2020年11月10日火曜日

本と回想と今




今日(11/7)届いた本。

マニアックな占星術本を探し始めて1ヶ月くらいになると思う。


『スピカ占星学』なる本は、当初買うリストに入ってないどころか、その存在すら知らなかった。


マニアックな本たちを探す中でたまたま見つけたフレーズ

「お客さんがその問題に対して成熟するのを待つんや」

というものを吐いた人が「カリカリ博士」という、どんだけでもふざけた名前で、でもその言葉や言葉が意味する世界に魅せられた私は、カリカリ博士なる今は亡き人物が気になった。

(出典:スピカ占星学)


探してようやく行き着いた古本で、中身も知らないし何なら本人が書いたのではなく関係者が追悼の意を添えて出版した本と知って、余計に不安しかない本ではあったけれど、逆に占星術ではなくもっと物事の真髄に触れる話を関係者たちが回顧して文章を寄稿したかもしれない…、と思い始めた。


カリカリ博士なる人が同志たちに言った言葉を知れるかもしれない。


最悪本当に違うなら、手にしてから手放してもいいと思った。


そして、今回だけはペンジュラムがものすごい勢いでYESを強く伝えてきて、何がそんなにすごい本なのかわからないまま東京の中野にあるマニアックな中古品を取り扱う店から買った。


ホームページを開いて見ると、フィギュア盛りだくさんみたいな店で、そんな店で眠っている占星術の本って真面目にどんな性格のものなんだろう?と思った。


しかも、メール便なら150円の送料のところ、660円だと注文後連絡が来た。


間違いかと思って、メール便対応が可能なら変更して欲しいと返信したら、規格外の大きさだから660円宅急便扱いとのことだった。


ますますどんな本が来るのか訝しげに思ったけれど、とにかく手に入れて見てみないことには気が済まないとわかって、注文をした。


届いて想像を絶する内容のものが届いたけれど、少しだけ読むとペンジュラムが激推しした理由がわかった。


ちなみに想像を絶するというのは、表紙をめくって数ページはまずカリカリ博士の写真が写真集ばりに何ページにも渡って続く。


イケメンでもなければ、絶対に好きにはならないタイプの顔で、それだけでも十分インパクトがあった、もちろんよろしくない方の意味で。


さらには、本人死後の本だけあって、本人が書いた文章はないんじゃないかと思った。


ますます失敗した気がした。


だから、適当にめくって、本人とのおしゃべり記録みたいなページから読み出した。


カリカリ博士とスピカ占星学の名前の由来が説明されてた。


ちなみにカリカリ博士は「1926年くらいかな、ドイツの無声映画でカリガリ博士というのがあってね、その語呂がおもしろいでしょ。で、字画を計算したらカリカリになってん」で、スピカは「恒星の名前でね、金と女と名声に恵まれるという意味があって、それでつけてんけどねー、んー、全然効果ないわ。どんどん反対の方へ行ってるとゆうか…。」とのこと。

(出典:スピカ占星学)


どちらもずっこけそうな話だった。


そんな感じなのに、私は珍しく本を読み進めた。


占星術の本は一気に読み進めることはなくて、少しずつ気が向いた時に読んでるけれど、カリカリ博士の本は会話形式のところはとりあえず一気に数ページ読んだ。


読んであるところを見て止まった。


その言葉に触れるためにペンジュラムが買え買えと薦めたのかもと思ったくらいに、そこでピタッと止まった。





「心というのは、人と人の間の空間にあるもの」

(出典:スピカ占星学)


これはカリカリ博士の言葉でもなく、関係者の言葉でもなく、今回寄稿した人の1人が何かの本で見たとあった。


言葉を読んだだけで、私は絵面まで想像した。


今回ももれなく登場したのは、過去に勤めた職場のイケメン上司だった。


私の脳内の絵面は、新潟にいる私と何百キロと離れているその人との巨大空間の間に丸いボールみたいに心がドンと横たわっているような感じだった。


そしてその後、今と3年前とを比べて気付いた。


その人が本当に別格であること。


心の種類にも色々あって、でもその人がいた時に感じていた心と今日々の中で横たわっている人間関係の中にある心とは全く別物だと気付いた。


されていることは同じでも、感じ方が全然違う。





今の日々の人間関係に困ったものが1つある。


先に言うと、「気持ち悪い」。


スーパー幼稚すぎて意味不明な男が1人いる。


ある時から私は奴に無視されている。


理由はわからない。


考えられるのは、いちいち私が細かく何かを指摘してくることが嫌なのか、派遣なのに態度がでかいのか、そんな辺りではないかと思う。


ちなみに細かい指摘は、もし指摘せずに流したら逆に会社の看板を汚すようなもので、指摘しない方が1000%問題になる。


だから私は自分が悪いことをしてるとは全く思わないし、彼以外の人たち大御所も含めて少なくとも私の指摘に耳を傾けてくれるし、指摘した不具合は百発百中に近いくらい、大御所だろうがぺーぺーだろうがその時の担当者の最終判断で修正されるのが常々の展開になっている。


奴からの無視は別に構わないけれど、なんと奴は仕事の連絡をしないという、本当に社会人としてどうなのかと思う無視をしている。


それは上司にお願いをして、上司が根回しをして今のビッグプロジェクトに関しては私も含めて関係者の名前を具体的に出して、全員に連絡するように通達してくれたこと、そしてちょうど物事が大きく動き始めた日、奴は休みを取っていて、本来なら奴が担当する調整連絡係を仕事がきちんとできる別の人が代理でその日は担当したら、そのままできる人(硬派さん)が継続して担当する流れになった。


硬派さんが関わってくれることになって、とりあえず私は仕事がスムーズにできるようになった。


仕事はやりやすくなったし、困ったことは全て硬派さんに直接伝えて直しなり調整なりをお願いすれば良くなって、本当に助かった。


仕事はいいけれど、日常的な無視はずっと続いていて、それが空気としてとっても気持ち悪い。


ここ最近は、奴は変わらないのはわかったし、だけど超絶気持ち悪い状況は同じだから、いかに自分の中の気持ち悪さを減らせるか、その調べ物をして実践している。


リアル心理実践をして、何が役立つかをひたすら模索している(苦笑)。


人間性の低さに加えて人としてバカすぎるとわかっていても、気持ち悪いのはそう簡単に消えてくれないから、私はあとどのくらい今の職場にいるのかわからないけれど、残りの時間平穏に過ごせるように、そのための努力を自分の心がある程度安息するまでやろうと思っている。


関係ないけれど、これはお金が解決してくれないことの1つだなぁなんて思った。


これ1億積んでも気持ち悪さが軽減することはなくて、今のところにいる以上は自分の力でなんとか自分の心の状態を改善するしかない。





そんなことを思ったら、3年前のイケメン上司の時は「気持ち悪い」なんてただの一度も思わなかったことに気付いた。


私がごはんに誘ったら、イケメン上司はそこからわかりやすいぐらいに私のことを無視した。


普段接点がないから最初は気付かなかったけれど、ある時仕事の伝言をしないといけなくなって仕事の伝言を本人の席の前に立って直接したら、完全に無視されてることに気付いた。


短い伝言だったけれど、完全なる無視を決めこもうとしているその姿や場の空気を見て、私の心はボキボキに折れて本気で目の前で泣き出すかと思ったほどだった。


ありとあらゆる理性をかき集めて、最後の「お願いします」まで声を変えずに言い切ったところまで今でもよく覚えているし、その後自分の席に戻って心の中に重たいものが広がるのを感じながら、今すぐ立つとおかしいかも…と思って泣くのをグッと堪えながら、いつどのタイミングかそれは忘れたけれど、私はトイレとかに隠れてその後泣いた。


仕事中に泣いたのは社会人になってから3回目。


最初の2回は自分の心が不安定なところに強烈なパンチに見舞われたから涙が出て、でもそれは相手云々のことではなかった。(その時もその場は普通にやり過ごして、そっとトイレに逃げた)


その人の時だけだった。


されたことと言うよりも、その人からそのようにされてしまったことが本当に堪えた(こたえた)。


そしてその後に実際に面と向かってやりとりできたのはその人の最終日で、それまで3週間近くあったけれど、その間気持ち悪いなんてただの一度も感じなかった。


ただただ悲しく、ただただ寂しく、止まらない時間の前で何も為す術もなく、ひたすら迫る最後の日に向けて私の心の中はありとあらゆる悲しみや寂しさやその他の暗くて重たいものだけで覆われていた。


その人が私を気持ち悪がってるかもとは思ったけれど、私側はそんなことは一切なかった。


無視の種類も違うし、私の感じ方も全然違うけれど、今回のカリカリ博士の本で気付いた。


見えないところに横たわっているものは、見えなくても人によって感じ方が全然違うこと。


そして、今現在のものは超絶気持ち悪いけれど、イケメン上司の時はそんなことは一切なくて、私は何とかそれさえも守ろうと必死だったこと。






「心というのは、人と人の間の空間にあるもの」


これも私の超勝手な解釈だけど、この言葉に励まされた。


人と人との間の空間は、何も目に見える物理的な空間だけじゃない。


目に見えないところにも空間は存在している。


遠方にいる友達やその友達から連絡が来たりする場面を思い出すと、その感覚がよりリアルにわかる。


お互いに見えないし会えない。


それでもふと脳裏に浮かんで連絡を取り合う。


そこには確実に、2人を繋ぐ心がある。


心が交わるからこそやりとりできるってわかる。


イケメン上司が何を思ったり何を考えたりしているのかはわからない。


わからないけれど、確実に何か感じるからこそ私のブログを見るんだと思う。


それは私の心のギュッと硬くなったところを癒してくれる。


現実的には何も繋がってないし、連絡が来ることもないし、生活圏は何百キロと離れてるからバッタリ会うこともない。


でも見えなくても相手の何も知らなくても、このブログが待ち合わせ場所のような機能を発揮して、とりあえずちょびっとだけ繋がっている風になれてる。


その人側はさておき、私側から見て、その人と私の間にあるところに心がある。


その心に自分が救われている。


変な言い方だけど、ブログを見てくれてることがその人の命の確認に繋がっている。


時々、今日も生きてるんだなぁと思う。


そして、その人が生きてて良かった、と思う。


心があるっていうのは、そんな風にして相手の存在を命の時間を感じるための状態のことを指すのも1つだろうと思う。


3年ぐらいかかって、私はこの状態を受け入れるようになった。


第一希望は、その人の見えるすぐ隣りでその人が年をとっていく姿を見ることだった。


不思議な感覚だけれど、隣りで生きるとか一緒に生きるとかいう言葉より、隣りでその人が年をとる重ねる姿を見たい、最初にそう思った時に言葉はしっくりきても何とも不思議な感覚すぎて変なのとも思った。


だけど、半年ぐらいして、人生で初めてのホロスコープ鑑定を受けた時に、①いつかの過去世で私は10歳ぐらいまでしか生きられなかった男の子だったこと、②その時にペンジュラムを自分の友達のようにいつも近くに置いていて大切に持っていたこと、③その男の子の意志を今生強く引き継いでいること、④その時身近にいたのがイケメン上司だったこと、を伝えられた。


ちなみにホロスコープ鑑定は本来そんなことを聞きに行くものじゃないし、鑑定士さんも基本的には成人してから何かが視えることはなくて、でも必要性があるとそういう情報がやってくる、そう伝えられた。


必要性というのは、その内容に関わる人物たちの魂から伝えられる、鑑定士さんの意思や判断ではなく、相手側の意志や判断から伝えられるものだと言われた。


さらには、私の場合、私よりもイケメン上司側からの意志で今回はこの情報がもたらされてることも言われた。


さっきわざと番号を①〜④と振ったのは、実際にその順番で伝えられたから。


そして、①②③は、鑑定を受ける前にもらった情報だった。


その男の子の自分のことは何も思い出せないけれど、それを読んだ瞬間に声が震えるほどに私は泣いたし、そして目の前のペンジュラムを見て私はそれが本当だとわかった。


何一つすぐにできるものがない私にとって、ペンジュラムだけが唯一練習も努力もなくいきなり使えて、さらにはものすごくマニアックな高度な使い方を自分でどんどん開発していったから、その話を聞いて合点がいった。


時々自分でも何でこんなことができるんだろう?と思っていたから、その話を聞いたことで繋がった。


④は、鑑定士さんに会いに行って実際の鑑定の時に伝えられたことだった。


しかも、ただ伝えられたのではなく、イケメン上司の話の時だけ鑑定士さんはしばらく何かと交信してる風で意識はここにあらずみたいな感じだった。


鑑定士さんがしばらく違うところに意識を飛ばしてるだろうところを私はただボーッと見ていて、そして鑑定士さんが今ここに戻ってきた時にイケメン上司がどんな風に過去世で関わっていたのかを鑑定士さんが視たり感じたりしたまま教えてくれた。


そして、イケメン上司について、隣りで年をとるのを見たいとかいうあの不思議な感覚も、その話を聞いてようやく腑に落ちた。


年をとるのを見るというのは、深く紐解くと、「長生きしたい」ことがわかる。


それも単に「長生きしたい」だけじゃなく、長生きして少しでも長く自分が大切に思う人との時間が欲しい、その人の生きる様子を見ていたい、長く生きて色んなことを共有したい、そういう気持ちが含まれての今生だったのかな…と思った。


相手もだけれど、自分も長生きしていないとそれは叶わない。


互いに元気に生き長らえてこそ初めて実現するもので、まぁもちろん現世としてはそれだけじゃなく互いの意志も必要だけれど(苦笑)、そこを言い出したらどうにもならないから止めるけれど、とにかくそんな風に思った人だった。


色々こじつけのようではあるけれど、イケメン上司の最終日の最後というのは、私が帰る前に棒読みのような挨拶を交わした瞬間ではなく、本当に私が立ち去る瞬間に見たのが最後だった。


その最後の時というのが本当に変で、イケメン上司は私の姿が絶対に自分の目に触れない位置に、ものすごく変な立ち位置で立っていた。


しかも、もうパソコンも郵送できるように箱にしまってないし、本人ももう時期去るからそんなに大がかりな仕事もそうそう残っていないだろうに、どういうわけかものすごく変な位置に立って、現場側の上の人と話していた。


現場側の人は自席にいて、そこというのが隣りも後ろも広々としてるのに、イケメン上司はどういうわけか超狭いその現場の人の目の前にキスができそうなくらい近くに立って、ちなみにその位置だけが唯一私を見なくて済む位置だから、当時の私はそれも見てさらにそんなにも嫌がられていたのかと思って、より一層心がボキボキボキボキ折れたけれども、その半年後くらいにホロスコープ鑑定を受けて上のような話を聞いた時に「もしかして…」と思った。


過去世の話を整理して想像すると、当時は私の方が先に死んでいて、さらにはその死にゆく私を見届ける家族的な立ち位置にイケメン上司はいて、もしその記憶が本人さえもわからない深いところに刻まれたままだとするなら、最後の瞬間の行動もわからなくもない。


もちろん、私側の超都合の良い解釈だというのも重々承知の上で言うと、もし本当にそういう事情が裏側にあったとするなら、あの最後の時にとった行動は本人にとって自己防衛的なものだったのかもしれない。


変なたとえだけれど、心が痛いのと魂が痛いのとは、全然違うと思う。


例えば今の職場の気持ち悪い状況は、あれは心が痛いというか、意識レベルで気持ち悪いと感じるものでも、基本時間が経つと忘れる。


そしてはっきり言ってどうでもいい。


でも、イケメン上司の時は全て違っていた。


自分でもどこから来るのかわからないくらいに色んな感情が渦巻いていて、寝ても覚めてもずっとある感覚だったし、基本「忘れる」という選択肢がないまま今に至っている。


そのくらい強くあるものに対して負荷がかかると、それは逃げ出したくもなるだろうし、背も向けたくなって当然な気がする。


さすがに本当に気持ち悪いとか生理的に受け付けられないとかであれば、ブログを見るなんて自分の首を絞めるだけで良いことなんか何もない。


イケメン上司から見た私がどんな風なのかはわからないけれど、本人からしても掴みどころのないものを湧き上がらせるスイッチみたいなのかもしれない。





週末に読んだ、とある人のブログがとても感動的だった。


その女性春さんは、職場で息子ほど年の離れた男性がいわゆるナンバー1のソウルメイトと思われ、でもこの度長年勤めた職場を退職すると決められた。(ナンバー1というのは、繋がりの強さ的に1番という意味)


全ては読んでいないけれど、職場内の彼とのやりとりをいくつか読んで、その情景が私がイケメン上司と体験した瞬間と2つほど似ていた。


起こったことは違うけれども、場の空気や相手の反応が似ていて、それを見つけてからというもの、ここ数週間何回かに分けて読んだ。


見たところ、春さんという女性は、社内でもとても仕事ができて、かなり上の立場にある方だと思われる。


春さんが辞めるに当たって、社長やら会長やらが登場してしまうあたり、普通の平社員という感じはしない。


文章を読んでいてもとても聡明な方だとわかる。


そんな彼女が魂の繋がりが一番強いと思われる男性に職場で出会って、そしてそのストーリーがあれこれと描かれている。


直近の記事に、とうとう彼も含めて社員全員が彼女の退職を知ることとなった旨が書かれていた。


他の人たちは反応が何かしらあったけれど、彼の方はずっと沈黙を守ったままだった。


春さんはもうこのまま何もなく退職して、全ての縁が切れて彼との間には何も残らないだろうとずっと思っていた。


ところがある日、夜遅くに会社を出ると、たまたま彼と出口の辺りでかち合ったらしい。


普通に挨拶してすれ違ったかと思ったら、5メートル近く離れてから彼の方が春さんの方を向いて、本当に辞めてしまうのかを聞いたらしい。


ちなみにそんな風にどストレートに聞いたのは、社内で彼だけだったとのこと。


本当にそうだと答えてそれで終わるかと思いきや、彼の方が退職して落ち着いたら飲みに行こうと春さんを誘った。


まさかの展開で春さんは驚いていた。


春さんはそのことを「奇跡」と呼んだ。


淡々と今書いているけれども、それを読んだ時、どこの誰かも知らない春さんに対して嬉し涙が出た。


春さんの数年に渡る葛藤は、まさに私の葛藤そのものだった。


状況も違うし、春さんたちは飲みに行ってもいいくらいのやりとりを数年間に渡って積み重ねていて、私とはまるっと状況が違うけれど、それでも読みながら自分もどこか救われるような気持ちになった。


色んなことが普通じゃないし、ひたすら己の修行みたいなこと満載すぎるけれども、それでも小さくても希望を持つこと、希望を持つことを自分に許すこと、そして希望を持って今日という1日を毎日積み重ねていくこと、そうしたことに対する力をもらえたように感じる。


さすがの私もそんなに図々しくイケメン上司の毎日に土足で踏み込むようなことはしたいと思っていない。


せめて生きている間に、何かしら本人から連絡が来たら本当の本当に御の字だと大真面目に思っている。


自分が特別でありたいと「思わない」と言ったらそれは嘘になるけれど、でもかと言ってそんなものは強制するものでも無理強いするものでもないから、そんなことを気にして連絡が取れないのなら申し訳ないと思う。


自分自身も自分の人生も色々普通じゃないのはわかっているから、そういう私をあなたのパートナーにしてください、なんて絶対に言えない。


そんな高望みなことはしないし、その人の人生をそっとしておくぐらいの心遣いはもちろんしたいと思う。


ただ1回でいい、生きている間に普通にやりとりできたらいいなぁと思う。


本当に普通のやりとりを近くにいた時に1回でもできたら良かったなと思うし、それができていたのなら今は全然違う状況にあったと思う。


色々間違えたなとも相変わらず思う。


自分がばあさんになってからでもいいから、その時が来てくれるのなら気長に楽しみに待っていたいなと思う。


友達とか名前のつく関係は目指さなくていいし、1回連絡を取れたからと言ってしつこく付き纏うとかもしない。


嫌われることをしたいのとは違うから、本当に普通におしゃべりして終わりで十分だと思っている。


魂の繋がりだからと言って、今世も特別に何かしらの関係を持つ必要はないと私は思っている。


私は本当にただの一度も自分がその人にふさわしいなんて思ったことがない。


そして「ふさわしい」という枠で言うなら、いくらでももっともっとふさわしい人が必ずいる。


それは残念だけど、多分私じゃない。


だから、もう何かを期待するとか変に警戒される風な感じで近づく気は全くない。


そもそも1回でも会いたいと言うこと自体が重たいのかもしれないけれど、希望を言うくらい許されたっていいと思う←開き直り。





ふと、書いている時に、私がもしイケメン上司の後輩くんの立場としていられたら、もっとお互いに良かったのかな…なんて思った。


だけど同時に、もし私がそうだとするなら、何にも気付かずに終わったかもしれないとも思った。


あくまでも異性という形で出会わなければわからなかった、そんな気がした。


でも異性は異性でも、どうでも付き合うとか結婚とかする必要はないし、それこそ性差を超えた友達もありだったと思う。


その辺りの接し方?ふるまい方?は私は案外上手だと思う。


その人と仲良しのSさんが思い浮かんだ。


Sさんの立ち位置に憧れる。


趣味で繋がれるってなんて良いキッカケなんだろう。


そして、色々無理しなくていいのがとても羨ましい。


Sさんは既婚者だから変な心配や警戒をしなくていいし、その人もSさんには素の自分をどの程度かはわからなくても少しは出せていたんじゃないのかな…なんて思う。


人間関係って狙ってできるものではないのはわかっているけれども、もしそういう入札システムみたいなのがあったり券売機みたいなのがあって選べるのなら、「とりあえずご飯友達」みたいなのをポチったのになと思う。


話がどんどんおかしな方に流れていっているけれど、魂繋がりに階級があるとするなら、もっとライトなものでお互いに気持ち良く時間が過ごせる関係性だったら良かったのかもしれない、なんて思うこともある。


趣味とか飲み仲間とか、そういうのだったら、少なくとも今みたいな感じとは違って、可も不可もない関係性を持てたかもしれない。


でもそういうのではなく、超ガチなやつで、完全に魂の修行系で、自己研鑽+魂の成長第一で、俗世的な人間関係は残念ながら当てはまらず…。


そういうのも手伝って、その人の異性的なパートナーの位置に私がいることはないだろうし、そもそも選ばれるとは全く思っていないし(思っていないも何も、現実選ばれていない)、それなら何にも当てはまらないままでも小さなやりとりができる関係が良かった。


本当に星読み担当とか、魂メッセンジャーとかでも良かったのになぁなんて思う。


生涯一度きりの係でも私は喜んでやるのに!といつも思う。


話が脱線しまくるから、この辺りでアップしよう。


心の話からどんどん脇道にそれて(いつものこと)、気付けば何の話をしていたのかさえも忘れるくらい。


どうやったって構えてしまうだろうけれど、襲ったり付き纏ったりしないから、安心して連絡くれたらいいのにな…、といつも思う。


ちなみにこれだけ書いておきながら、彼女や奥さんがいればそもそも連絡なんかしないか…とも思った。


すべては神のみぞ知るの領域。

2020年11月4日水曜日

㊵【おいせさん手帳】自分に「いいよ!」をプレゼントする





おいせさん手帳第40回目

担当:ノム


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11月4日

あるがままの自分に、「いいよ」と伝えてあげましょう。

いいよ(114)の日

 

「いいよ」と誰かの言動を受けとめることは、人間関係を円滑にします。

また、「自分に厳しく人に優しい」ことを美徳とする向きもあります。

けれど、自分に厳しくしすぎて心に余裕がなくなってしまったら、人に優しくすることはできません。持っていないものはあげられないからです。

今日はどんな自分にも「いいよ!」。あるがままの自分を受けとめる日に。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




自分に「いいよ!」って言ってあげることは、実はとっても難しいことだと私は思っている。


自分で「うわぁー、やらかした!」とか、「こんなこと思って性格悪っ!」とか、「自分ってイヤな奴」とか、まぁ色々出てくる。


「自分大好き」「自分LOVE」なんて人は、そんなに多くないと思う。


反対に、自己嫌悪や自己否定、自己葛藤や自己憐憫、そういうマイナスな方の自分は日常的に体験しやすいし、自分にうんざりする瞬間はいくらでもある。





さて、つい最近も「こんな自分、疲れるー」となった出来事があった。


仕事で、大事な連絡を意図的に外されて、連絡をもらえないことが立て続いて、毎日怒り行進&更新をしていた先週。


個人的な嫌がらせとしては、社会人になって一番タチが悪いと言ってもいいレベルだった。


嫌がらせは連日続いて、それが業務に支障が出まくりのレベルだったから、最終的に上司にお願いをして、絶対にそれをされないように手立てを打って、それでようやく今まともな状況になりつつある。


裏でこのおいせさん手帳パートナーのノムに相談に乗ってもらって、翌出勤日にそれを即実行、上司の理解も得て最終的に上司が関係者全員を巻き込んでの連絡方法の徹底を打ち出して、そこからはやっとまともに稼働するようになった。


そんなこんなのさなか、私が思ったことを紹介すると。


・ツケが全部奴のところに回り回って行って欲しい

・レベルの低い奴と同じ土俵には立たない(私が到着したい場所)

・「許す気はないし、今後も許さなくていい」ことを自分にOKする


奴が何基準かわからない基準で破茶滅茶なことをしていて、それが単なる私個人への嫌がらせならいいけれど、大真面目に多数の関係者及び会社全体の損失に繋がるというのにそういうことを個人の私情たっぷり込めてそんなわけわからんことをしていて、一度地獄を自ら体験してきてください、状態だった。


人の不幸や失敗を願う趣味は全くないけれど、今回だけは本当に頭にきすぎて、色々無理すぎた。


普段なら適当に流せても、流せないくらい、どうやったって許せないくらい、そして理不尽極まりないことを何回もされて、私の中の堪忍袋の緒が切れた。


奴の理不尽な積み重ねは、そのままそっくり奴に倍返しで戻ればいい。


私はそれを本気で願った。


私が手を下さなくても何かのことがキッカケとなって、本人にそれがはね返りで大きな打撃を受ければいい。


私は本当にそれを思った。


そんなことを願うとは何とも気分の悪いことだったけれども、何事もなく奴だけがのほほんとしているのだけは許せなかった。


色々考えていくうちに、自分が絶対的に正しいとは思わなくても、自分に対して後ろめたいこと、人に対して後ろめたいことは何もしてなくて、自分がそうすることが良いと信じてるものをそのように形にしているだけなんだから、自分は堂々としていればいいと思った。


本気で私が間違えているのなら「ごめんなさい」だし、でも自分なりに仕事として良いと思うものをそのまましているだけだから、それに対して私は自分をダメだなんて思う必要もなければ、窮屈な思いに駆られる必要もないとわかった。


モヤモヤはすぐのすぐには解消しなくても、自分を責めたり自分が悪いなんて思う必要は1ミリもないとわかって、それで少しずつ自分の縮こまった気持ちをほぐしていった。


で、奴のところに何かはね返って欲しいとは思ったものの、奴と同じにはなりたくないとも思った。


酷いことをされていると言えども、自分もそれに仕返しをしてしまったら自分も同じレベルになってしまう…、それは絶対に嫌だった。


自分がもし同じことをしたのなら、自分のことがもっと嫌になりそうだから、それだけは自分のためにしないにしようと誓った。


悔しすぎる状況だったけれども、そのレベルに自分が落ちるのは絶対に嫌だった。


色々モヤモヤもするし、やるせない気持ちも湧きまくっていたけれど、別に相手のことを許さなくてもいいし、自分がどうしても納得できないならその納得できない気持ちを最大限尊重しよう、そう決めた。


そんな風にして、とことん自分に「いいよ」をたくさん出した。


自分に「いいよ」としてあげることが何よりも自分が後々楽になれると知った。


しかも、散々怒ってイライラを募らせまくって、相手に悪いものは全て本人に帰りますように…なんてお願いするくらいまでのことをしたら、時間の経過と共に気持ちが落ち着いた。


なんなら最後、私は帰る前に元々の係の人に頼まれてポットの電源を切ったから、だけど奴は今日残業しそうな雰囲気でもしかしたらポットを使うかもしれなくて、なのに電源を黙って切って帰ったら感じ悪いし、そこでまた不要な火を点けても嫌だから、私は手書きのメモを書いて机の上に置いて帰った。


必要ならまたポットの電源を入れ直してください、と書いて、そして最後に私は「おつかれ様です」と書いて締めて、さらにはチョコを1つ机の上に乗せた。


向こうが仕掛けて来ているのは知っているけれども、こんなの色々やり辛いだけだから、私は作戦を変えた。


とりあえず奴の気持ちがいきり立つ方ではなく、和らぐように路線変更をすることにした。


それでも奴がまた困ることをしてくる可能性も多分にあるけれど、元々なんだか得体の知れないおかしなことになっているから、色々人生勉強だと思って、あれこれ私は私で好きに実験することにした。


そう、怒りまくって相手の不幸を祈るみたいなこともして、色々自分の気が少しでも済むようにやるだけやったら、突如チョコを置くのとメモにおつかれ様ですと書くことを思いついた。


チョコもメモを置いた後、「そうだ!チョコを置こう」と思って席に戻ってチョコを取りに行って、それでもう一度奴の席に戻って置いた。


私超いい人じゃん!と自画自賛しながら、そしてそんなことしてたら自分の中の硬くなっていたところも柔かくなって、心に久しぶりに清々しい風が吹いた。


そんなことしても何も変わらなくてもいいや、と思った。


もうどっちでも良くて、でも私は自分が少しでも居心地の良いことをその時その時で選択できたらいいや!と開き直れた。


相手の反応はどうでも良くて、自分がそうすることで気持ち良くいられるかどうかだけに注視してたらいいような気がした。





自分に「いいよ!」をするのに、私はこれが一番強力だというものを知っている。


それは、何にもしていない、何にもできていない自分に「いいよ!」をしてあげること。


これが間違いなく最強!!!!!


1年半以上ニートをして引きこもった時にそれはわかった。


何か貢献していたり役立ったりしている自分は、基本的に周りから受け入れてもらえる。


ありがとうも言ってもらえれば、対価としてのお金もやってくる。


そういう自分は、自分がいいよってしなくても周りが勝手にいいことにしてくれる。


だから特別に労わなくても自己肯定に励まなくても、誰かしらがそれを何らかの形でいいよってしてくれるから大丈夫。


もしくは誰もいいよってしなくても、少なくとも自分に「自分おつかれさま!」って言ってあげられる。


だから大丈夫。


でも、何にもしていない自分、なんなら誰かに迷惑かけてる自分、何にも社会の役にも立っていない時の自分、その自分を「いいよ」ってするのはものすごーーーーーく難しい。


そういう時の自分は、自己否定と自己卑下1000%のコースで、そんな自分いいわけないじゃん、と毎秒飽きることもなく自分を責めまくっている。


誰かに責められなくても、自分で自分をとことん追い詰めていたりする。


少なくとも私はそうだった。


そんな時、自分に「いいよ」って心から言ってあげること、そういう自分を受け入れることは、本当にものすごく力がもらえる。


その域に行くまで相当葛藤するけれども、でもそれができるようになってから、私の場合は生きやすさが増した。


自分に多くを求めない代わりに、どんな自分でも生きてていいんだよ、と自分に言えるようになれば、相当自分が救われるようになる。


もちろんいきなりはその境地にはなれない。


でも、本当に一瞬でもいいから、最初は嘘でもいいから、そのように思ってみる。


いきなりは良くならなくても、時間をかけて自分に「いいよ」を伝え続けると、ある時に変わる。


何があったとかではなくても、気付くと変わる。


自分にキツくしても仕方ないか、ともなったし、もう少し自分に優しくなれるようになりたいとも思ったし、なんとなくそれができたのなら生きづらさが減る気がするとも思っていた。


どっちみちニートはすぐに辞めそうになかったし、自分責めもそうすぐには止められそうにもなかったから、だからこそ少しくらい逆のことをしたって困りはしないのはわかっていたから、物は試しぐらいな気持ちで始めたと思う。


これは体験してみなきゃわからない。


だけどやり続けて、どんな心理療法よりも効果があると私は自負しているから、自分でもずっと続けているし、なんとなく効果を少しずつ感じるようになってきた。


自分にいいよ!する。


これが本当に何よりも心に、弱った自分に効く特効薬だと思う。

2020年11月1日日曜日

怒りを鎮めてくれた存在と回想

今の仕事で史上最高に腹が立った日。

仕事中はあれこれ気を紛らわそうとしてもそれでも怒りの炎はメラメラとしていて、終業を知らせるチャイムと共に外に出て自分の車の中に入ってからはさらに抑え込んでいた怒りを爆発させた。


イライラが止まらなかったけれども、とりあえず帰りにコンビニに寄って、Wi-Fiに繋がって本の注文をしようと思った。


今月末までの本の割引クーポンがあって、速度制限がかかった携帯からだとあまりにゆっくりで注文が上手くいかないから、それでコンビニでWi-Fi拾って手続きをしようと考えた。


帰り道の途中にあるコンビニの候補は5軒ある。


私はどこでも良かったけれど、なんとなくあそこかな…と思ったら、ペンジュラムもそこだという。


田舎地域にあるコンビニに寄った。


とりあえず注文を先にして、その後コンビニに寄ろうと思った。


今日は確実にWi-Fiに繋がることが大事だったから、店舗の建物ギリギリのところに車を停めた(そこは大型トラックも停まれるくらい駐車場が広い)。


最初は女の人が隣りに止まっていた。


Wi-Fi接続が上手くいってるんだかいってないんだか、随分とゆっくりだったけれども、とにかく注文することが大事だから気長に待った。


待ってる間も時々仕事の時の怒りが頭をかすめてはまた怒りが再燃していてタチが悪かった。


そのうち、女の人の車はいなくなって、別の白いスバルの車が止まった。


見ようと思って見ていたわけじゃないけれど、運転席の男の人が店内に入るために車から出てきた。


「!」


手元の携帯の画面そっちのけで、その男の人をガン見した。


幸い向こうは何も気付いてないから、見放題だった。


多分初めてだと思う。


イケメン上司と私が勝手にあだ名をつけた人とかなりそっくりな体型の人を見たのは。


背の高さは誤差2〜3センチくらいか、もしかしたら誤差1センチ以下かもしれないくらい、同じだった。


背の高さはまぁ人口全体の割合からしても少なめだと思うけれど、いないわけじゃない。


背の高さだけ取ったら、今みたいに男性9割みたいな職場なら近しい感じの人たちがいる。


だけど、コンビニの男性はそれだけじゃなかった。


肉付きというか体のバランスや体型までかなりそっくりだった。


コンビニ男性の方が太めではあったけれど、それでもかなり近い。


しかも、そのコンビニ男性が腕まくりをしていて、それも作業系の制服でその袖を腕まくりして、手首から肘までのラインが見えた。


筋肉がモリッとしてるところや腕の太さがとっても似ていた。


1人で超感動していた。


これは言っても差し障りないと思うけれど、人生で出会った男の人の中で、その人の腕の感じが私は一番自分の好みで、それだけは初日から数えて何日目ともいかないくらいの時から気付いた。


元々男の人の腕のその辺りがとても好きで、誰彼構わず見てしまう。


男の人が女の人の胸を見るのと同じ感じかもしれない(笑)。


とにかく見てしまうから、ものすごいたくさんの男の人の腕を私は意識的に見てきたけれど、とにかくその人の腕の感じが私の中では自分史上最高の腕の感じ!!!となっていた。


その人の腕の時ほどは感動しなかったけれど、かなり近かった。


歩き方も少しだけ似ていたし、髪型や髪の長さも少し似ていた。


全然別人と知っていても、しばらく私はそのコンビニ男性から目が離せなかった。


中に入ってからはまた注文の続きをしたけれど、しばらくするとまたその男性は戻ってきた。


怪しくならない程度にまたもやチラチラと見た。


今度はさすがにガン見はまずいと思って、チラ見に切り替えた。


やっぱり似ている。


コンビニに入る直前、戸がスライド式だから立ち止まったのか、そうではなく立ち止まったのかはわからないけれど、その時が一番その人の感じと似ていた。


そして、私の目に映る背の高さや体型が私の記憶の中のその人と重なった。


最後の日、最後の瞬間、私と階段のところでかち合ったその人は嫌そうなのか気まずそうなのかしていた。


そのことにはガツンと鈍器で殴られたみたいなショックを受けていたけれど、それとは別に「あー、こんなに背が高かったんだな」なんて思ったのもものすごくよく覚えている。


私の目を見るには、その人は少し視線を下げないといけない。


166から168の間を行ったり来たりする私の身長だと、男の人を見上げることはそんなに数として多くない。


そして反対に自分が見おろされることも少ないから、見おろされる時、キュンとなる。


その感じが実は好きで、その時はそんなこと味わう余裕もないくらい、目の前のその人は怒ってるんだか不機嫌なのかだったけれども、それでもそんな風に一瞬でも目を合わせるために?見下ろすみたいな瞬間は、ちょっぴり嬉しかった。


そして、本当に背が高いんだなぁなんてじっくり思う余裕はなかったけれど、それでも高いと思ったことは頭の片隅にあった。


よくよく考えたら、そんな風に真っ正面からあの近さで立ったままやりとりできたのはその時だけだったかもしれない。


電話があったことを知らせに行ったり、お土産に気付いたかを聞いたり、はたまた入口のドアでちょうどかち合って「あ!」となった時はあったけれど、真っ正面というのとは少しずつ違った。


立ち止まって向き合っていたのは、最後の日の最後の挨拶の時だけだったように思う。


あの時に見ていた背の高さや、少し遠くからその人が立っているのを見ている時の背格好にコンビニの男性は瓜二つだった。


全然別人と知っていても、やっぱり目はその別人男性にやたらと釘付けで、その赤の他人の立ち姿を見ながらその人のこともいつも以上に思い出した。


こういう感じに近かったなぁと思いつつ、よくよく考えたらこの3年でこれほどに体型の近い人には誰にも会ってないって気付いた。


会ってないって変な言い方だけど、あの背の高さと体型の人って本当にいないんだなと思った。


コンビニ男性が店の中に入る時、歩く姿を見えなくなるまで見ていた。


歩き方は似ていなかった。


っていうか、イケメン上司のような空気を放って歩く人なんてこれまで一度も見たことがない。


ちなみに「イケメン上司」の名にふさわしい、本当に歩き方もイケメンだったりする。


歩き方までプレゼントして、神様は1人の人間に与えすぎだと私なんかは思った。


そんなこんなの時間を過ごしているうちに、怒りが静かに引くのがわかった。


本当に超超超イライラモヤモヤしてたのに、あの感覚がスーッと引いているのがわかった。


もちろん、コンビニ男性が誰かなんて知らないし、イケメン上司もそんなことに自分が使われてるなんて論外だと思う。


だけど、思ってもみない方法で、私の怒りは確実に引いていった。


ずっとずっとイライラモヤモヤ、どうやってもそれが収まる気配がなかった私に突然その瞬間はプレゼントされた。


ペンジュラムがそのコンビニを推したのも、本の割引も、速度制限のかかった携帯の通信状況も、Wi-Fiの関係で車を停めた位置も、どれもこれも全てが完璧に揃っていた。


本の割引は今月いっぱいまでだったから、どうでも今日でなくても良かった。


だけど今日手続きをしようと思ったし、なんとなくそのコンビニだった。


すごい絶妙な感じに驚いた。


そしてイケメン上司は相変わらず、色んな形で助けてくれる存在だなぁと思う。


本人はそんな気がさらさらないと思うけれど、それでも私が本当の本当にイライラしていた時に熱冷ましのごとく怒りを冷やかしてくれて、怒りから離れられたことはとっても大きかった。


また家に帰ってからも怒りは再燃はするものの、その後何度もイケメン上司に似た背格好の人をコンビニで見て自分の怒りが引いたことを思い出して、自分のおめでたさとこの自動反応システムに心底感謝した。


そして、そういう怒りを鎮める薬みたいなものを持てている自分の幸運も思った。


こんなすごい薬を持てるなんて、最強!!!と思った。


まさかの特効薬だった。


もう1つ、想像している以上に詳細によく憶えているんだな…と感動した。


背格好そっくりな人はおそらくこの3年の間で初めてだったと思うけれど、それにしたって私の中の感知器は当時とほぼほぼ変わらないと思う。


仕事のことも前の日の夜ごはんも平気で全て忘れるけれど、イケメン上司にまつわるあれこれは今もこんなに健在でいつでもどこでも思い出せるくらいによく覚えていることに驚いた。


本当に感動するくらい、よく覚えていた。


しかも体に毒なくらい怒り狂っていたタイミングの時に、コンビニ男性は現れて私の記憶を一気に覚ました。





「見おろされる時、キュンとなる。」


この内容、なんかしっくりこない…と思って、あれから色々分析してみた。


背の高い男友達を何人か思い浮かべて、はたまた職場の背の高い男性たちを思い浮かべてみた。


絶対に対峙して喋る時もあるけれど、そうすると自動的に相手は私を見下ろすことになるけれど、別にそういう時はキュンとならない。


キュンとなったのは、あくまでも相手がイケメン上司だったからだと気付いた。


その時はそれ以上に北極並みにそこだけバキバキと氷が張ってそうな冷たさに心が奪われて色々それどころではなかったけれど、そして目を見られた時もこれまた目には本当に冷たさを宿していて、そこにプラスして棒読みみたいな相手の挨拶と、とにかく負のオーラ全開すぎて、見下ろされてキュンなんてのはようやく今くらいに落ち着いてから味わえるくらいのものではあったけれど、あれはよくよく考えたら誰でも彼でもそうなるものとは違っていた。


記憶がほぼほぼないけれど、イケメン上司の後任の後輩くんはさらに背が高く、そして最後おしゃべりできるくらいになったから、立ちながら話をしたこともあったんじゃないかと思うけれど、何一つその場面が思い浮かんでこない。


自分が最後の日なんて、最後の仕事にイケメン上司の名前に触れることが舞い込んできてテンションが上がったことしか覚えていない。


もういないのに、たまたまイケメン上司時代の書類に当たって、それが有終の美を飾る仕事になった。


それは覚えていても、後輩くん含めて周りにどう挨拶したかなんて記憶にない。


こうやって他と比べて書き出すと、イケメン上司との時間だけが本当の本当に別格だったんだとわかる。


今一番日常的に近くにいる背の高い人として部長がそうだけど、あまりにも風格がありすぎて、機嫌の悪い時に目が合うと悪い意味でドキッとする。


他にも背の高い男性は何人かいるけれど、よくよく考えてドキッとはしていないし、心の中が盛り上がる要素も全くない。


イケメン上司と実際にあった場面と同じ場面を他の背の高い人と体験することになったとしても、私は無反応な気がする。


イケメン上司だからこその反応だったんだと今さらながらに気付いた。


目の前の景色は、北極圏であらゆるものが氷の塊となって凍っているくらいの極寒状態にも関わらず、イケメン上司が一瞬だけ私の方を見るために目を向けて、だけど身長差があるから目を下の方に下ろす、その場面はギュッと心が硬くなっていたものの、ほんのわずかだけ心は喜んでいた。


今思うと凄いことだと思う。


一瞬の中で色んな感情を味わうなんて、生きている中でそんなにはないわけで、だけどあの時私は心がボキボキになりながらも、もう会えないことへの強烈な感情に押されていても、それでも目が合った瞬間には違う感情も抱いていた。


「しあわせ」と呼べるかどうかはわからないけれど、ほんのりと心の中にはしあわせに近い気持ちも感じていたんだろうなぁと今だから思える。





最後に不謹慎なことを書くけれども、ここ数日とっても残念に思ったことを書く。


俳優の伊藤健太郎くんがひき逃げで逮捕された。


2ヶ月とか3ヶ月とか前だと思うけれど、現場での素行がイマイチで、足元をすくわれなきゃいいけれど…みたいなことをネットニュースの週刊誌で書かれていたものを見て、そうじゃないといいなぁと思った日があった。


そのまさかが本当のことになったのが数日前。


今回の逮捕は、内容云々よりも彼がテレビに出れなくなることの方が私にはうんとうんとショックだった。


伊藤健太郎くんを初めて見たのは、朝ドラ『スカーレット』だった。


主人公の女性陶芸家きみこの大きくなった息子「武志(たけし)」役として後半になって出てきた。


初めて武志を見た時、私はドラマそっちのけで画面越しの武志をまじまじと見た。


最初見た時、大真面目にイケメン上司がテレビ画面に映っているのかと思ったくらいに、武志役の彼は似ていた。


彼は色んな役柄をしていて、役柄ごとに髪型や表情が変わるから、すべての役に当てはまるわけではないけれど、少なくとも武志役の時は本当に親戚か兄弟ですかばりの、背といい、体型といい、顔といい、とても似ていた。


指も含めた手の形まで似ている。


声もすごく似てるわけではないけれど、声の高さや透明感は似てる方だと思う。


だから武志が色んな表情をしたり、ごはんを食べたり、病で苦しんだり、とにかく一挙手一投足を私は穴が開くほどに見ていた。


私が惚れ惚れとした腕の形はイケメン上司の方が絶対的に良くて、腕はイマイチだな、なんて何様評価かわからないようなことまで思って見ていた。


その後、令和版東京ラブストーリーがネットテレビか何かで放送されることになって、伊藤健太郎くんは織田裕二が演じたカンチ役で出た。


それは見てないけれど、たまたまその広告なのかCMなのかで彼を見かけて、スーツ姿の彼を見て、イケメン上司もスーツを着たらこんな風なんだろうか?と1人で想像を広げた。


伊藤健太郎くんのファンではないけれど、彼の動く姿を見てはイケメン上司を彷彿させるものだから、彼が出ている番組をたまたま見たらそのまま見てしまっていたし、最近は毎週木曜の朝6時50分くらいに、どこの放送局か知らないけれど、映画を紹介する部分を彼が担当していて、それはここ数週間すかさずチェックして見ている。


彼が見たいというよりも、イケメン上司を重ね合わせて見るその時間が私には一種の癒しと愉しみみたいなもので、それで見ていた。


見ていても「あ!今の表情似てる」とか「これは似てない」とか、まったくもって見方がおかしいのは自分でもわかっていたけれど、それで朝の出勤前に心が和むんだからそれでいいだろう!と開き直って見ていた。


こういう事故の場合、芸能界に復帰できるのかどうか知らないけれど、復帰するのはかなり難しいと思う。


私は伊藤健太郎くんがあと15年くらいして30代後半になる頃、どんな面影になるのかとっても楽しみだった。


当時のイケメン上司と瓜二つみたくなるかもだし、そっくりにはならなくても系統が似ているからそこそこ楽しんで当時を思い出せるかもしれない…、とかなり期待していた。


その頃私は57歳くらいなんだ…と知って、自分の年齢にひっくり返りそうになったけれど、それでも還暦目前にそういう楽しみを1つ持てるのは、未来の自分に1つ楽しみをプレゼントできるみたいで、いいなぁと思っていた。


だから本気で伊藤健太郎くんの将来の姿を見るのが楽しみだった。


動機も理由も色々不純すぎるけれど、本当に私のひそかな楽しみの1つだった。


そんなこんなで、今回の逮捕というかテレビにしばらくは出れない彼を思うと、ものすごくショックだった。


木曜の朝の楽しみやバラエティに出ることもないんだろうなぁ…ってなると、ますます残念でならない。


伊藤健太郎くんとイケメン上司は全くの別人だし、1人は画面の中の人、もう1人は心の中の人で、私とは全く接触のない2人だけれど、それでも元気がもらえたりウキウキしたりほっこりしたり、そういうものをプレゼントしてくれる人たちには変わりない。


不謹慎すぎるのは百も承知だけど、伊藤健太郎くんがこれから先またテレビ画面に戻ってこられたらいいなぁと思う。


せめて私が還暦間際になる頃には、彼がもう一度テレビで活躍しているといいなぁって思う。


関係ないけれど、今回様々な媒体で報道が為されているのを見ていた中で、伊藤健太郎くんを「甘いマスク」と表現していた人がいた。


イケメン上司もいわゆる世間一般では「甘いマスク」と呼ばれるタイプの人なんだなぁなんて思いつつ、本当にどうして私はそういう高嶺の花みたいな人に時間が欲しいだのごはんに行こうだのと言ったんだろ?と思った。


ドラマの中でも私生活で彼女と呼ばれる人も、伊藤健太郎くんの相手は可愛いか綺麗な人ばかりで、それを見て私は「本当、勘違いも甚だしければ、立場も考えずによく動いたな」と思った。


イケメン上司の好みなど1つも知らないけれど、画面の向こうを見て、イケメン上司に似合う人を想像しながら心がチクチクした。


ちなみに武志は恋愛がとてつもなく不器用で、そういうのを見てそこだけはイケメン上司も同じかもしれないと思って見ていた。


もはや何の話をしてるのかわからないくらい収集がつかない内容になってきたけれど、伊藤健太郎くんのいつかの復帰を私は自らの楽しみのために願っている。


そして、57歳の自分を思った時に、イケメン上司との間にあった色んなことを、私は優しい目で見返すことができるくらいの自分になっていたいと思った。