の誰も知らない。
持ち主だってそんなの知らない。
そのダウンがなくなった日、私はその場で泣き出したいぐらいに悲しかった。
悲しいことはたくさんたくさんあったけれど、その中の1つがダウンがなくなった日だった。
夏なのにダウンってどういうこと?なんて批判的に見ていた頃の自分がうらやましかった。
まさかそのダウンが私が何にも気付いていない頃からすごい主張をしていただけじゃなく、そのダウンのある風景がいつの間にかとても特別なもので、それがある人の存在を示しているものになっているなんて思ってもいなかった。
やけにその場所がきれいになってもう「いなくなります」宣言を言葉なしでされているよりも、まだごちゃごちゃしていた頃にたった1枚のダウンがなくなった時の方が私には遥かに衝撃が大きかった。
当たり前だけど、もうダウンはそこにはない。
だけど、小さなものでもその人の存在を記憶に焼き付けられるようなものがある。
本当になんてことないダウンだった。
特別なデザインでも色でもなかった。
特別だったのは、夏の暑い時期にあったということだけ。
そしてこれからシーズンを迎えるというその前に、ダウンともども目の前の景色から消えてしまった。
私はこの3週間、色んなシーンを思い返していた。
意図的に思い返すこともあれば、「そういえば…」という感じで自然と思い出したこともある。
その中の1つにダウンがあった。
そしてようやく最後の瞬間を直視するぐらいの準備が整い始めた。
その瞬間はとうに過ぎ去ったし、もう「過去」という時間軸の中にしか存在していない。
だけど、私の中ではずっとずっと見ることを避けていた。
脳裏に焼き付くぐらいの衝撃があったけれど、私はもう痛いのは嫌ですぐに蓋をした。
これから先、私がどんな気持ちの変遷をたどるかは知らない。
だけど、色んなアップダウンを経験する中でも1つだけ心に響いた言葉がある。
「私の人生に現れてくれてありがとう」
~時間旅行の途中で思い出した~
アルヘニの背中
2017年10月20日金曜日
アルヘニの背中
「ぶっしー、すごい良い絵だったから、写真撮っといたで」
そう言いながら私の仕事を手伝ってくれた友達が私のデジカメを返してきた。
その日私は、当時の仕事の最後の一大イベント、チャリティバザーを終えた。
友達が撮ってくれた写真というのは、私に背中を向ける小さな男の子とその子と同じ向きで同じようにしゃがみこんで話しかける私だった。
友達は遠くから撮影していたから、できる限り拡大してその写真を撮ってくれていた。
その小さな男の子の名前はアルヘニ。
8歳か9歳だった。
当時私はひょんなことから、スペイン語の読み書きの教室をすることになった。
まさか私は自分がそんなことをすることになるとは思ってもみなかった。
当たり前だけど、スペイン語は第二言語どころか第三言語のようなもので、そんな言語の読み書きを教える知識なんてこれっぽっちもなかった。
あると言えば、自分もゼロからの学びだったから、その学び途中のプロセスを知っているぐらい。
色々すったもんだがありながらそうなってしまった以上は仕方ない。
教育や言語教育のプロたちにあれこれ教えをもらって、とにかく何が何だかわからないままに始まったスペイン語の読み書きの教室だった。
そこにやってきたのがアルヘニだった。
1年数か月のプログラムで、総勢200名以上の人たちの読み書きのテストをしたし、そのうちの数十人は実際に教室にも来た。
その中でもアルヘニは本当に読み書きができなかった。
そして勉強することがとても嫌いだということは見ていてよくわかった。
最初の数ヶ月、アルヘニの笑顔なんて見たことなかった気がする。
心底面白くないという顔を毎回されたし、時々机の下に隠れたりしてとにかく勉強から逃げようと必死だったこともあった。
1人また1人と来なくなるにも関わらず(これは「継続性」なんていうことを持たない国民性ゆえ)、数少ない継続して教室に通い続けた人たちの1人がアルヘニだった。
私はずっとずっと不思議だった。
何でアルヘニが通い続けるのか。
そしてアルヘニは、もう1人別の大人の女性と並んで、たった2人しかいなかった宿題を毎回やってくるうちの1人だった。
ある時その理由が判明した。
アルヘニの送迎はいつもいくつか年の離れたお兄ちゃんがしてくれていた。
ある日お兄ちゃんの都合がつかなかったのかお母さんがやってきた。
そのアルヘニのお母さんというのが、いわゆる肝っ玉母ちゃんという感じで、芸能人でたとえるなら北斗晶みたいな感じだろうか。
アルヘニがどんなに渋ろうとどんなに楽しくないと感じていようと、「とにかく行け!!」と有無を言わせずアルヘニを行かせるお母さんだった。
宿題もその延長戦だろうと思う。
このお母さんを前に「やった」としらを通せるはずもなければ、「やりたくない」なんて当然言えないだろう。
だからアルヘニはひたすら通い続けていた。
何ヶ月か経った頃、アルヘニはかなり読み書きができるようになった。
自分の名前すらどうしてそういう綴りになるのか理解できていなかったのに、ある時から飛躍的に伸びだした。
アルヘニが来る時間は、もう他の誰も来なくなっていたから、私とまるっきりのマンツーマンになっていた。
アルヘニは笑うようになったし、あんなに嫌がっていた勉強を自分が納得するまで「もう1回!」と言って読みなり書きなりをやり続けた。
最後は、アルヘニは全ての単語を読み書きできるようにまでなった。
時々まちがいはあるものの、あの全く読み書きができなかった出会った頃に比べたら、もう雲泥の差だった。
そしてアルヘニが読み書きをマスターするタイミングで、私の日本帰国も迫っていた。
アルヘニには予め伝えていた。
いつが最後のレッスンで、いつがレッスンではないけれど同じ敷地内でチャリティーバザーをする日で、そしていつがアルヘニの教室の修了式になるかを。
チャリティーバザーの日は、ラストの1つ前のラストの日だということを、あの小さな体で一生懸命感じ取っていた。
バザーの日、なかなかアルヘニ家族は姿を現さなかった。
細かいことは忘れたけれど、お母さんたちは先に一度バザーを見るためにやってきたと思う。
その時アルヘニの姿はなかった。
それこそ何百人単位の人がごったがえしていたから、アルヘニのお母さんたちにあいさつしたのも一瞬だったかと思う。
バザーも終焉に近付いた頃、お母さんが電話をくれた。
「アルヘニに行こう、フミコに会えるから行こう!って何度も言ってるんだけどね。アルヘニがどうしても行きたくないって言い張るのよ。フミコに会えなくなるのが寂しいから、だから行かないって。でも何とかして連れて行くから待っててね」
こんな内容だったかと思う。
その電話の後、バザーも終わって後片付けを始めた頃、お母さんと妹とアルヘニがやってきた。
お母さんと妹はいつも通りフレンドリーだったけれど、アルヘニは私の顔を見るなり何メートルも離れたすみっこに行って私に思いっきり背中を向けた。
お母さんたちと一通りあいさつを交わした後、私は私に背中を向けてしゃがみこんでうつむいているアルヘニのすぐ斜め後ろに行って、同じ向きで私もしゃがみこんでアルヘニに話しかけた。
そこでどんな会話をアルヘニと交わしたかは覚えていない。
でもそれは、お互いに今生で会えるのは今のこの時だけで、確実にサヨナラが迫っていること、それを知っている者同士のやりとりだったことは間違いない。
アルヘニは私よりもうんと私との最後を意識していて、それを小さな体の全身を使って悲しんでいた。
アルヘニの背中は色んなことを伝えていた。
だから、バザーの手伝いに来てくれてた友達が遠くから何かを感じ取って、その写真を撮ってくれたんだと思う。
友達が写真を撮ってくれたのもあるけれど、アルヘニとの最後は、最後の修了式よりもそのバザーでのやりとりの方が今でも色濃く記憶に残っている。
最後にアルヘニのお母さんが
「アルヘニ、ここまで読み書きできるようになったおかげで、来学期からもっとレベルの高い学校に編入できることになったのよ!」
と教えてくれた。
(編入システムもあれば、小1から留年システムもある国だった)
たしかに読み書きできるようになってアルヘニの世界は広がったと思う。
もちろんそういうのを目指しての読み書きの教室の出発だったことも本当。
だけど、それ以上にアルヘニという小さな男の子とやりとりする全てのことに大きな意味があったと思う。
読み書きの教室は手段とかやりとりする場所でしかなく、本当の目的はアルヘニと時間を共にすることだったと思う。
このアルヘニとの最後のやりとり、アルヘニが私に思いっきり背中を向けていたことはもうずっと忘れていたけれど、突然別の人の同じ行為(根底にある気持ちはアルヘニとは違うと思う)を思い出した時に、アルヘニの背中が出てきた。
あの小さな背中が伝えてくれたことは、あれから何年も経って私に今度は癒しをもたらした。
2人が出会って2人しか知らないものを積み重ねた先に、あの背中はあった。
あの背中に今の私が救われてる。
そう言いながら私の仕事を手伝ってくれた友達が私のデジカメを返してきた。
その日私は、当時の仕事の最後の一大イベント、チャリティバザーを終えた。
友達が撮ってくれた写真というのは、私に背中を向ける小さな男の子とその子と同じ向きで同じようにしゃがみこんで話しかける私だった。
友達は遠くから撮影していたから、できる限り拡大してその写真を撮ってくれていた。
その小さな男の子の名前はアルヘニ。
8歳か9歳だった。
当時私はひょんなことから、スペイン語の読み書きの教室をすることになった。
まさか私は自分がそんなことをすることになるとは思ってもみなかった。
当たり前だけど、スペイン語は第二言語どころか第三言語のようなもので、そんな言語の読み書きを教える知識なんてこれっぽっちもなかった。
あると言えば、自分もゼロからの学びだったから、その学び途中のプロセスを知っているぐらい。
色々すったもんだがありながらそうなってしまった以上は仕方ない。
教育や言語教育のプロたちにあれこれ教えをもらって、とにかく何が何だかわからないままに始まったスペイン語の読み書きの教室だった。
そこにやってきたのがアルヘニだった。
1年数か月のプログラムで、総勢200名以上の人たちの読み書きのテストをしたし、そのうちの数十人は実際に教室にも来た。
その中でもアルヘニは本当に読み書きができなかった。
そして勉強することがとても嫌いだということは見ていてよくわかった。
最初の数ヶ月、アルヘニの笑顔なんて見たことなかった気がする。
心底面白くないという顔を毎回されたし、時々机の下に隠れたりしてとにかく勉強から逃げようと必死だったこともあった。
1人また1人と来なくなるにも関わらず(これは「継続性」なんていうことを持たない国民性ゆえ)、数少ない継続して教室に通い続けた人たちの1人がアルヘニだった。
私はずっとずっと不思議だった。
何でアルヘニが通い続けるのか。
そしてアルヘニは、もう1人別の大人の女性と並んで、たった2人しかいなかった宿題を毎回やってくるうちの1人だった。
ある時その理由が判明した。
アルヘニの送迎はいつもいくつか年の離れたお兄ちゃんがしてくれていた。
ある日お兄ちゃんの都合がつかなかったのかお母さんがやってきた。
そのアルヘニのお母さんというのが、いわゆる肝っ玉母ちゃんという感じで、芸能人でたとえるなら北斗晶みたいな感じだろうか。
アルヘニがどんなに渋ろうとどんなに楽しくないと感じていようと、「とにかく行け!!」と有無を言わせずアルヘニを行かせるお母さんだった。
宿題もその延長戦だろうと思う。
このお母さんを前に「やった」としらを通せるはずもなければ、「やりたくない」なんて当然言えないだろう。
だからアルヘニはひたすら通い続けていた。
何ヶ月か経った頃、アルヘニはかなり読み書きができるようになった。
自分の名前すらどうしてそういう綴りになるのか理解できていなかったのに、ある時から飛躍的に伸びだした。
アルヘニが来る時間は、もう他の誰も来なくなっていたから、私とまるっきりのマンツーマンになっていた。
アルヘニは笑うようになったし、あんなに嫌がっていた勉強を自分が納得するまで「もう1回!」と言って読みなり書きなりをやり続けた。
最後は、アルヘニは全ての単語を読み書きできるようにまでなった。
時々まちがいはあるものの、あの全く読み書きができなかった出会った頃に比べたら、もう雲泥の差だった。
そしてアルヘニが読み書きをマスターするタイミングで、私の日本帰国も迫っていた。
アルヘニには予め伝えていた。
いつが最後のレッスンで、いつがレッスンではないけれど同じ敷地内でチャリティーバザーをする日で、そしていつがアルヘニの教室の修了式になるかを。
チャリティーバザーの日は、ラストの1つ前のラストの日だということを、あの小さな体で一生懸命感じ取っていた。
バザーの日、なかなかアルヘニ家族は姿を現さなかった。
細かいことは忘れたけれど、お母さんたちは先に一度バザーを見るためにやってきたと思う。
その時アルヘニの姿はなかった。
それこそ何百人単位の人がごったがえしていたから、アルヘニのお母さんたちにあいさつしたのも一瞬だったかと思う。
バザーも終焉に近付いた頃、お母さんが電話をくれた。
「アルヘニに行こう、フミコに会えるから行こう!って何度も言ってるんだけどね。アルヘニがどうしても行きたくないって言い張るのよ。フミコに会えなくなるのが寂しいから、だから行かないって。でも何とかして連れて行くから待っててね」
こんな内容だったかと思う。
その電話の後、バザーも終わって後片付けを始めた頃、お母さんと妹とアルヘニがやってきた。
お母さんと妹はいつも通りフレンドリーだったけれど、アルヘニは私の顔を見るなり何メートルも離れたすみっこに行って私に思いっきり背中を向けた。
お母さんたちと一通りあいさつを交わした後、私は私に背中を向けてしゃがみこんでうつむいているアルヘニのすぐ斜め後ろに行って、同じ向きで私もしゃがみこんでアルヘニに話しかけた。
そこでどんな会話をアルヘニと交わしたかは覚えていない。
でもそれは、お互いに今生で会えるのは今のこの時だけで、確実にサヨナラが迫っていること、それを知っている者同士のやりとりだったことは間違いない。
アルヘニは私よりもうんと私との最後を意識していて、それを小さな体の全身を使って悲しんでいた。
アルヘニの背中は色んなことを伝えていた。
だから、バザーの手伝いに来てくれてた友達が遠くから何かを感じ取って、その写真を撮ってくれたんだと思う。
友達が写真を撮ってくれたのもあるけれど、アルヘニとの最後は、最後の修了式よりもそのバザーでのやりとりの方が今でも色濃く記憶に残っている。
最後にアルヘニのお母さんが
「アルヘニ、ここまで読み書きできるようになったおかげで、来学期からもっとレベルの高い学校に編入できることになったのよ!」
と教えてくれた。
(編入システムもあれば、小1から留年システムもある国だった)
たしかに読み書きできるようになってアルヘニの世界は広がったと思う。
もちろんそういうのを目指しての読み書きの教室の出発だったことも本当。
だけど、それ以上にアルヘニという小さな男の子とやりとりする全てのことに大きな意味があったと思う。
読み書きの教室は手段とかやりとりする場所でしかなく、本当の目的はアルヘニと時間を共にすることだったと思う。
このアルヘニとの最後のやりとり、アルヘニが私に思いっきり背中を向けていたことはもうずっと忘れていたけれど、突然別の人の同じ行為(根底にある気持ちはアルヘニとは違うと思う)を思い出した時に、アルヘニの背中が出てきた。
あの小さな背中が伝えてくれたことは、あれから何年も経って私に今度は癒しをもたらした。
2人が出会って2人しか知らないものを積み重ねた先に、あの背中はあった。
あの背中に今の私が救われてる。
2017年10月15日日曜日
「がんばれ」
人生で初めて、ちっとも嫌じゃない「がんばれ」に出逢った。
子どもの頃オール1でスタートした私の人生は、「がんばれ」の言葉が常に日常にあった。
母親をはじめ色んな人から「がんばれ」とよく言われた。
周りは励まそうと思って言っているのは何となくわかっていたけれど、それを言われるたびに私は「こんなにがんばっているのにまだがんばらなきゃいけないの?」とよく思っていた。
大人になってうつ病という病気が社会の中で広く認識されるようになった頃、「〝がんばれ″という言葉はうつ病の人に言うとさらに本人を追い詰めるから良くない」と言われるようになった。
当時の私は自分がうつでもないのに、いたく共感していた。
大人になってから私の「がんばれ」という言葉にはもう一つ苦手な要素が加わった。
これは最近ようやく気付いたのだけれど。
自分でも自覚があるけれど、私はこれはやりたい!とかやらなきゃ!という気持ちで動くと並々ならぬ集中力を発揮することがある。
それを周りの人から見ると、私は「とてもがんばった人」として映るらしい。
私的にがんばってるつもりはなくて、単に興味があるとかそうしないといけないという責任感みたいなものでやってるだけ。
なのにがんばった人になる。
そしてそれをわざわざ私に「がんばったね!」と言ってくる人もいるわけで、言われると私はなぜかカチンとくる。
「がんばったってどういうこと?私は自分の気持ちに従っただけなのに…」と心の中で毒づく。
自分でも面倒くさい人だと思うけれど、そう自動的に感じてしまうのだから仕方ない。
そんな私が人生で初めてちっとも嫌じゃない「がんばれ」に出逢った。
そしてとっても前向きに「がんばろう」と思えたし、おそらくそれは少しずつ行動化されてきていると思う。
秋晴れとはいかなくてもそこそこ晴れたある土曜日。
秋から冬にかけて着る服を見に60キロ以上離れた大きなショッピングセンターに行った。
大きな国道をはさんで2つあるから、1つ目を見て2つ目を見ようと思った。
1つ目でまずショックな事実が判明した。
そこでお気に入りだったお店がなんと閉店していた。
ただでさえお気に入りの店が少ないのに(片手で数えても指が余る)、そのうちの1つが閉店。
気を取り直して、2つ目の大きなショッピングセンターへ移動した。
お目当ての店めがけて行こうとしたら、その途中であるイベントをしているのが目に入った。
その人を見て感じたままを言葉に書き下ろすというもの。
書いた言葉の例がいくつも額に入って展示されていた。
私は足を止めていくつもの言葉を読んだ。
それらの言葉はいまいち心に入ってはこなかったけれど、妙に気になったのも本当だった。
ちょうど1人和服を着た女性がお客さんで書いてもらっていて、当然書き手の人も見えたけれど、その時もまだいまいち心が決まらずにいた。
高額すぎても困るから、とりあえず価格を確認しようと思った。
確認すると、安いことはなくても高いこともない。
そしてちょうど前日の友達の娘の家庭教師の金額で出せる風になっていた。
友達の娘の家庭教師代は特別なお金だから、私はそれを自分のための何か大切なものに代えている。
そういう意味でこの言葉を書いてもらうのはうってつけだった。
それでも私はまだ迷っていた。
そこで私はぐるっと店の中を回ってそれで決めようと決めた。
回る時、書き手の人と目がかち合ったけれど、にこっとしたのかどうしたか忘れたけれど、そそくさとその場を立ち去った。
10分もしないうちに、「書いてもらおう!」と決めた。
このまま立ち去っても気になるだけだし、それなら期待外れで損してもいいから書いてもらった方がすっきりすると思ったから。
何せ展示の言葉にいまいち引き込まれなかった私は、大きな期待もせずにそれに申し込んだ。
書く内容も私の希望に合わせてもらえるということで、私は「私を見て感じたまま書いて欲しい」とお願いした。
何がくるかわからなかったから。
その人は私の目をじっと見て(これが不思議とまったく嫌な感じがなかった)、それを2~3分したかどうかの時間で筆をとり書き始めた。
最初の一文を書いて、その後もう一度私の目をじっと覗き込んで、何かを手繰り寄せるように見ていた。
そこで出てきた言葉をまた続けて書いてくれて、書き終わると私にそこに込められている言葉を教えてくれた。
子どもの頃オール1でスタートした私の人生は、「がんばれ」の言葉が常に日常にあった。
母親をはじめ色んな人から「がんばれ」とよく言われた。
周りは励まそうと思って言っているのは何となくわかっていたけれど、それを言われるたびに私は「こんなにがんばっているのにまだがんばらなきゃいけないの?」とよく思っていた。
大人になってうつ病という病気が社会の中で広く認識されるようになった頃、「〝がんばれ″という言葉はうつ病の人に言うとさらに本人を追い詰めるから良くない」と言われるようになった。
当時の私は自分がうつでもないのに、いたく共感していた。
大人になってから私の「がんばれ」という言葉にはもう一つ苦手な要素が加わった。
これは最近ようやく気付いたのだけれど。
自分でも自覚があるけれど、私はこれはやりたい!とかやらなきゃ!という気持ちで動くと並々ならぬ集中力を発揮することがある。
それを周りの人から見ると、私は「とてもがんばった人」として映るらしい。
私的にがんばってるつもりはなくて、単に興味があるとかそうしないといけないという責任感みたいなものでやってるだけ。
なのにがんばった人になる。
そしてそれをわざわざ私に「がんばったね!」と言ってくる人もいるわけで、言われると私はなぜかカチンとくる。
「がんばったってどういうこと?私は自分の気持ちに従っただけなのに…」と心の中で毒づく。
自分でも面倒くさい人だと思うけれど、そう自動的に感じてしまうのだから仕方ない。
そんな私が人生で初めてちっとも嫌じゃない「がんばれ」に出逢った。
そしてとっても前向きに「がんばろう」と思えたし、おそらくそれは少しずつ行動化されてきていると思う。
秋晴れとはいかなくてもそこそこ晴れたある土曜日。
秋から冬にかけて着る服を見に60キロ以上離れた大きなショッピングセンターに行った。
大きな国道をはさんで2つあるから、1つ目を見て2つ目を見ようと思った。
1つ目でまずショックな事実が判明した。
そこでお気に入りだったお店がなんと閉店していた。
ただでさえお気に入りの店が少ないのに(片手で数えても指が余る)、そのうちの1つが閉店。
気を取り直して、2つ目の大きなショッピングセンターへ移動した。
お目当ての店めがけて行こうとしたら、その途中であるイベントをしているのが目に入った。
その人を見て感じたままを言葉に書き下ろすというもの。
書いた言葉の例がいくつも額に入って展示されていた。
私は足を止めていくつもの言葉を読んだ。
それらの言葉はいまいち心に入ってはこなかったけれど、妙に気になったのも本当だった。
ちょうど1人和服を着た女性がお客さんで書いてもらっていて、当然書き手の人も見えたけれど、その時もまだいまいち心が決まらずにいた。
高額すぎても困るから、とりあえず価格を確認しようと思った。
確認すると、安いことはなくても高いこともない。
そしてちょうど前日の友達の娘の家庭教師の金額で出せる風になっていた。
友達の娘の家庭教師代は特別なお金だから、私はそれを自分のための何か大切なものに代えている。
そういう意味でこの言葉を書いてもらうのはうってつけだった。
それでも私はまだ迷っていた。
そこで私はぐるっと店の中を回ってそれで決めようと決めた。
回る時、書き手の人と目がかち合ったけれど、にこっとしたのかどうしたか忘れたけれど、そそくさとその場を立ち去った。
10分もしないうちに、「書いてもらおう!」と決めた。
このまま立ち去っても気になるだけだし、それなら期待外れで損してもいいから書いてもらった方がすっきりすると思ったから。
何せ展示の言葉にいまいち引き込まれなかった私は、大きな期待もせずにそれに申し込んだ。
書く内容も私の希望に合わせてもらえるということで、私は「私を見て感じたまま書いて欲しい」とお願いした。
何がくるかわからなかったから。
その人は私の目をじっと見て(これが不思議とまったく嫌な感じがなかった)、それを2~3分したかどうかの時間で筆をとり書き始めた。
最初の一文を書いて、その後もう一度私の目をじっと覗き込んで、何かを手繰り寄せるように見ていた。
そこで出てきた言葉をまた続けて書いてくれて、書き終わると私にそこに込められている言葉を教えてくれた。
2017年10月9日月曜日
手紙のその後
1ヶ月前の週末に1通の手紙を書き上げた。
さらに年齢が妙齢であることや社会的立場やいつかは必ず遠くに離れてしまうこと、そうした大人の事情を考えたら、動かない方が絶対に傷付かないのは知っていた。
今その手紙がどんな風になっているのかは知らない。
受け取り手側のストーリーは何一つ知らない。
これから書くことは私側のストーリーで、現実に起こったこと・私の心の中のことが中心になる。
いつかどこかのタイミングで目に触れること届くことを祈って…。
2017年10月9日
当初こんなことを赤裸々にブログにアップする予定はなかった。
自分で書いていても恥ずかしさや穴があったら入りたい気持ちに駆られて仕方ない。
ブログに書こうと決めたのも、ほぼほぼ思い付きに近かった。
手紙の相手とはもう会えなくなった。
そしてこんなこと書いても相手に届くなんていうのは、確率で言えばミクロの世界。
だけど、会えなくなってからあまりにも不思議なことがいくつも重なるから、自分を通じてそれを発信してみようと思う。
これでもし何かが起こったのなら、本当にすごすぎる。
現実的に会えなくなってからも、その前からも、もうおかしな位におかしなことが起こっていたし起こっている。
まずわかりやすいことの1つに、手紙の相手の名前を至るところで目にすることが多くなった。
テレビなら、ちょうど出ていたゲストの人の名字とか、ドラマの中の役柄の人の名前とか。
昨日はちょっとした待ち時間に餃子特集の雑誌があったからそれをパラパラと眺めていたら、最初に紙面で紹介されていたトップバッターの店名がその人の名字と同じで、さらにはその店を紹介したその店とは無関係な著名な方までがたまたまその名字の人だった。
おとといは、友達の中学生の娘と一緒に英語の教科書を見ていたら、英語の例文にその名前がばんばんと使われていた。
その名前じゃなくても他にもアルファベットで書きやすくて言いやすい日本語名ってあるじゃん!って突っ込みたくなった。
いつだったかはとうとう同姓同名の人の名前をタウン情報の新聞みたいなところで目にした。
そんなにこの名字って名前って多いのか??と突っ込みたくなる位、その名前を目にしない日はない。
そして、このブログを書こうと思った日のことも忘れない。
その時はまだ正直迷っていた。
書いてどうするんだろう?っていうのが冷静になった時に毎回出てくる自分への質問だった。
私の場合、「○○をしよう」と思ったり考えたりしてから行動するよりも、パッと頭にひらめいたらそのままそれを行動に移しているという方が多い。
だから最初に「ブログ」と頭の中に浮かんだ時、「え!?書くの??」と思った。
冷静になればなるほど、書くことの意味がますますわからなくなった。
そんな迷いの中、車を走らせていた。
その日は中秋の名月、新潟は雨だった。
だけど夕方になって一瞬晴れて、職場を後にした直後の橋のところで、きれいな月がたくさんの雲の合間から顔を出しているのを見た。
夕陽はなくても、雲の途切れた一部の西の空が茜色に染まっていた。
夕焼け雲と明るい月を同時に見れるなんてない!と思って、すぐ近くの大きな駐車場に車を停めて空を眺めた。
ふと、そうだ、これをもっと高台から眺めよう!と思い立ち、車に戻ってその高台を目指すことにした。
高台に向かうには、普段の帰宅経路とは異なる道を行く。
異なる道を通ってすぐぐらいに「5-55」のナンバープレートの車とすれ違った。
もうライト点灯しないと真っ暗なのに、555の数字だけはぽんと目に飛び込んできた。
「555=GO GO GO」ブログ書けってことかな?なんて勝手に思っていた。
このところ、ぞろ目ナンバーは日常と化す位にたくさん見てるからそんなに新鮮さもなく、そのこともすぐに忘れてまた高台を目指した。
ある交差点で左折した。
住宅街中心の道路だから、左折するまでその先にどんな車が走っているのか全く見通しがきかない場所だった。
そして次は右折だから前の車に続いて右折レーンに入ると、なんとその前の車はとあるお店の車だった。
私は度肝を抜かれた。
そのお店というのが、その手紙の相手の名字が入っている店名だから。
漢字ごとそっくりそのまま入っている。
しかもそこは小さな個人店だから、何台も何台も車を持っているとは到底思えない。
せいぜい1台か2台だろう。
そんな車の真後ろにどんぴしゃで辿り着いた。
それだけでも驚きだったけれど、その後も話は続いていてさらに度肝を抜かれた。
せっかくだから、その車に付いて行って、そのままその店で買い物してから高台へ行こうと思った。
店はすぐ近くなのはわかっていたから、そのまま車に付いて行けば間違いないだろうことも。
車に付いて行くと、変な道に入るなぁとは思った。
その辺りの地理に詳しくないから、もしかしたらそれが近道なのかもしれない位に最初は思っていた。
そうしたらその車は突然止まり、すぐ横の駐車場に車を停め出した。
最初どこに停めているのかわからなかったけれど、よく見渡してみると知っている建物だった。
さらに驚いた。
その停めた建物というのが、あるお店の従業員とか業者専用の駐車場で、それがなんととんでもない事実と一瞬で繋がった。
その何日か前、手紙の相手と私の共通の知り合いのAさんから聞いた話があった。
何でその話になったのかは忘れたけれど、Aさんはその手紙の相手からあるお店のポイントカードをもらった、という話を突然何の前振りもなく私にしてきた。
Aさんが「もう少しでポイントいっぱいになるところだったから、相当通い詰めてたよ」と説明していた。
Aさんは何も知らないから普通の日常会話のように私に突然そんなことを言ってきたけれど、まさかその時の話がその何日か後に目の前で繰り広げられている出来事に繋がっていくなんて誰が想像できただろう。
そう、その名字の入った店名の車は、そのAさんがもらったというポイントカードのお店で停まったのだった。
その車にそもそも遭遇してビックリしていたのに、さらにビックリした。
しかもAさんがそんなコアな情報を何だか知らないけれど私に教えてくれたからその偶然にも気付けたけれど、その情報を知らなければ私には何の意味も成さなかったと思う。
何だろう?この絶妙なタイミング!?と狐に包まれた気分だった。
私はその車が停まったお店には用事がないから、そのまま道なりに進むことにした。
まだ頭の中が衝撃でいっぱいのところ、さらに偶然は重なった。
道なりに30メートル程走らせた後、大通りへ続く交差点に入るところに出ると、丁度前の車が右折待ちをしていて、その車が手紙の相手と同じ車種の車だった。
車種だって思い起こせば、たまたま2回か3回駐車場で本人が車に乗っているところを見かけたから知り得ただけだった。
何だこりゃ??と思った。
唖然茫然とするしかない位に、いくつものシンクロが起こって、とにかくビックリのし通しだった。
そこまで来た時に、ブログ書こうって決めた。
何だかよくわからないけれど、こんな意味不明な偶然がいくつもたかが2~3分の中で一気に起こるなんていうことは人生の中でもそうそうないわけで、しかもその偶然はどれもある特定の人物に繋がっていることばかりで、もうそんなの起こる方が有り得ないと言わんばかりの確率で目の前で起こっていることがわかったから。
ちなみに、ポイントカードのお店に反応したのにはもう1つ別の理由がある。
実はそこは私が去年の夏に地元に戻ってから受けた10社近くの会社の1つだったから。
だけどそこは話を聞くだけにして、結局は受けることもしなかった。
そしてその時のことはよく覚えている。
応募しようと思った仕事は、そのお店の中でも一般職ではなく技術職の方だった。
その技術を積むということに関して、もう何年も前からいつかは本格的に習おうかと思っていて、手始めにそこから入っていくというのも手だなと思っていた。
それに関してあれこれ説明があるから、まずは一度会社の人と電話で話してから私がどうしたいかを伺います、とハローワークの人を通じて言われた。
だけどその時、今の携帯になってから一度も起こったことがない不具合が、まさにそのタイミングで起こった。
なぜか画面がフリーズして、電話の着信はわかるけれど、一切の操作ができなくなっていたから電話にさえ出られなかった。
知ってる限りの対処法を試したけれど、どうにもできずにいた。
ハローワークの人の仕事じゃないのに、担当者に「iphone使ってますか?」と聞いて、そうだと言うから自分の不具合を見せてその解除の方法を知っていたら教えて欲しいとお願いした位だった。
その人も自分の仕事じゃないのに一緒になってあれこれ方法を教えてくれて、それでも直らない=電話に出られなかったから、最終的には携帯が復活次第、私の方から会社へ連絡するということになった。
ハローワークから書類をもらった後速攻でドコモショップに走り、ドコモショップで電話借りてiphoneセンター的なところに電話して、それで携帯の不具合の解除をしたのだった。
あんなこと前にも後にもあれ1回きりだった。
3年半近く使っていてそんな風になったのはそれっきり。
そう、その不具合でてんやわんやした時に関わったお店だった。
何でそんな不具合がまさにそのお店と関わる時だけ起こったのか、当時は全く気にもならなかったけれど、そしてそれっきり私とそのお店の接点はゼロでそんなこともずっと忘れていたけれど、
何でそんな不具合がまさにそのお店と関わる時だけ起こったのか、当時は全く気にもならなかったけれど、そしてそれっきり私とそのお店の接点はゼロでそんなこともずっと忘れていたけれど、
まさかそんなことがこんな先の未来に繋がる点と不思議な一致をすることになるなんて、その時は思いもよらなかった。
ふと思ったことがあった。
結局はその仕事とは何の縁もなく今に至るわけだけれど、もしあの時その道に行くと決めて実際にそのお店で働くことになっていたとして…。
そうだとしたら、手紙の相手に出逢うことは絶対になかった。
店員とお客さんとして知り合うことは、そういうタイプの店ではないからなかったと思う。
そう、そこでは仮に顔を合わせることがあったとしても、私を見て私が武士俣さんなどという認識を持ってもらえるような関係には絶対にならなかっただろう。
そう思うと、色々不思議なことの連続だったなぁというのがよくわかる。
こんなのほんの一部で、もう書ききれない位にいっぱいいっぱいヘンテコな偶然が他にもいくつもいくつもあった。
いくら鈍い私でも、さすがに「これは何かがおかしい」と感じるレベルの起こり具合だった。
1つ1つの出来事や起こってくること、目にすることは何の繋がりもないように見える。
だけど、なぜかそういうことがある日突然交じり合って重なってくる。
そしてたった1つの偶然じゃなく、いくつものことが多数の偶然となって現実に現れる。
たまたまにしてはできすぎだと思う。
関係ないけれど、ついこの間思い出したことがあった。
今の仕事の直前にしていた仕事で、手紙の相手と同じ名字の方がいた。
普通にどこにでもあると言えばある名字なんだと思う。
そこまでは特筆することはない。
だけど私が思い出したことは、そんなことじゃなかった。
当時そこには45人位の人が働いていた。
基本的にお昼休みは休憩室でごはんを食べていたけれど、月に2~3回は外で用事を足すために出ていた。
たった一度だけは、どうしてもラーメンが食べたくて1人でラーメンを食べに行ったことがあった。
今考えたら鳥肌が立つ位の偶然だけれど、その手紙の相手の名字と同じ店名のラーメン屋に入って、そしてまさかそんなところで同僚と呼ぶには怖れ多い自分の父親くらいの年齢のその同姓の方にそこでばったり会ったのだった。
その方も外に出るのは週1か2とのこと。
当然毎日その店に通っているわけじゃない。
まさかそんなところで誰かに会うとは思ってなかったから、相手から声を掛けられて私はあまりに驚いて大きな声を出してしまった位。
また別の時も、その方と昼休みばったり近くの郵便局で出くわしたことがあった。
45人もいる中で、そして9ヶ月働いた中で、昼休みに外でばったり遭遇したのはその手紙の相手と同じ名字の男性だけだった。
しかもその職場は2交代制のお昼休憩で、必ずしも同じ時間の休憩になるとは限らない。
同じ時間になるのは、単純に2分の1の確率。
だから、そもそも同じ時間に休憩で、丁度2人ともが滅多にしない外出をして、さらにたまたま同じ場所に居合わせるって、どれだけの確率だろうと思う。
そうだ、その男性とはもう一度ばったりと出会っている。
仕事を辞めてから用事があってその近くまで行った時のこと。
その仕事に関する特設窓口が開いているのを知っていたから、誰がその日の担当かは知らなかったけれど挨拶がてらふらりと立ち寄ってきたんだった。
そうしたらその時もその男性が担当で、「なんだかよく会いますね」みたいなことをお互いに口にしたような記憶がある。
当時はその男性との偶然の遭遇にただただ驚いていたけれど、まさかその男性と同じ名字の人に数ヶ月後出逢うとは、当然そんなの知る由もましてや想像することもなかった。
それが何だという話だけれど、おかしな位におかしな偶然がいくつもいくつも転がっていて、私はその偶然に出くわす度に驚きと奇妙な感覚に襲われる。
出逢った日から今日でちょうど4ヶ月。
本当に濃密な4ヶ月だった。
自分の中では何年分にも相当する時間的な重みを感じる。
実際にはまだ4ヶ月しか経っていないのが変な感じさえする。
この4ヶ月で私の生活は激変した。
4ヶ月前の私も今の私も同じ人間ではあるけれど、見てきた風景も起こった出来事も予測不可能な位に色んなことが起こった。
時々思うこともある。
手紙を書かず渡さずのままの方が、もしかしたら楽しい思い出だけを持って終わりにできたかもしれないって。
でも私はそれを選ばなかった。
自分でもこれまで感じたことのないような何かを感じていて、そして本当にどんな形でもいいから相手のことをもっと知りたかったし、相手に近付きたかった。
「これまで感じたことのないような何か」について、私は自分の内側で感じていることにとても違和感を感じていた。
本当にそういう感覚を人生で一度も体験したことがなかったから無理もなかった。
しかも相手のことは「知っている・知らない」の二択なら、限りなく知らないに近かった。
「これまで感じたことのないような何か」について、私は自分の内側で感じていることにとても違和感を感じていた。
本当にそういう感覚を人生で一度も体験したことがなかったから無理もなかった。
しかも相手のことは「知っている・知らない」の二択なら、限りなく知らないに近かった。
さらに年齢が妙齢であることや社会的立場やいつかは必ず遠くに離れてしまうこと、そうした大人の事情を考えたら、動かない方が絶対に傷付かないのは知っていた。
ましてや相手の気持ちなんか何も知らないから、当然リスクもあった。
リスクはリスクという想像のものではなく、現実に大打撃を私は受けた。
心もぽきぽきと折れた。
そして相手にはさぞかし迷惑やら負担をかけたことだと思う。
悪いことをしたつもりではないけれど、心が重たくなってしまうものを相手に渡したのかと思うとそれは素直にごめんなさいと謝りたい。
だけどやっぱり私は動かずにはいられなかったと思う。
自分の体の奥の奥の方から意味不明な何かに突き動かされている、そういう感覚でしかなかった。
それは普段の生活では絶対に出てこない自分の本音みたいな部分だと思う。
頭で考えたのなら、100%動かない。
何をどう考えても、すべての条件を並べても、動くことの利は何もない。
むしろ動くことで不利が生じるだけ、と言い切っても過言ではない。
だけどそんな理性さえもぶっ飛んでしまう位に、自分の内側から出てくるものがあった。
失うことや不利な状況、そういうものさえも抑え込んでしまうパワーが前に出てきてしまった場合、体の方が勝手に動き出す。
ある意味動物的な動きだったけれど、本当にそんな風だった。
損得を計算する余裕なんかもなく、ただただ自分の中から出てきたものに対して素直になる、もうそれしか成す術がないと言わんばかりの勢いだった。
だから、あの意味不明な積極性や実際の行動は、別に積極的な性格だからというのではない。
そうでもしなければ、待っていればいつかは伝わるなんていうものではなかったこと、待っていたらいつかは相手をもっと知れるなんていう可能性が限りなくゼロだったから、だから動いただけだった。
「(こういう場面で)動く人は積極的だから自信があるから動くんじゃなくて、自分に自信がないから動く」と書いてあったのをある本で最近見た時に、まさに自分のことだと思った。
待てば何とかなる相手ではなかったから、自分が動くしかなかった。
だから動いたことで出てきた結果は、もう仕方ない。
時間をかけて受け止めていくしかない。
だけどそういうこととは別に、今も自分でもどうしていいのかわからない位にやりきれなさみたいなのが残っている。
私の中に残っているやりきれなさは、この結果や心にどんときた大打撃とかじゃない。
そんなのはまたいくらでも立ち直りがきくものだと思っている。
そうではなくて、せっかくそういう人と出逢えても人生が交わらないことへのもどかしさみたいなものにやりきれなさが残っている。
そういう人に出逢えること自体、奇跡と呼んでいいと思う。
ましてや人との出逢いに心惹かれないようになってきた自分を見て、そういう人に出逢えたというのは奇跡の中でも最高の5つ星級の奇跡だったりする。
私はあきらめが悪く、意味不明な偶然たちが重なったように、これから先の未来で奇跡が起きないかなと本気で願っている。
会えなくなったからと言って、私の中では大きな変化は他に訪れてくれなかった。
もうどうでもよくなったり、すっぱりと諦めたりできたらどんなにかすっきりするだろうと思う。
むしろ忘れさせないように毎日のように色んなところで偶然名前を見ているようじゃ、ますます切り離せなくなる。
多分私は、自分が飽きてしまうその時まで奇跡を願い続けるんじゃないかと思う。
私が願う奇跡とは、相手の意思の元、いつの日か再会すること、そして一緒に時間を共にすること。
私が願う奇跡とは、相手の意思の元、いつの日か再会すること、そして一緒に時間を共にすること。
~手紙のbefore~
手紙
9月のある週末、まだまだ暑さが色濃く残る頃、私は1通の手紙を書いた。
その手紙は直前まで全く書く予定のないものだった。
そして書くと決めてからも何を自分が書こうとしているのか、自分でさえもわからなかった手紙だった。
大人になってから書いた手書きの手紙はゆうに100通を超える。
もしかしたら、2、3百を超える数の手紙を書いたかもしれない。
大半は、仕事で深く関わった人やお世話になった人に向けて。
仲の良い友達に書いたものも数十通はあるだろう。
付き合ってた人たちに書いたものもあった。
だから手紙を書くこと自体は慣れている。
慣れてはいるけれど、その週末に書いた手紙は、そのどれにも該当しない相手だった。
そして、その手紙だけは、過去に一度も書いたことのないタイプのものだった。
あの時の私は「書きたい」とか「書かなきゃ」とか、そうしたことさえも考えたり感じたりする余裕がなかった。
体の方が勝手に動いていた。
人生の中でそう何度とはない、何かに突き動かされるように勝手に動く、その時がそうだった。
手紙を書くと決めてから実際に便箋を買いに出かけるまで24時間と経っていない。
そもそも書くきっかけとなった出来事が起こった直後、私はもうそのことから身を引こうとそれは潔く決めていた。
これ以上そこに関わっても仕方ない、と自分でもびっくりする位に「もうおしまい」とばっさりと断ち切っていた。
だから、「手紙」を思い立つまでは、私はもうその全てから自分の身を引き剥がすように終息に向かっているつもりでいた。
その日の夜だったんだろうか?
突然、「手紙を書こう」と思った。
このままではいけない気がする、伝えるべきことは伝えないと一生それはもう伝わらないことなんだと、明日自分が死ぬ予定みたいな差し迫った感情がどばっと出てきたような気がする。
例えば、伝えないという選択をもしあの時にしたなら、一生私の中にだけ生きるストーリーで、尚且つ言葉では到底表現できないような「大事なこと」の一言に尽きるようなものを相手に知らせることがないまま終わっていたと思う。
でもそうであってはいけない、そんな感じを感じていたんじゃないかと思う。
この辺りは、自分が何を思い何を感じたのかもう今となってはさっぱり思い出せない。
それ位、何か激情に呑み込まれるような、普段の自分では絶対に有り得ない色んなものが勝手に溢れ出ていた。
人生80年と考えたら、そういうよくわからない手紙を書いて渡す、渡されることがあっても、そんなこと一生に一度と思えばいいじゃないかと自分を鼓舞した。
書く内容も書く目的も、「書こう」と思い立った時もしばらくしてからも何も定まっていなかった。
まっさらな状態ではあったけれど、「伝えなきゃ」という気持ちだけは前に前につんのめるぐらい前にあって、それにひたすら体が追い付こうと動いていた感じだった。
その土曜日、私用を済ませた後、便箋を買いに出た。
その便箋を持って、日常とは違う空間に行って手紙を書き始めた。
午後の遅い時間、夕方になろうとしていたかと思う。
いざ真っ白い便箋に向き合うと、何を書いたらいいものか…と一瞬ためらったのち、もう思い付いたまま書き出してみようと書き始めた。
5枚目くらいに差し掛かった頃、先が見えない上、そもそもどういうところに着地点があるのかもわからなくなり、不安になって友達にラインで質問した。
この友達は過去に一度私からの手紙を受け取ったことがある。
今でも忘れられない、友達の思いやりに満ちた行為に私は泥を塗って、でもそれを友達は何てことないという感じにしておいてくれて、そしてもう何事もなかったかのようにその後も普通にしてくれてたけど、私はその後後悔だらけできちんと謝らなきゃと思っていた。
そのお詫びとお礼の両方を兼ねた手紙だった。
当時も同じような便箋で8枚も書いた相手でもあった。
その友達に、ネットで見ると長い手紙は良くないとあるけれど、あれこれ書いたら長くなってきてしまった、長いのまずいかな?みたいなことを聞いた。
正直、この友達からの返信は1ミリも期待していなかった。
というのも、過去にこの友達が私ともう一人の友達の分もまとめて飛行機のチケットを取ってくれたのはいいけれど、その飛行機の時間を聞いても、1週間以上平気で放置プレイをするような人だ。
仕事の休みの申請もあるから早く返信が欲しいのに待てど暮らせど来ず、本人いわく自分の気が向いた時が返信時のようだった。
仕事の休みの申請に支障が出てもおかしくないレベルのものを1週間以上放置されたから、手紙の長さについての質問なんかもっとどうでもいい話で、返信は期待せず、でもできたら何か答えが得られたらいいなぁぐらいの気持ちで出した。
そうしたら1時間後、携帯がブルッと反応した。
なんと友達からだった。
≫そういう手紙をぶっしぃが短く書けるはずがないので、「長すぎるかな」と考えたところでそれ以外はないよ。長さは気にせず思うように書けば良いと思うよ。
と返ってきた。
基本的に72時間以内に返信がないのが当たり前の友達なのに、この時だけはどういうわけか1時間で返ってきた。
確実にこれは味方がついていると思える流れだった。
多分手紙を書くことは間違いではない、ととてもポジティブに捉えてまた書き続けた。
土曜日何時間かけてその手紙を書いていたのかはわからない。
13枚にもなった手紙を私はその後翌日曜日の昼までに10数回は読み返した。
国語の教科書を読むみたいに途中からは飽きてはいたけれど、相手に差し出す以上は誤字脱字はもちろんのこと、きちんと伝わる内容を書きたいと思った。
最初で最後の手紙ならなおさらだった。
書き足したり言葉を少し変えたりしながら、どうにか完成形と呼べるぐらいにまでなり、日曜日また場所を変えて今度は清書した。
手が震えそうになりながら1枚目を書き出した。
一文字一文字それはそれは気を遣いながら書いた。
自分のひらがなの癖に気をつけながら、読める字を書こうと心掛けた。
3分の2を書き終える頃、少しずつ寂しくなってきた。
終わりが近付いていることがわかっていたから、それが寂しさを連れてきた。
書き終えた時は達成感とは別に、「終わっちゃったな」と思った。
そこではたと気付いたのは、下書きよりも清書の方が枚数をオーバーしていて、当初使う予定でいた封筒には収まらないことだった。
急いで閉店間際の百均に行き、封筒を探した。
紙の厚さの関係上、選択肢は1つしかなかった。
これまでの100通以上の手紙には一度も使ったことがない封筒だった。
一言で言えば、ださい。
要は普通の事務用の茶封筒で、そんな封筒で私的な手紙を人に渡すなんていうのは過去に一度もしたことがなかった。
でも背に腹は代えられない、これしか入る封筒がないんだから仕方ない、と割り切って、もう二度とは使い道がなさそうな24枚入りの封筒を手に店を後にした。
何せ無計画で書き始めた手紙だけあって、私はそれを一体いつどのタイミングで渡すのか考えていなかった。
手紙を書き終えてから、一体いつがいいんだろう?と自問自答した結果、先延ばしせずすぐに渡そうと決めた。
そこから2つ目のミラクルがまたやってくるとは、想像もできなかった。
「手紙を書く」と決めた翌朝のその土曜日から、私はお墓参りを始めた。
具体的にいつとは覚えてないけれど、いつからかもう自分の思考では到底想像できないようなことがたくさん起こり出していた。
「もうこれは流れに委ねるしか基本的に方法はない」と自分の中で感じたそのタイミングと手紙の発想がほぼほぼ似たような時期にやってきていた。
そこで私は「お墓に手を合わせて、ご先祖様に守ってもらおう」という、実に自分の都合だけを押し出した墓参りを始めることとなった。
手紙を渡そうと決めた日の朝もまずはお墓に寄った。
その時はクリアケースに手紙を入れて、お墓の前に持って行って願掛けをした。
頭を冷やして冷静になってから、「ところでこれどうやって渡すんだろう?」とずっと思っていた。
渡すタイミングが見当たらなかった。
まず渡す相手と私が2人きりになるなんてことはない。
さらに万が一そんな状況が生まれたとして、タイミング良く手紙を私が持っているのかというと、それも微妙だった。
無理な理由はいくらでも思い付いても、渡せる状況は1つも思い浮かばなかった。
それもあって、お墓の前に手紙を持参して「これを無事に渡せるようになんとかよろしくお願いします」的なことを祈る他なかった。
お墓を後にしたその直後、私は手紙を渡す相手の名字が書かれたとてつもなく大きな看板を目にした。
そこは元々事務所を経営していたところだったけれど、経営者の方が亡くなられて普通の民家になったタイミングで、なぜか看板に名字だけを大きく書き替えて残すということをされたお宅だった。
その看板を見た時に、何の根拠もなく「大丈夫」と思えた。
そしていざその場に行ってみると、千載一遇のチャンスが転がっていた。
先に言ったように、まず2人きりになど絶対にならない。
特にその時間帯はならない。
記憶の限りなったことがない。
だけど本当に一瞬、時間にして1分もあったかないかだろう。
完全に空間に2人きりになった時間が突如生まれた。
何がどうなっていたのかさっぱりわからないけれど、本来いる人たちが1人残らず全員席を外していて、普段いない人たちも一瞬いたけれどまたそれぞれが自分の用事を足しに出て、気付けば手紙の相手と私だけしかいなかった。
今しかないと思って慌てて封筒を持って行った。
余計なことを言い足せる状況でもなかったから、これお願いしますとしか言わなかった気がする。
相手も「はっ?」と思ったのかは知らないけれど、何も返事しなかった。
あまりに変すぎて、返事が返ってこなくても不思議じゃなかった。
史上最強にヘンテコな手紙の渡し方だった。
その日1日を終えた頃、ふと茶封筒を思い出した。
手紙を書き終えた時は、単に封筒に入りきらないと思って急遽変更した封筒だった。
だけど、結果的に、茶封筒だったおかげで他のものと一緒に持っていても何ら違和感なく風景に溶け込めるようになっていた。
紙2枚?3枚?くらいのあんな薄さが封筒を変更しなくてはいけない状況を生み出したのかと思うとすごい。
最初用意していた封筒は、風景にはなじまない。
それもシンプルなデザインだけど、若干浮いてしまう。
10数回の読み返しも無駄にはならなかった。
そのおかげで長さが若干伸びたのだから。
長さが封筒を変えるきっかけを作ったのだから。
そしてお墓参りにも驚いた。
本当にお墓参りが功を奏したのかは知らない。
だけど、渡せない状況はいくら思い付いても渡せる状況は思い浮かべることができなかった。
もうここは神頼みしかないぐらいのレベルで、手紙をささっと渡す状況なんて普段なら絶対の絶対に有り得なかった。
そうしたら、手紙を渡せる状況が一瞬にして生まれた。
今振り返ってみても、もうあの時と同じ状況はあれが最初で最後だった。
それぐらい何かに守られるかのように動き出していた。
~手紙にまつわるanother story~
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